最新刊(まだウエブでしか読めない)の業界雑誌に掲載された論文ですが。
32週未満の早産でNICUに入院した子の親御さん101人にアンケートに答えて頂いたところ、「NICUの医療チームは情報をよく伝えてくれた」し「新生児科医もそこそこ良い仕事をしてくれた」けれど、やっぱり一番時間をとって説明し状況の変化にも即応してくれたのは看護師さんだったとの答えが圧倒的に多かったとのこと。
何で今さらそんな身も蓋もないアンケートをとるかね。そういう結果になるに決まってるじゃないか。
本邦でもこの結論に異を唱えきれるスタッフはまず居ないだろうなと思う。向こうでもそうなんだねと思った。向こうの方が看護職の専門分化がよほど進んでるし、不思議ではないことかも。
W J Kowalski, K H Leef, A Mackley, M L Spear and D A Paul.
Communicating with parents of premature infants: who is the informant?
Journal of Perinatology (2006) 26, 44–48.
カテゴリー: 新生児
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何でそういう身も蓋も無いことを尋ねるかね
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保育器にこういう機能が欲しい
操縦席、戦闘機並みに 悪天でも滑走路くっきり ANA
保育器の天井にモニター出力を刻々と表示してくれたら、赤ちゃん見たりモニター見たりと視線をあちこち動かさなくてすむから助かる。赤ちゃんに負担をかける処置中に、心拍数とか酸素飽和度とか刻々変わる数値を常に捕捉しておきたいものだと思う。 -
同じ事を何遍も何遍も書きますけど
霞が関官僚日記より、救急車雑感を拝読。こういう意外なところの方に問題意識を持って頂くととても嬉しい。緊急車両が来たら道をあけるというのは、大名行列が来たら道脇で土下座するというのと同時代の、もう廃れた道徳になりつつあるのではないかと危惧していた。新生児搬送に道をあけて頂けない。自車の直後に救急車にくっつかれるまでウインカーも上げない運転者が多すぎる。
運転者が自分の感覚を車内に限ってしまっては良くないと思う。時速50キロとかで走る重さ1トン以上の鉄の塊を運転しているんだから。耳を澄ませて欲しい。周りじゅうに目を光らせて欲しい。
乗用車の静粛性が増したからというばかりでは説明のつかないこともある。最近は歩行者すら緊急車両を無視する。赤信号でもモーターサイレンを鳴らして我々は交差点に進入する。そのモーターサイレンを聞きながら、迫り来る救急車を見ながら、それでも救急車の直前で道路を横断しはじめる歩行者が後を絶たない。さすがに我々とて赤信号の交差点に進入する時はある程度の減速はするのだが、それを自分に道を譲ったものと勘違いするらしい。
そういう理不尽な横断でも、渡られてしまったら歩行者には勝てない。跳ね飛ばすわけにはいかない。叱りつける暇もない。最短時間でその交差点を通るためには、理不尽な歩行者にまず渡らせるのが結局は最善である。悔しいけれども。でもその歩行者の方々とて、他家の赤ん坊が死のうが後遺症残そうが知ったことかと言うくらいの緊急の御用があるのかもしれんし。どういう御用だよって聞いてみたいけどさ。
アップルにはiPodに緊急電源停止装置をつけて欲しいものだ。緊急車両のサイレン音を関知して音楽を止めるとか。乗用車の運転席にも、緊急車両が近づいている事を知らせる警報か何かつかないものかなと思う。 -
新生児搬送中の事故は労災じゃないのか
新生児科医のメーリングリストでは先般の事故の話題で盛り上がっているが、どうやら新生児搬送中の事故が労災扱いになるかどうか微妙な病院というのもあるらしい。
恐れ入ったものである。そういう病院の管理者は、新生児搬送は新生児科医が職務を放棄して遊びに行っているものと考えているらしい。
労災の適用がされないような用件で勤務時間内なり当直帯なりの拘束時間に医師が病院を離れているのなら、管理者としては黙認せず処罰するべきなのじゃないだろうか。労災ってそういうもんじゃないんですか?私が世間知らずなだけか?仕事してて健康を害したら須く労災なのだと思っていたのだが。甘いんですか?
小児救急外来で徹夜しての過労死も、職務上の過労とは認められなかった過去がある。最近は見直されているといわれるが。つまり、当直ならほんの軽作業しかしていないはずだ(だって労働基準法にはしっかりそう書いてあるから):それなら当直で過労にはならないはずだ、との論理で。世間にはいろいろと小児科医の理解を超えた事があると見える。 -
この点滴を決められる医者は今夜は私しか居ないのだ
若手が大学に帰って大学院に進学するというので19日は送別会だった。
私は自宅待機番だったのでアルコールを飲めない。飲めないなりに幹事がうまい店を選んでおいてくれて助かった。場所も自宅待機番の私が出て行ける距離だった。気分良く若手を労って、帰って寝て、1時間としないうちに超低出生体重児の分娩立ち会いに呼び出された。当然、そのまま徹夜することになった。よりにもよってこんな日にと思ったが、しかしまだ宴会の会場から引き抜かれずにすんだぶんマシだったのかもしれない。
翌日は水曜で半日オフであった。ふらつく頭で午前中の外来をこなして午後は強引に帰宅した。怠け者と言わば言えというものだ。700gの子に2.5mmのチューブを気管内挿管して24ゲージのサーフロー3本で末梢静脈・動脈・経皮中心静脈の3本ラインを取って、それだけでもう集中力使い果たしましたがな。だって俺が失敗したらバックアップは居ないのだ。臍カテという選択肢もあるから点滴失敗したら赤ちゃんが死ぬと言ってしまったら大げさだが。でも臍カテって後の管理が大変だから(管理が大変と言うことは管理される立場も危険だと言うことだ)総合的には末梢ラインのほうが良い。
私は新生児科を目指しはしたものの、こういう説破詰まった状況はあまり好きじゃない。人命を賭けた状況に「血湧き肉躍る」ような軽はずみな馬鹿はNICUには相応しくないとも思う。恐くて仕方ないくらいでちょうど良いかも知れないと思う。最近は針を握ったら恐怖が意識から退くようになったので、ちょっとは無心に近づいたのかもしれない。 -
コミュニケーションの双方向性を確保する
保育器の前にいるお母さんやお父さんに対して「これからすくすくと大きくなるのだから前向きに考えなければならない」と強制的な説教をしても反抗を買うだけに留まるのがオチだ。「前向きになったらどうだろうか」と言う提案も受け入れられる可能性は低い。おそらくその提案を得意げに語る人間が考えるよりも桁が3つくらい低い。「心の中では泣いておられるはずだ」と決め撃ちするかのような推量に「よくぞ分かって下さいました」と感謝されることもなさそうである。遠距離で無言の視線に籠もる「他人のことは分からないから何も言えません」という姿勢も棘となって刺さる。
これらに共通する欠陥とはなにか。
共通するのは言葉の内容ではなく、相手に語らせないために自分だけが饒舌になる態度であろう。コミュニケーションの双方向性を否定する態度ではないかと思う。相手を気遣うようでいて、実は相手のネガティブな心情に接する不愉快さを避けるのが主眼であるように思える。それはあたかも、柔道で相手の構えを全く崩さずに力任せの技をかけるかのような、優雅さに欠けるばかりか、技をかける方もかけられる方も危険でさえあるような行為である。
傾聴することが大事だと言い切って結論としていては月並みなような気がする。この態度の危険さにみんな気がついてるからNICUに臨床心理士が入ってカウンセリングするようになってきてるのだろうけれども、傾聴は傾聴の専門家に任せておこうやってのはちょっと違うような気がする。
コミュニケーションはそれ自体が自己目的化するものだと思う。蛾が光に集まるようにホモ・サピエンスはコミュニケーションを生得的に志向しているのではなかろうか。コミュニケーション回路が通じていると感じられるときの快さは種族的な深みから湧き上がってくるものではないか。逆に保育器の前に座っていてもコミュニケーション回路が自分から他人方向へはやたら流れが悪いと感じられるとき、その感触から生じる困惑とか絶望とかは、生命倫理とか人権とか人情譚で言語化されるような理性の地殻にとどまるものではなく、もっともっと深くの、動物的な、精神の地核に端を発するものではないかと思う。
この「通じている状態の快さ」を全員が念頭に置いてケアしても良いのじゃないかと思う。案外と、交わされる言葉の内容はどうだっていいことなのかも知れない。「通じているぞ」という実感を得て頂くのは交わされる言葉の内容よりももっと非言語的・身体的な水準のやりとりに依存しているのかもしれない。何を言ったらよいか分からんから敬遠するというのではなく、取り敢えず回線を開くというだけでも、互いがかなり深い快感を得られるということを念頭に置くべきなのだ。その快感は人間の根源的に深い水準から発せられるもので、質的にも強度的にも極めて重大なものであると言うことも。これを特定の専門職にだけ任せておくのは非効率に過ぎる。ケアに当たる者の全員が回線を双方向に開いておくのが、最大限の効率を達成する道だと思う。
ringさまのコメントに触発されたものです。 -
未熟児とか貴重児とか
幻 想 の 断 片に言及して頂いたので。
研修医の時、はじめてNICUに配属になったとき、指導の先生に言われたのが、
「出生後はじめての面会ではお母さんはみんな泣くんだわ。『こんな風に産んで御免ね』といってな。」ということだった。むろんお母さんに客観的に責められる謂われなんてないし指導医もお母さんのせいだなんて言ってはいない。お母さんがそういう心境になると言う事実を知っておけという主旨の指導であった。
その後多くのお母さんに接してみると、実際には皆が皆保育器の前で泣いてはおられない様子である。しかし顔で笑って云々ということもある。面会の時には、お母さんが極めて傷つきやすい状況にあるということは念頭に置くよう努めている。ときに忘れてしまうのが至らぬところで、お母さんが面会に来られる時分には出産直後の重篤な状況をほぼ乗り切っていることが多くて、その安堵感からついつい大したことがないとでも言うかのような気合いの抜けた対応をしてしまって後で臍を噛むのだが。
分娩直後でお父さんが単独でのご面会の時には、お父さんの初めての仕事として、まずは「よくやった」とお母さんに仰って下さいと申し上げることもある。次の仕事は夫婦で名前を考えること、そして書類仕事にあちこち走ってもらうこと。
前述したお母さんはどういう言われ方をしても、突然にまた必要もないのに我が子がもと未熟児であったということを想起させられたら、「未熟児」という言葉でなくても「小さかったのね」でもその他どのような表現でも傷ついておられたと思う。保健所にとって幸運であったのは、このお母さんがそれなりの社会的地位を持っておられる方だったのに本気の反撃に出られなかったと言うことだ。保健所長の首と肩の連絡はこの瞬間きわめて危うい状況に置かれていたのである。いや、真面目な話ですよ。
Mari先生御言及の「貴重児」これはもうこの言葉を発する人間の倫理観を真面目に疑う単語である。Mari先生仰るように、貴重でない子どもが居るんかいと思う。そういう言葉を口に出せる程度の知性感性の紹介元だと、妊娠分娩管理もさぞや粗雑なんだろうなと勘ぐってしまう。
知性感性云々と言えばMari先生へのコメントには無礼な書き込みをしてしまった。直截な指摘のほうがダメージが少ないかなと思った・・・というのは言い訳に過ぎないが。申し訳ないことです。結局は誤解だったし(実は最初のうちはどういうセンスしてるんだろうこの人はと思っていた)。
はてなのブログサービスにはコメントを後で削除したり編集したりする機能がないのかな。私の立場ではいったん書き込んだものは修正不能である。でも修正できないってことを念頭に置いて油断のない言動をとるようにと言われたらぐうの音も出ません。返す返すもあれは平謝りです。申し訳ないことでした。 -
母乳育児の運動から一歩引いて
「母乳サイエンスミルク」という明治乳業の製品命名が、母乳育児普及に熱心な小児科医の激昂を買っている。小児科医のMLで怒りの声が上がり、抗議文書に続々と参加表明が寄せられ、いつの間にかマスコミの目にとまった。
でもこの記事だとネーミングさえ改めたら問題なしという印象を与える。「些細な言葉遣いに目くじら立てて大人げないものだ」などと、抗議した側の印象が悪くなりかねない。ミルクなんて徹頭徹尾善意の塊にしか見えない製品に単に名前のつけ方が悪いってんで連名で抗議だなんて小児科医って恐い奴らなんだね云々。世のお母さんたちには「母乳サイエンスミルクは小児科の先生には嫌われてるのね。うちの子には飲ませてるけど先生には知られないようにしとこう」位にしか思われないんじゃないだろうか。
問題の本質は名前のつけ方の善し悪しではない。多くの赤ちゃんが母乳じゃなくて人工乳で育ってるってこと自体にある。小児科医有志が怒ってるのは名前だけじゃなくて存在自体。
母乳がいいに決まっている。人工乳は母乳を究極の目標として開発が進められている。しかし現状の人工乳で「母乳に限りなく近づけた」と称するのはミルク屋さんも謙虚さが足りないと思う。H2Aロケットの打ち上げが成功したって、種子島の誰も「木星行き宇宙船に限りなく近づけた」等とは言わなかったはずだ。性能を論じれば今の人工乳と母乳の違いはH2Aロケットとコメット号(キャプテンフューチャーが乗ってた)くらいに違いますからね。見た目が似ているもので比べるならば往年のC62と999号くらいに違います。加えて、母乳は架空の産物ではなくて、普通に手に入ります。
それはわかってるつもりなんですがね。
でもやっぱり、今回の抗議呼びかけは私自身も何か恐かったですね。
結局、人工乳を売る商売が成立するのって、これから赤ちゃんを産む女性や、女性を取り巻く社会の皆様に、母乳の有り難さを十分分かって頂けてないってことなんですよね。世の中の皆様が、人工乳の必要性をお認めになってるからこそ人工乳を売って儲ける商売が成り立つわけで。母乳の有り難さが分かって頂けて、育児の最初の最初から母乳が十分出るようなケアをさせて頂いて、女性が母乳育児を続けていけるようなサポートを社会の皆様に呼びかけて、そういう地道さと、今回の抗議活動が、なにかそぐわない気がしましてね。
母乳で育てて頂こうって思ってもさ、「母乳育児しましょうね」と呼びかけるだけではお母さんたちに要らんプレッシャーをかけるだけなんだよね。母乳育児を言うのなら母乳が十分出るようなケアを提供しなくちゃいけない。たとえば分娩後の赤ちゃんをいきなり新生児室に「お預かり」したり初回哺乳は分娩後まるまる半日たってからブドウ糖液で始めたり、産科退院のおみやげにミルク屋さんから提供された人工乳と付属品一セットを渡してたり、そんな実践してる産科やその産科にものが言えない小児科が、お母さんにだけは母乳育児の効用を説いてても、そりゃあ説得力無いわ。 -
未熟児の親御さん向けの本
買ったんだけど・・・厚い。
ペーパーバック1冊なのにアマゾンが「ペリカン便で送ったよ」とメールをくれるので、まーた例のでかい箱に本一冊だけ入れて送ってくるんだなと思ってたら、分厚かった。500ページくらいある。一瞬、コロコロコミックを思い出してしまった。凄いね。向こうの親御さんたちはこんなもの読んでNICUにやってこられるのだね。
書誌情報はライフログに挙げておきますね。まだ全部は読めてません(だって英語だし)。 -
胆力について
おたくじみたコンピュータ談義で今日の本題を忘れるところだった。
内田樹先生の著書やブログで「胆力」についてたびたび拝読してきた。例えば「内田樹の研究室:ゼミが始まったのだが・・・(2004年04月21日)」には下記の記載がある。古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだんどおりのこと」ができるかどうかを自己点検した。
まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。
別にこれは「次ぎにいつご飯が食べられるか分からないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。
状況がじたばたしてきたときに、「ふだんどおりのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。
人間は、自分のそのような能力を点検し、磨き上げるために「危機的な状況」をむしろ積極的に「利用」してきたのである。「ふだんどおりのこと」をしようとしたときに、その「ふだん」の行動を決める新生児科医というフレームワークがあんまりものを語ってくれなかったので予想外に狼狽えたのだが、しかし考えてみれば、あの場面では日本中の新生児科医誰でも一様に私のように言葉を失って黙り込むと言い切れるだろうか。
以外と、「肝の据わった」新生児科医ならそれなりの落ち着いた対応ができたのではないか?それがどのような言動になって現れるのか私には想像もつかないのが情けないが。
