「ひまわりの祝祭」 藤原伊織 講談社

藤原 伊織 / 講談社(2000/06)
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日直の日曜日に病棟の本棚から失敬してきて読み始めたが止まらなくなった。
大事なものも呆気なく失われ、失われたものは取り戻せず、代償や癒やしなどありはしない。この「喪失の峻厳な不可逆性」がこの小説に一貫する主題である。確かに、掛け替えの無いものとは、そういうものである。
主人公はその優れた洞察力ゆえに、おそらく過ぎるほどにこのことを理解している。であればこそ最愛の人を失って後、喪失の中に沈潜するが如き無為な生活を希求し、挙げ句に愛する人への送り火として蕩尽とも言うべき新たな喪失を重ねる。主人公に限らず、登場人物は皆がなにがしかの喪失を抱えている。他より悲劇的な登場人物はあっても、喪失が埋め合わされる人は誰もいない。
しかし、読み終えてみれば、この物語にこれ以外の結末は考えられないと思う。主人公をはじめとする登場人物の造形が極めて緻密に完成されている。この人物ならこの場面ではこの行動しかとるはずがないじゃないかという、強固な説得力を持った必然が、一歩一歩積み重なるようにして、物語を進捗させていく。こう書けば本作はいかにも「キャラの立った」登場人物が場当たり的に演じるスラップスティックのようだが、ストーリー自体も緻密かつ重厚で、登場人物造形を受け止めてなお破綻がない。何より、人物造形にもストーリーにも、前述の峻厳な主題が一貫しているから、緻密であっても些末ではなく、無理や無駄あるいは「せこさ」が全く感じられない。
最近、ここまで完成度の高い小説を読んだ記憶はない。著者の作品を今まで読んだことがなかったとは私も惜しいことをしてきたものだと思う。

子どもを選ばないことを選ぶ ー いのちの現場から出生前診断を問う 大野明子 メディカ出版

大野 明子 / メディカ出版(2003/05)
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覚悟が決まった
命の尊さを再認識
未来のパパとママに読んでもらいたい。


現在、出生前診断といえば事実上ダウン症の診断であるとのこと。市井の産科医院で説明不足のままに何となく検査が行われ、安易な中絶に結びついていると、著者は警鐘を鳴らしている。著者は自らの臨床経験から、自分の外来ではダウン症の出生前診断はしないと宣言している。その著者の実践にもとづいた考察や、臨床遺伝学の先達との対話・親御さんとの対話から、本書は構成されている。
中でも白眉は、ダウン症の子の父親となった医師へのインタビューであると私は思う。語られる内容は決して倫理学の最先端を切り開くような大仰なものではなく、平易で真っ当な淡々とした言葉なのだけれども、それでも胸を打つものがあった。まあ、私も同志ではあり、個人的な思い入れはどうしても入りますね。生まれたその場で判明するダウン症と、じわじわとベールを脱いでくる自閉症とでは、受容の過程は異なるものになるのですが、その点もまた興味深く拝読しました。
著者の大野先生は、ご自身の医院で生まれた赤ちゃんがダウン症であったとしても、危急の合併症が無い限りはお手元でお世話なさっているとのこと。この臨床実践には、小児科医として頭が下がる思いである。ここまで気合いを入れて自らリスクを取ろうとするお医者さんは滅多にいない。NICUにいるとダウン症の新生児が搬送されてくることもある。心臓病など危急の状態である子もあり、中にはNICU入院は無用の母児分離だったなあと総括したくなるほどに元気に帰る子もあり。先生今後とも赤ちゃんが例えダウン症でなかったとしても何か問題が生じたら今回みたいに迅速にご連絡下さいねと慇懃無礼な嫌みを、産科へ送る退院報告書に一筆付け加えてやりたくなることもあり。でも小児科医もけええっして誉められたものではない。かく言う私自身も怪しいものだし。
しかし私は職業は小児科医・家庭では自閉症児の父と、二面性の人であるから、誉めるばかりでは終わらないのである。
ダウン症に関する一般向けの文献には、彼らの気だての良さとか対人関係の良さとかが力説されがちである。本書でも著者の出会ったダウン症の子たちやその親御さんたちがどれほど素晴らしい人々であるかが力説されている。魂のレベルが高いなどという表現まである。すぐれた魂は周囲を圧倒する、のだそうだ。
ある意味、悲しい主張だよなと思う。誰かが出生前診断の結果として中絶されてしまわないようにする、その根拠としてその誰かの美点を挙げるというのは、案外と、当の相手の土俵に乗ってしまってるんじゃないかと思う。生きるのに理由は要らないはずだ。読者諸賢はご自身が生きていくことを正当化する理由を述べよと言われたら、そんなことを問題にされるだけでも不愉快になるのではないだろうか。生命について深く考えもしないまま何となく出生前診断をしてダウン症の可能性が示唆されたら即刻妊娠中絶という流れに抗するのに、ダウン症の人にはこういう美点があるのだからという理由付けをするのは、理由付けしてしまったというその点において、批判しようとしている相手と同レベルの議論なんじゃないかと思う。
しかしある程度は確信犯的にそのレベルまで降りてでも主張を通すのが実践的な道徳なのかもしれない。ダウン症だろうが自閉症だろうが「それが何か?」というのが真っ当な感覚だろうと私は思うのだが、それで澄ました顔をしていては、ダウン症は即刻中絶という考え方の人たちとの差は埋まりそうにない。それが戦略というものだと仰るのなら、それはそれで理解できるお話ではある。
しかしダウン症の人たちの対人関係能力の良さを褒め称えた、その返す刀で「人間関係調節能力の決して高くない人も少なくない現実や、こころもすさむような事件の数々を思い・・・」とやられると、正直、「またかよ」と溜め息をついてしまう。どうしてダウン症の関係者は自閉症をネガティブコントロール扱いにするかね。こちとらその「人間関係調節能力」が「決して高くない」どころかもう障害レベルに低い息子を育ててるんですけど。じゃあ大野先生は「こころもすさむような事件」を起こすような人格障害が出生前診断できるようになったらそういう胎児は人工妊娠中絶しはるのですか?と意地悪くも尋ねてみたくなりますね。
意地悪い気分にさせられる要素としてもう一つ、「そうは言ってもあんたが育てる訳じゃない」って、言っちゃって良いかな。これを言っちゃうと私の人格が疑われるんだろうな。書いてる本人でさえ、ああ俺は卑しいことを書いてるなと思ってますから。でもねえ、あんまり大野先生の論調の首尾一貫ぶりと言いますか、迷い無さぶりというか、そこに一種のナイーブさを感じ取ってしまいます。つくづく卑しいね俺は。
自閉症児の親として思うことだが、障害児を育てるのは人生にとってそれほど悪い選択ではない。まさに「胸躍る一生があなたを待っている」というものである。しかしその良さを分かるのにはそれなりの苦労が要る。まるで実体験のない、例えば身内に障害者なんて居ない(実はたいてい探せば居るもんだが)初産のご夫婦に、障害児を育てることの奥深さを語ってもなかなか分からんだろうと思う。世の中の真実には、教科書に書いてあることを読めば分かるものもあれば、座学よりももう少し深い体験をしないと分からないものもある。やっぱり当事者は苦労するものですよ。当事者ではない人に障害児のすばらしさを手放しに喜ばれても、その人から視線をちょっと逸らして寂しげにふっと笑う程度の応対しかできないような、そういう苦労はやっぱりあります。現実にはね。いろいろと。

いつでも抜管できますぜ

畜生今日も寝坊しちまったぜと重い足を引きずってNICUに出向いてみたら
当直をしていた若手が
「あの双子は夜間にtaperingしておきましたからいつでも抜管できますぜ」とさらっと言ってくれた。
やってくれるぜ。
世間のあちこちで若い医者が働かないという泣き言めいた噂が出回ってるけど
うちは優秀なのを回して貰ってるようだ。
大事にしないと。

悪について  中島義道 岩波書店

中島 義道 / 岩波書店(2005/02)
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市民の限界と哲学者の凄さを教えてくれる一書
「悪」概念の相対化の導入として
カント倫理学 最良の入門書


内田樹先生を尊敬しますとは堂々と言えるかも知れんが
就職の面接で中島義道先生の愛読者ですなんて言った日には
その場で不採用決定になりそうな気がします。

筑紫哲也ニュース23の特集「自閉症と向き合う家族」

昨日(6月27日)のニュース23の特集「自閉症と向き合う家族」を妻と2人で観た。そろって、辛めの感想を持った。もうちょっと視覚化・構造化できんものかねと。今回の特集は単に自閉症に関して一般的な啓発を図るものではなくて、周囲の対応が不十分な自閉症児はどれだけ毎日がストレスフルであるかというテーマではないかと、私は思った。
自閉症の少年がプールから上がりたくないと泣き、遊園地ではもう帰りたいと泣く。今の活動がいつ終わってその後は何をするというスケジュールの理解が出来ていないのが彼のパニックの主因ではないかと見受けた。お母さんに数字を書いて貰って喜んでらしたけど、数字が分かるならデジタル時計やストップウォッチとかタイマーとかが分からないかな。プールから上げるにしても、例えば、このタイマーが鳴ったらプールから上がっておやつですとか、そういうスケジュールがあらかじめ分かってたら、彼もあんなにパニックにならなくて済むんじゃないかと思います。視覚化の手がかり無しに、パニック起こした自閉症児に口々に「もうちょっと」なんて言葉かけだけで納得させようなんて、そりゃあ無理だ。そもそも「もうちょっと」なんてファジーな表現は彼ら最高に苦手なのに。
ご家族、特に今回の取材のきっかけになった作文をお書きのお兄さんには、大変に酷な言い方で申し訳ないのだが、今回の特集で判断する限り、自閉症に関してまず理解をしなければならないのはご家族の皆様ではないかと、私は思います。視覚化・構造化にどれだけの威力があるか、たぶんあのご家族はご存じないんじゃないかと思います。勘ぐりすぎでしょうか。

患者放置の医師に禁固1年 薬剤間違え注射で京都地裁

患者放置の医師に禁固1年 薬剤間違え注射で京都地裁
種々の意味で気分が重くなる事件でした。隣の市で発生した事故で、判決の下った地裁は私の自宅から市バス一本でいける場所です。判決は執行猶予なしの実刑です。
本件の被害に遭われたお子さんの状況には、沖縄の人が使われる「ちむぐりさ」という言葉に尽きます。この子の状況を前にしては、被告医師の事など切り捨てて顧みずにおくべきなのかもしれません。でも、そうして医師に責任を着せて判断停止しているからこそ、本件の報道が何ら今後の医療事故防止に寄与する気がしないのかもしれないと、私は思います。そこで、色々、いま考えていることを書きだしてみたいと思います。あくまで、この被害を矮小化する意図はないということだけは、読者諸賢にはご承知いただきたいと思います。
何より、種々の意味で、この被告医師を庇ってくれる人は誰もいないのだろうなと思います。伝え聞くところによれば彼は婦人科医でした。病院上層部をはじめ、周囲の人たちからは、小児科など自分の専門外の診療は止めるようにと再三忠告されていた由でした。事故の後でこういう話がことさらに漏れ伝わってくると言うことからも、元勤務先の病院でも彼を庇おうとする意思はないのだろうなと推察しています。そりゃ酷だと私は思います。病院の管理責任については他の場で検討されているのでしょうか。准看護師が間違えただけで塩化カリウムが静注用に手に入ってしまう管理態勢って何だよと思います。静注しますと言われてはいそうですかと塩化カリウムを看護師に渡した薬剤師って何を考えていたんだろうとも思います。あるいは薬剤師の目の届かぬところに常備薬としてあらかじめ払い出しされていたのでしょうか。でも塩化カリウムを静注用に常備しておく必要って私にはどういう状況なんだか想像もつかないのですが。
被告医師の資質に問題がなかったわけではありません。塩化カルシウムの静脈注射なんて、現代の小児科医で蕁麻疹の治療にそんな処方をする人はいないと思います。報道によれば裁判では「心肺蘇生をせずに放置した」と言うことに主眼が置かれている印象をうけますが、彼の間違いの最大の点は、心肺蘇生をしなかったことではなく、蕁麻疹の治療に塩化カルシウムを処方してしまったことだったと、私は思います。それだけの知識しかなくて小児科に手を出すなど子どもを舐めとりはせんかという腹立ちすら、感じなくもないのです。お前さんがそういう時代遅れの処方をしたのが全ての間違いの始まりじゃないかと、関係者一同(私を含み)みな思ってることでしょう。例え間違ったのは看護師さんであったにしても、間違えなくとも無効な治療・間違えてしまって致命的な治療の、二進も三進もいかない指示を出された準看護師さんにいったいどういう責任を問えることでしょうか。であればこそこの被告医師がこれだけ冷淡に告発され、全ての責任を彼に帰すという結論が先にあって、根拠が後付け的に捻り出されて居るんだろうと思います。でも実際には塩化カルシウムの処方そのものは告訴に至るほどの誤りではなく(塩化カリウムとの間違いさえなければ事件性はなかったでしょう:何となれば彼がこの処方をするのは初めてではなかったはずで、この処方を問題にするならもっともっと数多くの「被害患者」が列挙されてきているはずです)、彼の責任をなんとか刑事事件で問おうとすれば、蘇生に迅速に取りかかれなかった点を責めるしかないのでしょう。無論、私もこの一件の責任が彼にあるという結論に誤りはないと思うのですが、その責任を問うのにこのような論立てしか出来ないようでは、刑事裁判というメカニズムには少々不備があるように思います。
心肺蘇生について言えば、齢70歳にも至ろうとする婦人科医で、そのような処方をする人に、迅速適格な心肺蘇生など求めるだけ無理だろうとは思います。多分に彼は驚愕に立ちつくすのみだったのでしょう。いや、たとえ熟達した救急専門医のチームが直ちに蘇生に当たったとて、塩化カリウム誤投与後の患者さんを後遺症なく救命することが可能であったかどうか。むろん、だから彼に蘇生をする義務はなかったなどと申すつもりはありませんが。そもそも苟も分娩に立ち会うことを生業としてきた立場にあって心肺蘇生にまるで動けないってのは、昔ならともかく今後は問題視するべきことなのでしょう。でもまあ現実問題として、この被告医師には心肺蘇生は能力的に無理だったのでしょう。
何故そんな彼が小児の診療に手を出してしまったのでしょうか。古き良き時代の、患者の求めを拒まぬ赤ひげ先生のような信条で、手広く診療に当たっておられたのでしょうか。今、彼もまた、闘わない奴らに笑われた気分なのでしょうか。彼にしてみれば専門外や時間外を理由に診療を断る若い連中が不甲斐なくて仕方なかったのかも知れません。自分の手は指一本汚そうとしない「評論家」に結果論だけで責め立てられている気分を味わっているのかも知れません。診療報酬はちゃっかり受け取っておきながら今さら引退勧告は出していたのにとは何だと、勤務先の病院に裏切られた心情になっているかもしれません。患者さんに対しても、診療を求めるときには請い願っておきながら結果が悪かったとみるや掌を返したように自分を極悪人呼ばわりしおってという憤慨もあるかもしれません。そういう彼の憤りの一つ一つが正当かどうかはさておいても、孤立無援に追い詰められた心情の帰結として、彼はことさらに頑なになり、頭を下げる機会を逸し、和解や民事で終わるかも知れなかった事件を、徒に刑事にまで発展させ、情状酌量されることもなく実刑判決に至ってしまったのかもしれません。

あるいは理解不可能なほどの誇大妄想の持ち主だった可能性もある。こうした考察も、根も葉もなく何も生まない単なる想像に過ぎないのかもしれない。

しかし彼にとって皮肉かつ過酷な現実として、彼の知識は時代遅れでした。彼は蕁麻疹に塩化カルシウムを投与するような大時代な知識をもって現代の小児救急に手を出すべきではありませんでした。加えて彼の自己認識や周囲への期待はナイーブに過ぎました。彼が診なくともあの市内には小児救急に対応可能な規模の病院はあります(所在地で言うなら同じ町内です)。周囲は彼が期待していたほどには彼に感謝していないようです。病院は彼を切り捨てて延命を図っています。報道などで知り得る限り、病院職員からも患者さんたちからも、彼に関して減刑嘆願が出されたという情報は聞き及びません。
私も医師として、常に彼と同じ立場に立たされる可能性のある人間として、どうしても我が身を彼の立場に置いて考えてしまいます。私が手酷いミスの結果として告訴された場合に周囲がどれだけかばってくれるだろうかと。私が被告人席に着いたら、どれくらいの人が私の減刑を嘆願してくれるだろうかと。病院はやはり私がもともと厄介者だったという情報をまことしやかにリークするのでしょうか。同僚がテレビの匿名インタビューで、あの先生は我が儘で独善的でした等と語るのでしょうか。顔にモザイクをかけて、奇妙にディストーションをかけた平板な声色で。

プラネテスと自閉症関連

「プラネテス」には幾人か「それっぽい」人が登場します。
コミック第4巻に登場する「男爵」はAsperger症候群なんだろうなと思います。デブリ回収員として宇宙に出てくるレベルの知性を持ちながら対人関係がまったくダメで、「ともだち手帳」を携帯して『教訓361 相手の目を見ながら話す』『名前を覚える』『女性に年齢を尋ねない』『食べかけを他人にあげてはいけない』などなどの「教訓」を書き込んで覚えようとしています。「友達ひとりもいないの」ときかれて「わからない・・・口頭でさえ今まで確認をとれた事がないんだ」と答えてしまいます。
男爵は自分を、もともとは地球外の「レティクル人」だったと自称しています。レティクル人はテレパシー器官をもっているので、同じ器官を持つもの同士なら意思や感情を表に出さなくとも相手に伝わるのだそうです。彼は銀河連邦調査局辺境文明監察隊の一員として、宇宙進出を始めた地球人たちを軌道上から監視するべく地球にやってきたのですが、長い任期の退屈しのぎにミステリーサークルとかキャトルミューテーションだとかの悪戯をしすぎて、体を地球人に作り替えられ地球に置き去りにされたとのこと。
その彼が言うには「この星系はまだ銀河連邦の一員じゃない。だから他星人や銀河共通文化に対する免疫がない。つまり、僕のような者がこの星系で友愛を育むためには、まず君たちのコモンセンスやモラルを学び受け入れないといけないって思うんだ」とのこと。
そういう彼がデブリ回収員として宇宙船乗りになれてるってことは、現代は就労にも苦労しておられるAsperger症候群のひとたちもこの時代にはそれなりにやっていけてるってことかと思います。宇宙船乗りになって以降も社会の基本的なルールを「覚える」のに独り手帳に書き込んで勉強をつづけているのには、もうちっと何かこう上手くできるようなデバイスが開発されていないものかなとも思いますが・・・
もうひとかた、田名部愛という極めて重要な登場人物は、幼少期に全く言葉がでていませんでした。
公式ガイドブックには、このことを指して「彼女は捨て子で、幼少期は自閉症だった。」とさらっと解説しています。「自閉症だった」とあたかも自閉症が完治するかのような過去形の表現はカチンと来ます(例えばドナ・ウイリアムスの著書の邦題が「自閉症だった私へ」というのはかなり物議を醸しています)。これはガイドブックの独走かと思います。原作には養父母が「医者はなにも異常がないといっている」云々の会話をしていますが、まさか2070年代に自閉症の診断がつかんということはないでしょうよと思います。症状もなんか違うような気がする。

プラネテスDVD あるいは 伽藍とバザール

プラネテスDVDの全9巻を見終えた。
西暦2070年代、月には十万人規模の都市があり、月や地球を周回する軌道上には軌道ステーションが設置され多くの宇宙船が発着している。月や地球の周囲には耐用期限の尽きた人工衛星や宇宙船の破片(切り離された燃料タンクやなんか)をはじめとする宇宙のゴミ「デブリ」が多数周回している。たとえボルト1個程度の大きさのデブリでも、衛星軌道では秒速数キロメートルで飛んでいるので、運用中の宇宙船や衛星に当たると大事故を起こす。事故はさらに多くのデブリを生み、多くのデブリがさらに多くの事故を起こすので、デブリ対策が時代の喫緊の課題として要請されている。主人公のハチマキは、何故か常に鉢巻きをしているのでそういうあだ名なのだが、そういう時代に船外活動員としてデブリ回収に従事している。
アニメ版はコミック原作とは別作品と言ってよいくらい改編されているが、出来映えは甲乙つけがたい。コミックを読んでポジティブな評価をしている人ならアニメ版を観る価値は十分にある。逆も然りでDVDシリーズを観てポジティブな評価をした人ならコミックをお読みになるべきである。
コミック原作では軌道上に沢山のデブリ処理班があり、ハチマキたちはデブリ回収船の中で寝泊まりしながらコンテナが一杯になるまでデブリを拾っていく。デブリの発見は各回収船の機器で行っている。回収船のメンテナンスもちょっとした修理くらいなら修理屋の宇宙船が横付けして現場で終わらせてしまう。デブリ回収に従事するハチマキたちは「デブリ屋」であり、デブリ回収は「金になる」仕事である。対してアニメでは、ハチマキたちは大企業の赤字部門「デブリ課」に配属されたサラリーマンである。当然の如く安月給で、あまり出来高は報酬に関係ないらしい。もっぱら軌道ステーションで寝泊まりし、デブリ課のオフィスに「出勤」してから現場に出かけてゆく。回収船とデブリの軌道はステーションの「管制課」(ちなみにエリート部署である)が把握解析し、回収船に対して刻々と指示を出す。いわばコミックは分散型でワイルドでバザール型、アニメ版は中央集権型あるいは伽藍型。
「伽藍とバザール」を引き合いに出すまでもなく、システムとしてタフで能率良くて痛快なのはコミック原作のほうである。
どちらが「現実に即して」いるのだろう。あの軌道高度なら地球を1周するのに数時間というところだろうから(それにしても凄い速度ではあるよね)衛星軌道上の大抵の位置には日帰りで到達できるということかもしれない。一方で軌道を相当きれいに合致させないとデブリと回収船の相対速度は秒速数キロメートルに達するので、デブリの回収は、接近するだけでも極めて高度な技術を要する仕事だと思う。少なくとも最初期には、国家や超大企業レベルの経済力の裏打ちが必要だ。
恐らく、アニメ版設定のような中央集権型あるいは伽藍型の様式を経て、コミックに描かれたような分散型あるいはバザール型の時代が来るのだろう。十分な能力を持った観測機器が、小型化され耐久性も増し安価になって各回収船に積み込めるようになり、かつデブリの回収に何らかの形で経済的なインセンティブを得られるようになると(要するに「儲かる仕事」になると)、デブリ回収は大企業が赤字部門にやらせてお茶を濁すアリバイ的片手間仕事から、上から下まで有能な連中が詰まった組織が競って進出する沃野へと変化する。多くの回収船が、そろって一日一回はステーションに収束する単調な軌道をとるのではなく、何日も掛けて軌道修正を繰り返し多様な軌道に展開するようになると、デブリがどういう軌道を取っていてもどこかの船が接近できるようになる。あと何時間か何日かうちにこのデブリを回収しないと重要な衛星やステーション本体に衝突するぞというような緊急時にも柔軟に対応できるようになる。やはりバザール型の時代がきてようやく本物だ。
アニメ版には大企業につきものの夾雑物が出演する。こんな奴らがのうのうと居るってだけでも伽藍型時代の恐竜ぶりが際だつってものだ。定年間際の無能な課長、宴会芸以外に何もしない係長補佐。稼働しているデブリ処理班はたった1班4人なのに、中間管理職2人のぶんも稼がなければならないなんて、そりゃあ赤字なわけだと気の毒になる。この課長は何を根拠に軌道上に居続けるプライドを保ってるんだろう。課長以上の重役たちも、自分のメンツや保身と派閥争いにしか興味がない、下賤で口の臭そうなデブ男ばかり。そのなかで鮮やかにのし上がっていく人物もいて愉快だったり、潰されてゆく人もいて可哀想だったり。

宴席は苦手

新人歓迎の宴席があった。
私は自宅待機番だったが、新しく配属になった若手医師と看護師の歓迎会であったから顔を出すことにした。会場は呼び出しがあれば応じられる距離にあり、他の医師のご自宅よりずっと近い。無論、酒は飲めない。自分の目の前を自分には手の届かないビールが行き交うのは大変に不愉快で、誰にも注がず料理ばかり食っていた。大変に旨い中華料理でそれだけは救いであった。
今回はNICUと産科病棟との合同の宴会だった。NICU単独の宴席とは雰囲気が異なる。産科病棟のナースたちはNICUナースよりも自分の「おんな」を前面に出してくる。服装も大胆なら喋る内容もかなり大胆。先生今日はもう病院では何も起こりませんよとビールを勧めようとする輩さえある。勧められてここで飲んでもし何かあって下手をしたらクビになるのは俺だよ。笑って断ったが少々腹が立った。まあ勧める方はかなり酔ってるってことで情状酌量にはしたが。NICUナースの宴会出席率は産科合同だとがたっと落ちるのだが、恐らくこの雰囲気の違いが主因なんじゃないかなと思う。
新人たちが芸をするというので料理がまずくなった。私は素人芸が大変に苦手だ。高校時代に吹奏楽部でできもしない音楽に手を出した罰かも知れない。痛々しさが耐え難い。耐え難い芸でも面白がっているふりをして笑って拍手してやれば良いのだろうが、私の家では暇つぶしバラエティのTV番組はほとんど見ないので、彼らの演じる「芸」のネタが分からず、彼らが何を演じているつもりなのか、どこで受けて欲しいと思っているのか、とんと分からないときた。面白くもなく理解も出来ないものは受けようがない。息子も交流学級ではこういう思いをしてるんだろうか。
宴会のさなかに知らせがあり、病院に戻ったところで極低出生体重児の分娩立ち会いとなった。むろん素面のNICUナースたちが出迎えてくれる。自分の居るべき「正しい場所」(@内田先生)に戻ってきた感があった。

ジャック・ロンドン「火を起こす」

なんと言いますか、こう、駄文を書き連ねてきたことを恥じ入らせられますね。
本物ってこういうもんだよ、と、否応無い実例を突きつけられたような気がします。
まあ、ジャック・ロンドンに勝負挑んでどうするんだよとも思いますが。
全文はこちら。枯葉さんのウエブサイト「エゴイスティック・ロマンティシスト」から。