投稿者: yamakaw

  • 君は岡本太郎を知っているか

    いや、うちのNICUの看護師に岡本太郎を知らない娘が居ましてね。
    副主任が驚き呆れているので何かと思って首を突っ込んでみたら、この子は岡本太郎をしらないらしいと言います。実際、本人はきょとんとしています。
    驚きました。
    太陽の塔って見たことないの?
    「芸術は爆発だ」って言葉を聞いたことないの?
    そりゃまあ経験は浅いけど最近はずいぶんしっかりした仕事をするようになった子だし、新生児の看護にはとりあえず岡本太郎に関する知識は必要ないけれども。でも基礎的教養に関してこういう予想外のところにぽかっと穴が空いてるのを見つけたりすると、それが世代の差だと割り切っていいものか、あるいはひょっとしてもっと大事な事項に関して、共有してるはずの知識が抜けてやしないかと警戒を怠らないようにするべきなのか、ちょっと考えてしまいました。
    別に岡本綺堂が半七捕物帖の作者だなんて知ってろと要求してる訳じゃないんだけどねと思いましたが、考えてみれば岡本太郎の没後20年近くたってるし、看護学校の卒後間もない年代の彼女には、もう過去の人なんでしょうね。彼女にとっては太陽の塔だって東寺の五重塔とどっちが古いのって感じなんだろうし。
    まあ、かくいう私にとっても、岡本太郎はまずギャグのタネとして意識されましたし。その作品に触れて実は凄い芸術家だったんだなと知ったのは、実はずいぶん後になってからでした。あんまり若者のことを笑ってはよくないかもしれない。

  • 「私の嫌いな10の人びと」中島義道著・新潮社刊 真っ当で狭量な主張

    「私の嫌いな10の人びと」中島義道著・新潮社刊を読了した。
     中島先生の仰ることは本作でも至極真っ当である。方向性としては決して間違ってない。単に了見が極端に狭いだけだ。その狭い了見の依って立つところを至極明瞭に言語化できるのが先生の異能なのだ。
     本作で先生は嫌いな人間のタイプを列挙しておられるが、総括すれば、考えるということに関して怠惰な人ということなのだそうだ。これは内田樹先生が常々仰る、「身体で考える」ということにも通底するのかと思った。この2人の考えていることはかなり近いように思う。
     この中島先生の極端な狭量さには、一種の嗅ぎ慣れた臭いがある。息子に、あるいは多少なりとも自覚もしている、独特の臭いである。妻もまた同意見のようで、中島先生の著書は新刊が出るたびに夫婦のどちらかが買い求めてくる。読みながら、息子が満足にものを言えたらこういう事を言いたいんだろうなと妻は言う。ことに、どの著書でであったか、先生が灰谷健次郎さんの著書を評して、灰谷さんの言うこの「やさしさ」が理解できない人間はどうすればよいのか云々と書かれているのを読んで、私もその感を強くした。先生これが分かりませんと仰るなんてそれだけでウイングの三つ組みの一画が埋まりますぜと思った。
     蛇足ではあろうが、本書に中島先生と小谷野敦さんとが論争された顛末が記されてあり、濃い組み合わせの論争であるなと思った。中島先生は小谷野さんに人格を攻撃され、カント研究者とも思えぬと評された。中島先生は、いやカントもまた人格的には低劣な人間であったと私は常々主張してきたのだから、私の人格を腐すのは勝手だがカント同様に低劣な人格であると言って貰いたいと答えられた由。

  • 色々と忙しかった

    自宅待機番の日曜日。朝からいちど出勤して病棟回診と外来。NICU当直医の手があいた時点で全部引き継いで帰ったのが正午頃。5時頃また呼び出されて外来。インフルエンザの子に混じって腸重積の子があり整復した。
    今日のNICU当直医は若手なのだが、彼女は最近NICUにも一般病棟にも妙に多くの患者さんを抱えている。その患者さんの処置で手が離せなくなった時間帯のカバーを私がしていたわけであるが、なぜ彼女にそれほどに仕事が集中したかなと考えてみる。その目で当直表をみると最近は彼女に当直とか自宅待機とかが集中している。これは受け持ち患者さんが増える道理である。当直や自宅待機が連続する上に、他の医師より長い超過勤務をこなしたが故になお時間内の仕事も雪だるま式に増えていく。私もかつてこの蟻地獄に嵌ってもがいたが、今は彼女がはまり込んでいる。
    今月の当直表はいったん決まった後で大幅な組み替えがあったので、部長も仕事の負担の均衡をうまく取れなかったのだろうと思う。もとより、うちの部長は仕事の配分に均衡をとるなんていう意識がかなり薄いし。それに、医者をやってると誰しも経験することだろうが、普段通りの勤務をしていても何故か「当たる」ことは稀ならずある。今は彼女に「当たり」が来ているのだろうと思う。
    仕事の負担に公平さを求める性向が、私は強すぎるかなと常々思う。若手が淡々と仕事をこなしているのを傍から眺めていると、この仕事配分では自分ならさんざん不平を垂れるだろうなと思う。その点で彼女には感心しきりである。内心に不平をため込んで腐ってないかと少し心配でもある。カバーはしなければならんと思う。しかし口を出しすぎると、診療のプレッシャーに加えて口うるさい先輩をいなすという負担も掛けることになる。難しいものだと思う。

  • 「発達心理学がよ~くわかる本」橋本浩著・秀和システム 人生攻略本

    「発達心理学がよ~くわかる本」橋本浩著・秀和システムを読了した。
    何故に秀和システムが発達心理学を?との疑問はある。装幀や版組はまったくコンピューター関連のノウハウ本のそれである。著者もこのオファーには面食らったという。
    本書については、たしかに、よ~くわかった、というのが一読しての感想である。とてもよく分かる。私が著者と同じく小児科医であって、ものの考え方に共通する要素が大きいせいかもしれないが、たしかに、よく分かった。断片的な知識を系統的に見直す、良い機会を与えられたと思う。皮肉抜きに本書は良書であると思う。
    しかし読んでいて快い本ではなかった。見開き2ページ単位で人生の各ステージを語った本書には、人生をテレビゲームに見立てての攻略本といった趣がある。「人生:アルティマニアオメガ」みたいな。テレビゲームならそれでも良いんだろうけれど、人生ってもう少し奥深いもんではないかと私は思う。本書の見開き2ページ単位で語られる各々のテーマに、古来の哲学者や文学者は生涯をかけて答えようとしてきたのだ。秀和システムの2色刷の見開き2ページで例えば恋愛とは云々と語られても、それがたとえ正鵠を射ていたとしても、実も蓋もないという印象が拭いがたい。
    発達心理学という学問が人生攻略本を書く分野だというのではなく、初学者向けに分野の全貌を語ろうとすればどうしてもそういう本になってしまうのだろうとは、理解しているつもりである。

  • 命令形のほうが快いらしい

    自閉症の人に一般化できるかどうかは分かりません。うちの息子に限ることかもしれませんが、「依頼」されるのが苦手のようです。「命令」の形で語られる方がよいらしい。
    「テレビを消して」と言われると「消せ」と言い直してから消す。「鉄道データファイル」の今週号を見せてよと言われると「見せろ」と言い直してから自室へ取りに行く。試しに命令形を使ってみると、言い直しはしません。言うことを聞くかどうかは言われる内容によりますが、依頼の言葉で頼まれたときに予想される程度の素直さで実行に移ります。その様子を見ていると、彼は命令形を使われたこと自体に立腹するということはなさそうです。むしろこちらのほうが、ふだん命令形の言葉で人に接するなんて軍隊的なことはしてないので、慣れなくて戸惑います。
    親など目上の人からの依頼というのは実質的には命令ですから、実質的な命令を依頼の形で語られるのは彼の世界観では欺瞞的で許すべからざることなのかもしれません。あるいは、「依頼」されると自分の責任や判断で動くということになりますから、面倒くさい問いには悉く「選べない」という返答で済まそうとする彼には、その責任がたとえ形式的なものであったとしても、ストレスであるのかもしれません。
    定型発達の11歳の男の子に下手に命令形で言いつけた日には臍を曲げること必定ですが、息子は違うようです。その点、横山浩之先生の「軽度発達障害の臨床」で述べられている、「自閉症で無い子どもに、自閉症の扱いをしてはならない。なぜなら、自閉症としての扱いは、自閉症でない子どもには、非常な苦痛になるからである。」という至言が当てはまるようにも思います。
    そういえば、と此処まで書いて思い出しましたが、陸上自衛隊の幹部に登用された若い女性が、自分の父親ほどの年齢の部下(男性)に対して遠慮がちに依頼型で仕事の指示を出していたところ、部下から「命令形で語って下さい。そのほうがやりやすい」と要請されたという話です。この部下の人もまた息子と同じような心情だったのでしょうか。

  • 搬送に関しては一言申し上げさせて頂きたい

    *minx* [macska dot org in exile] – 障害についてちょっと意識調査というか、クイズです
    「神は細部に宿る」が信条の私としては本件に関して枝葉末節をつついてみたいと思います。
    普段から新生児搬送なんてやってますと、搬送用保育器を救急車に載せて据えるのは日常の業務なわけですが、搬送用保育器は載せてブレーキかけるだけでは危なくて走れません。保育器のフレームに幅を合わせた強力なフックで救急車の車体に対してがっちりと固定しないと、保育器は必ずひっくり返ります。
    その普段の経験を敷衍して申し上げれば、鉄道輸送でも、客席が取り外されただけののっぺらぼうな床に車椅子を並べただけでは、危なくて、列車はとうてい走れなさそうに思います。新生児科の感覚では、座席を外した後にはどうしたって車椅子の固定具をつけなきゃならない。いや、別に固定具なんていらないよってのなら通勤用の詰め込み車両を持ってくればいいじゃないですか。乗降口も広くてたくさんあるし段差もないしでけっこう使えるんじゃないかと思います。走れさえすればね。
    そこまで手間をかけて車両に細工するなら、わざわざ元に戻すまでもなく、いったん作ってしまった車両は車椅子の団体様専用として保管しておく方が財産になると思います。鉄道雑誌なんて見てると、特定の使用目的に特化した小数の車両ってけっこういろいろありそうだし、車椅子の団体様専用客車をこの機会に保有しても罰はあたらんでしょう。財産になるものなら鉄道会社が費用を負担してもよいと思います。これが問1の答えです。
    ですが車椅子での旅行って、車椅子に座り続けるほうが快適なのでしょうか。使用者の身体の形(脊柱の側彎とか)に合わせた「座位保持装置」としての車椅子ならまだしも、病院で見かける通常の車椅子ってあんまり座り心地がよくなさそうな気もします。なんとかこのお客様に通常の座席(あるいは幅が必要ならグリーン車にでも)で旅行して頂けるような工夫をするのが結局は費用対効果がもっとも高くなるような気がします。お客様は快適・鉄道会社も費用がかからないということで。
    もう国鉄が記憶の彼方になっちゃったので国有か民営かでの区別はよくわからないけど、例えばJR東海とちほく高原鉄道とに同じ基準をあてようとするのも酷かと思います。JR東海なら特別車両を整備するのもよかろうけれど、ちほく高原鉄道ならダイヤを工夫して人手もあつめてなんとかキハの座席にお乗り頂くってことになるんじゃないでしょうか。あるいはJR北海道が特別ディーゼル車を作ってちほく高原鉄道に乗り入れるってのもいいかな。そういう、金とか知恵とか言った有形無形の費用を分担するのになら、国有も民営も区別はないと思います。

  • 自閉症児の小外科治療

    当直をしていたら息子がカッターナイフで膝を深く切り込んだとのことで受診してきた。娘が叫びながら病院玄関に飛び込んできた。妻も動転していた。本人は案外と落ち着いていた。なにやら工作していて手が滑ったらしい。わりと出血したようだが、平然と「洗うんだ」とか言って風呂場にやってきたとのこと。そりゃあ外傷はまず洗浄が基本だけどさ。痛いとか恐いとかないのかねと少し呆れた。
    皮下脂肪層の奥深くまで達する傷だった。こんな深い傷は救命救急センターでの初期研修時代からこちら記憶にない。でも息子だし自閉症児だしで縫合があんまり気が進まなかったので、まず最初はステリストリップによるテープ固定を試みた。処置してる時はほぼ止血できて、上手くいったかと甘い期待もしたのだが、ちょっと歩くとすぐにフィルムドレッシングの下が血の海になってしまって断念。結局は縫合を行うこととなった。
    実は切創の縫合は久しぶりだった。最近はステリストリップの粘着力がかなり強力になってきて、そうそう縫合しなくても傷を引き寄せることが可能になっているから、小外傷はたいていテーピングで済ませている。NICUでは胸腔ドレーンもテーピングで固定しているくらいで、縫合なんてせいぜい臍帯カテーテルの固定の時くらいしか行わない。やれやれ大丈夫かなと思ったが、救急当直看護師も管理婦長も優秀な看護師で、さり気なく教えてくれたりして助かった。
    ステリストリップを貼っていた時は息子は全く落ち着いていた。自分の足を治療して貰ってるんだか玩具を修理して貰ってるんだかといった雰囲気だった。それがさすがに局所麻酔薬を注射する段になると嫌がり始めた。創の中から麻酔薬を周囲に浸潤させたので針が刺さる痛みはそんなに酷くなかったはずなのだが、やっぱり読み囓った知識どおりに26Gとか29Gとかの極細の針を使うべきだっただろうか。インフルエンザのワクチンを接種するときに、刺して注入して抜くまでを4秒で終えるとの約束で注射したらしく、今回も4秒にこだわった。それで4秒ずつ刺しては抜き刺しては抜きを繰り返した。
    縫合もじっと見ていた。寝てりゃ終わるのにと思うのだが、傷が塞がっていくのを見て納得するほうを選んだらしかった。何ごとも見て納得する子なので見させておいた。とくにパニックすることもなく(足をちょっと動かしたくらいはかわいいものだ)、割と処置のしやすいほうではないかと思った。普段からモーターに電線をハンダ付けなんてしてやってるので、父親の工作の腕前に信頼があったのだろうか。

  • 「脳内汚染」岡田尊司 文藝春秋 いささかセカイ系すぎるのでは?

    岡田尊司著「脳内汚染」文藝春秋を一読した。
    著者は京都医療少年院に勤務する精神科医である。本書によれば、昨今凶悪な少年犯罪が世界的に増加しているのは、刺激の強いメディア、特にテレビゲームが、世界の青少年の心理や認知に悪影響を与えている結果なのだそうだ。著者はとくにテレビゲームの危険性に警鐘を鳴らし、法的規制の必要を訴えている。
    著者のいうゲーム嗜癖のような概念が1疾患単位として成り立つ可能性は否定しない。平たく言えば、そういう病気の人もあるかも知れないねってことです。それは否定できないと思う。アルコールやタバコあるいはギャンブルは言うに及ばず、実に多くの事物に、嗜癖は報告されている。テレビゲームに嗜癖が決して生じないとしたらかえって珍しいことだと思う。実際に本書で著者はゲーム嗜癖の例を何件か紹介しているが、内容を拝読すると、患者さんたちは確かに憂慮するべき状況に陥っていると思えた。状況の深刻さに比して著者の紹介はいささか短すあっさりしすぎではないかとすら思えた。ゲーム嗜癖という疾患について学ぶには本書は物足りないと感じる。医師として学ぶには無論のこと、一般教養として学ぶにしてもである。
    本書では、そうした著者ご自身の貴重な臨床経験に基づく報告をあっさりと端折ってまで、ゲームの魔の手から世界を救おうとすることに重点を置かれている。この著者の執筆姿勢が、一臨床医をもって自認される著者にはいささか大仰でセカイ系すぎるかと私には思われ、残念でならない。
    著者が一臨床医の視座を離れセカイ系に飛翔すると、とたんに文体から独特の香りが立ち上る。相対性理論の誤りとか、地球内部の空洞から北極の穴を通じて地表の侵略を図る地底人の存在とか、特定の民族あるいは職能団体による非公然な世界支配の計画とか、そういった話題を扱う書物に多く嗅ぎとれる類のものである。むしろパスティーシュとして意図的に狙ったスタイルなのかとすら思えるほどに、その手の書物の基本をきっちり押さえた文体である。著者ご自身の臨床経験を語られる部分にはそういう香りがしないだけに、なおさら意図されたものではないかと思えてしまう。
    その文体で著者は、彼しか気付いていない問題について語るが、彼がいかに警告しても世間一般にはなかなかその主張が通らないということも既に見通しておられる。それは問題そのものが持つ構造により世間の人々の目が眩まされているからだとお考えのように、私には読めた。具体的には、嗜癖の対象について悪く言われた時には嗜癖症の患者は無闇に反発する:それこそが嗜癖の病態そのものだという構造である。あるいは、例によってテレビゲームその他のメディア業界が持つ大きな経済力や、あるいは同分野の研究者の臆病さという構造もまた、世間の人の目眩ましに一役買うものとして言及しておられる。自説を再帰的に議論のメタレベルな水準まで踏み込ませてしまうこと、自説に反対するものとしてセカイ的な陰謀とか愚昧な既存学会とかが登場すること、そういう点でも、その手の書物の基本をふまえている。
    そのような飛翔は一臨床医がなすべきことではない。おかげで、ゲーム嗜癖という重要な臨床概念までもが胡散臭い印象を持たれ(本書に対するアマゾンのレビュー諸氏の酷評ぶりを参照)、著者の貴重な臨床経験が生かされないことになっている。確かに、著者は一臨床医ではない。小笠原慧のペンネームで小説を執筆され、「DZ」で第20回横溝正史賞を受賞された人だ。なぜか本書の著者紹介ではこの事がすぽっと抜けているが。文藝春秋からも最近「サバイバー・ミッション」という作品を上梓されているというのに、なぜ無視されたのだろう。

  • 車椅子が入れない病院には新生児搬送にも行けない

    私らは病院関係者だからバリアフリー投資は当然と思っている。現代の病院で車椅子にのって動けないなんて信じられないってものだ。
    新生児搬送用の保育器はバッテリーや人工呼吸器や酸素・圧縮空気のボンベを載せてもなお、外形の大きさは車椅子サイズに納まっている。保育器を救急車に積み込むためのリフトは元来は車椅子用だから当然である。スロープにせよエレベーターにせよ、車椅子で動ける範囲ならたいがい入ってゆける。
    しかし搬送先の産科医院の構造によっては、搬送用保育器を救急車から降ろせない病院もある。玄関にいきなり高い段差があったり、病室までのエレベーターが無かったり。一応降ろして行けるところまでは行くが難儀だという病院もある。絨毯の毛足が深くて車輪が埋まったりとか。
    取り敢えずの初期処置を済ませていざNICUへ帰ろうというときに、分娩室のラジアントウォーマーから直接に搬送用保育器に赤ちゃんを移せるか、それとも赤ちゃんを抱きかかえて徒歩で救急車まで戻らねばならないか、この手間の差は結構大きい。特に赤ちゃんに気管内挿管をした後なんて、誰かが赤ちゃんを抱き、歩調を合わせて別の誰かが赤ちゃんの気管チューブを保持し加圧バッグで人工呼吸を続けなければならない。それを、大抵は2階とか3階にある分娩室新生児室から駐車場の救急車までだ。途中で事故抜管でもしたら最低だ。逆に病室までも車椅子が入るような病院なら、搬送用保育器に乗せて安定した赤ちゃんを病室のお母さんのところまでちょっと運んで面会してから搬送に出発なんて、すこしは小粋な配慮もできようというものだ。
    東横インには障害者向け設備がない。それを徹底したコストダウンと捉えて今後も東横インを利用するか、あるいは法令を軽視して存在するべきものを省略するホテルなんて他に何を省略しているか分かったもんじゃないとして東横インを忌避するか、それはもう利用者側の判断だろうし、その集合知で東横インが今後繁盛するか衰退するかが決まるんだろうし、その成り行きには現代の日本社会の意識が如何様にあるかがちょっとは反映されていると考えてもよいんだろうと思う。別カテゴリーのホテルに関する考察はよくわからんにしてもそれは「誰がためにかりんは鳴る」この記事に賛成。新生児科としては、これから産科医院をお選びの際には、駐車場から分娩室あるいは病室まで車椅子で入れるかどうかを、横目で見ておかれるのも宜しいかと、我田引水な付け加えをしたりする。
    ただ障害者団体は言わずもがなのことだからと黙ってたら棚上げされ無視されていくのが世の常だから、野暮に見えても言うことは言うというのはけっこう重要な戦略なのではないかと思う。それと、マスコミとしては誰かの怒りの絵が欲しかったんで、怒りの声を上げた障害者団体が取り上げられることはあっても、ボイコットを始めた障害者団体ってのは報道されないんじゃないかとも思う。実際にはバクバクの会でも自閉症関連でも内部情報としては種々の選択や工夫の情報はけっこう行き交っている。それを外へ出してみると案外と面白いのかも知れないと、かりんさんの記事を拝読して考えたりもした。ただ東京ディズニーランドのホワイトカードは随分と悪用された挙げ句に廃止になったし云々と、負の面も無いではない。
    付け加えるなら神戸空港の障害者向け駐車場に車椅子では越せない段差があるってのは呆れたし笑えた。あの空港を象徴するようなお話だと思った。たぶん神戸空港も障害者が利用するのを想定してなかったんだろう。でも飛行機が離発着するのは想定してるよね?滑走路から駐機場までの間にも段差がないか確認した方がよくないか?ジャンボジェットが越せないような段差があったりするかもしれないよ。

  • 誰が聴いてもあれは「詐欺師の声」だったのか・・・

    内田樹の研究室: 投資家と大衆社会
    ライブドアの株価が急激に低くなった。それをきっかけに株価全体が一時的に落ち込んだそうだ。
    この暴落を機に内田先生が上記記事を書かれた。その中で、内田先生はご友人の「金の話しかしない退屈な」人物という堀江貴文評を引用し、さらに「誰が聴いてもあれは『詐欺師の声』」との御自説を披露しておられる。彼の事業に投資した投資家たちはいったい何を考えてそんな無謀なことをしたのかいささか不可解なのだそうである。
    いかに一時の栄華を誇った人であれ、現時点で窮地に立たされた人の人格をこのように誹謗するのは感心しない。内田先生のなさるべきこととは到底思えない。数日前のライブドア株が最高値であった時点で堀江氏の声を「詐欺師の声」と喝破し、ライブドアへの投資を控えるようにと警鐘を鳴らしておられたのなら、先生の炯眼を称えたいとも思う。だが、いくら「ヒルズ族」の梟雄とはいえ、凋落の明確になったこの時点でいくら彼の人格を腐したところで、それは警鐘とは言わない。警鐘は事ある前に鳴らしてこその警鐘である。後知恵は猿知恵に過ぎない。
    堀江氏が人格攻撃を受ける謂われはない。彼は金を失っただけだ。この窮地にあっても堀江氏がその人格を疑われるべき行為をしたとは報じられていない。NICUに籠もって世事に疎い私よりも内田先生のほうが多くの情報に接しておられるのかも知れないが、それなら先生には「この局面にあって堀江はこれこれの愚行を重ね馬脚を現した愚か者だ」と論証できるような具体的な根拠をあげていただきたいと思う。
    先生は常々、拝金的な世の風潮を批判して、金で買えない大事なものがたくさんあると繰り返し仰っておられる。それほどのものでしかない「金」を失ったからといって、ただそれだけでどうして人格攻撃に走られるのか。それとも内田先生からの尊敬は金で買えるのか?