カテゴリー: 日記

  • 臨時に当直

    本来の当直医が体調を崩したので臨時に当直。何故かちょうど私の当直の間が大きく開いていたのでちょうど良かった。中6日空く予定だったのでどうしたんだろう一体と思ってたら中3日と中2日に分割された。これでいつものペースだ。
    ただ、いったんは帰らねばならなかった。猫の餌とトイレの始末をしに。にゃん太郎はささみ猫である。魚は猫の喰うものではないと思っている。茹でササミが大好物。猫のくせに湯気の上がる熱々の茹でササミをはふはふと喰う。とは言っても、猫の分際でそうそう毎日ササミを喰うような贅沢はさせたくないので、大袋入りの冷凍ササミを数日おきに茹でてやっている。貰えない日は渋々キャットフードを喰っているようだ。だからにゃん黒ほどにも太らない。肥満の過ぎるにゃん黒に付き合わされてにゃん太郎もダイエット用フードを喰わされているからなおのこと。筋肉が締まって、良い体をしている。
    ついでにシャワーも浴びてきた。当直中は自分の汗くささにも閉口するものだがそれが随分と楽だ。
    今はちょうど妻子が帰省していて私一人が居残っている。であればこそ猫の世話にいったん帰宅が必要だったのだが。中6日も空くんなら一緒に帰れば良いのにとも思う。実情は、先に小児科医が一人夏休みをとっちゃってて、たまたまその人が普段からほとんど当直をしない人だから当直日程には影響がなかったってだけで。まあ、休めないには違いない。そういう人って休暇の予定立つのは他人より早いんだよね。
    それに、故郷には帰りたいけれど、故郷に関連する詰まらぬしがらみには触りたくない。山や海は黙って迎えてくれるけれど人には口がある。
    妻もそうだと見えて子供たちをおいて早々に帰ってくる予定。

  • 安心な産科医院

    産科詰め所で助産師が話してたことによれば、市内のある産婦人科医院から紹介のあった妊婦さんは、まず間違いなく同じ医院に帰って行かれるとのこと。
    これは二つの意味がある。一つには紹介が適切なタイミングであるから安静と陣痛抑制で切迫早産の病態が落ち着き、一般の産科医院で分娩しても安全な週数に到達できるので、大半の妊婦さんを円満に逆搬送できるということ。もう一つは、この医院への妊婦さんたちの信頼が篤いために、うちの病院への鞍替えを希望される妊婦さんがおられないと言うこと。いずれにしてもこの医院の実践は素晴らしい。かくありたいものである。
    むろん産科的に最善の治療をしても結果的に早産となる症例はある。この医院から紹介の妊婦さんであっても例外ではない。あるいはこの医院で産まれた赤ちゃんに異常があって新生児搬送に出向くことも、決して無くはない。ある程度の分娩数を扱う産科ならある割合で切迫早産があり異常分娩があり病的新生児もあるものだ。しかしこの医院関連の御用のときには無用の緊張をしなくて済む。例え赤ちゃんの病状が重篤であっても、重篤な病状への対処に専心していられる。これは引き継ぐ立場としてはとても有り難いことだ。
    患者さんや関係病院の信頼を集めて、この産科医院は徐々に評価を上げている。標準的な産科医院から一流の産科医院へと、じわりと歩を進めてゆかれるところだと思う。どの業界でも標準と一流の差は遙かに遠いような紙一重なような、分かりにくいような歴然としているような、いずれにしてもその境を越えるのは難しい。無論努力も要るが、知恵のない力任せの努力では決して越えられない。でも小賢しいトリッキーな思いつきで一流になれるわけでもない。自分や自分達の施設に関してはどうすればいいのやら途方に暮れるが、この産科医院は確実に我々の先を行っている。

  • 吸啜

    保育器の中の赤ちゃんがどうしても泣きやまず、まるで診療が進まない。試しに指を吸わせてみたらものすごい勢いで吸い付いてきた。痛かった。爪が抜けるかと思った。
    あの勢いで吸われるのか。

  • メカふぐ

    先の日曜日、息子が田宮模型から出ている「メカふぐ」を作った。
    例によって設計図を一目見るなりギヤボックスをするすると組み上げてしまった。この子の目や頭はどういう構造になっているんだろうと、毎度のことながら不思議でならない。ただ、部品番号と絵で理解しているのは確実なようで、文字で書かれた「グリスを塗ります」という指示は最初はきれいに無視した。多少気にはなったが、実は私もギヤに油を塗らないとどうなるかよく分からなかったので、口を出さずにおいた。
    電池ボックスとギヤボックスを本体に取り付けて、試しにスイッチを入れてみる。わくわくしているのが見ててよく分かった。しかしモーターが呻るばかりでまるで動かない。そこでグリースのチューブを渡してやると、黙々とギヤボックスを取り外し、ギヤ表面にグリスを塗り込んでいた。その淡々としたリカバリーぶりが、傍目には冷静沈着な職人に見えて、我が子ながら惚れ惚れした。
    それにしても、組み立て中の模型が期待通りに動かないとか、PS2で遊んでいるときに妹が電源コードにけつまずいて抜いたとか、そういうトラブルにはこの子は全く動揺しない。まるで、これで遊べる回数が1回増えたとしか思っていないようだ。本当に好きなことってのはそういうものなのかもしれない。

  • 自閉症者の身体感覚

    「自閉っ子、こういう風にできてます!」ニキリンコ・藤家寛子 花風社 遅まきながら拝読しました。
    自閉症者の身体感覚について書かれた本です。自閉症というと精神や心理のことばかりに私は気を取られていて、こういう肉体的な面倒もいろいろ抱えておられるというのは初耳でした。全く新しい分野の本を読んだ気がします。面白い本でした。
    うちの息子見てたら、自閉症児って身体はやたらタフに出来てると、無根拠に独り決めしていたのですが(少なくとも私は小児科医としてうちの息子を診たことがほとんど無いです)、認識が甘かったかも知れません。
    もう一つ、自閉症ではない人をさして「定型発達」という語を使ってあります。なるほどこういう風に使うのかと腑に落ちました。良い語です。今後は私も自称に使うと思います。

  • 「親のせいにすること」の構造的欺瞞

    発達障害の原因を母親の育て方に求める考え方は、科学的にいかに荒唐無稽でも、構造的に無敵である。
    自分の言うとおりにテレビを消してひたすら「言葉掛け」をした家の子に言葉が増えたら自説の正しさが補強される。しかし言葉が増えなくとも、それは親御さんの努力不足のためであって、自説の正しさは些かも揺るがない。努力不足だとどうして分かるか、それは努力すれば増えるはずの子どもの言葉が増えないからである。
    どう転んでも彼の説が否定されることはない。だから臨床では破綻がない。いつまでも生き残れる。生き残っているということが彼の説に信憑性を増すかにも見える。生き延びるのみならず偉くもなるかもしれない。
    しかしこの破綻の無さは彼の説が科学的に正しいことの証左にはならない。言説の内容がどんな内容であれ、この構造をとらせれば破綻することはないからである。
    例えば「海辺で念じれば鯨を目撃できる」という論(たったいま私がでっち上げた論だが)を検証してみる。念じて実際に遠方にでも鯨が出たらこの説は正しい。鯨が出なくともそれは念じる人の努力が足りないためであるからこの説自体は正しい。努力が足りないとどうして分かるか、それは鯨が出ないためである。
    構造的に反証不可能になっている言説を科学的言説とは呼ばない。たしかカール・ポパーとかいう人がそう言ってなかったかな。「矛盾のない公理系はそれ自体が無矛盾であることを証明できない」ってのは誰の言葉だったっけか。まあ、そこまで大層な話かよとも思うけど。
    みみっちくて誠のない説だよなと思う。欺瞞的で無責任である。この説を唱えて子どもの言葉が自分の言うとおりに増えなくても、全然自分の責任にはならないんだよね。上手く行かないのは全部が親のせい。気楽だろうなあ。自信たっぷりに毎日外来が出来るだろうなと思う。これだけで一生喰っていけるかも。俺ももう少し矜持とか良心とかを振り捨てることができたら、この説を採用した「言葉の発達外来」で大繁盛できるかもしれない。
    ただ、帰る家が無くなりそうだね。どの面下げて妻や息子に会えようか。

  • 大丈夫の言葉が欲しくて来院する人が9割以上。それは当然

    小児科外来は時間内も時間外も「大丈夫」の言葉が欲しくて来院する人が圧倒的大多数。
    それはもう、プライマリ・ケアに近いところに居る人間ほど身に染みて分かってることで、今さら語るに落ちる内容だからあんまり言葉にしないんだけど、病院は病気を治すところだと思ってる人にはけっこう意外なことなんだろうなと、時にこの事実に戸惑う人に出会うたびに新鮮な気分になる。
    小児科は唯一病気が
    相応の権威を持って「大丈夫」と申し上げる、この言葉そのもに言霊的な治療効果があるんじゃないかと思うこともある。むろん大丈夫じゃあない子に大丈夫とは言いませんよ。それなりの診断手段を尽くし、説明を尽くした上での「大丈夫」という結論の一言を心掛けてます。うちの小児科で一番採血をし点滴をし再来予約をマメに取るのは私だと思ってます。一方で単純な感冒の子に「念のため抗生物質」を処方することが最も少ないのも自分だと思ってますけど。
    闇雲に「大丈夫」と申し上げてるつもりじゃなくて相応の勉強はさせて頂いてるつもりです。例えばメジャーリーグの強打者が打撃の秘訣を聞かれて「来たボールを打つだけじゃないか」と答えたとして、その「来たボールを打つ」というシンプルな言葉にどれほどの彼の努力と才能が籠もっているかというような、そういう重みを私は医者の「大丈夫」という言葉に籠めたいものだと思います。

  • だったらどう説得したんだろう

    高校野球の全国大会で広島県の代表が、8月6日の8時15分に黙祷をしようと他県の代表に呼びかけようとしたところ、大会関係者に止められたということ。その際に大会関係者が「原爆は広島だけのこと」「みんなを巻き込むのはよくない」と発言したと、某全国新聞に報じられた。
    そんなことは言ってないという大会主催者からの抗議があって確認したところ、そのような発言はなかったということが分かったとのことで、この某全国新聞社が謝罪したとのこと。ちなみにこの新聞社は別シーズンの全国大会に関連が深い。
    妙にリアリティに溢れた記事だと思ったんだけどね。
    いかにもありそうなお話だなと思ったし。
    まあ、仰ってないということだから、仰ってないんでしょうけれど、ね。
    それにしても、この理屈立て以外のどのような論理でもって、高校生たちを説得したんだか、ぜひ聞いてみたいものだ。私にはどうにも思いつけない。いや、根も葉もない話にしては妙に出来過ぎてるとか、大会関係者が強硬に出たら毎日新聞も選手たちも逆らえないだろうとか、選手たちだって言ったの言わないのの七面倒な話などさっさと忘れて試合に集中したいだろうしとか、そういう無根拠な推定はしてませんよ。ただ、思考の訓練としてね、この場合自分なら何と言うかな、ってね。
    実際、他府県に出てみると原爆って俺たちが思ってた以上に広島や長崎だけのことだしね。
    京都では時々、3発目はお前らだったんだぞと、嫌みの一つも言いたくなったりしますからね。
    でもまあ、8月9日と言えばソ連の対日参戦の日じゃないかと、旧満州でご苦労なさった人に言われたら(例えば私の母とかね)、返す言葉もない。酷い目にあったのが自分らばかりだと主張しているように思われては理解も連帯もあったものじゃないしね。

  • 私の年では自己嫌悪も許されない

    仕事の段取りが悪くて、やれやれ俺はダメだなと自己嫌悪。これ自体はよくある話なのだが、今日、ふと、自己嫌悪そのものが俺にはもう許されない悪徳なのではないかと思った。
    今の自分がダメだと思うのは今以上の自分を想定しているからだ。高校生ならともかくも30台も後半に入った俺が「今以上の自分」に現状の自分以上のリアリティを感じててどうするんだよと思う。それは未熟者にのみ許容される特権である。
    10年目過ぎた医者には、自分はまだ未熟者ですと述べる権利はない。単純に文学的な謙遜ならまだしも、暫しの猶予を頂ければご満足頂ける程度に成長しますから本日のところはご勘弁を等と言っても、誰もそんな言い草を許してはくれない。臨床にはそんなロートルな未熟者を飼い殺しておくゆとりはない。後進にポストを空けてくれよと言われるのがオチだ。私も自分より年上の医師に、直接は言わないまでも内心そう思って舌打ちすることが屡々であった。そう言われ得る年代になってそう言われる程度に無能なら、言われることを甘受するのがフェアというものだ。
    今さら自分の将来への成長分を自分の価値として現在の評価に組み入れるような(例えば今のところはろくに配当も出せないようなドットコム企業があと何年かしたら云々言って投資を得ようとするような)マネが許される年齢ではなくなった。自分の評価は現在の自分のスペックでしか得られない。結構厳しい。

  • 私も生物を履修していない医学部生でしたが何か?

    Scott’s scribble – 雑記。: 大学生の学力低下

    つーか、仮にも大学なら連立一次も解けない奴入れんなよ。

    という指摘を拝読して溜飲を下げた。そうだよな。本来そういうものだよな。喝采喝采。馬鹿を入れておいて馬鹿でしたって頭抱えてもねえ。そりゃあ自分らの浅はかさを嘆かなきゃ。
    元ネタは「内田樹の研究室」のエントリー「るんちゃん・健ちゃんと日本の高等教育の末路」においての

    第一は学生の止まるところを知らない学力低下である。
    大学の正規の勉強だけではとても追いつかない。
    リメディアル教育の他に、家に帰ったあと自学自習させないとどうにもならない(なにしろ連立一次方程式がとけない工学部学生とか、生物を履修していない医学部学生とかがざわざわいて、ついに小学校の算数からのリメディアルをはじめた私大もあるのだ)。

    云々の指摘である。大学生の教養の低下については内田先生の著書やブログには大量の蓄積がある。例えば現在の大学1年生の英語力は内田先生ご自身が中学3年の時のそれに等しいということらしい。私は事情を知らないから「そうなの?」と素直に感心していたものの、今ひとつ釈然としない思いもあったのである。
    内田先生のこの指摘にはもう一つ文句を言いたい。連立一次方程式が解けない工学部学生と生物を履修していない医学部学生を一緒くたにしてほしくない。生物を履修していない医学部学生は馬鹿だから生物が理解できなかったわけじゃない。生物のかわりに物理を履修したのである。大学入試では物理のほうが生物よりも高得点をねらえるというのが第一の理由だが、例えばNICUでの人工呼吸管理など最新の医学を学ぶのに高校レベルの物理の知識は必須だから、これは決して邪見的な選択ではない。
    古い人や部外の人の想像以上に現代医学は物理の基礎知識を必要としている。しかし医学部を目指すような面々には、決して、インダクタンスだのインピーダンスだのという重要だが地味な概念を自習で身につけるのは容易くない。少なくとも、私は、高校の物理か生物かのどっちかは授業してやるから残りは自習でやれと言われたら、授業では物理を聞くことにして、生物は自分で学ぶ。自分の嗜好はそうなってるから。