カテゴリー: 新生児

  • やっと手をあわせてきた

    昨日の土曜日、ようやく仕事の間を見つけて、亡くなった子のお宅へ行き、遺影に手をあわせてきました。遺影の笑顔に接して、亡くなったという事実を直視せざるを得なくなった感がありました。

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  • せめて泣く時間をくれ

    1年あまり主治医をしてきた子が、自宅で突然死してしまった。最寄りの病院に救急搬送されたので最後に会うこともできなかった。

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  • 未熟児網膜症のレーザー凝固術時の鎮痛

    今どき・・・と呆れられるかも知れませんが、つい最近まで無鎮痛無麻酔で行ってました。施設によっては手術室に移動して全身麻酔で行うNICUもあるようですが、私らの病院には常勤の麻酔科医も居ないし眼科診はだいたい準夜帯に行われるしで、あまり実際的ではありません。

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  • ネジは最後まで締めるもの

    アトムの吸引瓶には締めるネジが3カ所付いている。
    まず締めるのは蓋の裏側のフィルタのネジ。しっかり締める。ゆるむとフィルタが瓶内に落下する。金属部品付きなので瓶の底が抜ける可能性がある。
    次に蓋を吸引瓶本体に装着する。蓋の外周には当然ねじ山が切ってある。しっかり締める。弛むと本体が落下する。瓶が割れたり吸引物(痰だったり吐物だったり)がぶちまけられたりする可能性がある。
    次に蓋の上部についているネジで、吸引圧を調整する計器にネジつける。
    ここがポイント。
    このネジは最後まで締めてはいけない。半廻しゆるめる。
    最後まで締めると瓶に吸引圧がかからない。吸引ができなくなる。
    何故にこんな変な設計になっているのだろう。私には分からない。
    分かるのは、これは事故の元だと言うこと。
    今日の昼にも未熟児の帝王切開があり立ち会い要請があった。若い医者(なんと私より若い医者がいつの間にか配属になってたんですよ。やっほう!)が今日の当番だったのでラジアントウォーマーやら物品一連を準備して立ち会い配置に付いた。私も水曜午後は仕事がないので見に行ってみた。もう子宮が見えていて、型どおり赤ちゃんが生まれた。元気な産声だ。助産師がラジアントウォーマーまで赤ちゃんを連れてくる。
    さて、型どおり身体を拭いて、口と鼻を吸引する。若い医者が鼻から吸引を始めるので、おいおい口からだろうとつっこみを入れようと思ったが、何かおかしい。吸えている気配がない!
    もの入れからバルブシリンジを取り出して応急に吸引しつつ、それちゃんと吸えてるか確認しろと若い者に言う。吸引の圧力計は上がってますと若いものが言うので、カテ先に指を当ててみろと返す。触ってみてもカテ先が指に吸い付かない。それみろ、吸えてない。
    とりあえず赤ちゃんの処置を済ませて、それから吸引瓶を分解して見せる。
    問題のネジを最後まできちっと締めると、吸引の圧力計は上がるがまるで無音。
    半廻しゆるめると、シュウシュウと音を立ててカテ先から空気が吸い込まれていく。触ると指にも吸い付く。
    あぶねえ。
    この子は分娩時仮死もなく、ほんとに吸引が必要だったのか分からないくらいの微量の液体しか口や鼻に含んでいなかったが、はたしてこれが胎便ドロドロの仮死分娩だったらこの子を救えていたかどうか。我々の首まで危ない。
    はっきりとこれは設計ミスだ。ネジが付いていたら世間一般に最後まで締めるものだ。別に万力を持ってきて締めるように作れとは言わない。人の手でつまむような形のネジをつけているのなら、普通の人の力で普通に締める程度に締めるのだと考えるのが人情だろう。それを最後まで締めたら機能しませんなんて、そりゃ無理無体な言い分だ。最後まで締めてはいけないネジなら締めたらいけない限界のところにストッパーをつけておくものだ。あるいは、最初からネジ山を余計な深さまでは切らずに置くものだ。
    いちど不良品だと文句を言ったら、NICU部長や手術室婦長(当時は婦長と言っていた)に、なにを常識を知らないことを言ってと言わんばかりのけんもほろろの扱われ方をしたのだが・・・新人が入るたびに事故の元になってるじゃないか。
    むろん、吸引瓶に延長チューブをつけてカテーテルをつけたら、本当に吸引圧がカテ先までかかってるかどうか、触ってみるなり蒸留水でも吸ってみるなりして確かめるのが慎重な態度というものだ。それはまあ今後新人教育として行っていくべき事かも知れない。しかし、慎重に扱いさえすれば問題はないなんて、リスクマネジメントとカタカナで書ける程度の知恵があれば、まず口にできないセリフである。可能な限りの事故の元を排除し尽くして、それでも起きるのが事故なのだ。

  • ふたごふたごふたごみつご

    多胎児だらけ。
    1200・1800双胎の分娩があった日の準夜に29週品胎1児死亡の母体搬送オファーがある。先だっての超未熟児双胎もまだNasal-CPAPとれていないのに。その前の双胎もまだ未熟児無呼吸発作が落ち着かなくて保育器からでられないのに。その前の双胎がようやっと週末帰るところまでこぎ着けたところなのに。まだ生まれていない双胎も産科に待機中なのに。
    ふたご・ふたご・ふたご・ふたご・みつご。うちはもう保育器一つも空いてませんよ。
    着床させるだけの不妊治療ならNICUを持たない産科施設でも可能です。でもねえ・・・・・周産期のNICU病床数の保証もない京都の現状で不妊治療が先走るあまり多胎が連続するってのは思慮が浅いような気がするんですがね。人間の不妊治療は鮭の人工孵化じゃ無いんだから数ばかりたくさん妊娠させて後は勝手にねって放流するのはお門違いですよ。
    29週品胎1児死亡(2児生存ね)の赤ちゃんは別々のNICUに一人ずつ入院されたそうです。品胎(三つ子のことね)なんてNICUに縁なく過ごすのはまず無理なんだからNICUのない施設で作っちゃいけませんよ。一人1500gずつでも合計4500gですよ。小学校で算数を習ってきたんなら分かるはずだよ。そりゃ医師国家試験では算数の計算問題は出題されないけどさ。暗算が出来ないなら四条寺町で500円出して電卓買っておいでよ。でも暗算できない産科って語呂が悪いね。安産できません・・・・はは。
    それにしても毎年この時期は早産児がむちゃくちゃ多いような気がするんですが。昨年暮れの冬のボーナスの札束を握りしめて念願の不妊治療に取りかかった人たちが一斉にいま未熟児を産んでおられるのではないかとも思えてきます。邪推でしょうね。むろん患者さんを責めてる訳じゃないですよ。責める訳じゃないですけどね・・・むしろ我々周産期医療組の不手際でご迷惑おかけしてるんだから・・・でも一度調べてみるのもためになるかもしれないな。

  • 法医学教室の思い出

    高校の頃は、名の売れた学者になる、と思ってたんですけどね。
    一流の研究もして留学もして、って。青雲の志ってやつ。
    着々と勉強して、一流と言われる(京大って一流だよな?)医学部に入りました。
    4回生の時、自主研究というカリキュラムがありました。
    2ヶ月間の時間を与えるから好き放題なことをやってこいっていうもの。
    夏休みに引き続く時期でしたので、休暇を返上したら4ヶ月の時間になります。
    どこの研究室でも(臨床でも基礎でも)迎え入れてくれる。留学に生きたきゃ旅費は出さないまでも紹介状くらいは書いてやる、なにもしたくなければ無銭旅行してでもかまわない。何をしたとて特に成績に反映する訳じゃないけど・・・というもの。今もやってるのかな。

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  • 準夜に超未熟児を双子で

    八つ当たりモード全開。
    昨日の日中は暇でした。一個前の投稿は昨日書いたものです。こういう暇な日は定時で帰りたいなあと思ってましたが、会議があるというので8時近くまで居残っていました。あんまり生産性の高い日じゃ無かったねと思いつつ帰宅して、飯を食って一息ついてたら、超未熟児の分娩ですと呼び出しがありました。しかも双子で。
    おい。
    産科の病棟に行ってみたら、陣痛がつき始めたのはまだ私らが会議だといって居残っていた準夜はじめの時間帯じゃないですか。なんで陣痛がはじまった時点で一報入れないのだろう。超未熟児の双胎ってどれだけ入院後処置に手間が掛かるかわかってるの?お母さんは1人だろうけど子供は二人なのよ。新生児科スタッフの人数をどれだけ集められるかが赤ちゃんの一生を決めちゃうでしょう。もっと早ければ小児科医師は全員残ってたしNICU主任も副主任も居たのに。解散帰宅の後でおもむろに呼ばれてもねえ。主任を呼び戻して、医師も呼び戻して。あまりに段取りが悪い。
    私らそんなに情報を回すのに気後れするような態度を取ってるかな。
    昨日も張ってたんですけど雷がひどくて驚いた拍子でした、夕立が収まると収縮も落ち着いてました・・・確かにそんな話をしてたなそう言えば。うう・・・産科に任せきりにしないで、陣痛の気配があるのならさっさと日中の人手が厚いうちに帝王切開に踏み切って貰えばよかった。雷さえ止まれば・・って患者さんの子宮をスッポン扱いにしてはいかんわ。
    準夜22時に超未熟児の双子の緊急帝王切開。各々に挿管してサーファクタント投与して静脈路をショートとロングの二本確保して動脈ラインも確保して。手首が大人の指より細い超未熟児の手足4本のうち3本に動脈なり静脈なりカテーテルが入ります。まあ臍動静脈カテーテルでなくて済んでよかったのですが。
    でも血圧が落ち着かない・・・動脈圧波形が揃わない。この不揃いな波形は気にくわない。呼吸器の設定を探り、血液ガス分析だのソル・コーテフだアルブミンだイノバンだドブトレックスだと使い。手段を一つ繰り出すごとに赤ちゃんの様子をみてモニタの動きも見て。結局深夜も居残りでした。今日が水曜でよかった。半日で帰れました。

  • 「街場の現代思想」内田樹 NTT出版

    治療の困難な赤ちゃんの診療に、完治をめざして可能な限りの手段を尽くす積極的治療を行うかそれとも苦痛の緩和を優先する方針にするかといった治療方針の選択に関して、あるいはご両親の心情に対してどのように接するのがよいかという面に関して、「愛する家族ならばどうするかと考える」と、上司がよく言うのですが、果たしてこの図式が本当に真実をとらえるものなのかどうか、常々考えてきました。
     内田先生の最新刊である本書の最終章「想像力と倫理について」に、この疑問に関する重要な示唆がありました。
    想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないのかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。
    生命倫理の絡む判断は医師1人では行いません。複数の心で考えるのが暴走を防ぐポイントです。もうちょっと卑近なリスクヘッジの思想もあって、出来るだけ多くのスタッフの意見を聞きます。
    出来るだけ多くのスタッフと言うのは医師ばかりではありません。多いのは圧倒的に看護師ですから、必然的に、看護師たちの意見を重要視することになります。朝夕の回診にちょろっと入ってくるだけの、NICU滞在時間平均10分/日の医師に何か聞くよりもよっぽど実のある議論になります。そもそも、親御さんと本当に腹の割った話をしているのは看護師たちですしね。
    うちは看護職員も学生もキリスト教徒が多いです(看護学校の推薦入学枠はキリスト教徒であることが必要条件です)。彼女たちは赤ちゃんをあやす片手間に賛美歌を綺麗に三重唱できる面々です。その彼女たちの脳に「愛」という言葉が誘発する心象は、質と深度の双方において、一般の20代女子とは違うのではないかと思います。
    彼女たちはほぼ全員が独身・子無しです(子持ちのナースでも夜勤が出来るようになってほしいよね)。対して医師たちは全員が子持ち。子持ち医師の中でも、私1人が障害児の親です。やっぱりね、自分の子は名門私立の小学校に通わせている医師が、重症の赤ちゃんの方針に関して「私なら自分の子がこの状態ならもう生きていてほしくない」なんて言うのを聞いたら、障害児の親としては意地になるわけですわ。障害が残るなら死んでしまえというのかってね。同じ「愛する家族」スキームを用いても既に医師内部で分裂していますね。
    でもまあ、私らみんな、医療関係者としては一括りな訳で、共通して親御さんをお母さんあるいはお父さんと呼び、彼らを常に赤ちゃんとの関連でとらえて対応しているわけです。ですが、特に赤ちゃんが第1子である場合には、事実上、彼らが赤ちゃんの親として扱われるのはNICU内だけなのですね。親という立場は彼らにしてみれば数ある役割の中の一つでしかない。ちょうど、私のNICU内での役割があくまで新生児科医であって、私が自閉症児の親であるということは日常的には周辺スタッフの意識には上っていないように。その若い夫婦の意向が、必ずしも赤ちゃんを最優先にしているように見えなくとも、それは決して不自然なことではない。
    彼らが親として扱われるNICUという環境がどのような環境であるか。四方に並ぶモニタ画面、人工呼吸器、保育器に鈴なりの輸液ポンプ。電子音。人工呼吸器の排気音。慣れない人にはNICUはアルカディア号やヤマトの艦橋あるいは999の機関車内部に見えるはずです。内実はそれほど高尚なものではなくて、せいぜい、大四畳半物語のぼろアパートの一室にテレビを複数台並べたという程度のものなんですが。でも、いきなりこの環境に放り込まれて何か重要な決断を迫られてもねえ、迫る私の姿がたぶんハーロックに見えるでしょうね。考え方が違うと認める相手の下船は許しても逃げるだけの臆病者には死をもって報いるってやつ。私が近視の三枚目だとまでは見て取れた親御さんでも、私を大山トチローと思っても「おいどん」だとは思ってはくれないでしょうね。一応九州男児だし一人称代名詞を「おいどん」で喋ることも抵抗はそがんはなかとばってんね。
    「愛する家族」スキームを採用している自分達が共通して「医療関係者」という狭い業界の人間であるということ、そのスキームを採用している現場がNICUであるということ。そのような自分達を規定する特殊な背景要素は常に意識していなければならない。意識するためには、そのスキームを採用すれば必然的にそれを意識するような設計でスキームを作っておかなければならない。自分の愛する家族ならばと自分が考えてそれを患者さんの状況に代入するというのは、自分と患者さんがそれだけ均質な存在でなければならないのですが、まあ、その前に自分が他人とどれだけ違うかを考えるべきでしょうね。
    とまあ、内田先生の受け売りでした。この話題今後も続けます。

  • 「臨床心理士」にむかつくのは何故だろう

    不遜ですけどね。
    「ネオネイタルケア」という新生児医療関連の主に看護師さんが読む雑誌があります。けっこう読み応えのある記事を載せます。畢竟、NICU医療は看護師がやるものですからね。寄稿者は大きなNICUに勤務している看護師さんだったり、新生児科医が解説記事を書いたりしているわけですが、無視できないのが臨床心理士です。
    生まれたばかりで重病でNICUに入院した赤ちゃんの、あるいは出生前診断のついた生まれる前の赤ちゃんの、お母さんをはじめお家の人の心理的ケアについて述べられます。あるいは赤ちゃんが亡くなった後の御遺族のケアとか。
    記事の内容はいちいちごもっともなことばかりなんですけどね。いつも、読んでて腹立たしい思いをさせられます。なんでこんなにむかつくのかな、とその都度反省します。
    痛いところを突かれるからかもしれません。心理的ケアって手薄になりがちです。それに、ここまでで十分という手応えもありません。気にしても気にしても際限がないし、客観的には十分やれていることでも、改まって指摘されたら、指摘されると言うことはまだ不十分なのかなと思わせられるという、疑心暗鬼的な一面もあります。障子の桟に積もった埃を無言で拭う姑に感じる嫁の心境かもしれません。
    批判を予想しない執筆スタイルに反感を感じるのかもしれません。私の言うことはあまりに当然で反論のしようがないだろうと言わんばかりの、直截な、あるいみ無防備でナイーブな雰囲気が臨床心理士の寄稿には共通しています。心理的ケアが必要だってのは同意するけど、だからといって貴女のご意見が各論まで全面的に正しいと言うことにはならんのよと言いたくなります。でもこれは臨床心理という分野が背負った宿命かもしれません。結局、他人の心理という原則的に分からないことに言及する分野ですし、レヴィナス先生に倣って他者の他者性に対して遠慮がちになっていたら一切ものがいえなくなりかねません。立証も反証も可能なら私ら医者の出番ですしね。
    たぶん、こういう非難を受けても臨床心理士ならこの非難の出所を冷静に分析してみせることでしょう。他人の心を手玉に取るとの非難の気持ちもまたあります。繰り返すことになりますが、他人は他人なのよと。他者の他者性に関する扱いは凄く難しいものなのに。
    やっぱ、みんなへとへとになって24時間頑張っているのに、当直もしない職種が単にNICUの中をうろうろしてお家の人と勝手に話をしているという場面を想像すると、自分の手は汚しもしない癖に他人の苦労も知らず好き放題な事を言いやがってという反感がこみ上げますね。うちのNICUにはこの職種が勤務していないせいかもしれません。実際の働き具合を見れば感想も変わるのかもしれません。