投稿者: yamakaw

  • NICUとナチズムの連続性は

    かねてより尊敬しているサイトにて+ 駝 鳥 + – ナチスドイツの障害者抹殺計画は財政論的に根拠付けられていた~なぜ国家によって人は抹殺されうるのかなる記事を拝読した。
    高度な議論が展開されているサイトにトラックバックするには、拙文はいささか幼稚な感慨ではあるが、下記のようなことを考えた。
    ナチスの優生思想は、まがりなりにも生命倫理の思想が行き渡ったはずの現代とは全く隔絶した異常なものだと思っていた。いちおう、それが我々の業界筋の公式見解でもあることだし。しかしこの記事を拝読すると、現代の障害者に対する視線のごく合理的な延長線上に、ナチスの優生思想が無理なく乗っかってくるように思えた。ナチスを克服したように思いこんでいて、実際はナチと我々の差は強度の差に過ぎないようにも思えてきた。
    今さらそんな事に気付いたというのでもなく、あえて無視してきたという面はあるかもしれない。NICUで重症新生児の治療方針について議論しているときに、ふと、今の自分達の議論とナチの倫理との境界はどこかと考えることがある。境界を考えるということは、同一の空間で互いに接しあっていると暗に認めたということではないか。これ以上続けても苦痛しか生まない延命処置を中止するべきだろうかという議論と、生きるに値しない命の抹殺と、その間には境界線が必要になるだけの連続性があるということか。
    境界線が必要なほどお互いに接しているというだけで許され難いような気もする。しっかりした境界線があればそれでよい、十分な緩衝地帯が確保されていればなお宜しいという論も成り立つような気もする。どうなのだろう。
    自分達は生命を慈しんでいるがナチは障害者をゴミのように捨てたという境界線の引き方ができるだろうか。ナチス時代の面々だって、自分達は生命を慈しみ尊重する故に生きるに値しない人生から解放してさしあげるのだと、自ら信じていた面があったかもしれない。彼らは慈悲に溢れた心でガス室のスイッチを押していたのかもしれない。あるいは、ユダヤ人であるという不幸や障害者であるという不幸から彼らを救い出す方法がこれしかないのだという無力感や慚愧の念に涙していたかもしれない。彼らの自身に対する倫理的評価は、決して、今の私たちのそれより低くはなかったに違いないとは思う。
    不勉強で彼らが実際にどう考えていたのか私は知らない。知りたいと思う。後世に批判者により書かれた本では、彼らが鬼畜であるとの思い込みが先に立って、彼ら自身は自分達のやってることを何とも思わなかったか或いは自分達でも鬼畜行為だと思ってやってたかのどちらかだったように決めつけられている。少なくとも私はそんな本しか読んだことがなかった。でも、彼らは案外と私たちと紙一重な考え方をしていたのかもしれない。あるいは後世の私たちのほうが、自分達が思っている以上に彼らと紙一重なところに居るかもしれないとと申すべきなのか。
    トラックバックもと記事のコメントで、筆者のswan slab氏は

    現代の監視社会なり管理アーキテクチャーのなかでの音を立てない静かな暴力というものに、”全体主義”の連続性をみるわけです

    と御言及である。この言葉が胸に響く。
    重症新生児の治療方針に関して、私たちは万能の指針を欲しがる。その指針にさえ従えば道徳的にも法的にも免罪が得られるような指針を。「疾患Aなら救命不要」などという露骨なものは言うに及ばず、「多くの意見を求め倫理委員会にも諮って決めましょう」といったメタレベルの指針であっても、結局は免罪を得られる万能の指針には違いない。これもまた「現代の監視社会なり管理アーキテクチャー」なんじゃないかと思う。私たちは自らを監視し、社会に対して自らを弁明する。
    むろん、とことん心マッサージを続けることが最善ではない。どこかの時点で、自分たちの手から母親の手へ赤ちゃんをお返しせねばならぬ。それはそういうものだと私は思う。でも「そういうものだ」というこの言葉こそ、コメント欄に議論されている「空気」ではないかとも思う。それで我々の仕事が完遂できたと申しあげてしまっては、その空気に流されているだけじゃないかとも思う。赤ちゃんの生命を慈しんだつもりで、実は「音を立てない静かな暴力」をふるっているのではないかという懸念がどうしても残る。
    赤ちゃんに対しても、じつは親御さんに対しても。

  • 総選挙の日に

    なんか選挙の日って不思議に当直明けのことが多いんだよなと思いつつ投票へ行ってきた。冷暖房施設のない投票所で、蒸しっと暑かった。私は順路を歩いて全行程を数分で終えたが、立ち会いの方をはじめ係の人たちは大変だろうと思う。
    いつの間にか郵便局員の皆様が世の中の諸悪の根源にされている。公務員二十数万人の人員削減って言われても、郵政民営化って最初はそういうお話だったか?確かに公務員云々の話はあったと覚えてるけど、それは全国2万カ所あまりの特定郵便局にまつわる、世襲制の公務員の方々のお話だったように思うが。しかも、それすらも本題じゃなかったように覚えているが。なんか解散の前と後で言うことが違うような気がしますよ。
    これは他人事ではなくて、次の次くらいの選挙ではおそらく医療費の削減がやり玉に挙がるから、私らはあと数年で公然と社会の敵になる。その選挙ではたぶん、解散前は医療費総額が高すぎるという話で日本医師会みたいなところが矢面に立つんだろうけど、解散してみたら今度は「全国に勤務医が何人いて病院に勤務する看護師が何人いて検査技師その他の人数が何人いて此奴らの人件費が医療費に占める割合が・・・」と来るんじゃなかろうかと思う。高額すぎる私たちの医療費支払いのこんなに多くをこんな奴らが搾取してるんですよと。
    郵便局員というと私はデイビッド・プリンの小説「ポストマン」を思います。映画でこけてハヤカワ文庫から抹消されちゃったけど。核戦争で荒廃したアメリカを放浪していた男が、放置された郵便車をみつけ、その中にあった郵便物を配り始めるという話。荒廃した社会に戦前の日常がとつぜん立ち上がって人々を予想外の求心力でまとめて行くのです。当たり前の日常の営みが持つ底力と言いますか。

  • 公言した段階から批判が始まるのでは

    拙稿に貴重なコメントをいただいたのですが、長いお答えになりましたのでコメント欄では不便すぎ、ここは管理者の権限を濫用して新しい記事で回答とさせていただきたく存じます。
    私自身はホームレスの方々の医療の公的負担について疑問を持つ立場にありません。道徳的に高潔だというのではなく、単に、この7年ほど小児しか拝見していないからです。時間内は言うに及ばず、当直帯にもNICU当直の傍ら小児のみ時間外救急を拝見しています。一般当直は内科や外科の先生方が別に全科当直で居られますので、成人の診療はほとんどせずに済んでいます。
    駆け出しの頃は時間外には救急で成人の患者さんも拝見していました。でも、初期研修はそんなことを考える余裕もないほどハードな三次救急で勉強させて頂きましたし、後期研修はかなり僻地の病院でしたのでホームレスの存在そのものがありませんでした。関西から北陸へ抜ける旧街道沿いではありましたので、ときに行きずりの方が倒れて担ぎ込まれてこられましたが、それほど多数でも高額でもありませんでした。
    さすがにホームレスの子どもが患者さんとしてお出でになったことはありません。もしもお出でになったとしても、その子の治療費の支出について疑問を呈される方はまず居られないと思います。むしろ、もしも私が「こんな子の治療のために医者になったんじゃない」などと申したら、「そんなら辞めてしまえ」という憤激の声が多数寄せられると思います。
    自分では診てもいないくせに偉そうなことを言うなよとのご批判(今回のご質問をお寄せ下さった関係者さまにそういう愚かなご批判は頂かないものと存じておりますが、一般的意味での関係者様の中にはひょっとしてそうお思いの方もあるかもしれません)に対しては、それならいつでも小児科に歓迎しますよとお答えいたします。「こんな事をやるためにこの仕事に就いたんじゃない」という嘆きの度が過ぎるのは、恐らくは”right time, right place”(@内田樹)におられないということだと思うので。当科も苦労は多いけれども、するべくしてする苦労ばかりのように思います。
    その上での考察ですが。
    ご指摘の、最初は内心に考えることそのものを問題にしていたが、そのうちそれを公言することを問題にするようになったという、私の問題意識のシフトについて考えてみました。
    確かにそういうところはあったと思います。最初は、そんな事を考えるのは思慮が浅いというところから批判を始め、そのうちに、そういうことを公言するのは同業者の面汚しだと申すようになりました。
    内心に思うことは、内容が何であれその人の自由だと思います。そもそも公言されないと何を考えておられるかは知りようがないので、方法論的にも批判の対象となり得ません。公言されて初めて批判の対象となると思います。その時点で初めて、その思考の内容を聞く立場というものが成立します。聞く立場からの批判が可能となった時点で初めて、公言するなよと言う批判が生じ、ひるがえって(あるいは我々の業界用語では「後方視的に」でしょうか)、そんな思考内容は間違っているという批判も生じ得るのだと思います。ですからこの二つの批判は、まったく別口というよりは、渾然一体となって生じる批判なのではないかと思います。
    ホームレスへの嫌悪に限らず、内心に思うことは色々あると思います。それをおくびにも出さず日々の臨床に精進しておられる先生方は、関係者様のみならず、世に多いと思います。そのような己を律しておられる先生方を偽善者呼ばわりするのは中傷というものだろうと思います。むろん諸氏ご指摘のように経済学的考察その他の背景を勉強することで、そういう内心のわだかまりが軽減されればなお喜ばしいと思います。でも臨床の多忙な毎日でそういう知識にアクセスできず、わだかまりをわだかまりのままで抱えておられたとしても、それをじっと抱えたまま日々の臨床に従事しておられるのを、責めるのは不当であると思います。医療行為をきちんとやるのは確かに当たり前のことですが、当たり前の事を当たり前に日々淡々と継続するというのは、ほんらい尊敬に値することではないかと思います。いかなる専門的営為もそうであるように、医療もまた決して容易い仕事ではないのです。その当たり前のことをことさらにお褒め頂いても、それはそれで面映ゆいのですが。わかってるけどお互い面映ゆいから口に出してまでは言わないってくらいが程良いでしょうか。
    でも一部の医師が匿名でそれを公言してしまうと、公言した当の本人は当然としても、医師全体がその公言をしたかのような悪印象が生じると思います。とにかく医師は構造的に嫌われることになっている職業です。こんな良い医者が居るから医者って素晴らしいものだという評判よりは、こんなスカな医者が居るから医者って厭なんだという評判の方が世間によほど迅速に駆けめぐるものです。むろん公言したのはその本人だけなので、医師全体がそう公言したかのような悪評というのは正当なものではありません。でも悪評が迷惑なのはその評が正当か不当かにはよらないと思います。正当な評価なら悪評とは言わないとも思います。

    (さらに…)

  • 自分はどういう思考フレームにはまっているか

    おそらく自分の思考は医者のフレームにはまっていると思う。医者のフレームったってそう貧困と決まったものでもなくて、古来からある職業でもあり、それなりに色々とよくできたフレームではある。
    なにより膨大である。これだけ膨大だと量が質に転化するんじゃないかと思う。世の中のたいていの事象にはアナロジーとして使える疾患がある。世の中の営為には「これが診断ならこう・治療ならこう」と対比して考えられる医療行為がある。医療内部のことは言うに及ばず、社会を見る目も、医者のフレームで見ると色々と面白い結論が出せるんだろうと思う。特にそのフレームの極限ぎりぎりまで思索が及べば。
    ただやっぱり弱点はあって、世の中の全てを治療対象として眺めてしまうということは、世の中の全てが健常じゃないように感じられると言うこと。ゼロ以下のものをゼロ近くまで戻すというのが我々のフレーム。プラスレベルのものをさらに良い方向へと言う思想は医者の仕事じゃない。
    医者あがりの政治家にあんまり大物が出ないのは、そういう医者のフレームを卒業できない限り、あんまり周囲に夢を持って頂けるようなことを語れないためじゃないかと思う。
    医者の中でも新生児科医は、小児科医という特殊集団の中のさらに特殊な一団である。自分が医師のフレームと思っている思考形式が実は新生児科医に特有のものだったりすることもあるだろう。あるいは、自分一人の思いこみであることも。
    また自分のもう一つのフレームに自閉症児の父というフレームがある。時に医者のフレームと融合したり、対立したり、入れ替わったりする。このフレームもまた自閉症児者の家族に共通するフレームかもしれないし、自分一人のフレームかもしれない。元々自分が医者だったということである程度は歪んでいる。うちのような精神発達遅滞を伴う中機能の、いわば自閉症の王道を行くタイプと、たとえばアスペルガー症候群の子の親御さんとでは、違うところも多々あるだろう。
    自分がどういうフレームにはまっているか、何を見ようとしているか、何を見ようとしなかったか。

  • 自分の書いたものを読むのも好き

    私は自分の書いた文章を読むのも好きだ。書くのが嫌いなら最初から書かないだろう。書くのは好きだけど自作を読むのが嫌いなら片端から書いて保存せずにファイルを捨てればよい。
    時にはあえてそうすることもある。「王様の耳はロバの耳」と叫びたいことは私にだってある。
    自分の書いた文章と言っても、私自身にとってもこのブログはyamakawという他者の書くブログである。彼はときどき私にも意外な事を書く。yamakaw君そんなことを考えていたのかと自分でコメントつけたくなる事もある。むろん、彼の語ることには私は責任をとる。
    内田先生の著書で拝読してなるほどと思ったのだが、私もまた自分という他者の言葉を聞くという形でしか自分の考えている事を知り得ない。頭の中で考えている段階で、既に、私は自分という他者が頭の中に語り出す言葉を聞き続けている。思考の訓練が中途半端なもので、その語りだした言葉をさらに物理的に書き出してみると、頭の中に聞いた言葉とは何となく違うことを言っているように感じられる。まして、過去に書いたブログ記事から私に語りかけるyamakaw君は、過去の私の分身であって、今の私とは異なる。彼はあくまでyamakaw君であって今の自分じゃない。
    読み返しても、決して自分の文章だから陳腐だとは思えない。こう申し上げては読者諸賢に失礼かも知れないが、このブログを私以上に愛読している方はそうそう居られないのではないかと思う。自己陶酔に浸っているばかりじゃない。自分の記事を読みながら、自分の思考のフレームを探っているつもりである。書いたこととともに、ここで自分が書かなかったことは何かと考える。思いつけなかったのか、あえて無視したのか、耐え難くて書けなかったのか。

  • なぜブログを書くのか

    私にとってはこの問いへの答えは単純だ。私はまだ飽きていないからだ。
    将来もしも止める事があるとしたら、その理由は「飽きたから」だけでありたいと思っている。ブログ以外にもっと面白そうな形式ができるとか、ネット以外にもっと面白い趣味を見つけるとか。飽きたらいつでも捨てるという闊達さを保ちたいものだと思う。一方で「諸般の事情で残念ながら」休止することもないようにしたいものだと思う。
    今のところはブログという形式に満足している。
    まず便利だ。自分の書いたものを時系列で自動的に整理してくれる。検索機能やカレンダーもついて、過去に書いた文章へのアクセスも自在である。そりゃあgrepと正規表現で検索一発な人ならシンプルなテキストファイルで十分なんでしょうけれども、私はそこまで達人じゃないし。
    見栄えもよい。他人様の作ったスキンを次々取り替えて勿体ない限りであるが、どれをとっても自分では作れないレベルである。自分で作ったものなら多少アンバランスでも辛抱してつかう性分のくせに、その方面に労力を使わないから美しい作品を取り替え引き替え使い放題である。スキン作者の方々には感謝してます。ありがたいことです。
    オンラインに置くことでデータの散逸を防ぐことができる。ローカルディスクにテキストファイルで保存するとすぐにどこへ行ったか分からなくなるし、携帯機とデスクトップでシームレスな作業ができないし。デスクトップ機なんて気分によってWindows立ち上げたりLinuxを立ち上げたりしてるからなおのことである。
    オンラインに公開することの是非に関して議論はあろう。しかし私はオンラインに拙稿を公開するようになってから読者諸賢に多くの良縁を得た。大変にありがたいことである。このご縁が公開の最大のメリットであったと思う。他サイトに比べても私は読者諸賢のご縁には恵まれているほうではないだろうか。記事の出来映え自体には種々のご意見はあろうが、コメント欄に寄せられる読者諸賢のご意見やトラックバックの読み応えにおいては人後に落ちないと自負している(私が自慢することでもないですが)。自負するどころか、軒下を貸して母屋を取られたような重厚なコメントを頂けることも再々で内心悔しく思ったりもする。なんでこの視点でこの記事書けなかったかなとか。悔しいから滅多にそう認めることはないけれど。

  • やっぱり、一つのミス、ですか。

    琥珀色の戯言 – 「本音を書くな」と見解の相違
    再々のご回答ありがとうございます。今回は私の言動に関してご言及いただきましたので、今度は私がお答えするべき番かと思います。

    正直、先生が「やはりそれが医者の本音だということがわかって悲しかった」というふうにすぐに「転向」なさる程度の意識であれば、http://childdoc.exblog.jp/2185770#2185770_1で書かれたような、一研修医への激しい叱責は、あまりに度を過ぎたものだと僕は感じます。

    言葉が過ぎたことは再々読者諸賢からもご指摘を賜っており、この点についてのご批判はもっともと思います。まずその点は認めます。
    ですが、医者の多くがその本音を共有しているという認識を強めたということが何故「転向」なのかがよく分かりません。もともと、他に考えることがあるはずだろうとは申し上げましたが、他の医者は誰もそんなことは考えてないぞということを根拠に彼女を叱責した記憶はありませんから。
    私がそういう認識を強めたとして、それは私の「一研修医への激しい叱責」の度が過ぎたというご意見を補強する論拠にはならないと思います。
    周りの先輩の言動や雰囲気から何となく彼らがそう思ってることが察せられた、その尻馬に乗って、ほんらい絶対に言ってはならないはずのことをのほほんとブログに語ってしまうという、そういう油断して世間を舐めた態度を取られるのは、私には不愉快きわまりないです。言説の内容の不愉快さに態度の不愉快さが加わります。ですから私としては、彼女の周りの多くの医師もまた内心はそう考えているかもしれないと考えてみたとて、そして彼女はそれを受け売りしたに過ぎないと考えてみたとて、それが彼女への怒りを減殺する要素にはならないです。

    あるいは、「そんな本音を書くな」とアドバイスされた方々には、なぜ、怒りの矛先が向かなかったのか?

    ご指摘どおりです。何故でしょうね。今さら考えてみました。
    いや、実際のところ向ける気にならなかったんですよ。彼らに怒るのはなんか不当なような気がしました。その助言を拝読して、悲しいなとは思いましたけれど。
    怒らなかったのが間違ってるとは思えません。そういう助言をされた人たちがその「本音」にご自身で賛意を表明された訳ではありませんし。確かなのは、そういう助言をなさった人もまた「あの言葉は彼女の本音に属することである」「そういう事を多くの医者が本音として胸に秘めている」「それを正面から論破してはかえってご自身のほうが野暮な世間知らず(あるいはそれに相当する愚か者)扱いされる」とご認識であるという、そこまでではないかと思います。私とあんまりお立場に違いがあるとは思えないのです。悲しい現状認識が、なお悲しいことに他の諸先生により肯定されたといいますか。彼らと私の差は、単に、身内の将来の不遇を具体的に想像する立場にあるかどうか、それだけじゃないかと思います。
    いや、当時そのように明確に考えてたわけじゃありませんよ。当時はただ、悲しいけれど彼らに怒る気は起こらなかった。それだけです。今さらのように矛盾のない物語を編み出しているだけじゃないかと仰られたら、そのご批判は甘受いたします。

    【1つのミスを指導医に徹底的に責められ、自分の言い分はすべて「正論」で返されて逃げ場もなくなり、精神的に追い詰められて病院の屋上から飛び降りてしまおうとしている研修医の蒼ざめて引きつった表情】というのが、僕の心に浮かんできて、消すことができないのです。

    やっぱり、「一つのミス」なんですかね?そのミスで迷惑被った患者さんへの言及は省略できるレベルの些細なミス。たとえ比喩レベルでも私はそこまであっさりした総括はできません。正直申し上げて、先のゾウと飼育係の比喩以来、なんとはなく問題を矮小化されてるような気がしてなりません。たぶん、誰を身内と考えるかということの、先生と私との相違なのだと思いますけれども。
    1つのミスリハビリで歩行訓練中の患者さんに「もっとしゃきっと歩きなさいよ!」と聞こえよがしに吐き捨てたのを指導医に徹底的に責められ、「だってあんな怪我がほんとに痛いわけ無いじゃないですか」という自分の言い分はすべて「正論」で返されて逃げ場もなくなり、精神的に追い詰められて病院の屋上から飛び降りてしまおうとしている研修医の蒼ざめて引きつった表情】というくらいしか、今度の彼女の心象を想像するのに、私には考えられません。いや、飛び降りてしまえと申してはおりませんよ。自分がそこまで追いつめたんだろうなとは認めますということです。また当然のことですが自分が彼女を屋上へ追い上げたことを「彼女のためを思えば」とか言って恩を着せるつもりはないです。飛び降りずに屋上から歩いて戻ってきて欲しいと思いますよ。一歩一歩、自分の来し方を振り返りつつ。

    他者を教え諭すにしても、やはり、ある種の「受容」が必要だと思います。ましてや、まだ「未熟」だと思うような相手になら、なおさらのことです。

    ご指導痛み入ります。

    僕の「想像」を、先生は「ありえないこと」とお笑いになられますか?

    笑いはしませんが、悲しくなります。fujipon先生にして「1つのミス」レベルの話なのかなと。

  • 見解の相違がこの辺にあるのではないかと。

    琥珀色の戯言 – 本音を書くな 追記
    迅速的確なご回答をありがとうございます。
    恐らくfujipon先生と私とはこの点で意見を異にしているかと思いますが、私は、ホームレスへの医療(高度先進医療ではなく初期救急レベルの基礎的な医療)への公費負担反対というのは、実際にかなり多くの医師に共有された「本音」かと思っております。これは決してfujipon先生への批判とは受け取って頂きたくないのですが、これが共有された本音であることを否定するのは、あたかも世間に向けてシラを切るようなことではないかと、思います。
    以前にもホームレスに関する論争が、あちこちの医療系内外のブログで行われました。あの時も医師の書くブログでホームレス切り捨て論が主張されたのが発端だったと記憶します。案外と医師の書くブログにその意見に賛同する主旨の記事が多くみられ、医療外の方々のブログでむしろ反対意見が多かったように記憶しています。その一連の議論が、ホームレスやニートをメインテーマに扱うサイトにも注目されました。参考までに私が念頭に置いているサイト(といいますか、念頭に置いたサイトのurlが集められているサイト)を列挙しておきます。
    エキブロ・メディカル「ホームレスについて考える」
    ミッドナイトホームレスブルーPlusOne「名古屋・白川公園でホームレステント撤去」
    hotsumaのURLメモ
    あの時は私は微温的な感想を一件書いて済ませました。特殊な思想と態度を持った一部医師の独走と信じたい気持ちで居ました。自分も医師のくせに他人事のような見解ですが、もともと小児科は本件では蚊帳の外です。さすがに生保の子は小児科に来るなといった意見は皆無ですし、ホームレスの子どもを公費で治療しましたと言ったところで、なんで子どもがホームレスなんて境遇にあるんだという御意見はあっても、ホームレスの子どもの医療費を公費で賄うなんて勿体ないという御意見は社会中どこを探しても無いと思います。ですから本件が医師の本音であるかどうかに関しては、私ら小児科はむしろ外部から推測する立場にいます。
    ですから今回、研修医がホームレス切り捨てに関して肯定的に語ったのには衝撃を受けました。それは彼女がロールモデルとしている指導医たちにも共通する意見である可能性が強いと思いました。特定の医師が直接そんなことを彼女に吹き込んだとは断定できません。でも、彼女はあのようなことを言う医師像を理想的医師像として彼女なりに作り上げてきたのだろうとは言えます。そういう研修を受けてきたのだろうなと思うのは邪推じゃないでしょう。単純無思慮な感想としてか、世間的にはタブーな思想をあえて共有することで仲間意識を高める秘儀的思想としてか、なにさまそれほどまでにホームレス切り捨て論は医師の間に蔓延しているのだと、私は感じました。せめて、「若い頃にはあの落とし穴にはまっちゃうんだよな;克服できて一人前だわ」といった通過儀礼的錯誤として捉えられてあれば、まだマシなのですが。
    何にせよ、ガス漏れを察知するには異変を生じるカナリヤは一羽で十分だと思います。
    fujipon先生ご賢察の如く、彼女に対して寄せられた「そういう本音を人前で語るな」という助言には、悲しい思いをしました。やはりこれは多くの医師に共有された本音なのだなと感じました。不愉快というより、失望を伴った再確認という感が強かったです。それがホンネなら、また他にもいろいろ「ホンネ」があるようなら、それなら医師はホンネを語っちゃいけないなと思い、医師ブログとホンネの記事を書きました。時系列的にはそういう風に記憶しているのですが・・・それは私の記憶違いで、彼女に「そういうホンネを人前で語るな」との助言がされたのは私のこの記事の後だったでしょうか。サイトが消えると検証も困難で歯痒いですね。ともかく、そうだったとしたら、fujipon先生御言及の「誤解」(前述の如く私は強ち誤解とも言えないと思っています)の責任は私にありそうです。
    一方で、「そういうホンネを語るな」という言説に、一定の、実践的な効果はありそうに思います。ホームレス切り捨てといった論は、議論のうえで論破することは可能です。論破どころか、反論を述べられた途端に、「はいはい先生の仰るとおりです」と簡単に折れられることが多いかと思います(必ずしもそうではないのは前回の議論がけっこう大激論になったことからも察せられますが)。でも心中は納得してない、というか、「まーた石頭が正論ふっかけてきやがったよ」と反感を籠めて舌を出されることが多かろうと思います。思うに、こういう酷い内容の論は、人種差別とか民族差別とかにも似て、愚論だけど強烈に聞くものの頭に刷り込まれてくる。たちの悪い耐性菌にも似て、いったん頭にこびりついたら駆逐は極めて困難で、せめて「そういう事を公に言うなよ」と諫めることで伝播を食い止め、世評への悪影響を防ぐという対策が、実践的には最善策なのかも知れません。むろん、ご指摘の如く、それがその集団のホンネだと暗に肯定してしまうというコストは伴いますから、費用対効果の考察は必要ですけれど。
    それはそうと。
    御言及の、ゾウ嫌いな飼育係Aさんと批判するBさんの対話ですが、Bさんの言動が妥当かどうかは、Aさんの言説の内容自体の倫理的な妥当さや所属集団がその言説を共有することの蓋然性と倫理性に依存すると思います。やっぱり、Aさんの言説内容の検討を抜きにしては語れないのではないかと思います。

  • 本音云々の批判は自分へのことかと思ってしまいます。

    琥珀色の戯言 – 本音を書くな
    この元記事が批判してる相手って私なのかな。けっこう厳しい批判だし宛先が不明確ってのは気になります。私宛てのような気もするし、しかし私宛てにしては紙一重以上に外されているような気もして、他に誰か念頭に置かれた方があるような。現時点で「本音」に関連する話題って全部自分に引きつけて考えてしまって、夜郎自大だってのは重々承知なんだけど。書いた人が意図的にぼかしてあることを「私宛てでしょうか?」と質問するのはなんか自白を迫ってるみたいで厭だし。まあ、読者諸賢には(むろんfujiponさん含む)反論反撃というよりは、お題を頂いて考えてみましたって事でご一読頂ければと思います。

    (さらに…)

  • 医師特有の思考のフレームワーク

    自分では自由奔放に考えを巡らせているように思っても、実は思考のフレームワークが出来上がっているものだ。なかなか存在すら認識できないものだけど、でも医師がものを考えるときの医師特有のフレームワークは確かに存在する。
    これを考えはじめたのは、超低出生体重児の分娩立ち会いとその後の処置から帰った夜に、農学部林学科卒の妻に「林学じゃあ弱い苗は捨てるんだけどね。貴方は一番弱い苗まで一本残さず植え付けようとするものね。」と言われたときである。無論彼女は障害児の母である。弱い苗を簡単に諦めろという人ではない。未熟児医療がつまんない仕事だと言ってる訳じゃない。
    例えば医師は物事をトラブルシュートと考える。しかも医師の慣れ親しんだトラブルシュートとは、極めて特殊な形態のトラブルシュートである。
    医師のトラブルシュートの仕方は、既存の極めて複雑なシステムを設計図も無いまま与えられ、システムの基本部分は稼働させたまま、手を加えてはシステムの反応を見ることの繰り返しで状況を改善していこうとするもの。システムを全停止してオーバーホールすることはあり得ない。丸ごと捨てて買い換えることもあり得ない。手を加えると言っても、悪くなった部分に手を付けずその機能を代替するサブシステムを付加するという形は滅多に取り得ない。大抵は悪化した部分の除去と、既存の部品の組み替えでしのぐ。これはトラブルシュートを生業とする他業種の方々から見たら相当に特殊だろうと思う。
    最も特殊なのは、対象のシステムが自然に回復することがあるということだろう。自然治癒をも計算に入れるトラブルシュートが他の業種で存在するだろうかと思う。とくに小児科は他の診療科よりも自然治癒を多く経験する。それは私の思考にも大きな影響を与えているに違いない。卑近な話、NICUの血液ガス分析装置のメンテナンスをしていて、そういえばこいつは様子を見るうち自分で良くなるということはないんだなと、ふと気付いて新鮮な思いをすることがある。
    医師は物事をトラブルシュートと考える。じゃあ何とは「考えない」かというと、メンテナンスだと考える発想は無い。無いと言って支障があるなら、極めて薄いと言ってもよい。例えば病状の安定した子に毎3時間で哺乳しおむつを換え日に一回は風呂にも入れて泣けばあやしてと言った哺育業務を、医師が自分の業務と受け止めることはまず無い。あるいは他科であれ、入院であれ外来であれ、病状が安定しだしたら医師は診察の間隔を開け始める。病状が不安定でトラブルシュートの真っ最中の時期(業界用語では急性期という)と同じ頻度で診察を行うことは滅多にない。たいがいはそれは無駄だと考えている。医師にとってメンテナンスはあくまで「指導」するだけのものであり、実践はあくまで看護師や患者さん本人やご家族によると思っている。だから、医師にとってこの診察は、メンテナンス業務と言うよりは、新たにトラブルシュートの必要な事態が生じるのを予防し、かつ必要時のシュート開始を怠らないための助走段階である。あくまでトラブルシュートの一環なのである。
    自分達の言葉の扱われ方も世の中に普遍的なものだと考えがちだ。だが、自分の関連する業務の全てが自分の指示で動くということを法的に規定されている職種が他にあるだろうか。そのために、臨床での医師の言葉は、それが医師から発せられたと言うだけでそれなりの重みを持ち、聞くものに傾聴を強制する。何か言えば取り敢えずは他よりも一段重い言葉として聞いて貰えるという体験が、それを日々体験している人間の語り口に影響を及ぼさないなんてありえない。一般的には、私たちと同年代の人間の言葉は、医師が思う以上に、周囲から聞き流されているのが普通だと思う。「そんな大層に受け止めないでくれよ言いたいことも言えないじゃないか」という贅沢な言説は医師ならではのものだ。たいがい、私たちの同世代は「俺の言いたいことを聞いてくれ」という要求の方が大きいものではないだろうか。違うかな。
    医師にとっての理想とは負の状態が零レベルに戻ることである。零レベル以上に持ち上げることは少なくとも医師の義務感のうちにはない。そのフレームワークで、世の中のあれこれを「治療対象」として見ている限り、世の中は問題だらけの負の世界である。世界が基本的には善きものの詰まったプラスレベルの存在だとは考えない。そしてその善きものが善きもののままに保たれるための日々のメンテナンスに、自ら汗を流して直接参加しようとする意思は薄い。自分の言うことが傾聴され、自分の指示が常に誰か他の人によって実行され、誰か他の人がより細やかな目配りで日々の善を維持し続けているという状況に慣れている。
    正直、「お母さん」と「看護師さん」がいなけりゃ小児科医なんて口だけの木偶の坊なんだよね。
    自己批判的な現状認識でした。