以前の母乳に関する記事に沢山の反響を頂いたので、母乳に関して私が読んだ書物の中で最良のものを1冊挙げておきます。本書を読んで、私も母乳にかなり熱心にこだわるようになりました。
米国小児科学会による原書ですから権威としてはこれ以上のものはありません。しかし、決して難解ではありません。ベッキーとかアリョーシャとかいった婦人が出てきて母乳育児に関する典型的な取って付けたような疑問を呟いてはため息をつき、そこへ詳細な説明が挿入され、ベッキーが疑問氷解して明るくなるという各章の構成が、いかにも米国式実用書スタイルです。不器用な学者が慣れないジョークをまじえながら一生懸命説明しているといった印象で、一種微笑ましい感じがします。
例えば私のブログよりも遙かに腰が低いです。見習わなきゃならない。
翻訳も現職の小児科医が行ったにしては上出来だと思います。そりゃあ、翻訳家に転職できるほどの腕じゃないですよ。英文科の先生がお読みになったら苦笑されるかもしれません。けれども基礎知識のない翻訳者が字面をうつしただけでは医学的な間違いがどうしても避けられないし、母乳育児の話題は特に学術的に正確でないといけないと思いますので、多少ぎこちない翻訳でも是非とも小児科医がやらなきゃなりません。
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「母乳育児のすべて」藤村 正哲, 米国小児科学会, 平林 円 / メディカ出版
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「ひまわりの祝祭」 藤原伊織 講談社
日直の日曜日に病棟の本棚から失敬してきて読み始めたが止まらなくなった。
大事なものも呆気なく失われ、失われたものは取り戻せず、代償や癒やしなどありはしない。この「喪失の峻厳な不可逆性」がこの小説に一貫する主題である。確かに、掛け替えの無いものとは、そういうものである。
主人公はその優れた洞察力ゆえに、おそらく過ぎるほどにこのことを理解している。であればこそ最愛の人を失って後、喪失の中に沈潜するが如き無為な生活を希求し、挙げ句に愛する人への送り火として蕩尽とも言うべき新たな喪失を重ねる。主人公に限らず、登場人物は皆がなにがしかの喪失を抱えている。他より悲劇的な登場人物はあっても、喪失が埋め合わされる人は誰もいない。
しかし、読み終えてみれば、この物語にこれ以外の結末は考えられないと思う。主人公をはじめとする登場人物の造形が極めて緻密に完成されている。この人物ならこの場面ではこの行動しかとるはずがないじゃないかという、強固な説得力を持った必然が、一歩一歩積み重なるようにして、物語を進捗させていく。こう書けば本作はいかにも「キャラの立った」登場人物が場当たり的に演じるスラップスティックのようだが、ストーリー自体も緻密かつ重厚で、登場人物造形を受け止めてなお破綻がない。何より、人物造形にもストーリーにも、前述の峻厳な主題が一貫しているから、緻密であっても些末ではなく、無理や無駄あるいは「せこさ」が全く感じられない。
最近、ここまで完成度の高い小説を読んだ記憶はない。著者の作品を今まで読んだことがなかったとは私も惜しいことをしてきたものだと思う。 -
責任 レヴィナス的な
S.Y.’s Blogを拝読して、内田先生のエントリーを思い出した。「内田樹の研究室」の最近のエントリー「忙しい週末」で、内田先生は最近の40代を評して、
彼らはやはり日本が国民国家として安定期にはいった時代にお育ちになったので、「かなり効果的法治されている」ことや「通貨が安定していること」や「言論の自由が保障されていること」などを「自明の与件」とされていて、それを「ありがたい」(文字通りに「存在する可能性が低い」)と思う習慣がない。
そのような与件そのものを維持するためには「水面下の、無償のサービス」(村上春樹さんのいうところの「雪かき仕事」)がなくてはすまされない、ということについてあまりご配慮いただけない。
だから、この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることをつねとされていて、「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自省されることが少ないということである。このように書いておられる。まだ30代の私自身にも耳に痛いご指摘ではある。
shy1221さんの記事を拝読して、産科医師の不足という事態に対して妊婦さんやその夫君に「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」と自省されることがどれほどあるのだろうかと考えた。例えばshy1221さんがご引用になった報道記事内で怒っておられる妊婦さんには、そのような発想があったのだろうか。この報道記事で見る限りには、ご自身を無垢無責任の立場に置いておられるようだが、産科にせよ小児科にせよ患者さんがご発言なさる際にご自身をそのような立場に擬することが多ければ多いほどに、診療が世知辛くなり「やってられねーよ畜生」という呟きが多くなるようにも思う。
実際、産科の仕事は大変だと思う。新生児科医なんてお産トラブルのレスキューで喰ってるようなヤクザな仕事をしていると、お産なんて恐いことをよくもまあ平然と世の人々は行っておられるものだと思うことがある。恐い面ばかり沢山見てますからね。こんな恐いことを一件一件のりきっていく仕事を、上手くいって当たり前の仕事だと単純に思いこまれるのはかなりしんどいと思う。
この報道記事での産科の先生方が実際に「やってられねーよ」でお辞めになったのか、それとも他の事情があるのかは、知りようもないのだけれども。 -
物語という方法
幻 想 の 断 片のMari先生の推薦で「小児救急 「悲しみの家族たち」の物語」を読んでいる。
良書である。Mari先生御言及の如く、読者諸賢には本書をお読み頂くことを切に希う。本書が世に問われてしまった以上、今後は、本書を読まないで小児救急を語っても単なる思いつきに過ぎず、説得力を持ち得ないのではないかと思う。
本書があくまで「物語」であることが、本書が良書である所以である。過労の末に自死した小児科医の遺族、病院をたらい回しになって亡くなった子のご両親、誤診や手違いが重なって亡くなった子のお母さん、小児救急の体制改善に取り組む小児科学会理事の中澤誠先生と、4組の人々の物語が語られる。中澤先生に関連して、日本小児科学会の構想や、先進的な態勢で小児救急に取り組んでいる藤沢市民病院や徳島赤十字病院の事も語られるのだが、いずれにせよ筆者は物語るのみである。正当化も断罪もしない。彼の描写する家族の姿は清く正しく美しいものではなく、父や子の死に苦しみ葛藤する人々のそれである。例えば自死した父をひとたびは恨んだ娘を筆者は蔑まないが、しかしその恨む気持ちを物語から省くこともない。病院をたらい回しにあった子にしても、ご両親の段取りの仕方は決して満点をつけられるものではないのだが(この子に関して「たらい回し」という語を使うのは病院に対して酷なのではないかという気さえしないではないのだが)、その受診の経過を経過のとおりに記述してある。理想的な段取りで受診した親子とたらい回しにあった親子をキメラにして「悲劇の主人公:Aさん(仮名・32歳)」を捏造するようなマネはしない。
総説や論文では語り得ないことを、物語は語り得る。ただ論文なら要約を読めば把握できるが、物語を要約すると物語の本質は抜け落ちてしまう。敢えてその形式を選んだために、本書に安易な結論は出ない。複雑な問題はその全体像を複雑なありようのままに記載され、結論のないままに提示される。あとは読者の側に「つまるところ何が言いたいんだ」という底の浅い質問を自制できる程度の知性があれば、この方法は小児救急の現状を語るのに極めて有効な方法である。
著者の鈴木敦秋という方の名前は知らなかったが、読売新聞社ウエブサイトの「医療」で彼の名前を検索してみると署名記事に多数ヒットした。中には以前に唸らされた記事も多かった。
些末なことを2点。3色ボールペンで読むときは緑で傍線を引く項目ですが。
「小児救急のありがたさって、子育ての時期が終わると忘れてしまうんです」という言葉に胸を突かれた。そういう視点は持ったことがなかった。指摘されてみれば当たり前の事ではあるが、しかし、世の親御さんには、我が子の成人式に際して「この子が赤ん坊のとき真夜中の病院に走ったなあ」と感慨にふけることがあったら、その病院で我が子を診察したその小児科医が今日その日もまだ救急当直をやっているかもしれないってことに思いを致して欲しいものだと思った。そもそも成人式ってだいたい休日だし。
中澤先生は京都にお生まれになって諫早で育った由。私とはちょうど逆。まあ、どうでもいいけど。 -
「海辺のカフカ」と掃除好きな息子
4月3日
終日OFFである。当直・自宅待機・オフ・当直と続くシリーズのオフがちょうど日曜に当たった。時間内勤務の出勤義務がないのでお休み。
妻も私も積ん読本をため込んでいる。お互いに本に関する出費には口を出さないという不文律みたいなものがある。
ちなみに互いの出費を云々言い始めたら、価格も高く当たり外れも大きい医学書を買い込まねばならぬ私のほうが圧倒的に不利である。
互いがため込んだ積ん読本をいつの間にか相方が読んでいると言うこともよくある。今回は妻が買い込んでいた「海辺のカフカ」を一日かけて読んだ。新刊で発売された当初に妻が買い込んでいたらしいけど、巷に溢れた広告や書評やがなかば強引に目に入るうち、何だか辟易してきて、夫婦とも手を付けぬまま本棚に突っ込んで保留扱いになっていた。
15歳の少年がこれほど賢いものだろうかとは思う。少なくとも私はもっと混沌としていた。15歳の頃何をしていたかほとんど憶えていない。たとえ小説であっても、同世代の少年がこんな風に賢くあることができるというモデルを提示されていたらどうだっただろうかと思う。当時の自分や自分の回りの少年たちが馬鹿ばかりだったという訳じゃない。私は混沌とした馬鹿にすぎなかったが、回りのみんなは全国ブランドの果物を産する農家の息子たちばかりで、実直でタフで世間知に溢れていた。親たちは子が勉強しすぎて跡を継がなくなることを懸念していた。家に畑が無くて勉強はちょっと出来て体力はまるで無くてという私が、当時の混沌を抜け出すためには、こんな小説を読むのも良かったんじゃないかと思う。
うちの書庫には本棚と猫の便所とキャットタワーや猫布団が置いてあって、普段は人よりも猫の居場所になっている。にゃん太郎はキャットタワーよりも本棚の上のほうがすきなようだが。最近は春めいてきて床暖房のない書庫でも快適に過ごせる。床に座り込んで「海辺のカフカ」を読んでいると息子がやってくる。例によって掃除を始める。床に散らばった本を本棚に入れ、猫布団をちゃぶ台の上にぽんぽんと積み重ねて、床に掃除機をかける。キャットタワーにこびりついた猫の毛や綿ぼこりは粘着ローラーを転がして取り除く。割と手際は良いのだが、床の隅の埃を吸えていないので、掃除機のノズルを尖ったものに付け替えることを教えてみる。吸い具合がよくて理解できた模様である。自閉症児が視覚的に掃除の効果を理解できるほどに埃を積もらせるなよとも自嘲する。
この子は(世間の抱く「自閉症」のイメージに反して)「独りで居る」ことが耐えられない人なので、片づかない部屋も自分一人で入って片づけようとまではしない。誰かが居ると嬉々としてやってきて掃除を始める。小説中に出てくる「ナカタさん」の姿が息子にダブる。ナカタさんは自閉症ではないけれど、息子のモデルをこの小説に求めるならナカタさんかなあと思う。こんなふうに日常生活も職業も自立していけてたらいいなと。 -
スキン変更
変えてみました。文字の大きいのもたまには良いかなと思いました。南国生まれで、寒そうな風景にはちょっと憧れます。眺めるだけなら。実際に住もうとは絶対思いません。
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母乳育児の支援のために
本来の母乳育児支援は、今現在直接に関わりのあるお母さんと赤ちゃんに対してしか、行えないのではないかと思う。世間の母子の何パーセントが母乳育児でとか、あるいは当施設では他施設平均と違って母乳育児率が高くて云々とかいった公衆衛生的な視点は、臨床の場にあっては参考にこそすれ、第一義のものではないと思う。
自分のところでお産になったり、赤ちゃんをNICUにお預かりしたり、そういうご縁のあった方々に、丁寧に母乳育児をお勧めしていくことしか、ないんじゃないかと思う。何人中何人ではない。つねに、一人中一人。
京都市内のある病院では完全母児同室を実践したら分娩入院が減ったそうだ。うちのベテラン助産師も、お産の後くらいは休みたいと仰って母児同室を敬遠なさる女性がけっこう多いと言う。お産後30分とか1時間とかで初回の授乳(もちろん母乳)・その後の24時間以内に8~12回の授乳、というのが母乳育児成功の端緒なのに、そのゴールデンアワーを母児離れてのほほんと寝ててどうするんだと思う。でも、寝るな怠け者!と産後の女性を叱咤激励しても、確かに人気は落ちるだろうと思う。
お産の直後から母乳哺育に取り組んで頂くには、お産の前から母乳哺育の意義についてしっかり申し上げておきたいものである。あまり高邁な事ばかり申し上げても妊婦の皆さんは腰が引けるばかりだろうし、今さら母性愛がどうの母児の心のつながりがどうのと歯の浮くようなことは申し上げるのも薄ら寒い。むしろたとえば「子どもが熱を出したから今日は早退させてください」と雇用主に言わねばならぬことが格段に減りますとかいう経済社会的なインセンティブを絡めて良いと思う。
お産が疲弊するだけの重労働だという位置づけを改めることが大事だと思う。「オニババ化する女たち」で三砂ちづる先生がお書きになったような、赤ちゃんを産み落としたばかりの女性が「ああまた産みたい」と仰るような至高の体験とできたらよいと思う。分娩で疲れたから母乳育児はひとまず置いておく、というのではなくて、分娩の勢いに乗ってそのまま母乳育児に突入できるような、そういう分娩であったらよいなと思う。そういう分娩に出来るような、助産側の実力が要ると思う。
赤子は母乳のみにて育つにあらず。 -
フィルムに焼くのかよ
気まぐれ半分で今月半ばの学会に発表を申し込んであるんですがね。やめときゃよかった。
所属医局が主催なもんだからたまには勤勉なふりもするのが義理のうちかと思ったんですが。
今さら一例報告にうだうだ苦労するような駆け出しでもなしって思ってたら落とし穴があった。要項を良く読んでみたら、液晶プロジェクタ使えないらしい。焼いて来いってさ。従来通り35ミリフィルムに焼いてボール紙の縁を付けて、上下左右の向きを確かめながらフォルダに嵌めなきゃいけないらしい。うわあ面倒くさい。うちみたいな貧乏病院でさえ液晶プロジェクタ買い込んでますよ。医局のコンピュータを買い換えた折りに、35ミリスライドの撮影機はお払い箱にしてしまいましたよ。SCSI接続で新しいマックにつなぐのが面倒でね。
医局秘書さんに、パワーポイントのファイルを業者にフロッピーで渡してフィルムに焼いてスライドにマウントしたら幾らするんだろうと調べてもらったら、基本料金1000円にスライド1枚500円追加だと。大枚5000円か。払いたくない金だね。
京都国際会議場ってのはついこの間は地球温暖化がどうたらこうたらとか、いろいろ偉そうな会議をやってた会場じゃなかったか?液晶プロジェクタって備品で置いてないの?京都なんだからって和紙にスライドを墨で書いて幻灯で映せって話になるんだろうか。ポスターセッションは今回はないんだけれど、ポスターの時には西陣織で一反以内に織ってこいとか。 -
自立するスキルは娘に身につけさせたい
幻 想 の 断 片など拝読して、娘のことを考える。
2歳上に自閉症の兄が居ますなんて境遇で「お嫁さん」を志向しても辛いだろうなと思う。家事育児は女性の天職などという思想の男は、この義兄の存在だけでもう逃げ出すに決まっている。逃げない奴が居たとしても、逃げなかったことを恩に着せられるのは業腹なものだろうと思う。
兄のことはさておいても、バカな他人に「誰に喰わせて頂いてると思ってるんだ?」などと言われる屈辱は味わわせたくないものだ。食い扶持を稼ぐスキルは身につけさせておきたいと思う。内田先生の著書にも似たような記載があったが(村上龍さんの引用だったか?)「バカな他人にこき使われずに済むこと」ってのはけっこう重要だと思う。
人間の芯は我が娘ながらよく出来ている。4歳の時だったか兄と私と三人で公園に行った折、奇声を上げてうろつく兄に知らない子が「あれお兄さんか?どうしたの?」と聞かれ、とっさに「私はお兄ちゃんが大好きだもの」と切り返した子である。こんな凄い子の人格を育てるなんて偉そうなことは私には言う資格はない。光栄にも父親の顔させて頂いてますってものだ。天才の後輩にいちおう学校図書館の本の借り方とか生協食堂での飯の食い方とかの手順を教えておく凡庸な先輩ってとこだね私は。矯めずに見守りたいものだと思う。 -
南北アメリカ大陸からの麻疹根絶の経過
麻疹は理論的には根絶可能な疾患である。発疹が特徴的で診断に困らない。ウイルスの血清型が1種類だけである。宿主はヒトだけで動物に感染しないし媒介動物もない。不顕性感染も長期の潜伏もない。その他もろもろ。既に根絶された痘瘡と同様の条件がずらりと揃っている。強力な効果を持つワクチンもある。
麻疹を根絶した地域もある。
http://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/mm5050a2.htm#fig1 を参照してほしい。南北アメリカ大陸から麻疹が駆逐された経過である。1990年には25万件あった麻疹の症例数が、2001年には423件である。25万件の発生数のあった1990年当時の、乳児の麻疹ワクチン接種率は80%である。この折れ線が上昇するにつれ棒グラフの症例数が激減している。
WHOは麻疹根絶のためには95%を確保せよと言う。20人中18人接種ずみとして19人目が接種するかどうかに分岐点があるのである。独裁国家の翼賛選挙の投票率並みの、かなりシビアな数字である。でも、それを実現するほど努力した地域があるのである。麻疹が根絶可能だと立証したのである。偉大な成果だと思う。カート・ヴォネガットは20世紀最大の発明はAlcohlics Annymousであると述べているが、この麻疹根絶もけっこう良い線いってるのではないか。


