知らないうちに静脈留置針の銘柄が変わっていた

私のあずかり知らぬところで、勤め先が採用する静脈留置針の銘柄が、テルモの「サーフローフラッシュ」からBDの「インサイト」へと変更されていた。ある日突然、それまでの銘柄のストックが底をついて、見たことのない銘柄が出てきた。いまさら駆け出し研修医でもあるまいし、針が違うから点滴がうまく行かないなんて口に出すのも沽券に関わる。平然と新しい針を使ってはいるが、さすがに、手と目を慣らすのに、少々時間がかかった。
「俺はそんなこと聞いてなかった」といういちゃもんは大嫌いで、そんなことをいう奴が居るから無用の会議がぞろぞろ増えて迷惑なんだと常々思ってるんだけれども、今回ばかりは私もそれを言いたくなった。小児科医それも新生児科の私としては、点滴がうまく行くかどうかは死活問題なんですけどね。いや私以上に、未熟児達にとって、文字通りの死活問題なんですがね。
うちは民間病院だし点滴はもっぱら看護師さんの仕事だからと、看護部で変更が決定されたんだそうだ。そのわりには、使いやすい針になったという喜びの声を看護師さんから聞くことがないんだが。たぶん、点滴などという些事から解放される程度に出世なさった偉い人が決めたことなんだろうな。看護部以外にも、サーフローフラッシュよりもインサイトのほうが納入価が安いとかいうような浅知恵の働く背広な人も絡んでるんだろうな。昨今のご時世では白衣よりも背広ばかりが強くなるのはやむを得ないが、しかし静脈留置針の変更を、背広が事務仕事に使うボールペンを変更するのと一緒にして欲しくはないんだけどな。
慣れてしまうとインサイトの材質もけっこう私好みだったりして、それはそれですこし悔しい。けっしてBD社の製品に不足がある訳じゃない。インサイトからサーフローに変更になったとしても、たぶん私はぶうぶう言うんだろう。

健康診断

夜勤とか当直とかしているから、ひんぱんに健康診断がある。職場はとうぜん病院だから自前で健康診断をする。労働衛生の管理を雇用者に従属したスタッフがやるのって、何だか、監査が独立していない決算みたいなものじゃないかと思えるんですがね。制度としてそれでいいんですかね。
制度のことはともかくも、健康診断で大丈夫だったら勤務が続けられる。だめだったらどうなるんだろうと時々考える。NICU当直ができなくなった新生児科医をうちの病院は雇っておいてくれるだろうか。たぶん雇う余裕は無いんだろうなと思う。総枠は決まってるし、そしたら当直ができない人の分まで誰かが余計に泊まることになるし。
健康診断と言われるたびに、むかし観た仮面ライダー(シリーズのどれか)の1シーンを思い出す。悪の組織の下っ端サイボーグ(アリコマンダー?とか言ったか)がメンテを受けるシーンである。サイボーグ達がずらっと並んで寝かせられていて、怪しげな老科学者の回診を待っている。足元に老科学者が廻ってくると、サイボーグが頭を起こして「先生、廃棄処分だけは止めて下さい」と懇願する。老科学者は容赦なく、「廃棄」と毛筆で大書された半紙を彼の胸にべたっと貼り付けていく。サイボーグは絶望してがっくりと頭を落とす。
このシーンをテレビで見たときは、こいつら喋れるんだ、と驚いた。子供心に多少は可哀想にも思った。今となっては私自身が、「廃棄処分だけは止めて下さい」と懇願する立場になっているわけで、なんだか物悲しい。
老朽化に伴う廃棄の危惧に加えて、今じゃすっかり医療機関はショッカー並みの悪の組織みたいに扱われているし、いつなんどき正義の味方が乗り込んできて私をバイクで跳ね飛ばしたりライダーキックで蹴り飛ばしたり診療中に逮捕したりするか分かったものじゃないという危惧もある。所詮は下っ端のアリコマンダーだしなあ。白衣を着てるからシロアリコマンダーとでも自称するべきだろうか。ちょっとはしぶとくはびこれそうな気がする。
以下蛇足ながら高校のころを思い出す。吹奏楽部の楽器庫で、先輩がふと思い出したように「なんでショッカーは世界征服なんて言いながら幼稚園児を襲ってばっかり居るんだ?」と言った。当時の私には斬新な視点であったからおおいに驚いた。言われてみればせこい作戦だと思って大笑いした。しかし、いざ小児科医となり父親となってみると、サイボーグが幼稚園児を襲うってのは高校生が考えるよりもかなり恐ろしい事態であるように思える。我々2人の高校生はショッカーよりも浅慮であったようだ。ちなみに、この先輩ものちに医学部へ進まれたのだが、お互いショッカーの一員となろうとは、当時はまったく考えていなかった(と思う。たぶん。医学部かショッカーかと聞かれたらショッカーと答えそうな剽げた先輩ではあった)。
空床は0-0です。すみません。綱渡りしてます。

安倍さんには組織を率いた経験がない

bewaad institute@kasumigasekiの2007年2月4日記事より引用。

安倍総理は、ただひとつのポストを除いて閣僚経験のなきまま総理の座につきました。ということは、トップとして組織を率いた経験がないということになります。

なるほどそういう見方もあるのかと思って引用。今まで組織のトップに立ったことがない人、として安倍晋三氏の政治姿勢を見ると、なんだか妙に納得がいくような気もする。元記事の、官房長官の人選が失敗だったという件に留まらず、彼にまつわる違和感を言い表すのに、「今まで組織のトップに立った経験がないのにいきなり総理大臣になっちゃった男」というのはかなりしっくり来る。
元記事によれば、安倍さんが経験した「ただひとつのポスト」というのは官房長官だが、それはあくまで官邸のナンバーツーであるから、

官房長官の経験は、トップとして自らを支える人間はどういう人間でなければならないか、ということを知るにはあまり役立たないといえましょう。

ということになるのだそうだ。加えて、安倍さんが官房長官をやってた時期ってのは小泉首相の威光でなんでも片づいた時期だからあんまり苦労はしなかったろうと。官房副長官をやってたときに福田さんの仕事ぶりをきちんと見ておけばよかったのにとか。
霞ヶ関や下関という土地では閣僚になる以外にトップとして組織を率いる経験が積めないものなのか、私にはよくわからない。閣僚以外には組織のトップの経験がつめないと官僚のかたに言われるとなんかカチンと来るものがあるんだけれどもね。でもWikipediaとかで安倍晋三氏の経歴を見ると、たしかに組織のトップに立ったといえる経歴がないなあ。自民党幹事長ってのは、やっぱり上に総裁が居るんだからトップじゃないんだろうな。

周産期ネットワークとは

緊急母体搬送に関して、産科もNICUも空床がある病院でなければ引き受け不可能との声も散見される。確かにそれが理想と言えば理想だが、しかし現実にこの忙しい業界で、産科もNICUもそろって空床のある病院なんて、そうそうあるものではない。
まず産科空床のある施設へ母を送る、その施設に現地集合でNICUから搬送チームを送り、赤ちゃんを蘇生して引き取って帰る。赤ちゃんの予後はNICUの前に分娩室や手術室でも大きく左右されるものだから、NICUに空きのない病院が母体搬送だけは受けるってのも、決して空手形ではない。新生児側としては、それは「あり」だ。少なくとも、搬送先を探して時間を空費されるよりはよほどマシだ。
むろん空床のないNICUには、自院の分娩室に蘇生チームを送り込む余裕すら無いことが多い。空床ありのNICUから搬送チームを送り、彼らが分娩に立ち会い、蘇生し安定化して連れ帰る。そのほうが何かと後あとの集中治療にも都合がよかったりする。過去に我々の搬送チームがどこの大病院の手術室まで入り込んでいったか、語り草にすれば面白いんだろうけど、信義に欠けるような気もして公表は止めておく。あるいは、産科医の一人二人も連れて行けば、母体を動かさずにその場で緊急帝王切開やって赤ちゃんを連れ帰るってことさえ可能ではないかとさえ思う。さすがに実際はそこまでやったことはないが。
例えばそうして私ら私立病院の人間が、例えばどこそか市立病院(京都市立病院とは限りませんよ)の分娩室で新生児蘇生をやったとして、その蘇生にかかる医療費はどこの病院が請求するんだとか(俺らはただ働きなのか?)、結果には誰が責任保つんだとか(事故の時は市立病院の院長はどう出るんだ?)、救急車をかっ飛ばして迎えに出向くときに赤信号に突っ込んで側面衝突でもされたら俺の治療費はうちの病院が労災申請してくれるのかとか、色々と調整することがたくさんある。そういう面倒くさい調整の一つ一つを解きほぐしていくのが、周産期ネットワーク構築の本質ではないかと思う。
元締め仕事も重要だ。いざ緊急だって時に、君のところは産科の空床が出せるのね、君のところは人工呼吸器が空いてるね、君のところの新生児搬送車はいま空いてるね、と次々と出すものを出させて、じゃあ君はここ、君はそこ、と割り当てていく仕事。各都道府県に一個ずつの総合周産期センターの役目なのかもしれんけど、そういう三次センターの当直医ってじつは青二才のことが多いから、説得力があんまりだったりする。行政の皆様にはなかなか理解できないことなんだけど、箱じゃなくて人の顔と声で動く仕事って世の中には多いんだ。そういう元締めの居るネットワークの構築って、行政に頼んでやってもらう事じゃないような気がする。
周産期ネットワークの整備と言って、各々の空床数を公示しあうだけ、電話番号を知らせあうだけって位しか想像つかないのはつまらない話で。一昔前のFAX自動送信機能を使っての情報交換時代ならともかくも、今じゃあ別に行政に頼らなくてもミクとかウィキとかブログとか使えば空床情報のリアルタイム公示くらいなら簡単にできるんで。行政には、むしろ、そういう情報交換に関しては、「いかがなものか」の一言をいわず飲み込めという一点しか、要望することはありはしないんで。(銭を出せ、という永遠の要望は別としてもね)。
無論、行政の皆様にやって頂く仕事には、私なんぞが想像もつかないような深遠な仕事もあるのだろうとは思います。彼らの名誉のためにこれは是非付記したい。たぶん、そういう仕事の一端を拝見しただけで、私など怖気を震うのでしょうけれども。

セカイにはばたけ石原慎太郎

いじめが原因で「11日に自殺する」との手紙が文部科学省に届いた問題で、石原慎太郎都知事(74)が10日、「あんなのは大人の文章だね」と手紙が“偽物”であるとの見方を示した。また石原知事は、いじめを苦にした自殺が相次いでいることについて「甘ったれている」などと指摘。問題解決のために「もうちょっと親がしっかりしたらいい」との持論を述べた。


偉大なる文学者・教育評論家・政治家であられる我らが太陽(族)金正日石原慎太郎閣下が、いじめが原因で自殺すると予告した手紙に関して、舌鋒鋭くご指導の御言葉を賜った由である。我々凡夫平民は、あたかも月面の陽光の如くにあたり構わず物事の一面ばかりを照らす、閣下のご指導の御言葉を慎んで拝領し、あまねく世に広げるべきものであると愚考するものである。
私の如き凡夫には、いじめに苦しむ心情の吐露としか読み得なかった文章を、「理路整然とした」「大人の文章」と御見抜きになるあたり、その炯眼には畏怖せざるを得ない。閣下のごとく余人の遠く及ばざる深さまでお見通しになるご炯眼の持ち主が、日ごろ妄言妄想の輩との誹りをいかに退けておられるのか、小心者の小生としては些か不安を覚えるほどである。まして斯様な文脈で「理路整然」なる表現を敢えて用いられるに至っては、閣下の文学者としての名声に泥を塗る結果とならないかと、恐れるばかりである。
しかし私たち凡夫は決して、閣下のご分析を妄想と断じる愚を犯してはならぬのである。閣下は文学者としての名声を犠牲にしても、教育者の本分を貫いておられるのだ。「良いところを見つけて誉めて伸ばす」という方針の下、かの少年の文才を激賞しておられるのである。ふだん辛口で知られる閣下が「理路整然とした」「大人の文章」と仰るのである。破格の激賞と言わずして何と言おうか。「今の中学生にあんな文章力はない」とまでの激賞ぶりである。小生としては、閣下御自らそこまで仰るとは東京都下の中学生の国語教育は大丈夫なのかとか、卒業式の日の丸君が代にこだわっている場合かとか、またも不安が募るのであるが、閣下の如き大人物には、そのような些事はどうでも宜しいこと、言うまでもない。
閣下は文学者・教育者にして政治家であられる。名著「NOと言える日本」をご執筆になった、閣下の優れた政治思想家としての分析力を侮ってはならぬ。
閣下のご炯眼には、今回の手紙の主が現米国大統領のジョージ・W・ブッシュ氏であるということ一目瞭然なのである。常に米国にNOを言う心がけを片時もお忘れにならぬ閣下ならではの着眼である。中学生ほどのメンタリティを持つ大人であって、現在四面楚歌の境遇にあり、11月8日までに状況が好転しなければいよいよ絶望の淵に立たされる人物。いじめっ子キャラのラムズフェルド君に食い物にされた挙げ句の失政を積み重ね、11月8日に大勢の判明した中間選挙では大敗北を喫した、現大統領ブッシュ氏の境遇そのままではないか。
「もうちょっと親がしっかりしたらいい」。このご指導は、厳父ブッシュ元大統領に苦言を呈しておられるのである。テキサスの牧場に引き籠もりがちな甚六をもうすこし鍛えてホワイトハウスで頑張って働かせよ、ラムズフェルドの如き友達と一緒に遊ばせるなとの、有り難いご指導なのだ。まさに、教育と政治の両分野に渡って造詣の深い閣下でなければ発し得ぬ御言葉である。ブッシュ元大統領は、今からでも遅くはない、閣下の名著「スパルタ教育」を読み、蒙を啓かれるべきである。
敢えて閣下がブッシュ父子の名を出さなかったのは、かつてフランス語に関する御尊慮を表明して日仏間に物議を醸したご経験から、日米関係へのご配慮をなさったものと愚考する。閣下の学習能力を小生は少々侮っていたようである。小生も閣下に習い、「おともだちのわるくちをいってはいけません」という幼稚園の先生の御言葉を思い出しているところである。それにしてもいったい何故に米国大統領が日本国の文部科学省に自殺予告の手紙を出すことになるのか、小生には全く理解できず、不明を恥じるばかりである。
自殺に至る人の多くは、決行の前には周囲に自殺をほのめかすことが多い。この知見を敢えて無視し、「自殺なんて、予告して死ぬなって」との厳しいご指導の御言葉である。さらには、「死ぬの、死なないの?」と、首に縄をかけて迷う少年の踏み台を蹴り倒すような厳しい御言葉を畳み掛けておられる。まるで少年を実際に苛めている加害者そのままの言葉、自殺を楽しみに待つかのごとき口調に我々凡夫は慄然とするばかりである。
しかし、この浅慮極まる畜生の如きご指導も、閣下の御言葉であれば、閣下の優れた政治家としての姿勢を表す御言葉として輝きを増すばかりなのである。平素より「三国人」等々の表現を用いて少数派の排除にご尽力の閣下のことであるから、この御言葉も、少年を苛める多数派の加害者達へのご指導なのだと思わねばならぬ。閣下は熱い正義感を敢えて押し殺したふりをして、残虐な加害者になりきった台詞を吐いてみせておられるのだ。いじめがいかに醜く残酷なものであるか、閣下は身をもって表現して下さったのである。加害者の諸君は閣下の心情を正しく理解して、今後は決して閣下の言動を真似しないように、心して生活しなければならぬ。もしも今回不幸にして被害者の少年が自殺してしまったとしても、世間からの非難は閣下が身代わりに受けて下さる。閣下の政治家としてのこのお覚悟、その犠牲的精神には、不肖小生、感涙に咽ぶばかりである。
東京都民諸賢よ。諸賢は身の程を弁えねばならぬ。かくも偉大な人物を、東京都知事の如き雑務に忙殺するとは何ごとであるか。セカイに向けて羽ばたくべき人物を、一地方自治体に押しとどめておくなど、その才能の浪費は慚愧に堪えぬことではないか。次回の選挙を待つことなく、直ちに諸賢の総意で辞退申しあげねばならぬ。かような偉大な人物は世界を相手にしてこそ相応しいのである。閣下は本邦が世界に誇る大俳優の兄上であられる。閣下には北海道小樽市にある石原裕次郎記念館の終生名誉館長として、小粋にジャンパーを着こなし北辺の地から米国にNOと言う偉大なる指導者としての終生のご活躍をと、小生、切に希うものである。

あのころ君は馬鹿だった

【50、やり直せるならどの時点から人生をやり直したい?】
実は高校時代の同窓生にこのブログがそうとうリアルばれしている様子なのだが、いったい彼らは私が小児科医(しかも赤ちゃん専門)になることをどれほど予想していたか、ちょっと知りたくはある。いや、知りたくはあるけど恐いから実際のコメントは要らないよ。実は高校の同窓会には教養部時代の1回きりしか出ていないので、その感想は聞けてない。かのガリ勉な彼に、他所様の赤ちゃんを抱いてあやす将来像を誰が想像したろうか。
つうか、まあ、彼の将来なんて誰も興味なかっただろうけど。自分でなきゃ私も興味ない。
高校の吹奏楽部だった折に、まるで「たわばさん」や「鳥坂先輩」みたいに卒業後もしょっちゅう部室に顔を出す先輩が居て、新しい土地で友達ができないんだろうかと気の毒だったし、なにより鬱陶しかったので、卒業したら高校とはいい加減に縁を切らにゃあなあ、と当時から自戒していた。その後も京都にいるせいか、南座の看板とかで舟木一夫の学生服姿が目につくのだが、彼もいいトシして高校三年生の呪縛から逃れられないのが気の毒である。彼は商売でやってることだし、私がとやかく言うことではないけれども、でも彼の高校生姿を見てると、「それっきり何にも良いことが無いんで高校時代を懐かしむしかない初老の男」という、物悲しいとか哀れを通り越して一種グロテスクな戯画を見せられているような気分になる。そういう演目はイッセー尾形がやるのかな。
妻もクラスは違えど高校の同窓生ではあるし、言ってみれば家庭で毎日同窓会してるようなものだから、今さらという感も無いではなくて、他の同窓にはあんまり縁を求めなかった。娘は関西弁と長崎弁のバイリンガルだったりします。
ただ、いまの自分の境遇に比べれば、「あのころの未来」は味気なかったと思う。
あの頃の自分に合うことがあったら、何と言ってやるだろうか。色々な意味で単純というか一途というか、一言でいえば「お馬鹿」だった彼に、かける言葉はなにかあるかと考えてみる。いま君が欲しがってるものは基本的に何一つ手に入らんよという、彼にとってはかなり冷酷であろう事実を告げるべきかどうか。君がいま目指している大学には君は入れない。君がいま好きな女の子と君はいまの距離以上には近づけない。あのころ目指していたもののうち、実際に手に入ったものは医師免許くらいだ。博士号とか研究とか留学とかからも完全にドロップアウトしてるし。
あるいは、君は真面目を自認してるけど悉く中途半端だよと冷酷に指摘するべきかどうか。君の勉強の仕方は、手近なところを囓っては投げ出すばかりで、地道に一カ所を囓り抜く根気に欠けているとか、大学へ入ってから後のことは具体的には何も考えてないとか、彼女をデートに誘ってみる気概も無いとか。
一番伝えたいことは、「君の人生は君が思ってる以上に多彩で面白いものになる」ということではある。君は自分で求めたものは何一つ得られないけれど、必ず、求めた以上のものが手に入るからと。君自身の予想以上に君は良い縁に恵まれているからと。
しかし、多分、彼は何を言われてるのかさっぱり分からないだろう。なにさま、彼はそれほどの「お馬鹿」だから。本人が言うんだから別に名誉毀損にもあたらんだろう。どういう風に話したら彼にこういう話を理解させられるのか、さっぱり分からない。多分に、もしもあの頃にタイムスリップすることがあったとしても、通学のキハの中で居眠る高校生の自分を遠目に眺めるだけで帰ってくるのが最善だろうと思う。
もしも過去の私と話すとして、この日には大きな地震があるから絶対に神戸にいてはいけない、と、伝えるべきなのだろうか。それが最大の難問。答えを迫られないのが何よりである。

訴訟社会もここまできたか・・・と思ってたんだけど

大仁田議員側に賠償命令、興行プロレスと異質な暴行と認定
 試合直後の場外乱闘でけがを負ったとして、プロレスラーの渡辺幸正さん(39)が大仁田厚参院議員(48)とセコンドを務めた元プロレスラーの中牧昭二秘書に1500万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は28日、秘書による暴行を認定し、大仁田議員側に78万円の支払いを命じた。
 野村高弘裁判官は「中牧秘書は、倒れた姿勢で無防備の渡辺さんの顔を力任せにけりつけた。観客に見せる興行としてのプロレスとは異質な暴行。大仁田議員にも使用者責任がある」と認定した。
 判決によると、渡辺さんは「セッド・ジニアス」というリングネームで、2003年4月、東京都内で大仁田議員らとタッグマッチで対戦。試合後、渡辺さんが大仁田議員をけろうとして乱闘になり、中牧秘書から左目の周辺をけられ、頭部外傷などと診断された。
 野村裁判官は試合の勝ち負けなどについて「事前の取り決め」があったと認定。その上で「渡辺さんの行為は事前の打ち合わせにない行き過ぎで、秘書にもやむを得ない部分はあった」との判断も示した。〔共同〕 (23:00)

NICUとナチズムの連続性は

かねてより尊敬しているサイトにて+ 駝 鳥 + – ナチスドイツの障害者抹殺計画は財政論的に根拠付けられていた~なぜ国家によって人は抹殺されうるのかなる記事を拝読した。
高度な議論が展開されているサイトにトラックバックするには、拙文はいささか幼稚な感慨ではあるが、下記のようなことを考えた。
ナチスの優生思想は、まがりなりにも生命倫理の思想が行き渡ったはずの現代とは全く隔絶した異常なものだと思っていた。いちおう、それが我々の業界筋の公式見解でもあることだし。しかしこの記事を拝読すると、現代の障害者に対する視線のごく合理的な延長線上に、ナチスの優生思想が無理なく乗っかってくるように思えた。ナチスを克服したように思いこんでいて、実際はナチと我々の差は強度の差に過ぎないようにも思えてきた。
今さらそんな事に気付いたというのでもなく、あえて無視してきたという面はあるかもしれない。NICUで重症新生児の治療方針について議論しているときに、ふと、今の自分達の議論とナチの倫理との境界はどこかと考えることがある。境界を考えるということは、同一の空間で互いに接しあっていると暗に認めたということではないか。これ以上続けても苦痛しか生まない延命処置を中止するべきだろうかという議論と、生きるに値しない命の抹殺と、その間には境界線が必要になるだけの連続性があるということか。
境界線が必要なほどお互いに接しているというだけで許され難いような気もする。しっかりした境界線があればそれでよい、十分な緩衝地帯が確保されていればなお宜しいという論も成り立つような気もする。どうなのだろう。
自分達は生命を慈しんでいるがナチは障害者をゴミのように捨てたという境界線の引き方ができるだろうか。ナチス時代の面々だって、自分達は生命を慈しみ尊重する故に生きるに値しない人生から解放してさしあげるのだと、自ら信じていた面があったかもしれない。彼らは慈悲に溢れた心でガス室のスイッチを押していたのかもしれない。あるいは、ユダヤ人であるという不幸や障害者であるという不幸から彼らを救い出す方法がこれしかないのだという無力感や慚愧の念に涙していたかもしれない。彼らの自身に対する倫理的評価は、決して、今の私たちのそれより低くはなかったに違いないとは思う。
不勉強で彼らが実際にどう考えていたのか私は知らない。知りたいと思う。後世に批判者により書かれた本では、彼らが鬼畜であるとの思い込みが先に立って、彼ら自身は自分達のやってることを何とも思わなかったか或いは自分達でも鬼畜行為だと思ってやってたかのどちらかだったように決めつけられている。少なくとも私はそんな本しか読んだことがなかった。でも、彼らは案外と私たちと紙一重な考え方をしていたのかもしれない。あるいは後世の私たちのほうが、自分達が思っている以上に彼らと紙一重なところに居るかもしれないとと申すべきなのか。
トラックバックもと記事のコメントで、筆者のswan slab氏は

現代の監視社会なり管理アーキテクチャーのなかでの音を立てない静かな暴力というものに、”全体主義”の連続性をみるわけです

と御言及である。この言葉が胸に響く。
重症新生児の治療方針に関して、私たちは万能の指針を欲しがる。その指針にさえ従えば道徳的にも法的にも免罪が得られるような指針を。「疾患Aなら救命不要」などという露骨なものは言うに及ばず、「多くの意見を求め倫理委員会にも諮って決めましょう」といったメタレベルの指針であっても、結局は免罪を得られる万能の指針には違いない。これもまた「現代の監視社会なり管理アーキテクチャー」なんじゃないかと思う。私たちは自らを監視し、社会に対して自らを弁明する。
むろん、とことん心マッサージを続けることが最善ではない。どこかの時点で、自分たちの手から母親の手へ赤ちゃんをお返しせねばならぬ。それはそういうものだと私は思う。でも「そういうものだ」というこの言葉こそ、コメント欄に議論されている「空気」ではないかとも思う。それで我々の仕事が完遂できたと申しあげてしまっては、その空気に流されているだけじゃないかとも思う。赤ちゃんの生命を慈しんだつもりで、実は「音を立てない静かな暴力」をふるっているのではないかという懸念がどうしても残る。
赤ちゃんに対しても、じつは親御さんに対しても。

やっぱり、一つのミス、ですか。

琥珀色の戯言 – 「本音を書くな」と見解の相違
再々のご回答ありがとうございます。今回は私の言動に関してご言及いただきましたので、今度は私がお答えするべき番かと思います。

正直、先生が「やはりそれが医者の本音だということがわかって悲しかった」というふうにすぐに「転向」なさる程度の意識であれば、http://childdoc.exblog.jp/2185770#2185770_1で書かれたような、一研修医への激しい叱責は、あまりに度を過ぎたものだと僕は感じます。

言葉が過ぎたことは再々読者諸賢からもご指摘を賜っており、この点についてのご批判はもっともと思います。まずその点は認めます。
ですが、医者の多くがその本音を共有しているという認識を強めたということが何故「転向」なのかがよく分かりません。もともと、他に考えることがあるはずだろうとは申し上げましたが、他の医者は誰もそんなことは考えてないぞということを根拠に彼女を叱責した記憶はありませんから。
私がそういう認識を強めたとして、それは私の「一研修医への激しい叱責」の度が過ぎたというご意見を補強する論拠にはならないと思います。
周りの先輩の言動や雰囲気から何となく彼らがそう思ってることが察せられた、その尻馬に乗って、ほんらい絶対に言ってはならないはずのことをのほほんとブログに語ってしまうという、そういう油断して世間を舐めた態度を取られるのは、私には不愉快きわまりないです。言説の内容の不愉快さに態度の不愉快さが加わります。ですから私としては、彼女の周りの多くの医師もまた内心はそう考えているかもしれないと考えてみたとて、そして彼女はそれを受け売りしたに過ぎないと考えてみたとて、それが彼女への怒りを減殺する要素にはならないです。

あるいは、「そんな本音を書くな」とアドバイスされた方々には、なぜ、怒りの矛先が向かなかったのか?

ご指摘どおりです。何故でしょうね。今さら考えてみました。
いや、実際のところ向ける気にならなかったんですよ。彼らに怒るのはなんか不当なような気がしました。その助言を拝読して、悲しいなとは思いましたけれど。
怒らなかったのが間違ってるとは思えません。そういう助言をされた人たちがその「本音」にご自身で賛意を表明された訳ではありませんし。確かなのは、そういう助言をなさった人もまた「あの言葉は彼女の本音に属することである」「そういう事を多くの医者が本音として胸に秘めている」「それを正面から論破してはかえってご自身のほうが野暮な世間知らず(あるいはそれに相当する愚か者)扱いされる」とご認識であるという、そこまでではないかと思います。私とあんまりお立場に違いがあるとは思えないのです。悲しい現状認識が、なお悲しいことに他の諸先生により肯定されたといいますか。彼らと私の差は、単に、身内の将来の不遇を具体的に想像する立場にあるかどうか、それだけじゃないかと思います。
いや、当時そのように明確に考えてたわけじゃありませんよ。当時はただ、悲しいけれど彼らに怒る気は起こらなかった。それだけです。今さらのように矛盾のない物語を編み出しているだけじゃないかと仰られたら、そのご批判は甘受いたします。

【1つのミスを指導医に徹底的に責められ、自分の言い分はすべて「正論」で返されて逃げ場もなくなり、精神的に追い詰められて病院の屋上から飛び降りてしまおうとしている研修医の蒼ざめて引きつった表情】というのが、僕の心に浮かんできて、消すことができないのです。

やっぱり、「一つのミス」なんですかね?そのミスで迷惑被った患者さんへの言及は省略できるレベルの些細なミス。たとえ比喩レベルでも私はそこまであっさりした総括はできません。正直申し上げて、先のゾウと飼育係の比喩以来、なんとはなく問題を矮小化されてるような気がしてなりません。たぶん、誰を身内と考えるかということの、先生と私との相違なのだと思いますけれども。
1つのミスリハビリで歩行訓練中の患者さんに「もっとしゃきっと歩きなさいよ!」と聞こえよがしに吐き捨てたのを指導医に徹底的に責められ、「だってあんな怪我がほんとに痛いわけ無いじゃないですか」という自分の言い分はすべて「正論」で返されて逃げ場もなくなり、精神的に追い詰められて病院の屋上から飛び降りてしまおうとしている研修医の蒼ざめて引きつった表情】というくらいしか、今度の彼女の心象を想像するのに、私には考えられません。いや、飛び降りてしまえと申してはおりませんよ。自分がそこまで追いつめたんだろうなとは認めますということです。また当然のことですが自分が彼女を屋上へ追い上げたことを「彼女のためを思えば」とか言って恩を着せるつもりはないです。飛び降りずに屋上から歩いて戻ってきて欲しいと思いますよ。一歩一歩、自分の来し方を振り返りつつ。

他者を教え諭すにしても、やはり、ある種の「受容」が必要だと思います。ましてや、まだ「未熟」だと思うような相手になら、なおさらのことです。

ご指導痛み入ります。

僕の「想像」を、先生は「ありえないこと」とお笑いになられますか?

笑いはしませんが、悲しくなります。fujipon先生にして「1つのミス」レベルの話なのかなと。