穏やかな生活

Two large broken clocks with pieces flying, reflecting on water at sunset.

NICUを閉じて、宿直をしなくなってからもう半年近く経過している。早いものだと思う。時間はほっておくとどんどん過ぎ去ってしまう。過ぎ去るのを眺めているうち、そのとき何を考えていたかがすっかり記憶から抜け去ってゆく。記録だけはしておくものなのだろう。

生活は穏やかになった。定時を待ちかねるように帰宅する。赴任した当時は就業規則において何時が終業なのかも知らなかったくらいなのに。
ほとんど施設内に住んでいるのも同然の、自転車を出したり施錠したりしている暇に歩いたほうが早いような近距離通勤である。帰宅してもまだ夕方のニュースすら始まっていない。就労支援施設に通う息子もまだ帰宅していない。
夕食までもしばらく時間がある。Duolingoでイタリア語を練習する。還暦近くなった頭に、新しい言語が入るものなのかどうか試すつもりで始めたのだが、意外に入るものだなと思う。いぶかしく思うのは、まだ頭がとても若かった中学生の3年間で英語を習得したときよりも、速いペースで習得できているような気がすることだ。あのころにDuolingoがあれば、あるいはせめてこのスマホという道具があればと思う。

朝起きられるようになったのは当然として、夜に眠くなるようになったのが予想外だった。毎晩10時頃になると眠くなる。疲れているが目がさえているということがなくなった。12時までなど到底起きていられない。これは睡眠のリズムが改善したということなのか、それとも将来のための努力を諦めたということなのか、よく分からない。昔はなんだか、一日終えてなお成果が足りないような、将来のために医療でも哲学でもとにかく文書を読んでおかねばならないような、そんな気がして、夜が更けるにつれ焦燥感がドライブしていた。今も知らないことは多いが、それはそれとして寝るときは寝るようになった。

毎食後の食器洗浄を行うようにもなった。妻は洗い物が心底嫌いであるという。私は昔から水遊びが好きで、感覚統合療法みたいに食器洗いでリラックスしている。
とはいえ、種を明かせば自動食器洗浄機を修繕して小物の大半を任せている。これは優れた発明品だと思う。夫婦と息子の家族3人分の1回の食事で使う食器の、半分以上はこれで洗える。妻が食器道楽で買ってくる変な形の食器がなければ全部入るのだがとも思う。と言って、自宅での食事まで学校給食や職員食堂みたいな味気ない食器になるのは、私も御免である。
小物を全て手洗いしているとそのうち面倒になるのだが、大半を食器洗浄機が洗ってくれれば、食洗機に入らない鍋やボウルの類を洗うだけで済む。お手伝いというのは有り難いものだといまさら教訓にする。外来でも子どもたちにお手伝いをするよう言わねばと思う。
朝は忙しいものだと思い込んでいたが、3人分の食器を下洗いして食洗機に入れて5分で済む。朝から食器洗いをして出勤する生活など、宿直をやっているうちは想像もできなかった。思いつきさえしなかったのだけれど、仮に他から提案されていたとしても、仕事に対する冒瀆だとさえ当時の自分なら思ったことだろう。

昔は宿直明けも全日勤務だったのが、週休を調整して午後なりと休めるようにし、コロナ禍以降の最近のことではあるが宿直明けは全日の特別有給休暇にしていた。週5日の平日勤務のうち1日を特別有給休暇で潰し他の半日を週休で潰すと、いったい日中はいつ働いているんだろうという感もあった。最近はその特別有給休暇がなくなったぶん、昼間はみっちり働いているような気もする。常勤医も減ったので週末の日直も隔週くらいのペースで回ってくる。週2回は夜診をやるのにしばらく残業する。それを込みにしても、以前よりも穏やかな、色々な歯車がきちんと噛み合って円滑に回る生活をしている。

天正遣欧少年使節

400年ほど昔、4人の日本人少年がヨーロッパを訪れていた。天正遣欧少年使節として知られているイベントである。個人的に縁故を感じることがあるので書く。

私が中学1年のときが、ちょうど400年にあたる記念の年だった。改めて4人送ろうという企画があって、募集の年齢に該当したもので、私も田舎の中学から推薦されて応募した。長崎市の選抜会場に行って、他の市町村から来た同年齢の少年たち(昭和のことで男女を揃えるとは発想すらなく、募集段階で男性限定だった)の集団を初めて見た。たとえば長崎大学教育学部附属中学校なんてところからも来ていたが、英語の文法について彼らがしゃべっている内容を聞いていると間違いが多くて、ひょっとしてこいつらたいしたことないんじゃないかと思った記憶がある。

選考には当然のように落ちた。たしか県内から少年使節ゆかりの土地のローカル枠で3人決まっていた。大分の伊東マンショのぶんは長崎市内から出ていたと記憶している。中学生の目にも露骨な出来レースそのものに見えた。タダでヨーロッパ旅行ができるかもと期待しなくもなかったが、結果があまりに出来合いだったのでかえって残念にも思えなかった。俺が非才で落ちたわけでもなしと。

その後にふと、そういえば当家は波佐見の原家から婿養子をとったことがあるのだったと父が言った。なんだよ俺は原マルチノの血縁だったかと思った。その婿養子氏については、しばらく原の姓を名乗っていて当家の姓を名乗ってくれないので周囲が苦労したとだけ伝承されていた。何のための婿養子だよとちょっと笑えた。つまんないことにこだわると他のことが忘れられてしまうんだなと思った。でもまあそれにこだわらなければ存在自体忘れられていたのかもな。原マルチノ氏自身はマカオに追放されて没しているので、むろん直系ということはない。

それを選考の前に教えておいてくれれば面接で言ってみてよかったのにとも思ったのだが、そういう縁故を数え上げればそれこそ限りなく、御年12歳のみぎりのイエス様の舎利ともいうがごとくに、あちこちから怪しげな話が出てきて収拾がつかなくなるに決まっている。言わなかったのは父の知恵なんだろうとも思う。その上で私も父も性格に妙に頑迷なところはあり、まあ了見が狭いだけとも言うが、その婿養子氏の遺伝かもしれないとは思う。

私が通った中学のある村には、大村市から大村湾を挟んで対岸にあるのだが、主のわからない墓碑があった。わりと大きな墓碑で、そばに従者らしい小さな墓碑も伴っていて、そこそこの武将のものではないかと言われていた。対岸の大村城を睨むかのように建っているとのことで、大村氏に恨みのある人物ではないか、さては合戦でもして敗れてそこで自害したのかとか、私の子供時代には推察されていた。最近になって発掘調査があり、それが千々石ミゲルの墓碑だと判明した。

千々石ミゲルは4人のなかで唯一棄教した人である。もとは大村純忠の甥にあたる人で、4人の中では最も支配層寄りの出自だった。大村純忠公は日本初のキリシタン大名である。領民も全員改宗させてしまって、それまでの仏教施設は寺も仏塔もなにもかも破壊してしまった(だから旧大村領内には鎌倉室町以前の仏教遺跡が一切存在しない)。しかしミゲルらが欧州から帰国してみると、すでに秀吉による弾圧が始まっていた。純忠の息子である大村善前はキリスト教を棄教し、領内の仏教への回帰をかなり強制的に推進した。この人はミゲルの従兄に当たる。

ミゲルの帰国後の行動はあまりぱっとしない。司祭になるための勉強もあまりはかどらなかったらしい。従兄である善前とは交流はあったもののようで、どちらかといえば棄教を勧める方向の意見を述べたともいわれる。ミゲル自身戦災で焼け出されることがなければ小さな城の主になったはずの人だった。ヨーロッパへの往路復路で、キリスト教の教義以外のあれこれも見聞して、他の3人には乏しかったであろう統治者候補としての視点から、なにか思うところがあってのことだったのかもしれない。これはあくまで私の推測ではあるが。

しかし棄教を勧める側からも、それに抵抗する側からも、彼は好かれてはいなかったと伝わる。そりゃあそういう人はどっちからも白眼視されるのが世の常だ。ずいぶん落剥した姿で歩いていたという目撃談も伝わっている。襲撃をうけてかなりの深手を負ったという記録もある。最終的には自身棄教してミゲルの名も捨て、別の名を名乗っている。従兄である善前からは私の郷里もふくめ600石ほどの知行を与えられている。結婚もして子もなして、最後は夫婦相前後して亡くなったとのこと。

特にイエズス会に保管されている記録において、ミゲルは蛇蝎のごとくの扱いである。口を極めて罵ってあるという。仏教徒を罵るときもそれほどには口汚くないというほどの勢いで。信仰というもの自体を持たなくなった人物に見えていたらしい。何も信じていないように見える人間というのは、異教を信じている人間よりも、気味の悪い、唾棄すべき存在であったものらしい。

しかしミゲルは外形的には棄教しているとはいえ、内心はどうだったのか。外形的な棄教をすれば内心も棄教したことになるなら、ペテロだってイエスを知らんと言ったじゃないかとは思う。それも複数回も。発掘されたミゲルの墓からは、ロザリオらしきものが発見されたという。本当にロザリオだったのか、ロザリオだったとしてミゲル本人のものか同じ墓に埋葬された彼の妻のものだったのか、それは判然としない。彼の意思で棺に入れられたのか、それとも埋葬する人が彼を思って入れたのかもわからない。でもまあ棺に入れるくらいには大事にしていたと、自他の少なくともいずれかからは目されていたというのは事実なのだろう。

墓石には「妙法」とだけ刻まれていた。あと日付と。土地の寺は真宗大谷派だが、大村氏の菩提寺は日蓮宗である。であれば妙法と刻むのも道理には見える。しかしこの法はほんとうに法華経を指しているのだろうかとは思う。ひょっとして妙法と言った内心は「初めに言があった」というつもりであったとしたら。これは私が勝手に思っていることで根拠はない。しかしそのとおりであれば一種痛快ではある。

ミゲルはヨーロッパへの往還自体については、棄教後も懐かしげに語っていたと伝承されている。旅自体は、彼にとって捨て去るべき過去ではなかったのだろう。当時の帆船で喜望峰周りのヨーロッパ往復なんてたいへんな苦労は、軟弱ものの私などにはとうてい願い下げだし、その苦労が帰国後の栄達につながったわけでもなく、ミゲルには気の毒だがあまり報われたようには思えない。しかし彼の帰国後の不遇な人生において、ヨーロッパ往還は彼を支える重要な柱だったのだろう。そのような確固とした経験に支えられた、信仰にも特にこだわらなくなった人物となると、現代的な視点で語りあってみれば案外と深くて面白い自由人だったのかもしれない。そのうえでまあ、旧大村領の貧乏な資産から600石も貰っててほんとうに不満だったんですかとは聞いてみたい。私の家の禄高の10倍以上じゃないですか。それにその領地は大村城から大村湾を渡って長崎港に至る経路の重要なポイント、しかも隣国佐賀領(その配下の諫早領)との境界、欧州に言うところの辺境伯とかいう立場じゃないですか。それってけっこう厚遇されておられるのではないでしょうか、と。

昨年の2月に帰省したおり、京都へ戻る途中にその墓石に立ち寄ってみた。行ってみて、むかし中学校のバレーボール部のマラソンコースのすぐ近傍だったのに驚いた。なんだこんなところにいたのかと。明治になって敷かれた線路の盛り土に阻まれて、その墓石から大村城址は望みにくくなっていた。私は中学の頃はそのマラソンコースをたまーに走って弱小バレーボール部の補欠をしており、高校になったらその鉄道にのって隣町の高校へ通った。その後に上洛して医学部に通って、そのまま京都でキリスト教病院に職を得た。発足したばかりのNICUで働いて、帆船で喜望峰を廻って欧州往復とまでではないにしても、それなりに波瀾万丈だった。彼に縁を感じると言えば確かにすごく感じるのだが、その縁という概念自体は仏教のものである。

ここにいらっしゃったんですかと、墓石の前でしばらく手を合わせた。こういうときカトリックでは父と子と精霊の御名においてアーメンと唱えるんだったよなとか、仏教徒が南無阿弥陀仏と言うべきか南無妙法蓮華経と言うべきかと考えるみたいなことをちょっと考えた。それから京都へ戻ってしばらくしたら、自施設のNICUの閉鎖が決まった。こう述べると祟られたような経過に見えるかもしれないが、まああまり無理はしないものだよと引導を渡されたという印象はあった。入院患児数の極端な減少で収益的に行き詰まっていたのは明瞭だったなか、お陰で多少なりともじたばた悪あがきしないで済んだとは思えた。

墓石に刻まれた千々石ミゲル夫妻の没年から4年ほどして、島原の乱が始まった。島原半島は大村領の近隣である。強制的に棄教させていなければ大村領内からも参加者が多く出たのかもしれない。島原の乱は苛斂誅求を極めた悪政に対する反乱という要因も大きかったので、宗教的義心によって他国領から参加する人数がどれほどに及んだかは分からないし、島原半島のように大村領内までが無人化するに至ったとはさすがに考え難いかもしれない。しかし政治的あるいは経済的余波は史実よりも大きくはなっていただろう。それをもって上からの強制的棄教を正当化できるかはまた別の話かもしれないけれど、大村家の目線で言えば確かに良かったのだろう。下手すれば改易や転封もありえたのだから。下々の目ではどうだったろうか。殉教しないですんだのは幸せなのか。無論それは一人一人のことだ。私が言うことではない。当時の人に、一人一人のことだという発想はおそらくなかっただろうけど、もしあったとしたら、それは千々石ミゲル氏にこそありえた視点かもしれない。

病院にとって大きな経営的負担となっていた私のNICUも、大村家にとってのキリスト教のように、統治あるいは経営する視点で見ればパージするべき重荷であった。私は周産期部門のトップあるいはNICUの管理者の立場で、そのパージに加担したことになる。普通はNICU閉鎖の時点で責任を取って辞表を出すものだったのかもしれない。老父にNICU閉鎖を報告したとき、クビなのかと問われて、やっぱりそれが常識だったかなと思ったことだった。

そのパージに加担した私がいまの病院を見ている目で、晩年のミゲル氏は大村家と領国を見ていたのかもしれない。あるいはミゲル氏が周囲から見られていたのと同様の視線で、私も周囲から見られているのかもわからない。私や病院に愛想をつかした人は他へ去って行くことが可能だったのは、当時の棄教を強いられた人々がさればとて何処へも行くことも叶わなかったのと、大きく違うところではあろうけれども。その点はミゲル氏のほうが辛かったろうと思う。

こう考えるといっそう、当時千々石ミゲルが何を考えていたか知りたいと思う。信仰を貫いてマカオへ去り同地で没した原マルチノよりも、今の自分は千々石ミゲルに近い位置にある。

千々石ミゲルの家は息子の代で絶えた。彼の領地であった土地は、傾斜地ばかりで水田には不向きで、当時は雑穀ばかりだったかもしれないが、その後に温州みかんの栽培が導入され、糖度の高い甘いみかんの産地として豊かになった。福山雅治さんが「みかん色の夏休み」という歌にうたった土地の隣村である。

NICUの廃止が決まった

当院のNICUの廃止が決まった。今年9月末で終了する。関連施設へ通知のうえで、病院ウエブサイトにも公開する段階となった。ここで個人的に論じてももはや守秘義務違反ということはないだろう。

直接の原因はNICU入院数の低下と、それにともなう減収であった。NICU入院数の低下はこの数年実感していた。昔は空床を捻出するのに苦労していたものだったが、いつしか満床のほうが珍しくなった。NICU認可病床を9床から6床に減らしてもなお埋まらなかった。在院する赤ちゃんが1~2名だけで、勤務する看護師のほうが多いということも珍しくなくなっていた。

入院数が低下すれば診療報酬も減るのは無論のことだが、加えて京都府からの補助金が減り、本年はついにゼロ回答となった。入院数の減少で、地域医療にたいする貢献が少なくなったと見なされたのだろう。もう不要と公的に宣告されたような気がして、懐具合に痛い以上に、精神的に痛かった。

しかし私情を排すれば、行政の宣告も理不尽とは言えないと、私も理解している。

背景には少子化の急激な進行がある。京都府下では2016年を境に、出生数の減少のしかたが急激になった。2016年の京都市の出生数は11323人。2024年は7346人であった。複利で計算すれば年平均6.47%の減少率となる。2006年の出生数は11993人なので、同年から2016年まで10年間の減少率は年平均0.57%であった。この点については、過去にもグラフつきで記事を書いたのでご参照いただきたい。

「市場」と言えば医療にこの言葉を使うのは不適切な気もするがご勘弁願いたい。市場全体の規模が過去8年間、年率6.47%で縮小を続けている。それ以前の減少率0.57%からある年を境に突然10倍以上の減少率となった。最近の減少率の値自体も、変化の急激さも、経済の目で見れば血相の変わるような非常事態なのではないだろうか。

地域の出生数が減少すれば、NICU入院を必要とする赤ちゃんの数も必然的に減少する。行政が政策的に整備しようとするNICU病床数の目標も減少する。国の政策として地域のNICU病床数の整備目標が、出生1000当たり3床と定められている。2024年の京都市内の出生数を1000分の3すれば22床である。病床数だけで論じるなら、当地の総合周産期母子医療センター三施設のうち二つもあれば充足可能である。

実際、府下の周産期母子医療センター各施設の空床情報をみていても、連日ほぼ全ての施設で空床有りの表示となっている。もはや新生児救急症例の入院先が府下に一つも得られない夜は過去のものとなった。府の周産期医療政策担当者もまた当然にこの計算をして、この認識に至っていることだろう。その結果が、当院への本年度の補助金ゼロ回答なのだろう。経営難の地域周産期母子医療センターを、救済することに政策的な根拠は見いだせない、ということだろう。

当院NICUは京都府下ではじめての認可施設として、府の周産期死亡率が全国最悪の水準であったころに発足したNICUであった。行く場のない赤ちゃんたちを見るに見かねて始まったNICUであるからには、もうそのような赤ちゃんはいなくなったというのは、活動を終了するのに唯一の正当な理由ではあろう。他の理由で活動終了するのなら悔しさもあろうが、歴史的使命を終えての退場ということなら、じたばたせず粛々と退くのがよかろうと思う。

思ってはいるのだが。

じたばたせず粛々と、とは言え、やはり医師6年目で当院に赴任して以来勤務を続けてきたNICUである。廃止にさいして、喪失感というものもあるはずである。

はずであると他人事のように述べるのは、今のところそれを実感として感じないからである。医師になって32年のうちの27年間を費やしたNICUを、しかも定年まであと10年を割っているこの時期に閉じることになったのに、その喪失を実感しないというのは異常なことだ。我が事ながらかなり危険な状態なのではないかと危惧している。

しかしいずれNICU廃止の過程が具体化するなかで、その喪失感も否応なしにおそってくるのだろう。適切な身構えがない状態でそれが実際におそってきたら、人生の終わり近くになって再起困難な衝撃をうけることになるのではないか。ここはまだ頭が平静なうちに、NICUを失うということについて真剣に考えておいたほうがよいと思う。第一には自分のためであるが、人生の終わりで大きな喪失に遭遇するのは何も私ひとりに限った経験ではあるまい。書き記しておけばいかほどか、誰かのためになれるかもしれない。陰鬱な内容かもしれないが、しばらくこのブログで、読者諸賢にはお付き合いいただきたいと思う。

2016年に加速した、京都市の出生数の急激な減少について

先日、京都市の2023年の出生数が発表された。前年10月始まりの9月〆で統計をとるので、この時期に発表になる。2023年(令和5年)の出生数は8109人。前年2022年の8591人から482人の減。率でいえば約5.6%の減少である。

1990年以降の推移をグラフにすると以下のようになる。2016年から急に状況が変わったように見える。それまでも緩やかな減少傾向にはあったが、以降急落している。年率5%ほどの直線的な低下である。ちなみにコロナ禍の影響があれば2020年前後にもうひとつ変化があるはずだが、それはあまり明らかとは言えない。

2016年ころ何があってのこの変化なのだろうか。出生数が急激に変化するようなできごとが、この年になにかあったかというとあまり記憶にない。リオデジャネイロでオリンピックがあったりした年。アベノミクスがはじまって3年目。決め手に欠ける。

京都市の15歳から45歳までの女性の人口の推移をグラフにしてみると以下の通り。

出生数ほど明瞭ではないけれど、やはり2016年頃から減っているように思う。子どもを産む年齢層の女性の減少。これは少子化を加速する要因になり得ると、2016年以前から言われていたようには記憶する。自然動態だけなら人口の年齢構成はかなり正確に予測できるものなので、将来こうなることは確定した事実ですと2010年以前のいつかの新生児学会で講演を聞いたように覚えている。

2016年生まれといえば今は小学校に入るころの年齢であるが、当地の今後の小学校では、学年がひとつ下がるごとに人数が5%ずつ減ることになる。小学生関係の「市場」の規模は今後毎年5%のスピードで縮小する。5年すれば中学生相手の市場がそのペースの縮小を開始する。10年後には大学生の市場だ(しかし大学生にはさすがに京都では社会的流入を当てにできるかもしれないが)。15年後には就労する若い人の人数が、年率5%で縮小し始める。これは今年生まれた人がこの人数であった時点で確定したことだ。人口の流入による社会的増減に期待するにも、出生数に関して国内はどこも似たり寄ったりだろうし、京都は大学生世代は多少ましかもしれないが卒業すれば出て行く人ばかりで、それ以外の年齢層にとっては小児も成人も流入が流出を上回るほど魅力的な土地とも思えない。

各論的なことではあるが、大学生の年代で社会的な流入があることは、大学の定員が変わらない前提でだが、上記の年代の女性人口の減少が出生数に較べて鈍く見えることの一つの要因かも知れない。18歳から20台前半の女性で、京都の大学を選んで当地へ移住してこられた方々は、妊娠出産は念頭に置いてはおられないだろう。そして卒業すれば大阪なり東京なり出て行かれるおつもりの方が多かろう。

各方面への影響が今後顕在化していくと予想する。

Panasonic ハリヤのフロントキャリアにリクセン&カウルのフロントバッグをつける

できあがりはこんな感じになる。

Panasonicの電動アシスト自転車ハリヤを買ったら、標準でフロントキャリアがついていた。しかしどうやって使ったものかさっぱりわからない。そのフロントキャリアに装着できる荷物入れといったら前カゴしか見つからない。しかしマウンテンバイクの格好をした自転車に前カゴってありなのかなと、なんとなく無粋なような気がしていた。

ハンドルバーにマウントするフロントバッグなんか付けてはみたけれど、フロントキャリアがあるのに別途マウントするのもなんだか悔しい気分がした。それにこの製品はマウント用の器具がシフトケーブルと干渉して、変則の調子が悪くなっていた。

そこで、ハリヤ標準のフロントキャリアにリクセン&カウルのアタッチメントが取りつけられないか工夫してみた。って素人の不細工な浅知恵なんだけど、検索しても同様の試みに行き当たらなかったものだから、同好の士の参考になればと思って書き記しておく。他にももうちょっとマシな方法はあるはずなのだが、あったとしても最善な方法を示さなかったとして私を糾弾するのは勘弁してほしい。

さて。前置きが長いのは動画編集にしてもブログ記事にしてもそれ自体が素人の証拠だ。本題に入ろう。

今回つかったリクセンカウルのアタッチメントはキャディーKR851である。横に並んだ2個のネジ穴に止めるには同社ラインナップのなかでもこれしかなかろう。

キャディーKR851の二つのネジの間隔が、このキャリアの穴の間隔にぴたっと合えば万々歳なのだけれども、残念ながらこのキャリアのがわが数ミリメートルがところ広い。この穴の内側を削らなければならない。先日買った電気ドリルを持ち出してきて、この内側を削る。電気ドリルをそういう目的に使うことが正当なのかどうか、工業高校や工学部でどう教えているのかは知らないが、医学部では生命倫理的に問題さえなければ使えるものは何でも使う。

不調法な細工ではあるが、だいたい長円形のもとの穴が上の写真のように正円形に近くなるくらいに削れば足りると思う。工学部の人ならノギスで計るんだろうけど、素人なので取りつけたい部品を裏から当てて、こんなもんかなと目見当でやっつけてしまった。

ここで素人じゃない専門家としてのコメントですが、削るときには鉄くずが飛ぶので保護めがねをかけること。鉄粉が眼球に入ったら視力にたいへん悪い。いちおう俺は医者なのでこれは言っておかねばならん。

あとはキャディーKR851を装着するのみ。私のように面倒くさがってフロントキャリアを取り外さず作業するときは、ケーブルやヘッドチューブが作業の邪魔なので、ヘッドチューブの後方から届くほどに長いドライバーがあると便利だろう。俺はもってなかったので苦労した。

できあがりはこんな風になる。

ここへリクセンカウルのバッグをカチャッとはめ込んだら冒頭の写真になる。フロントバッグが妙に古びているのは使い古しているからである。このバッグは勤務先のNICUで新生児搬送に行くのに使っていた。新生児搬送用保育器のフレームがちょうど自転車のハンドルバーと同じくらいの太さなので、リクセンのハンドルバー用のアタッチメントを付けて、蘇生用具を満載したフロントバッグを装着している。

写真の向かって左手にあるのが現役のもの。搬送用保育器を押していくのが間に合わないほどの、一分一秒を争う事態でも、このフロントバッグと右手下方の工具箱とを両手に提げて走れば、とりあえず心肺蘇生は開始できる。取り付けの頑丈さと取り外しの迅速さが両方必要なのだが、リクセン&カウルの製品が最善ではないかと思う。

必要十分の荷物をいかにコンパクトにまとめるかという点で、新生児搬送と自転車には共通したものがある。当直続きでサイクリングに行けない鬱憤を仕事で晴らしとるのやろと言われると否定はできない。

ポケットマネーで買っていた(試行とはいえ公私混同だよなそれ)先代のフロントバッグが置いてあったので、これを機会に引き取った。Amazonの購入履歴を参照したら、2011年の9月に買ったリクセン&カウルのオールラウンダーフロントバッグKT812である。10年ほども使ったのにほころびているのはバックルベルトだけで、バッグ自体の強度もたいしたものである。このベルトがほころびたのもアンビューバッグやなんか大量の荷物を無理矢理詰め込みすぎたからなので、弱点がそこにあるというわけではない。と言って出先でちぎれて中身をばらまくのも始末が悪いので、より大きい新製品に買い換えたものである。

何人もの赤ちゃんの救命に役立ってきたフロントバッグを付けて走っていたら、事故に遭う確率もなんぼか減るのではないかしらと思う。あるいは悪運を使い果たしているかもしれん。よくわからん。現役のは予算請求して買ったんで間違って持って帰らないようにしないと(まあそれくらい自分で決裁できる程度の権限はあるんでやっぱり自分の趣味を通してるんですけどね)。

キャリア下方や後方のクリアランスはこんなふう。

小児科発熱外来

当院では2020年の新型コロナウイルス流行当初の5月より、病院の喫茶室を改装して小児発熱外来を成人発熱外来とは別に設置した。当初は検査対象者もとくに方針を定めていなかったが、同年11月からは初診患者全員にPCRを行うこととした。設置後2年が経過した。早いものだと思う。

喫茶室は病院1階にあり、病院前のロータリーに張り出すかたちの設計になっていた。診察後にコーヒーでも飲みながらロータリーを見ていて、迎えの自家用車なりタクシーなりが回ってきたら出るという発想での行動に便利な設計である。感染防止のため会食制限となっては、病院の喫茶室は真っ先に営業を中止するべきと考えられた。ガラスのはめ込みであった外壁を引き戸に改装して外からの出入り口とし、病院外来ロビーからの入り口をふさぐことで、発熱外来への改装はわりと簡単だった。費用に補助金をいただいたこともあり。内部は最適なレイアウトが判明するまでと思って、人の目線ほどまでの高さの衝立でおおまかに仕切っていたが、換気が大事とわかってきてみると今さら衝立を廃して仕切り壁を設置する気もしなくなった。

外に面した窓に換気扇を3個設置し、診察室の卓上では二酸化炭素濃度を常時モニターしている。おおむね400ppm台である。空気の取り入れ口は出入り口からとなるので、常にすこし開けさせている。出入り口付近に立つと風が吹いているのがわかる。二酸化炭素濃度が600ppmを超えたときはだいたい出入り口が閉まっている。開けるとすっと下がる。

内部には診察ブースを2診、個別の待合スペースを衝立で仕切って7ブースほど(臨時に増やすこともある)、処置スペース。出入り口前にテント待合。たいていの小児科診療所よりは広いのではないかと思う。診察ブース脇の衝立はフィルターと換気扇内蔵で、診察中の子の周囲の空気を吸い上げてフィルターを通して天井方向へ排気している。その排気は窓の換気扇が外へ出す。

診察にあたる医師や看護師はむろん全身防護衣、いわゆるfull PPEである。かつての喫茶室スタッフ出入り口から入り、休止中のパン焼き窯のわきで防護衣他を装着する。手袋は患児ごとに換える。

2年間診てきても(とはいえ実際に小児の陽性者が増えたのは2022年に入ってからだが)、小児では症状所見からCOVID-19とそれ以外の感染症の患者を臨床的に見分けるには至っていない。強いて言えば病歴で、周囲にCOVID-19患者が存在すれば患児自身も陽性となる可能性が高いように思うが、それとて「周囲に風邪は流行っているが誰も検査されておらずコロナとも言われていない」子には応用しようのない問診事項である。どうしようもないので発熱はもちろん、咳嗽や鼻汁、嘔気下痢など、感染症の症状ある受診者はすべて発熱外来に案内している。明らかに周囲に陽性者のいる患児は自家用車中など別途で待ってもらう。

PCRは院内に2台保有しているが、小規模なので受診者全員分はできない。受診受付の早い子から院内PCRを行い、院内分がまんたんになったら検体を保健所へ送る。院内でやれば午後には結果が出るので電話連絡する。保健所に送ればだいたい翌日判明で、保健所が結果連絡までやってくれるが、この場合も我々から発生届を提出しなければならないのはいささか「お役所仕事」だなとは思う。むこうも忙しいのだろうしその方が手間が良いのならこちらで代行することも悪くないと思って協力している。

抗原定量検査「ルミパルス」という機器も院内にはあって、これを使えば小一時間(検査時間は正味30分)で結果が出るのだが、感度80%では5人に1人を見落とすことになるし、低い測定値での陽性のときにPCRで再検すると陰性という、いわゆる偽陽性例も散見されるので、小児科の診療部長である私の一存で小児は原則RT-PCRとさせている。ID-NOWという正味13分の機器もあるが、これも感度はルミパルスを超えないらしい。

小児科で専用の発熱外来施設を持っている病院の話は当院以外には聞かない。わりと贅沢なコロナ診療をさせてもらっていると思う。しかし一番贅沢になったのは非感染症の患児の診療であろう。従来の小児科受診者の大多数を占める感染症症状の患者がそっくり発熱外来に異動したかたちになったので、便秘や夜尿、長く続くなんとはなしの体調不良、起立性調節障害、不登校、このような子らの話を平日午前中の外来で時間をかけて聞けるようになった。コロナ禍の意外な余禄であった。

コロナ禍が「終わった」としてもこの感染症と非感染症を分ける外来運営は続けていきたいという希望がある。コロナによって当院の小児科外来がいちだん向上した感がある。またぞろ発熱や咳嗽で不機嫌な児でごった返す外来に戻り、何となく行動に違和感のある児と他にもなにか言いたそうなその親御さんを早々に退出して貰わないと診療が「回らない」という日々は、過去のものと思い返せばいかにも片手落ちで、あれに戻るのは気が進まない。

遠い台湾

https://www.keio-up.co.jp/kup/gift/bousei.html

昨年10月、ふと思い立って、パスポートを取得した。

不惑をすぎたこの年齢まで、私は海外旅行をしたことがない。学生時代までは貧しくて、海外旅行など贅沢だと諦めていた。医者になって多少は稼ぐようになったが、新生児学では博士論文は書けまいと大学院にも行かず、海外留学にも縁がなかった。

なにより時間がなかった。医者になって3年目以降、私は常に「最後の一人」であった。ラストワン・スタンバイ。当直や自宅待機番の、埋まらない最後のひとこまを埋める人。次月の当直表が確定する月末まで、個人的な事情は宙に浮かせておかねばならない立場に、私は常にあった。

それが何を思い立ってパスポートを取得しようとしたのか、今となっては思い出せない。ティモシー・スナイダー著の「暴政―20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン」を読んで、一人前の市民たるものパスポートくらいは持っておくものだという教訓に感化されたような記憶はある。しかしそればかりではない。鬱鬱とした当直の夜、アマゾン他の通販で散財することはあった。そのときのような、これが手に入れば今度こそ現状が何か変わるかもしれないという、漠然とした期待によることだったようにも思う。

むろん実際には、これまで買った積ん読本やがらくたと同様、パスポート1冊が劇的な変化をおこしようもなく、たんに物がひとつ増えただけの日常が始まるのみではあった。それはそうなので、入手したパスポートを手にそのまま京都駅から「はるか」に乗って関空へ行ってしまったらそれは即ち身の破滅だ。

しかしパスポートを具体的な物体として手にしてみると、国外の領域がにわかに、現実の存在となったようには感じられた。それ以前は、自分の周囲の世界は遠ざかるにつれて霧の中に霞んでいって、ついに国境のあたりでかき消えていたようなものだった。パスポートを手にすることで、 霞が消えて国境が明瞭な線となり、そのむこうの世界が実体となった。物語の世界ではなく、現実に行ってみることのできる世界。となってみると、行ってみたさが募ってきた。

せめて2泊なり3泊なりだけでも、時間がとれないものか。週末の当直や自宅待機番を外し、金曜午後の予約も入れず、月曜の業務も外して。予定表をにらんでみた。11月も12月も多数の予約が入っていた。1月はどうせインフルエンザの流行が来るから休めまい。強引に休みを入れるにしても2月だと思った。

そこで2月に4日間、この日は何が何でもオフを取るぞと決意して予定表に書きこんだ。どこへ行こうと考えて、初心者向けで暖かいところにしようと思った。なら台北だ。ソウルやプサンもよかろうが(特にプサンなんて長崎の実家からは京都よりも近いんじゃないか?)、2月じゃ寒かろう。大韓民国との友好を軽んじるつもりはないが、ここは南方だ。とすれば手頃なのは台湾だ。

そこでexpediaを使って、台北への航空便とホテルの予約をとった。まず既製事実をつくって自分を追いこむのだ。そうしたのは昨年のうち。武漢ですらまだ平穏なころだった。年が明けて新型コロナウイルスが猖獗を極めるなど思いもよらなかった。1月になってもまだ私は、今年は例年のインフルエンザの流行が一向に来ないなと訝しみつつ、武漢から伝わる流行の過酷さについてはどこか他人事だった。これなら休暇は1月でもよかったじゃないかとも思ったほどだ。

南方だからというだけで選んだ旅行先であるが、行くと思うと台湾が何となく気になる。図書館で「自転車泥棒」呉明益著など読む。すぐれた文学だと思う。また、人情あふれるよい土地じゃないかと思う。近所の台湾料理屋に行ってみる。中華料理といっしょくたにしていたのが、これは全く別のものだなと思う。花の香りのする米飯など、これまでは想像の埒外でさえあったが、食べてみればうまいものだった。飽きるかと思ったが案外そうでもない。 ケーブルテレビの番組で台湾のものがあれば観る。消防署員のドキュメンタリーが今も記憶に残っている。厳しい勤務をする。あいまに皆で飯を喰い、休暇には故郷に帰る。なにかこう、だんだん台湾が世界の中でも特別に縁のある土地であるかに思えてきていた。

2月の旅行をあきらめたのがいつ頃だったか、今はもう思い出せない。2月の当直や業務配分を組む段になって、なんで過去の俺は休暇が可能だなんて思ったのだろうと頭をかかえたのは覚えている。結局、人が増えたわけではないし、自分がラストワン・スタンバイであることにかわりはない。結局、休暇など自分には無理だったということだろうと、自嘲半分に予約をキャンセルした。expediaの人が交渉してくれて、ホテル代は返金してもらえた。Peachの航空券代は無理だったが、その後の航空業界の苦境を思うと、わずかでもカンパになったと納得している。

それからすっかり旅行は無理になった。病院は職員に対する生活規制をどんどん強め、国内旅行さえ不可能になった。俺は勤め先の小児科外来を一般と発熱に分け、着慣れぬPPEを着て診療している。会食もできないと出不精に拍車がかかる。近所の台湾料理屋は早々に店を畳んでしまった。ずいぶん早い時期で、ひょっとしたら、日本の対応の拙さを早々に見切って、台湾に帰られたのかもしれないなと思った。

台湾の今回の流行対策は鮮やかな手腕であった。各論のひとつひとつが輝いて見えた。憧れはいや増すものの、観光に行ける状況ではない。まずは流行が何とかならないといけない。終戦後の大不況も耐えぬかねばならない。私自身も世の中の不況に加え、おそらく極度に悪化するだろう医療不信にも耐えねばなるまい。また台北政府にとっても、すっかり米国が経済も政治も失速し、大陸中国に一極化していくであろう壮況は、とりわけ苦境となるかもわからない。しかし管見の及ぶ範囲においてさえ大陸と明らかに異なる彼の島が、大陸に飲み込まれるのを見るのはしのびない。なんとか渡航できる日が来たときの台湾は、いま同様の華麗な姿であってほしい。

この流行に、終わりが来るのかさえまだわからない。終結への道は、はるけく遠く、台湾はさらに遠い。その日の物語が、私の人生のうちにあることを願う。

文章を書かなかったことについて

しばらく書かなかった。俺はまだ書けるのかと疑う。最近はずっとTwitterばかりだった。すっかり140字くらいの呟きになれてしまった。もっと長い文章はまだ書けるのだろうか。

多くのブログが数年もすれば更新しなくなる。飽きたとか、生活が変化したとか、多くの人に様々な理由があるのだろうと推測する。下部構造が上部構造を規定する。生活が変化して書かなくなるのは、それは怠慢の結果とは考えない。生活とはそういうものだ。

生活と言えば、実生活では俺は出世した。勤め先ではすっかり小児科の立役者扱いだ。今の病院があるのは小児科の稼ぎのお陰で、その小児科の稼ぎを支えているのは俺の働きのお陰で、と言わんばかりの厚遇を受けている。役職だって単なる診療科部長というにとどまらず、さらに上級の修飾語がついている。これで給料がもっと上がればさらに嬉しいのだが、何と言ってもそこは貧乏病院だ。

むろん俺の幼児性を盾に取った煽てという一面はあるだろう。案山子の役割を負わせるのに、しっかりもので煽てても案山子にならないような人間では非効率だ。俺は煽てれば案山子になる人間だ。所詮は学校秀才だものほめられて悪い気はしない。もう少し悪い気がしたほうがよいのかもしれない。

そのような物語を語ったほうが、語ったほうも気分が良いということもあるだろう。だいいち、どう足掻いたって小児科が儲かるわけがないし、儲からない部門にエースが存在し得るわけがない。それをあえて地域医療に貢献する小児科の物語を語り、小児科の部長をエースとして語るのは、まあ大学病院とかに対してうちのような零細な小規模病院が向こうを張るためのナラティブとしては使いやすい構造ではあろう。

俺をエース扱いしてくれるお陰で、俺の言うことはみんな聞いてくれる。備品を買ってくれと言えばたいがい買ってくれる。金がないときは事務長が誠に申し訳ないが来年度にと丁重に謝ってくれる。こればかりの金もないのかと驚くこともあるが、しかし無いものは無いので仕方ないとは貧乏な家で育った俺は分かっているつもりだ。不平を言えば院長も聞いてくれる。言っていて俺の方が恥ずかしくなる。そりゃあ他人の言葉を何でも素直に耳に入れられるほどの聖人君子じゃあないにせよ、自分が何を言っているかくらいは耳に入る。耳に入りゃあその幼児性は自分で分かる。むかし俺の母は俺の言うことは何でも聞いてくれた。全てをかなえるほど愚かな母ではないにせよ、とりあえず聞くぶんには何でも聞いてくれた。あれは偉い母だと思うが、であればこそ自分が愚かな我が儘を言ったことは自分で分かったし恥じたものだ。齢は不惑を過ぎて知命と言われる頃合いでなお昔の母に我が儘を言ったときのような感覚が蘇るのは、あのころよりもさらに恥ずかしい気分がする。

聞いて貰えるあてがなければこそ、世間に向かってブログやなんかで愚痴を放流したりしておったわけだが、聞いて貰えるとなればかえって迂闊に愚痴も言えない。聞き流して貰えない愚痴は、真に受けられるとかえって危ないこともある。じつは数回、こりゃあ誇張した愚痴がどっかで読まれて真に受けられたなと冷や汗をかいたことがある。そりゃあもう言説には責任を伴うものだとはいまさら言われんでも分かっている。分かっちゃいる。分かっちゃいるけどそれでも書かざるをえないことをこそ書くべきものだろうと思う。昔の(今もか?)ロシア文学者が、全ての論文の形式を封じられた挙げ句に政治的主張もすべて小説に書かざるを得なかったような、やむにやまれぬことこそが書かれるべきものなのだろう。

俺にとってやむにやまれぬ事も、他人にとってはよしなしごとに過ぎない。それはそうしたものだ。多くの人にとってやむにやまれぬ事なら、俺以上の文才のある人が誰か書いているだろう。誰かが書いたものを読んでそれで腑に落ちるなら、俺が書き連ねることもなかろう。

しかし書き連ねられないことは読まれることもない。具体的に読まれないことは刺さりもしない。なんとなくぼんやりした、形のない空虚があるだけだ。そんな空虚は明瞭に存在することすら感じ取れないだろう。あるべきものの形が分かっていてこそ、そこに欠損があれば欠損と認識しうる。あるべき形の分からないものに、欠損があっても欠損とわかるだろうか。

俺にとってやむにやまれぬ事も、書かずに済ませば止んだまま終わるのかもしれない。そうして多くの大事なことを見過ごしてきたのかもしれない。ちょっとしたことを呟いてちょっとした反応を得て、実質的な解決はなにもないまま小出しにやりすごしてきてしまったのかもしれない。それはよろしくない。

NICUのカーテン

昼過ぎNICUに入ってみると、カーテンレールの工事をしていた。個々の保育器とその周辺の小範囲を囲んでカーテンを引くことができるようになった。普段は空調や監視のつごうがあるから開放しておくけれど、カンガルーケアや直接授乳などを保育器周りで行いたいときのプライバシーの確保が容易になった。

カーテンは看護師たちのかねてからの念願であった。今回の工事は彼女らが自分たちで看護部上層や経営とかけあって予算を取るところから始めたことだ。俺の手柄といえばケチをつけなかったことくらいだ。

うちのNICUの看護師たちの積極性というか行動力というか、たいしたものだと思う。彼女らの肝が据わっていないと重症入院が受けられない攻めきれないということになるんで、看護師の勇敢さというのはNICUの宝だ。このカーテンは直接に赤ちゃんの命を救うというものではないが、たぶんこのカーテンをつけたことでうちの看護師たちはいちまい勇敢になったと思う。

神殿つうもんは人の心の中に作るもんやで、とかのナザレの大工も言ってなかったか。

京都府立こども病院の不在について

「京都府立こども病院」が存在しないことについて、ときおり考える。

旧帝大医学部があるほどの土地で、小児専門病院が存在しないのは京都だけである。東京には国立成育医療センターや都立小児総合医療センターがあり、大阪には府立母子があり。べつに旧帝大医学部がなくとも兵庫県立こども病院や滋賀県立小児保健医療センターという病院も近県には存在する。友達の玩具をうらやましがる子供のような言い分だが、京都にはそのような病院がない。

京都では両大学とも病院の小児科病棟を拡充する方針である。しかしそれでこども病院の代替となるかというと疑問である。大学はあくまで教育機関であり研究機関である。小児内科各分野あるいは外科系各科小児部門、児童精神科あるは小児歯科障害児者歯科とまんべんなく小児臨床の各領域を揃えるというものではない。むしろ何らか最先端の医療をやろうと思えば、いま流行の「選択と集中」が求められてしかるべき組織であろう。行政と連携して小児保健衛生あるいは虐待対策などの一翼を担うという性質の組織でもない。法学部や教育学部が関与するなら別次元の実践もできるかもしれんが、現状では絵に描いた餅というにもその絵すらない。病棟看護だって完全看護にはほど遠かろう。

かつて新生児専門医の資格をとるための研修で大学NICUにしばらく通ったのだが、そのさいに2件、新生児患者を他県へ搬送した。1人は兵庫県立こども病院へ、もう1人は埼玉県立小児医療センターへだったが、両病院とも、受入を快諾してくださった管理職医師が、まさに異口同音に、「兵庫の(あるいは埼玉の)子供がお世話になりました」と仰った。新生児医療において各々著明な先生であるからお互い面識はあられるのだろうが、本件まさか申し合わせておられた訳ではなかろう。職責に関する認識が各々にその高い水準に至られたということだろう。先達のこの言葉に接しただけでも研修の意義があったと言うのは俺の個人的な事項としても、子供たちにとってみても、兵庫や埼玉の子供たちはこのような先生がいるというだけで幸せだろうし、この言葉を大言壮語にしないだけの充実した小児専門病院があるというのはなお幸せだろう。

果たして「京都の子供がお世話になりました」と他県に向かって礼を言う立場の小児科医がいまの京都にいるかどうか。俺自身が言うても礼儀には適うだろうが実力が伴わない。両大学の小児科教授だってそのための職位じゃない。行政はその立場は誰だと想定しているのだろうか。想定があればとうぜん、その医師のもとに体系的な診療力をもった小児病院組織を整備する政策があるはずなのだが。

それを考えるひまもなかったほど、歴史の浅い土地だったろうか。ここは。