カテゴリー: 日記

  • 80年後の長崎原爆忌を前に

    明日は2025年8月9日。80年目の長崎原爆忌である。

    私が長崎の出身なものだから、病院のチャプレンが長崎原爆忌の前後にときどき病院朝礼のスピーチの機会を当ててくれる。今年もその機会を得たので、以下の話をした。以下引用である。

     おはようございます。

     今日は8月8日です。長崎に原子爆弾が投下されて80年となる日を明日に控え、この場をお借りして少しお話しさせていただきます。

     私は長崎市の北に隣接する農村で育ちました。毎年8月9日の原爆忌は、夏休み中の登校日で、被爆者のかたの話を聞きました。農村の小規模の小中学校であっても、わざわざ外部から招かなくとも、教職員の誰かに被爆体験を語ることのできる人が必ずありました。8月9日は、私にとって、故郷に深く刻まれた日であり、平和の尊さ、人の命の重さを強く思い起こす日でもあります。

     今年、私たちのNICUが、この9月末をもって閉鎖されることになりました。少子化の影響による入院数の減少や、医療をとりまく状況の変化によって、この場所の役目が終わろうとしています。このNICUは、京都の周産期死亡率が全国最悪であった時代に、行く当ての無かった新生児救急症例を引き受けるべく、京都府下初の認可NICUとして設立されました。いまや救いを待つ赤ちゃんがいなくなったということは、このNICUの歴史的役割が終了したとして、言祝ぐべきことなのであろうと思います。しかし医師としての時間の大半をこのNICUに費やしてきた私にとって、この出来事は喪失であり、祈りを必要とする試練でもあります。

     この決定に際して、私一人だけでなく、多くの職員たちにも大きな葛藤がありました。NICUでの日々に深く関わってきた職員の一人ひとりが、それぞれの立場で悩み、考え、受け止めようとしていることと思います。

     その葛藤の中で、私は、爆心地にあり、被爆によって崩れ落ちた浦上天主堂のことを思い出しています。浦上天主堂は幕末の1865年(奇しくも原爆忌からちょうど80年前なのですが)、信仰をおおやけにした浦上村のキリスト教徒の人々が、その後の明治政府による迫害も耐え抜き、1925年に完成した教会です。二つの塔をそなえた教会建築の美しさは東洋一と称されました。しかし1945年の8月9日、まるでこの教会を狙ったかのように原爆が投下されました。

     その時点でまだ完成後20年の浦上天主堂は、さぞや荘厳で美しい姿であったと思われますが、戦後十数年のあいだ、崩れた姿で残されていました。長崎の人々は、この崩れた天主堂をそのまま被爆遺構として残すべきか、それとも祈りの場として修復すべきか、深く悩み、話し合いました。米ソの核開発競争が激化し、ビキニ環礁の第五福竜丸事件など新たな被曝も生じていた時勢に、原爆の記憶を伝える被爆遺構として保存しようという声は長崎市議会などにも強くあったそうです。一方で長崎は中国大陸との貿易港という立場を失い、経済的には造船業に依存する状況となって、海外とくに米国からの発注や投資のことも考慮せざるを得ない状況にありました。浦上の信徒は教会の再建を強く望みました。浦上天主堂は、信徒たちが踏み絵を強いられていた庄屋屋敷跡に建てられましたので、他の場所ではなく是非にもこの同じ場所に再建したいという強い意思がありました。当時の長崎市長であった田川務氏が、天主堂遺構の撤去という方針を決断し、天主堂は再建されることとなりました。昨年、長崎の原爆忌の式典にはイスラエル大使が招待されなかったことで注目を集めましたが、この決断をした鈴木史朗長崎現市長はこの田川氏の孫にあたります。被爆の記憶を伝える天主堂遺構は保存されませんでしたが、平和に対する強い意思と祈りは続いているのだと思います。

     NICUを見送る葛藤の中、それでもその後に続けていく小児科医療のありかたを模索する中で、長崎の人々が直面した天主堂遺構をめぐる葛藤と、その後にも絶えることなく続いた平和への強い意思に、道を示される思いがします。

     戦争と平和、誕生と死。どちらも極限の状況でありながら、人の尊厳や命の尊さについて、両極端から照らし出しているように思います。NICUで出会った多くの赤ちゃんたちは、誰ひとりとして“当然に”生きられた命ではありませんでした。奇跡のように生まれ、周産期の状況を耐え抜いて、そして育っていく姿を、私たちは祈るような気持ちで見守ってきました。

     被爆地長崎で失われた命と、NICUで出会った命。そのどちらにも共通して私が覚えるのは、「どんな命にも等しい尊厳がある」という信仰にも似た思いです。ひとつひとつの命のために尽くすことはNICUを見送った後も変わらないと、あらためて思います。

     聖書にこのような一節があります。イエスが弟子たちに神殿の崩壊を予告した場面です。弟子たちは神殿の荘厳さに目を奪われていましたが、イエスは言われました。
    「あなたがたがこれらのものに見とれているのか。この石ひとつも崩されずに、他の石の上に残ることはないであろう」(ルカ21:6)
    どれほど象徴的なものであっても、永遠ではないということ。建物や制度、私たちの働きもまた、いつか終わりを迎えるかもしれません。ならば残るものは何か、何に目をむけるのかと、イエスに問われているように思います。

     私たちのNICUは神殿に例えるにはあまりにささやかなものでしたが、そこに込められた祈りと命へのまなざしは、決して失われることはないと、私は信じています。NICUは閉じられますが、命に向き合う歩みは続いていきます。この病院で、地域の子どもたちのそばで、これからも働いていきたいと思います。

     ご静聴ありがとうございました。

    本来、勤務先の朝礼スピーチなど内輪のものは外に持ち出すものではない。それは心得ているつもりだが、自分のNICUを失うというのは個人的にはかなり応える状況であるから、無作法は承知で吐きだしているところである。読者諸賢のご寛恕を賜りたい。

    ご寛恕と言えば文中に書いたごとく、長崎出身と言っても市内ではなくいわゆる郡部である。それも平成の大合併とやらで近隣の自治体に吸収されてしまう水準の。それは白状してご寛恕をここにも賜りたい。それが被爆者づらをするのかとのお叱りには、まあパウロもイエスの直接の知り合いじゃなかったですよねとか答えてみたりする。口答えはしつつも、原爆にかこつけて自分の事情の話をしているだけじゃないかというお叱りがあるなら、自分でもそう思っているから既に後ろめたい思いであるし、読者諸賢から頂くようならほんとうに返す言葉もないところである。

    亡くなった被爆者の方々のご冥福を心からお祈りいたします。またご存命の被爆者の方々も既にお年を召されていることと存じます。ご健康を心からお祈りいたします。

  • NICUの廃止が決まった

    当院のNICUの廃止が決まった。今年9月末で終了する。関連施設へ通知のうえで、病院ウエブサイトにも公開する段階となった。ここで個人的に論じてももはや守秘義務違反ということはないだろう。

    直接の原因はNICU入院数の低下と、それにともなう減収であった。NICU入院数の低下はこの数年実感していた。昔は空床を捻出するのに苦労していたものだったが、いつしか満床のほうが珍しくなった。NICU認可病床を9床から6床に減らしてもなお埋まらなかった。在院する赤ちゃんが1~2名だけで、勤務する看護師のほうが多いということも珍しくなくなっていた。

    入院数が低下すれば診療報酬も減るのは無論のことだが、加えて京都府からの補助金が減り、本年はついにゼロ回答となった。入院数の減少で、地域医療にたいする貢献が少なくなったと見なされたのだろう。もう不要と公的に宣告されたような気がして、懐具合に痛い以上に、精神的に痛かった。

    しかし私情を排すれば、行政の宣告も理不尽とは言えないと、私も理解している。

    背景には少子化の急激な進行がある。京都府下では2016年を境に、出生数の減少のしかたが急激になった。2016年の京都市の出生数は11323人。2024年は7346人であった。複利で計算すれば年平均6.47%の減少率となる。2006年の出生数は11993人なので、同年から2016年まで10年間の減少率は年平均0.57%であった。この点については、過去にもグラフつきで記事を書いたのでご参照いただきたい。

    「市場」と言えば医療にこの言葉を使うのは不適切な気もするがご勘弁願いたい。市場全体の規模が過去8年間、年率6.47%で縮小を続けている。それ以前の減少率0.57%からある年を境に突然10倍以上の減少率となった。最近の減少率の値自体も、変化の急激さも、経済の目で見れば血相の変わるような非常事態なのではないだろうか。

    地域の出生数が減少すれば、NICU入院を必要とする赤ちゃんの数も必然的に減少する。行政が政策的に整備しようとするNICU病床数の目標も減少する。国の政策として地域のNICU病床数の整備目標が、出生1000当たり3床と定められている。2024年の京都市内の出生数を1000分の3すれば22床である。病床数だけで論じるなら、当地の総合周産期母子医療センター三施設のうち二つもあれば充足可能である。

    実際、府下の周産期母子医療センター各施設の空床情報をみていても、連日ほぼ全ての施設で空床有りの表示となっている。もはや新生児救急症例の入院先が府下に一つも得られない夜は過去のものとなった。府の周産期医療政策担当者もまた当然にこの計算をして、この認識に至っていることだろう。その結果が、当院への本年度の補助金ゼロ回答なのだろう。経営難の地域周産期母子医療センターを、救済することに政策的な根拠は見いだせない、ということだろう。

    当院NICUは京都府下ではじめての認可施設として、府の周産期死亡率が全国最悪の水準であったころに発足したNICUであった。行く場のない赤ちゃんたちを見るに見かねて始まったNICUであるからには、もうそのような赤ちゃんはいなくなったというのは、活動を終了するのに唯一の正当な理由ではあろう。他の理由で活動終了するのなら悔しさもあろうが、歴史的使命を終えての退場ということなら、じたばたせず粛々と退くのがよかろうと思う。

    思ってはいるのだが。

    じたばたせず粛々と、とは言え、やはり医師6年目で当院に赴任して以来勤務を続けてきたNICUである。廃止にさいして、喪失感というものもあるはずである。

    はずであると他人事のように述べるのは、今のところそれを実感として感じないからである。医師になって32年のうちの27年間を費やしたNICUを、しかも定年まであと10年を割っているこの時期に閉じることになったのに、その喪失を実感しないというのは異常なことだ。我が事ながらかなり危険な状態なのではないかと危惧している。

    しかしいずれNICU廃止の過程が具体化するなかで、その喪失感も否応なしにおそってくるのだろう。適切な身構えがない状態でそれが実際におそってきたら、人生の終わり近くになって再起困難な衝撃をうけることになるのではないか。ここはまだ頭が平静なうちに、NICUを失うということについて真剣に考えておいたほうがよいと思う。第一には自分のためであるが、人生の終わりで大きな喪失に遭遇するのは何も私ひとりに限った経験ではあるまい。書き記しておけばいかほどか、誰かのためになれるかもしれない。陰鬱な内容かもしれないが、しばらくこのブログで、読者諸賢にはお付き合いいただきたいと思う。

  • NICU加算の変更

    今夏から自施設NICUで請求する新生児特定集中治療室管理料、いわゆるNICU加算を1から2に変更した。

    直接の契機は2024年で猶予の切れる「医師の働き方改革」だった。その対策としてNICU当直の労基法上の正式な許可を得たところ、2024年度に入って早々、加算1は当直態勢で運営している施設には認めないと厚労省が言い出した。と言われて夜勤態勢を組むほどの医師の人数を揃えているわけもなく、観念して変更することとした。

    従来の加算1の条件である「過去1年以内に超低出生体重児の新規患者4例以上」は変更直前まで満たしていた。NCIUの当直許可を得られたのでとうめん加算1で継続可能と思っていたので、今回の厚労省の新施策は青天の霹靂ではあった。しかし当直許可を得るための労基署との折衝の過程で、当直時間帯には診療業務はほとんどありませんと、さんざん主張した経緯はある。そんな態勢では超低出生体重児ほか重症例の診療報酬を請求するのにはふさわしくありませんという理屈には、ごもっともと認めざるを得ない。

    2024年という時限を切って医師の働き方改革が強調されるなかで、2023年に駆け込みでNICU当直許可を得た施設は当院以外にも多かったことだろう。当院の人事課担当者からの情報でも、当直許可の申請を出している施設が多数に上ることや、役所の審査もこころもち甘くなっている感触があることを聞いていた。政策として「ヤミ」の当直を明るみに出して当局の管理の下に置くことを最優先とする方針なのだろうなと思っていた。

    果たして2024年度に入った早々の5月にとつぜん加算1は当直では駄目と言い出すのは、政策の進め方としては利口なやりかただと思った。お互いに一手ずつ打ち合って対局の局面が一歩動いたという感触である。私も京都の施設であるからには、「利口なやりかただ」と口に出すときには多少なりとも京都的なニュアンスは含むけれども。

  • 猫の死を看取る

    先日、自宅の最後の猫が死んだ。

    彼女は晩年は私の寝床でともに寝ることを習慣としていた。すっかり弱って飲食もしなくなってからも、私の寝床にいると落ち着く様子であったから、そのまま寝かせておいた。最後は終日、浅い呼吸をするだけでほとんど動かなくなっていた。ときおり頭を持ち上げて鳴いたが、撫でて声をかけてやると安心する様子であった。最後の日、未明にふと目が覚めて、傍らに寝ているようすを見ていると、あらく喘ぎはじめた。ああ死前喘鳴だと思った。まもなく、呼吸が止まった。

    医師という職業上、死に立ち会ったのは初めてではない。小児科医であるから他科ほど頻繁にではないにせよ、NICUなどやっていると赤ちゃんの死に立ち会うことはある。しかし人工呼吸もモニタリングもないまま、素の死を看取ったのは初めてだった。

    そういう死は、もっと漠然としたものだと思っていた。動かなくなったあともしばらく様子をみて、一定時間動かなかったら振り返って亡くなったことにするものだろうと。しかしこの猫の死は、いわゆる「息を引き取る」瞬間がはっきりわかった。

    昔の医者はこうして死を診ていたのだろうか。これに較べれば今の死は、避けようもないことではあるけれど、いろいろと付随するものが多くなっているなと改めて感じた。医者としての目線ひとつにしても、患者さんの顔よりは心電図モニタの画面を見ている時間のほうが長いように思う。頭の中も考えることがいろいろとある。それは仕事であるし当然のことだと思っていたけれど、そのようなことをいっさい排した、ただ看取るだけの死に臨むと、そのシンプルさにたじろぐ思いがした。

  • Panasonic ハリヤ 改造

    Panasonicの電動アシスト自転車「ハリヤ」を購入した。いくつか不満な点があり改造した。

    グリップ交換

    購入時についてきたグリップはまるで衝撃吸収性能がなく、ハンドルを握った印象はひたすら硬く、小刻みな振動がひっきりなしに伝わってきて不愉快だった。Amazonで衝撃吸収をうたったエルゴグリップを見繕って購入。直接握ってみた印象は従来のものとそれほど違うかよくわからなかったが、付けかえて走ってみると不愉快な振動がぴたりと止まった。

    GORIX ゴリックス 自転車グリップ (GX-AGOO)

    購入時のグリップはネジ止めも接着もされていないので、ただ単にナイフでハンドルにそって割を入れたら簡単に外れる。むろん再使用はできなくなるが、どのみちそのつもりはない。あとは新しいグリップをはめてネジ止めするだけだが、作業時には、左右のブレーキやグリップシフトあるいは電動アシストの操作盤を、六角レンチやドライバーなんかで固定を緩めてたしょう内側に寄せる必要がある。新しいグリップを装着したあと、これらの装置の位置を戻して完成。左側のブレーキや操作盤の位置取りは問題なかったが、右側はグリップシフトが幅をとるので、新しいグリップがハンドルの端から数mmはみ出していた。エンドキャップをしっかりはめたら分からなくなった。

    フロントバッグ

    ハリヤにはメーカーから、やたらごついワイヤ錠をつけてくれるのだが、これ皆さん走行時にはどこに携帯されるのだろうか。前カゴに放り込んでおくのか自分のカバンにしまうのか。私にはカーゴトレーラーを引かなければならない事情があって、リアキャリアは使いにくいしサドルバッグも使えない。フレームバッグをつけてみたが、マウンテンバイクはみなそうなのかハリヤの特殊事情なのか、フレームの三角形が小さくてボトルケージと干渉する。フロントバッグしか選択肢がない。

    やはりAmazonで購入。WILD MANというメーカーらしいが商品名のわからないフロントバッグ。寿限無みたいな、タイトルだか能書きだかわからん呼称は、ときに不便なこともありはしないか。ともかくも装着する。シフターやブレーキのケーブルをよけるのに工夫が要ったが、ケーブル類の下をくぐらせればなんとかなる。

    クイックリリースと言うがいまひとつバッグとマウントのかみ具合がしっくりしない。すっぽんと填まってカチッとリリースボタンが浮き上がってほしいものだが、そういう加工の精度を期待すると値段がひとけた上がるのかもしれない。グリースをうすく塗って対処する。塗りすぎて試運転のときキュイキュイ異音をたてていたが、過剰なグリスを拭き取ったらおさまった。

    ペダルにハーフクリップと蹴返しをつける

    この十数年がところ、ハーフクリップかビンディングかがついている自転車にしか乗っていなかったので、引き足にペダルがついてこないと戸惑う。とくに走り出しのとき、片足をクリップに引っかけてクランクを良い位置にもってくる癖がすっかりしみついている。電動アシスト自転車にハーフクリップなんて、そんなものが要らないのが電動アシスト自転車というものではないかとも思うのだが、まあ取りつけてみる。

    三ヶ島のケージクリップ蹴返しを入手して装着を試みた。もともとのペダルについていた反射板を外さなければならない。マイナスドライバーでこじると簡単に外れる。しかしペダルの形状が独特で、三ヶ島のケージクリップは装着不可能だった。もともとクロスバイクに付けていた、今となってはよくわからないメーカーの古いクリップなら装着可能だった。

    装着したところがこの写真であるが、明らかにクリップ側が重いはずなのに、クリップが最下点に来ない。どれだけペダルの回転が悪いのか。これはハーフクリップとか蹴返しとかの問題ではなく、ペダル自体を交換するべき状況なのではないかとも思う。玉押し調整とかグリスアップとか、経験のうちと心得てやってみるのも悪くはないのかもしれないが、しかし買ったばかりで充電も1回くらいしかしとらん新品でいきなりそれを求められるのもなんか不愉快である。

    ペダルの踏面がクリップの踏面より一段高くなっているので、クリップの甲が下がった形になり、試運転してみると足の甲の当たりが強い。やっぱりトゥークリップを使うなら使う前提のペダルに交換するべきなのかもしれない。いっぽうでこの踏面の広い形状のペダルも、クリップさえ諦めれば良い感じである。電動アシスト自転車ではとくに、ペダルを踏むとモーターの力もいっしょにかかるので、とっさの時にペダルと足が離れないと危ないという状況もあるかもしれない。しばらく考えてみる。

    それにしても昔の鐙みたいな形なので、京都で走るには似合うかも知れない。

  • 文章を書かなかったことについて

    しばらく書かなかった。俺はまだ書けるのかと疑う。最近はずっとTwitterばかりだった。すっかり140字くらいの呟きになれてしまった。もっと長い文章はまだ書けるのだろうか。

    多くのブログが数年もすれば更新しなくなる。飽きたとか、生活が変化したとか、多くの人に様々な理由があるのだろうと推測する。下部構造が上部構造を規定する。生活が変化して書かなくなるのは、それは怠慢の結果とは考えない。生活とはそういうものだ。

    生活と言えば、実生活では俺は出世した。勤め先ではすっかり小児科の立役者扱いだ。今の病院があるのは小児科の稼ぎのお陰で、その小児科の稼ぎを支えているのは俺の働きのお陰で、と言わんばかりの厚遇を受けている。役職だって単なる診療科部長というにとどまらず、さらに上級の修飾語がついている。これで給料がもっと上がればさらに嬉しいのだが、何と言ってもそこは貧乏病院だ。

    むろん俺の幼児性を盾に取った煽てという一面はあるだろう。案山子の役割を負わせるのに、しっかりもので煽てても案山子にならないような人間では非効率だ。俺は煽てれば案山子になる人間だ。所詮は学校秀才だものほめられて悪い気はしない。もう少し悪い気がしたほうがよいのかもしれない。

    そのような物語を語ったほうが、語ったほうも気分が良いということもあるだろう。だいいち、どう足掻いたって小児科が儲かるわけがないし、儲からない部門にエースが存在し得るわけがない。それをあえて地域医療に貢献する小児科の物語を語り、小児科の部長をエースとして語るのは、まあ大学病院とかに対してうちのような零細な小規模病院が向こうを張るためのナラティブとしては使いやすい構造ではあろう。

    俺をエース扱いしてくれるお陰で、俺の言うことはみんな聞いてくれる。備品を買ってくれと言えばたいがい買ってくれる。金がないときは事務長が誠に申し訳ないが来年度にと丁重に謝ってくれる。こればかりの金もないのかと驚くこともあるが、しかし無いものは無いので仕方ないとは貧乏な家で育った俺は分かっているつもりだ。不平を言えば院長も聞いてくれる。言っていて俺の方が恥ずかしくなる。そりゃあ他人の言葉を何でも素直に耳に入れられるほどの聖人君子じゃあないにせよ、自分が何を言っているかくらいは耳に入る。耳に入りゃあその幼児性は自分で分かる。むかし俺の母は俺の言うことは何でも聞いてくれた。全てをかなえるほど愚かな母ではないにせよ、とりあえず聞くぶんには何でも聞いてくれた。あれは偉い母だと思うが、であればこそ自分が愚かな我が儘を言ったことは自分で分かったし恥じたものだ。齢は不惑を過ぎて知命と言われる頃合いでなお昔の母に我が儘を言ったときのような感覚が蘇るのは、あのころよりもさらに恥ずかしい気分がする。

    聞いて貰えるあてがなければこそ、世間に向かってブログやなんかで愚痴を放流したりしておったわけだが、聞いて貰えるとなればかえって迂闊に愚痴も言えない。聞き流して貰えない愚痴は、真に受けられるとかえって危ないこともある。じつは数回、こりゃあ誇張した愚痴がどっかで読まれて真に受けられたなと冷や汗をかいたことがある。そりゃあもう言説には責任を伴うものだとはいまさら言われんでも分かっている。分かっちゃいる。分かっちゃいるけどそれでも書かざるをえないことをこそ書くべきものだろうと思う。昔の(今もか?)ロシア文学者が、全ての論文の形式を封じられた挙げ句に政治的主張もすべて小説に書かざるを得なかったような、やむにやまれぬことこそが書かれるべきものなのだろう。

    俺にとってやむにやまれぬ事も、他人にとってはよしなしごとに過ぎない。それはそうしたものだ。多くの人にとってやむにやまれぬ事なら、俺以上の文才のある人が誰か書いているだろう。誰かが書いたものを読んでそれで腑に落ちるなら、俺が書き連ねることもなかろう。

    しかし書き連ねられないことは読まれることもない。具体的に読まれないことは刺さりもしない。なんとなくぼんやりした、形のない空虚があるだけだ。そんな空虚は明瞭に存在することすら感じ取れないだろう。あるべきものの形が分かっていてこそ、そこに欠損があれば欠損と認識しうる。あるべき形の分からないものに、欠損があっても欠損とわかるだろうか。

    俺にとってやむにやまれぬ事も、書かずに済ませば止んだまま終わるのかもしれない。そうして多くの大事なことを見過ごしてきたのかもしれない。ちょっとしたことを呟いてちょっとした反応を得て、実質的な解決はなにもないまま小出しにやりすごしてきてしまったのかもしれない。それはよろしくない。

  • NICUのカーテン

    昼過ぎNICUに入ってみると、カーテンレールの工事をしていた。個々の保育器とその周辺の小範囲を囲んでカーテンを引くことができるようになった。普段は空調や監視のつごうがあるから開放しておくけれど、カンガルーケアや直接授乳などを保育器周りで行いたいときのプライバシーの確保が容易になった。

    カーテンは看護師たちのかねてからの念願であった。今回の工事は彼女らが自分たちで看護部上層や経営とかけあって予算を取るところから始めたことだ。俺の手柄といえばケチをつけなかったことくらいだ。

    うちのNICUの看護師たちの積極性というか行動力というか、たいしたものだと思う。彼女らの肝が据わっていないと重症入院が受けられない攻めきれないということになるんで、看護師の勇敢さというのはNICUの宝だ。このカーテンは直接に赤ちゃんの命を救うというものではないが、たぶんこのカーテンをつけたことでうちの看護師たちはいちまい勇敢になったと思う。

    神殿つうもんは人の心の中に作るもんやで、とかのナザレの大工も言ってなかったか。

  • 知命

    認めたくなくてしばらく考えずにいたけれど、知命といわれる歳になって一月ほど経った。

    たとえて言えば日曜日の午後3時ころのような気分だ。それなりによい天気の日曜日だったが、すでに日は陰って、今さら新たに行楽にいく時間でもない。日が暮れるまでに何か小さい散歩くらいはできるかもしれないし、宵の口には夜ならではのお楽しみもあるかもしれない。でも昼の盛りははっきり過ぎてしまった。まだ朝日が昇ってまもないうちは、よい天気になりそうな陽光をあびて、どんなすばらしい一日になるだろうと思ったものだった。しかしふりかえってみれば、昼の盛りをとくに何に使ったわけでもないような気がする。その場その場のことを忙しく消化していくうち、とくに何のあったわけでもない平凡な日曜になってしまって、ああもうはっきり日が陰ったなと思う、今はそんな日曜の午後3時頃。

    困ったことには、日曜日の夜が明けたら月曜日の朝がくるようには、人生には朝はこない。何時頃になるか、いまはとりあえず大病もなしそう早くはないにしてもいずれ寝てしまうし、寝てしまえば次の朝はこない。

    知命というからには、この歳になればよほど天命をさとって覚悟が決まるものなのだろうと思っていた。しかし実際にその年になってみれば、どうやらそういうものでもなさそうだ。単に、自分の人生にはもう大きいことは起こらないという諦めだ。いまそこに自分がいる、この自分の位置こそが自分の天命なのだというお話のようだ。なんのことはない、童話の青い鳥みたいなもんだ。

    さて。

    耳順という年齢まであと10年だ。この、もう日曜が残り少ないという怒りや焦りを鎮めて、腹が立たなくなって6時半のサザエさんを観るまでにあと10年かかるもののようだ。おのれの欲するところに従っても矩を超えなくなるまでさらに10年。もう桃太郎侍を観て寝る時間じゃねえか。

    こういう手厳しい指摘を2600年も前にしていた孔子というひとは偉いもんだよなと思う。

  • 衰退するNICUで

    NICUの入院患者が2人にまで減った。二人しかいないと静かなものだ。人工呼吸器の作動音も絶えて久しい。覆いを掛けた保育器や人工呼吸器が立ち並ぶ、倉庫のような暗がりの片隅で、赤ちゃんと看護師がひっそり過ごしている。この子らももうすぐ帰る。私は事務仕事も面白くなくてVolpeの新版を読み続けている。

    例年は冬になると極低出生体重児の入院が続くものだが、この冬はその増加がまったくなかった。悪い比喩だが、昭和29年、北海道の海にニシンがぱたっと来なくなったときはこういう感じだったんだろうかとすら思う。この数年、減った減ったと書きながら細々続けてきたが、今度こそ本物という感触がある。

    鰊も獲られたくないだろうし赤ちゃんだって入院したくはないだろう。ニシンは獲りすぎで資源が絶えたんだろうが、そりゃあ赤ちゃんは生まれるのを片端攫えてくる訳もなし、NICUの入院数が減ったのは産科医療の進歩が効いている。ひと頃は維持不可能だった妊娠が維持できるようになり、今日明日にも早産で分娩だと腹をくくって待機した胎児も、けっきょく危機を乗りきって正期産で元気に産まれ退院していく。赤ちゃんの元気は何より言祝がれることであるし、漁師さんたちを見習って俺たちも他の仕事を探すところなのだろう。そうして時代は過ぎる。当事者には色々の感傷はあれ、時代が過ぎるってのはそういうものなのだろう。

    NICUががらがらなのは当院ばかりではなさそうで、京都府の周産期情報ネットワーク情報を参照すると、大半の施設が受け入れ可能の意思を示している。それも複数の空床を提示している。時代は変わるものだ。今夜もし入院紹介があれば府外搬送だと重い気持ちで過ごす当直はもう過去のものになった。生まれる赤ちゃんの1人1人にとっては、これは良いことだ。憂う必要はなにもない。

    この状況を懸念するとすれば少子化の面からだろう。少子化が進行し、子供を産む年齢層の女性の数すら減り始めて久しい。世の中の人には、まだそれほど子供が減った印象は持たれていないかもしれないが、この入院数の減少には少子化もむろん影響している。NICUに入院する子供の総数が減ると、少ない入院は総合周産期母子医療センター他の大施設に集約されていく。我々のような末端の施設はまっさきに変化の波をかぶることになる。少子化をもっとも鋭敏に観測できる場所である。

    小松左京の短編に、サラリーマンの主人公が営業でたまたま訪れた産科医院で、ふと気がついてみれば赤ちゃんが1人もおらず新生児室が静まりかえっているというものがあったと記憶する。赤ちゃんが生まれなくなったのですと助産師が言う。その帰路、うららかな春の日にも、子供の声が街からほとんど聞こえない。御大の作品としては淡々とした、これといって起伏のない小品であったが、いまの様子は御大の想像どおりだ。

  • 退官する小児科教授を送る

    退官する小児科教授を送る

    母校の小児科教授が退官されたので先の日曜に祝賀会に行ってきた。翌日、病院に留守居で休日救急をお願いしていた同門の医師に、会はどうでしたと尋ねられ、以下のようなことを喋った。

    教授の退官祝賀会の常で、次々に挨拶が立ち、研究のみならず附属病院運営についても業績が縷々讃えられた。とかく優秀な人であったと逸話が並べられた。今後の再就職先も重要な地位で大いに活躍を期待すると。さすがに教授となると送辞も話の規模が大きいなと思った。応えて教授も、優秀な先輩の名をあげて感謝を述べられ、盛況のうちに閉会となった。

    教授が退官するときに彼を評する尺度が「優秀さ」であるような、俺たちはそういうところにいるのだなということに、一抹の寂しさは感じた。それは入学したての学生たちが互いを値踏みするときの尺度ではないか。教授まで務めた人の大学生活の終わりに語ることは他にないのか。この期に及んで俺たちは自他の優秀さをまだ問題にせねばならんのか。

    他にはと言って、附属病院の発展とかそういうカエサルに返却する部類の些事はこのさい置いておこう。そんな話は経済学部の連中が経団連の集まりにでも語っておればよいのだ。神に返す話、神に預かったタラントにつける利息の話をしたい。

    問題にせねばならんのかと自分に問えば、不惑を過ぎ知命が迫る年になってなお、優秀と評されたいという子供じみた焼け付くような欲望を自覚する。大人になったらがき大将になりたいと言ったのび太を彷彿とさせる。じゃあ優秀さ意外になにかこういうときに退く人の半生を語りうる言葉が自分の中にあるかと探してみて、実はなかったと気づいて愕然とする。そんな大学の新入生みたいな価値観を脱却できないまま、より成熟した大人なら持ちうるはずの眼差しや言葉をいまだ持たないままなのかと、月並みな表現だが忸怩たる思いに駆られる。

    大学で何を学んできたのか。医者やってて何か思うところはなかったのか。もうすこし豊穣な言葉で半生を語りうるような成熟は得られなかったのか。そういう俺が明日も発達フォロー外来をする。NICUを退院した子供たちのその後を診察すると言いながら、この子らにこんな人生を歩んで欲しいと思うところはないのか。「優秀になって欲しい」ではNICUでした苦労に比べて貧弱にすぎないか。

    俺自身が引退する頃にはそれもわかるようになるのだろうか。