カテゴリー: 未分類

  • NICUの廃止が決まった

    当院のNICUの廃止が決まった。今年9月末で終了する。関連施設へ通知のうえで、病院ウエブサイトにも公開する段階となった。ここで個人的に論じてももはや守秘義務違反ということはないだろう。

    直接の原因はNICU入院数の低下と、それにともなう減収であった。NICU入院数の低下はこの数年実感していた。昔は空床を捻出するのに苦労していたものだったが、いつしか満床のほうが珍しくなった。NICU認可病床を9床から6床に減らしてもなお埋まらなかった。在院する赤ちゃんが1~2名だけで、勤務する看護師のほうが多いということも珍しくなくなっていた。

    入院数が低下すれば診療報酬も減るのは無論のことだが、加えて京都府からの補助金が減り、本年はついにゼロ回答となった。入院数の減少で、地域医療にたいする貢献が少なくなったと見なされたのだろう。もう不要と公的に宣告されたような気がして、懐具合に痛い以上に、精神的に痛かった。

    しかし私情を排すれば、行政の宣告も理不尽とは言えないと、私も理解している。

    背景には少子化の急激な進行がある。京都府下では2016年を境に、出生数の減少のしかたが急激になった。2016年の京都市の出生数は11323人。2024年は7346人であった。複利で計算すれば年平均6.47%の減少率となる。2006年の出生数は11993人なので、同年から2016年まで10年間の減少率は年平均0.57%であった。この点については、過去にもグラフつきで記事を書いたのでご参照いただきたい。

    「市場」と言えば医療にこの言葉を使うのは不適切な気もするがご勘弁願いたい。市場全体の規模が過去8年間、年率6.47%で縮小を続けている。それ以前の減少率0.57%からある年を境に突然10倍以上の減少率となった。最近の減少率の値自体も、変化の急激さも、経済の目で見れば血相の変わるような非常事態なのではないだろうか。

    地域の出生数が減少すれば、NICU入院を必要とする赤ちゃんの数も必然的に減少する。行政が政策的に整備しようとするNICU病床数の目標も減少する。国の政策として地域のNICU病床数の整備目標が、出生1000当たり3床と定められている。2024年の京都市内の出生数を1000分の3すれば22床である。病床数だけで論じるなら、当地の総合周産期母子医療センター三施設のうち二つもあれば充足可能である。

    実際、府下の周産期母子医療センター各施設の空床情報をみていても、連日ほぼ全ての施設で空床有りの表示となっている。もはや新生児救急症例の入院先が府下に一つも得られない夜は過去のものとなった。府の周産期医療政策担当者もまた当然にこの計算をして、この認識に至っていることだろう。その結果が、当院への本年度の補助金ゼロ回答なのだろう。経営難の地域周産期母子医療センターを、救済することに政策的な根拠は見いだせない、ということだろう。

    当院NICUは京都府下ではじめての認可施設として、府の周産期死亡率が全国最悪の水準であったころに発足したNICUであった。行く場のない赤ちゃんたちを見るに見かねて始まったNICUであるからには、もうそのような赤ちゃんはいなくなったというのは、活動を終了するのに唯一の正当な理由ではあろう。他の理由で活動終了するのなら悔しさもあろうが、歴史的使命を終えての退場ということなら、じたばたせず粛々と退くのがよかろうと思う。

    思ってはいるのだが。

    じたばたせず粛々と、とは言え、やはり医師6年目で当院に赴任して以来勤務を続けてきたNICUである。廃止にさいして、喪失感というものもあるはずである。

    はずであると他人事のように述べるのは、今のところそれを実感として感じないからである。医師になって32年のうちの27年間を費やしたNICUを、しかも定年まであと10年を割っているこの時期に閉じることになったのに、その喪失を実感しないというのは異常なことだ。我が事ながらかなり危険な状態なのではないかと危惧している。

    しかしいずれNICU廃止の過程が具体化するなかで、その喪失感も否応なしにおそってくるのだろう。適切な身構えがない状態でそれが実際におそってきたら、人生の終わり近くになって再起困難な衝撃をうけることになるのではないか。ここはまだ頭が平静なうちに、NICUを失うということについて真剣に考えておいたほうがよいと思う。第一には自分のためであるが、人生の終わりで大きな喪失に遭遇するのは何も私ひとりに限った経験ではあるまい。書き記しておけばいかほどか、誰かのためになれるかもしれない。陰鬱な内容かもしれないが、しばらくこのブログで、読者諸賢にはお付き合いいただきたいと思う。

  • 2016年に加速した、京都市の出生数の急激な減少について

    先日、京都市の2023年の出生数が発表された。前年10月始まりの9月〆で統計をとるので、この時期に発表になる。2023年(令和5年)の出生数は8109人。前年2022年の8591人から482人の減。率でいえば約5.6%の減少である。

    1990年以降の推移をグラフにすると以下のようになる。2016年から急に状況が変わったように見える。それまでも緩やかな減少傾向にはあったが、以降急落している。年率5%ほどの直線的な低下である。ちなみにコロナ禍の影響があれば2020年前後にもうひとつ変化があるはずだが、それはあまり明らかとは言えない。

    2016年ころ何があってのこの変化なのだろうか。出生数が急激に変化するようなできごとが、この年になにかあったかというとあまり記憶にない。リオデジャネイロでオリンピックがあったりした年。アベノミクスがはじまって3年目。決め手に欠ける。

    京都市の15歳から45歳までの女性の人口の推移をグラフにしてみると以下の通り。

    出生数ほど明瞭ではないけれど、やはり2016年頃から減っているように思う。子どもを産む年齢層の女性の減少。これは少子化を加速する要因になり得ると、2016年以前から言われていたようには記憶する。自然動態だけなら人口の年齢構成はかなり正確に予測できるものなので、将来こうなることは確定した事実ですと2010年以前のいつかの新生児学会で講演を聞いたように覚えている。

    2016年生まれといえば今は小学校に入るころの年齢であるが、当地の今後の小学校では、学年がひとつ下がるごとに人数が5%ずつ減ることになる。小学生関係の「市場」の規模は今後毎年5%のスピードで縮小する。5年すれば中学生相手の市場がそのペースの縮小を開始する。10年後には大学生の市場だ(しかし大学生にはさすがに京都では社会的流入を当てにできるかもしれないが)。15年後には就労する若い人の人数が、年率5%で縮小し始める。これは今年生まれた人がこの人数であった時点で確定したことだ。人口の流入による社会的増減に期待するにも、出生数に関して国内はどこも似たり寄ったりだろうし、京都は大学生世代は多少ましかもしれないが卒業すれば出て行く人ばかりで、それ以外の年齢層にとっては小児も成人も流入が流出を上回るほど魅力的な土地とも思えない。

    各論的なことではあるが、大学生の年代で社会的な流入があることは、大学の定員が変わらない前提でだが、上記の年代の女性人口の減少が出生数に較べて鈍く見えることの一つの要因かも知れない。18歳から20台前半の女性で、京都の大学を選んで当地へ移住してこられた方々は、妊娠出産は念頭に置いてはおられないだろう。そして卒業すれば大阪なり東京なり出て行かれるおつもりの方が多かろう。

    各方面への影響が今後顕在化していくと予想する。

  • Panasonic ハリヤのフロントキャリアにリクセン&カウルのフロントバッグをつける

    できあがりはこんな感じになる。

    Panasonicの電動アシスト自転車ハリヤを買ったら、標準でフロントキャリアがついていた。しかしどうやって使ったものかさっぱりわからない。そのフロントキャリアに装着できる荷物入れといったら前カゴしか見つからない。しかしマウンテンバイクの格好をした自転車に前カゴってありなのかなと、なんとなく無粋なような気がしていた。

    ハンドルバーにマウントするフロントバッグなんか付けてはみたけれど、フロントキャリアがあるのに別途マウントするのもなんだか悔しい気分がした。それにこの製品はマウント用の器具がシフトケーブルと干渉して、変則の調子が悪くなっていた。

    そこで、ハリヤ標準のフロントキャリアにリクセン&カウルのアタッチメントが取りつけられないか工夫してみた。って素人の不細工な浅知恵なんだけど、検索しても同様の試みに行き当たらなかったものだから、同好の士の参考になればと思って書き記しておく。他にももうちょっとマシな方法はあるはずなのだが、あったとしても最善な方法を示さなかったとして私を糾弾するのは勘弁してほしい。

    さて。前置きが長いのは動画編集にしてもブログ記事にしてもそれ自体が素人の証拠だ。本題に入ろう。

    今回つかったリクセンカウルのアタッチメントはキャディーKR851である。横に並んだ2個のネジ穴に止めるには同社ラインナップのなかでもこれしかなかろう。

    キャディーKR851の二つのネジの間隔が、このキャリアの穴の間隔にぴたっと合えば万々歳なのだけれども、残念ながらこのキャリアのがわが数ミリメートルがところ広い。この穴の内側を削らなければならない。先日買った電気ドリルを持ち出してきて、この内側を削る。電気ドリルをそういう目的に使うことが正当なのかどうか、工業高校や工学部でどう教えているのかは知らないが、医学部では生命倫理的に問題さえなければ使えるものは何でも使う。

    不調法な細工ではあるが、だいたい長円形のもとの穴が上の写真のように正円形に近くなるくらいに削れば足りると思う。工学部の人ならノギスで計るんだろうけど、素人なので取りつけたい部品を裏から当てて、こんなもんかなと目見当でやっつけてしまった。

    ここで素人じゃない専門家としてのコメントですが、削るときには鉄くずが飛ぶので保護めがねをかけること。鉄粉が眼球に入ったら視力にたいへん悪い。いちおう俺は医者なのでこれは言っておかねばならん。

    あとはキャディーKR851を装着するのみ。私のように面倒くさがってフロントキャリアを取り外さず作業するときは、ケーブルやヘッドチューブが作業の邪魔なので、ヘッドチューブの後方から届くほどに長いドライバーがあると便利だろう。俺はもってなかったので苦労した。

    できあがりはこんな風になる。

    ここへリクセンカウルのバッグをカチャッとはめ込んだら冒頭の写真になる。フロントバッグが妙に古びているのは使い古しているからである。このバッグは勤務先のNICUで新生児搬送に行くのに使っていた。新生児搬送用保育器のフレームがちょうど自転車のハンドルバーと同じくらいの太さなので、リクセンのハンドルバー用のアタッチメントを付けて、蘇生用具を満載したフロントバッグを装着している。

    写真の向かって左手にあるのが現役のもの。搬送用保育器を押していくのが間に合わないほどの、一分一秒を争う事態でも、このフロントバッグと右手下方の工具箱とを両手に提げて走れば、とりあえず心肺蘇生は開始できる。取り付けの頑丈さと取り外しの迅速さが両方必要なのだが、リクセン&カウルの製品が最善ではないかと思う。

    必要十分の荷物をいかにコンパクトにまとめるかという点で、新生児搬送と自転車には共通したものがある。当直続きでサイクリングに行けない鬱憤を仕事で晴らしとるのやろと言われると否定はできない。

    ポケットマネーで買っていた(試行とはいえ公私混同だよなそれ)先代のフロントバッグが置いてあったので、これを機会に引き取った。Amazonの購入履歴を参照したら、2011年の9月に買ったリクセン&カウルのオールラウンダーフロントバッグKT812である。10年ほども使ったのにほころびているのはバックルベルトだけで、バッグ自体の強度もたいしたものである。このベルトがほころびたのもアンビューバッグやなんか大量の荷物を無理矢理詰め込みすぎたからなので、弱点がそこにあるというわけではない。と言って出先でちぎれて中身をばらまくのも始末が悪いので、より大きい新製品に買い換えたものである。

    何人もの赤ちゃんの救命に役立ってきたフロントバッグを付けて走っていたら、事故に遭う確率もなんぼか減るのではないかしらと思う。あるいは悪運を使い果たしているかもしれん。よくわからん。現役のは予算請求して買ったんで間違って持って帰らないようにしないと(まあそれくらい自分で決裁できる程度の権限はあるんでやっぱり自分の趣味を通してるんですけどね)。

    キャリア下方や後方のクリアランスはこんなふう。

  • 小児科発熱外来

    当院では2020年の新型コロナウイルス流行当初の5月より、病院の喫茶室を改装して小児発熱外来を成人発熱外来とは別に設置した。当初は検査対象者もとくに方針を定めていなかったが、同年11月からは初診患者全員にPCRを行うこととした。設置後2年が経過した。早いものだと思う。

    喫茶室は病院1階にあり、病院前のロータリーに張り出すかたちの設計になっていた。診察後にコーヒーでも飲みながらロータリーを見ていて、迎えの自家用車なりタクシーなりが回ってきたら出るという発想での行動に便利な設計である。感染防止のため会食制限となっては、病院の喫茶室は真っ先に営業を中止するべきと考えられた。ガラスのはめ込みであった外壁を引き戸に改装して外からの出入り口とし、病院外来ロビーからの入り口をふさぐことで、発熱外来への改装はわりと簡単だった。費用に補助金をいただいたこともあり。内部は最適なレイアウトが判明するまでと思って、人の目線ほどまでの高さの衝立でおおまかに仕切っていたが、換気が大事とわかってきてみると今さら衝立を廃して仕切り壁を設置する気もしなくなった。

    外に面した窓に換気扇を3個設置し、診察室の卓上では二酸化炭素濃度を常時モニターしている。おおむね400ppm台である。空気の取り入れ口は出入り口からとなるので、常にすこし開けさせている。出入り口付近に立つと風が吹いているのがわかる。二酸化炭素濃度が600ppmを超えたときはだいたい出入り口が閉まっている。開けるとすっと下がる。

    内部には診察ブースを2診、個別の待合スペースを衝立で仕切って7ブースほど(臨時に増やすこともある)、処置スペース。出入り口前にテント待合。たいていの小児科診療所よりは広いのではないかと思う。診察ブース脇の衝立はフィルターと換気扇内蔵で、診察中の子の周囲の空気を吸い上げてフィルターを通して天井方向へ排気している。その排気は窓の換気扇が外へ出す。

    診察にあたる医師や看護師はむろん全身防護衣、いわゆるfull PPEである。かつての喫茶室スタッフ出入り口から入り、休止中のパン焼き窯のわきで防護衣他を装着する。手袋は患児ごとに換える。

    2年間診てきても(とはいえ実際に小児の陽性者が増えたのは2022年に入ってからだが)、小児では症状所見からCOVID-19とそれ以外の感染症の患者を臨床的に見分けるには至っていない。強いて言えば病歴で、周囲にCOVID-19患者が存在すれば患児自身も陽性となる可能性が高いように思うが、それとて「周囲に風邪は流行っているが誰も検査されておらずコロナとも言われていない」子には応用しようのない問診事項である。どうしようもないので発熱はもちろん、咳嗽や鼻汁、嘔気下痢など、感染症の症状ある受診者はすべて発熱外来に案内している。明らかに周囲に陽性者のいる患児は自家用車中など別途で待ってもらう。

    PCRは院内に2台保有しているが、小規模なので受診者全員分はできない。受診受付の早い子から院内PCRを行い、院内分がまんたんになったら検体を保健所へ送る。院内でやれば午後には結果が出るので電話連絡する。保健所に送ればだいたい翌日判明で、保健所が結果連絡までやってくれるが、この場合も我々から発生届を提出しなければならないのはいささか「お役所仕事」だなとは思う。むこうも忙しいのだろうしその方が手間が良いのならこちらで代行することも悪くないと思って協力している。

    抗原定量検査「ルミパルス」という機器も院内にはあって、これを使えば小一時間(検査時間は正味30分)で結果が出るのだが、感度80%では5人に1人を見落とすことになるし、低い測定値での陽性のときにPCRで再検すると陰性という、いわゆる偽陽性例も散見されるので、小児科の診療部長である私の一存で小児は原則RT-PCRとさせている。ID-NOWという正味13分の機器もあるが、これも感度はルミパルスを超えないらしい。

    小児科で専用の発熱外来施設を持っている病院の話は当院以外には聞かない。わりと贅沢なコロナ診療をさせてもらっていると思う。しかし一番贅沢になったのは非感染症の患児の診療であろう。従来の小児科受診者の大多数を占める感染症症状の患者がそっくり発熱外来に異動したかたちになったので、便秘や夜尿、長く続くなんとはなしの体調不良、起立性調節障害、不登校、このような子らの話を平日午前中の外来で時間をかけて聞けるようになった。コロナ禍の意外な余禄であった。

    コロナ禍が「終わった」としてもこの感染症と非感染症を分ける外来運営は続けていきたいという希望がある。コロナによって当院の小児科外来がいちだん向上した感がある。またぞろ発熱や咳嗽で不機嫌な児でごった返す外来に戻り、何となく行動に違和感のある児と他にもなにか言いたそうなその親御さんを早々に退出して貰わないと診療が「回らない」という日々は、過去のものと思い返せばいかにも片手落ちで、あれに戻るのは気が進まない。

  • 遠い台湾

    https://www.keio-up.co.jp/kup/gift/bousei.html

    昨年10月、ふと思い立って、パスポートを取得した。

    不惑をすぎたこの年齢まで、私は海外旅行をしたことがない。学生時代までは貧しくて、海外旅行など贅沢だと諦めていた。医者になって多少は稼ぐようになったが、新生児学では博士論文は書けまいと大学院にも行かず、海外留学にも縁がなかった。

    なにより時間がなかった。医者になって3年目以降、私は常に「最後の一人」であった。ラストワン・スタンバイ。当直や自宅待機番の、埋まらない最後のひとこまを埋める人。次月の当直表が確定する月末まで、個人的な事情は宙に浮かせておかねばならない立場に、私は常にあった。

    それが何を思い立ってパスポートを取得しようとしたのか、今となっては思い出せない。ティモシー・スナイダー著の「暴政―20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン」を読んで、一人前の市民たるものパスポートくらいは持っておくものだという教訓に感化されたような記憶はある。しかしそればかりではない。鬱鬱とした当直の夜、アマゾン他の通販で散財することはあった。そのときのような、これが手に入れば今度こそ現状が何か変わるかもしれないという、漠然とした期待によることだったようにも思う。

    むろん実際には、これまで買った積ん読本やがらくたと同様、パスポート1冊が劇的な変化をおこしようもなく、たんに物がひとつ増えただけの日常が始まるのみではあった。それはそうなので、入手したパスポートを手にそのまま京都駅から「はるか」に乗って関空へ行ってしまったらそれは即ち身の破滅だ。

    しかしパスポートを具体的な物体として手にしてみると、国外の領域がにわかに、現実の存在となったようには感じられた。それ以前は、自分の周囲の世界は遠ざかるにつれて霧の中に霞んでいって、ついに国境のあたりでかき消えていたようなものだった。パスポートを手にすることで、 霞が消えて国境が明瞭な線となり、そのむこうの世界が実体となった。物語の世界ではなく、現実に行ってみることのできる世界。となってみると、行ってみたさが募ってきた。

    せめて2泊なり3泊なりだけでも、時間がとれないものか。週末の当直や自宅待機番を外し、金曜午後の予約も入れず、月曜の業務も外して。予定表をにらんでみた。11月も12月も多数の予約が入っていた。1月はどうせインフルエンザの流行が来るから休めまい。強引に休みを入れるにしても2月だと思った。

    そこで2月に4日間、この日は何が何でもオフを取るぞと決意して予定表に書きこんだ。どこへ行こうと考えて、初心者向けで暖かいところにしようと思った。なら台北だ。ソウルやプサンもよかろうが(特にプサンなんて長崎の実家からは京都よりも近いんじゃないか?)、2月じゃ寒かろう。大韓民国との友好を軽んじるつもりはないが、ここは南方だ。とすれば手頃なのは台湾だ。

    そこでexpediaを使って、台北への航空便とホテルの予約をとった。まず既製事実をつくって自分を追いこむのだ。そうしたのは昨年のうち。武漢ですらまだ平穏なころだった。年が明けて新型コロナウイルスが猖獗を極めるなど思いもよらなかった。1月になってもまだ私は、今年は例年のインフルエンザの流行が一向に来ないなと訝しみつつ、武漢から伝わる流行の過酷さについてはどこか他人事だった。これなら休暇は1月でもよかったじゃないかとも思ったほどだ。

    南方だからというだけで選んだ旅行先であるが、行くと思うと台湾が何となく気になる。図書館で「自転車泥棒」呉明益著など読む。すぐれた文学だと思う。また、人情あふれるよい土地じゃないかと思う。近所の台湾料理屋に行ってみる。中華料理といっしょくたにしていたのが、これは全く別のものだなと思う。花の香りのする米飯など、これまでは想像の埒外でさえあったが、食べてみればうまいものだった。飽きるかと思ったが案外そうでもない。 ケーブルテレビの番組で台湾のものがあれば観る。消防署員のドキュメンタリーが今も記憶に残っている。厳しい勤務をする。あいまに皆で飯を喰い、休暇には故郷に帰る。なにかこう、だんだん台湾が世界の中でも特別に縁のある土地であるかに思えてきていた。

    2月の旅行をあきらめたのがいつ頃だったか、今はもう思い出せない。2月の当直や業務配分を組む段になって、なんで過去の俺は休暇が可能だなんて思ったのだろうと頭をかかえたのは覚えている。結局、人が増えたわけではないし、自分がラストワン・スタンバイであることにかわりはない。結局、休暇など自分には無理だったということだろうと、自嘲半分に予約をキャンセルした。expediaの人が交渉してくれて、ホテル代は返金してもらえた。Peachの航空券代は無理だったが、その後の航空業界の苦境を思うと、わずかでもカンパになったと納得している。

    それからすっかり旅行は無理になった。病院は職員に対する生活規制をどんどん強め、国内旅行さえ不可能になった。俺は勤め先の小児科外来を一般と発熱に分け、着慣れぬPPEを着て診療している。会食もできないと出不精に拍車がかかる。近所の台湾料理屋は早々に店を畳んでしまった。ずいぶん早い時期で、ひょっとしたら、日本の対応の拙さを早々に見切って、台湾に帰られたのかもしれないなと思った。

    台湾の今回の流行対策は鮮やかな手腕であった。各論のひとつひとつが輝いて見えた。憧れはいや増すものの、観光に行ける状況ではない。まずは流行が何とかならないといけない。終戦後の大不況も耐えぬかねばならない。私自身も世の中の不況に加え、おそらく極度に悪化するだろう医療不信にも耐えねばなるまい。また台北政府にとっても、すっかり米国が経済も政治も失速し、大陸中国に一極化していくであろう壮況は、とりわけ苦境となるかもわからない。しかし管見の及ぶ範囲においてさえ大陸と明らかに異なる彼の島が、大陸に飲み込まれるのを見るのはしのびない。なんとか渡航できる日が来たときの台湾は、いま同様の華麗な姿であってほしい。

    この流行に、終わりが来るのかさえまだわからない。終結への道は、はるけく遠く、台湾はさらに遠い。その日の物語が、私の人生のうちにあることを願う。

  • 文章を書かなかったことについて

    しばらく書かなかった。俺はまだ書けるのかと疑う。最近はずっとTwitterばかりだった。すっかり140字くらいの呟きになれてしまった。もっと長い文章はまだ書けるのだろうか。

    多くのブログが数年もすれば更新しなくなる。飽きたとか、生活が変化したとか、多くの人に様々な理由があるのだろうと推測する。下部構造が上部構造を規定する。生活が変化して書かなくなるのは、それは怠慢の結果とは考えない。生活とはそういうものだ。

    生活と言えば、実生活では俺は出世した。勤め先ではすっかり小児科の立役者扱いだ。今の病院があるのは小児科の稼ぎのお陰で、その小児科の稼ぎを支えているのは俺の働きのお陰で、と言わんばかりの厚遇を受けている。役職だって単なる診療科部長というにとどまらず、さらに上級の修飾語がついている。これで給料がもっと上がればさらに嬉しいのだが、何と言ってもそこは貧乏病院だ。

    むろん俺の幼児性を盾に取った煽てという一面はあるだろう。案山子の役割を負わせるのに、しっかりもので煽てても案山子にならないような人間では非効率だ。俺は煽てれば案山子になる人間だ。所詮は学校秀才だものほめられて悪い気はしない。もう少し悪い気がしたほうがよいのかもしれない。

    そのような物語を語ったほうが、語ったほうも気分が良いということもあるだろう。だいいち、どう足掻いたって小児科が儲かるわけがないし、儲からない部門にエースが存在し得るわけがない。それをあえて地域医療に貢献する小児科の物語を語り、小児科の部長をエースとして語るのは、まあ大学病院とかに対してうちのような零細な小規模病院が向こうを張るためのナラティブとしては使いやすい構造ではあろう。

    俺をエース扱いしてくれるお陰で、俺の言うことはみんな聞いてくれる。備品を買ってくれと言えばたいがい買ってくれる。金がないときは事務長が誠に申し訳ないが来年度にと丁重に謝ってくれる。こればかりの金もないのかと驚くこともあるが、しかし無いものは無いので仕方ないとは貧乏な家で育った俺は分かっているつもりだ。不平を言えば院長も聞いてくれる。言っていて俺の方が恥ずかしくなる。そりゃあ他人の言葉を何でも素直に耳に入れられるほどの聖人君子じゃあないにせよ、自分が何を言っているかくらいは耳に入る。耳に入りゃあその幼児性は自分で分かる。むかし俺の母は俺の言うことは何でも聞いてくれた。全てをかなえるほど愚かな母ではないにせよ、とりあえず聞くぶんには何でも聞いてくれた。あれは偉い母だと思うが、であればこそ自分が愚かな我が儘を言ったことは自分で分かったし恥じたものだ。齢は不惑を過ぎて知命と言われる頃合いでなお昔の母に我が儘を言ったときのような感覚が蘇るのは、あのころよりもさらに恥ずかしい気分がする。

    聞いて貰えるあてがなければこそ、世間に向かってブログやなんかで愚痴を放流したりしておったわけだが、聞いて貰えるとなればかえって迂闊に愚痴も言えない。聞き流して貰えない愚痴は、真に受けられるとかえって危ないこともある。じつは数回、こりゃあ誇張した愚痴がどっかで読まれて真に受けられたなと冷や汗をかいたことがある。そりゃあもう言説には責任を伴うものだとはいまさら言われんでも分かっている。分かっちゃいる。分かっちゃいるけどそれでも書かざるをえないことをこそ書くべきものだろうと思う。昔の(今もか?)ロシア文学者が、全ての論文の形式を封じられた挙げ句に政治的主張もすべて小説に書かざるを得なかったような、やむにやまれぬことこそが書かれるべきものなのだろう。

    俺にとってやむにやまれぬ事も、他人にとってはよしなしごとに過ぎない。それはそうしたものだ。多くの人にとってやむにやまれぬ事なら、俺以上の文才のある人が誰か書いているだろう。誰かが書いたものを読んでそれで腑に落ちるなら、俺が書き連ねることもなかろう。

    しかし書き連ねられないことは読まれることもない。具体的に読まれないことは刺さりもしない。なんとなくぼんやりした、形のない空虚があるだけだ。そんな空虚は明瞭に存在することすら感じ取れないだろう。あるべきものの形が分かっていてこそ、そこに欠損があれば欠損と認識しうる。あるべき形の分からないものに、欠損があっても欠損とわかるだろうか。

    俺にとってやむにやまれぬ事も、書かずに済ませば止んだまま終わるのかもしれない。そうして多くの大事なことを見過ごしてきたのかもしれない。ちょっとしたことを呟いてちょっとした反応を得て、実質的な解決はなにもないまま小出しにやりすごしてきてしまったのかもしれない。それはよろしくない。

  • NICUのカーテン

    昼過ぎNICUに入ってみると、カーテンレールの工事をしていた。個々の保育器とその周辺の小範囲を囲んでカーテンを引くことができるようになった。普段は空調や監視のつごうがあるから開放しておくけれど、カンガルーケアや直接授乳などを保育器周りで行いたいときのプライバシーの確保が容易になった。

    カーテンは看護師たちのかねてからの念願であった。今回の工事は彼女らが自分たちで看護部上層や経営とかけあって予算を取るところから始めたことだ。俺の手柄といえばケチをつけなかったことくらいだ。

    うちのNICUの看護師たちの積極性というか行動力というか、たいしたものだと思う。彼女らの肝が据わっていないと重症入院が受けられない攻めきれないということになるんで、看護師の勇敢さというのはNICUの宝だ。このカーテンは直接に赤ちゃんの命を救うというものではないが、たぶんこのカーテンをつけたことでうちの看護師たちはいちまい勇敢になったと思う。

    神殿つうもんは人の心の中に作るもんやで、とかのナザレの大工も言ってなかったか。

  • 京都府立こども病院の不在について

    「京都府立こども病院」が存在しないことについて、ときおり考える。

    旧帝大医学部があるほどの土地で、小児専門病院が存在しないのは京都だけである。東京には国立成育医療センターや都立小児総合医療センターがあり、大阪には府立母子があり。べつに旧帝大医学部がなくとも兵庫県立こども病院や滋賀県立小児保健医療センターという病院も近県には存在する。友達の玩具をうらやましがる子供のような言い分だが、京都にはそのような病院がない。

    京都では両大学とも病院の小児科病棟を拡充する方針である。しかしそれでこども病院の代替となるかというと疑問である。大学はあくまで教育機関であり研究機関である。小児内科各分野あるいは外科系各科小児部門、児童精神科あるは小児歯科障害児者歯科とまんべんなく小児臨床の各領域を揃えるというものではない。むしろ何らか最先端の医療をやろうと思えば、いま流行の「選択と集中」が求められてしかるべき組織であろう。行政と連携して小児保健衛生あるいは虐待対策などの一翼を担うという性質の組織でもない。法学部や教育学部が関与するなら別次元の実践もできるかもしれんが、現状では絵に描いた餅というにもその絵すらない。病棟看護だって完全看護にはほど遠かろう。

    かつて新生児専門医の資格をとるための研修で大学NICUにしばらく通ったのだが、そのさいに2件、新生児患者を他県へ搬送した。1人は兵庫県立こども病院へ、もう1人は埼玉県立小児医療センターへだったが、両病院とも、受入を快諾してくださった管理職医師が、まさに異口同音に、「兵庫の(あるいは埼玉の)子供がお世話になりました」と仰った。新生児医療において各々著明な先生であるからお互い面識はあられるのだろうが、本件まさか申し合わせておられた訳ではなかろう。職責に関する認識が各々にその高い水準に至られたということだろう。先達のこの言葉に接しただけでも研修の意義があったと言うのは俺の個人的な事項としても、子供たちにとってみても、兵庫や埼玉の子供たちはこのような先生がいるというだけで幸せだろうし、この言葉を大言壮語にしないだけの充実した小児専門病院があるというのはなお幸せだろう。

    果たして「京都の子供がお世話になりました」と他県に向かって礼を言う立場の小児科医がいまの京都にいるかどうか。俺自身が言うても礼儀には適うだろうが実力が伴わない。両大学の小児科教授だってそのための職位じゃない。行政はその立場は誰だと想定しているのだろうか。想定があればとうぜん、その医師のもとに体系的な診療力をもった小児病院組織を整備する政策があるはずなのだが。

    それを考えるひまもなかったほど、歴史の浅い土地だったろうか。ここは。

  • 「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」を読む

    任文桓著「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」ちくま文庫を読んだ。出版社リンク

    著者の実家は日韓併合後没落し、併合時3歳であった著者は貧困の中で育った。16歳で単身日本に渡り、人力車夫や牛乳配達、家庭教師、岩波書店店員と様々な仕事で費用を稼ぎながら同志社中学・第六高等学校・東京帝国大学法学部と進み、高等文官試験に合格して朝鮮総督府の官吏となる。日本敗戦後は韓国で親日派の排斥あるいは朝鮮戦争といった危機を切り抜け、李承晩政権で国務大臣職を勤め、野に退いてからは実業で活躍する。タフな人生である。この人に「タフでなければ生きていけない」と言われたら黙って平伏するしかなさそうだ。

    タフさに加え強運さが尋常じゃない。著者が日本に渡って数日後に関東大震災が起こる。道中心細くなって京都の知人宅に立ち寄っていなかったら来日早々地震と朝鮮人虐殺に遭っていただろうという。素の運の強さだけでもたいがいだが、周囲の人にも異様に恵まれている。著者自身も言うように、砂漠で水をくれる人が繰り返し現れる。学費に困ってこれでは退学だと思っていたら黙って工面してくれる人、高級警察官僚宅の家庭教師や府立医大教授宅の書生仕事といった得がたい仕事を世話してくれる人、岩波茂雄のように自社に即決で雇ってくれる人。圧巻なのは朝鮮戦争時に北朝鮮軍から身を隠していた際に、自分はなくしたと言えば再発行できるからと自分の身分証明書をくれた人まである。

    それだけ魅力的な人物だったのだろう。この人のタフさの秘訣はけっして自暴自棄にならないところだ。どんな窮地にあっても諦めず生存の道を探す、しかし正道を逸れず、無駄な悪あがきはしない。誰のせいと人を恨むこともない。こういう胆力があって粘り強い人物なら、周囲もその窮地には一肌脱いでやろうという気にもなるものなのだろう。とかくこの人には投資して無駄金になりそうな気がしない。必ず生きた使い方をするという信頼がおける。

    しかしこの人自身の幸福を考えると、はたして日本帝国官吏の道を選ぶべきだったのだろうかとは疑問に思う。故国を支配する帝国の官吏となって帰国し、その地位をもって同国人の福祉のために尽くすという志であったとのことだが、植民地政府で待遇には露骨に差別を受け、挙げ句に敗戦とともに身分を失う。植民地政府の日本人同僚は他人顔して引き揚げてしまう。同国人には白眼視される。独立のためと思えば李承晩や上海亡命政府の面々のように海外で抵抗運動するほうが良かったかなと彼自身も述べる。俺の意見としては彼は東京帝大を出たあと日本の朝鮮のの枠にとどまらずもっと自分本位に雄飛してもよかったんじゃないかと思う。岩波茂雄と会食して蒸気の志を述べた際に、君は思ったよりつまらない奴だなと叱られた逸話、岩波氏も俺と同じようなことを考えたんじゃなかろうか。

    とはいえ他の選択肢は俺ごとき貧困な想像力では思いもつかない。当時の世界情勢でどこへ行けばよかったのかもわからない。満州などまさに身の破滅だし(俺の祖父がそうだ)、欧州に渡ってては大戦で命がない。渡米してのし上がるくらいしか思いつかないが、いくら能力があってもアジア人だと差別されて不遇に終わる結末も見えてそれなら故国にいても一緒かもしれないと思う。

    著者は韓国政府での自分の仕事にかなり誇りをもって語っている。曰く李承晩らも上海亡命政府の面々も韓日併合前の古い政治意識しか持たず、日本統治下で変化の進んだ韓国社会から遊離していた。とくに行政においては日本統治下で官吏の倫理がそうとう進歩したのに、苦しい亡命生活での裏切りや持ち逃げの記憶を引きずって疑心暗鬼のまま新政府を発足させようとしていた。著者は儒教倫理に雁字搦めになって没落した実家の事情もあり、儒教に支配された旧来の朝鮮社会のありかたにかなり批判的である。朝鮮総督府の内部から見てきた占領下の故国についての現状認識と、官吏時代に鍛えられたという実務能力をもって新政府に貢献したという、一本スジの通った誇りが感じられる。そういう誇りをもって人生を振り返ることができるなら、彼の選択も悪くはなかったと思う。けっきょくこんな凄い人はどんな選択をしてもそれなりに凄く生きていくのかもしれない。俺などのケチな想像力が及ぶ範囲を超えて。

     

     

     

     

     

  • 「遠すぎた家路」を読む

    「遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち」ベン・シェファード著、忠平美幸訳、河出書房新社刊2015年(出版社リンク)を読んだ。原題はBen Shephard, THE LONG ROAD HOME: The Aftermath of the Second World War. 2010。

    第二次正解大戦後の欧州での、独ナチス政権により強制労働あるいは絶滅の目的で移動させられていた人々に関する戦後処理の話。

    フランスやベルギーなど西欧から労働力として強制的にドイツ国内へ移動させられていた人々については本国に帰る世話をすればよかった。東部戦線でドイツに投降しドイツ軍に荷担していた旧ソ連軍の面々は、情け容赦なく本国へ送還され、むろん処刑された。東プロイセンやズデーデン地方などから追放されドイツ国内で難民となっていたドイツ人たちは、まあ自業自得っつうことでとあまりケアされなかった模様。

    そういう、ある意味で単純な状況の人々ばかりではなく、ソ連に侵略され併合された旧バルト三国からの避難者とか、労働力として強制連行されているうちに本国で共産主義の傀儡政権が成立してしまって帰国する希望をなくしたポーランド人とか、ドイツの占領下でこの際にと反ソ連活動もおこなったウクライナ人とか、それにもちろん強制収容所から解放されたユダヤ人とか、そのような帰国先のない人々への対処が難題で、本書の本題となっている。

    対処といっても魔法の杖などなく、不満にかかわらず帰国するよう説得する、説得に応じない場合にはキャンプをぐるぐる移動させて居着かせないようにする、新たな受け入れ国を探す、など地道な対策がとられた。現状を維持するあいだにも食糧や衣類、居住施設などの調達が必要になる。軍政ではそういう支援はどうにも無理のようで、民政の面々が軍と渡り合って苦労している。ユダヤ人に関してはパレスチナ移住イスラエル建国という手段もとられたが、そこで生じたパレスチナ難民については本書で扱う範囲を離れているらしく語られていない。

    対処の現場では彼らは必ずしも十分な同情をもって扱われたわけではなかったとのこと。特にユダヤ人については、当時まだホロコーストの実情が周知されておらず、生存者たちは気力なく働こうとせず不平ばかり言う連中と蔑まれた由。とはいえユダヤ人はもと住んでいたところに帰国したところで、共同体は壊滅し生活基盤もすっかり略奪されつくして文字通り「帰る家もない」状態であった。蔑まれつつも彼らの行き先は確保されなければならなかった。

    新たな受け入れ国で従来の職業につけるかというと、やはり単純労働の受け入れ条件ばかりで、ポーランドで医師をしていた人がオーストラリアに肉体労働者として移住したりもしたとのこと。理不尽なのは出身国による格差で、教養ある中産階級出身者が多く大半が英語を使えるバルト三国出身者は受け入れ側も比較的歓迎するものの、低所得の階層が多かったポーランド人などは受け入れ先も乏しかった。

    イギリスという国はたいしたもので、1943年まだ戦中のうちに、このような戦後処理の難問が発生すると予測して対策を打ち始めていた。そんなもんドイツ人が悪いんで俺たちの責任じゃねえと放置しそうなものだがと思ったが、それは私のさもしい島国根性の発想なのだろう。

    しかし戦中はホロコーストもまだぼんやりした噂としてしか伝わっておらず、蓋を開けてみれば準備していた対策の規模はまったく不足だった。イギリスの国自体が戦費の負担で破産しかかっており、イギリス政府はどうにかして米国に金を出させようと四苦八苦した。戦中の経過でイギリスの発言権はまったく地に落ちており、ソ連はイギリスの言うことなど歯牙にもかけず東側諸国への帰国を執拗に迫るばかりだった。イギリスは米国政府に対し、人道的視点のみならず対ソ関係の視点で煽って支援を得ようとした。我が事のように責任をもって始末をつけようとするイギリス政府の態度はたいしたものだと思う。経済的な破局や疫病などの社会問題が本国まで波及したらたまらんという問題意識もあったようだけれど、たとえば現在の日本政府が北朝鮮破局後の混沌にどれだけ当事者意識を持って準備しとるかっつうと怪しいもんだと思うし、これはたいしたものでしょう。