カテゴリー: 読書

  • 勝間先生を猿まねすると脳がフリーズするよというおはなし

    効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法
    勝間 和代 / / ダイヤモンド社
    ISBN : 4478002037
    スコア選択: ※※※※
    やっぱりネタにして笑った以上は読んでなきゃまずいでしょ、という気持ちはあったのだが、近所の書店にようやく入荷されたので買ってきた。医学書とかアマゾンで買うんですけどね。なんとはなく、本書は買う前に実物を見てみたかった。
    実物を見て、買おうと思ったのは、著者勝間和代先生の電脳化ぶりに感銘を受けてである。GPSつきの自転車を駆る著者近影が掲載されているが、タチコマに乗った草薙素子(@攻殻機動隊)を彷彿とさせる。じっさいにマイクロマシン技術をもちいて脳と電子機器を(つまりはネットを)直結する電脳化技術が開発された暁には、まっさきに導入するのはこういう人物なんだろうなと思う。
    本書が売れる理由の第一はむろん著者の実生活での実績なんだろう。0番目に著者の文章の明晰さがあるんだろうけど、売れる本としてそれはあまりに当然のことで。それは多くの人に言及されていることだし、いちおう敬意を表して言及しておくが私ごときが深入りすることでもない。
    第二の理由は読者のお買い物衝動に火をつけ、しかも正当化してくれるということだと思う。要するに本書はとっても高度な通販カタログなんだ。一流の高価な商品がずらっと並んでいるけれど(レッツノート3台使い回しとか11万円の速読講座とか)、それを推薦する人の実績が凄いから、通販につきもののいかがわしさが感じられない。読むにつけ推薦に応じて買うにつけ、通販につきものの罪悪感がない。文章が明晰だし、著者の実績からして選択眼に疑問の持ちようがなしで、以前からこんなの欲しかったんだよなという急所をピンポイントに突いてくる。初めて見る商品でも「以前からこんなの欲しかった」と思わせられるところなど、内田樹先生が武道の達人に関して述べられるところの「先の先」をとる格好である。我々凡人は勝間先生の魔眼に魅入られるかのように、あらがいようもなく本書に見入り、ふと気がつけば通販サイトに入力するためにクレジットカードの番号を確かめているということになる。
    フリーズする脳―思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)
    築山 節 / / 日本放送出版協会
    ISBN : 4140881631
    スコア選択: ※※※※
    勝間先生の本といっしょに買ってきて、続けて読んだ。この手のタイトルには珍しく、けれん味や「と」の雰囲気のない良書だと思った。偏った脳の使い方により、あたかもフリーズしたように思考が止まるという症状をあつかった本である。みょうに指示代名詞がおおくて固有名詞が出なくなるとか、細部にこだわって全体が見えなくなるとか、人の話を聞いてても内容が頭を素通しになってるとか。
    自覚するところの多い本で、読んでいて慄然としないでもなかった。なにより、おおいに納得しつつ読んだつもりの本の内容を、こうして読後感を書こうとしてもうまくまとめられないってのはどうなんだ。私の頭もフリーズすることの多いあたまなんだろうか。それとも文章が下手なだけか?どっちも嫌だな。
    勝間先生の本と並べて書くのは、単に同じ日に買って読んだというだけではなく、両書に共通点があるように思えたからだが。勝間先生も、ノウハウを求めるばかりで本質を理解しようとしない・自分で工夫しようとしない、と周囲に対して苦言を(ちらっと)呈しておられるが、勝間先生の一連の本をノウハウだけ真似しようとしても、行き着く先は築山先生のおっしゃるところの「フリーズする脳」だろうよと思う。そんな末路を想起させる症例が築山先生の本に載っているのが興味深かった。おそらく、このお二人の理想とするところにはかなりな共通点があると思う。それをお二人以上の明瞭さでここにまとめる筆力がないのが残念だが。読者諸賢の寛恕を請う次第である。
    警句的に言えば、勝間先生を猿まねすると脳がフリーズするらしいぞ、という結論。
    ほんらい医学書や小児科医療に役立つ本を読んで勉強するべき時間を何を読んで潰しとるのか、というときにつけるタグ「またつまらぬものを読んでしまった」を、両先生への敬意をこめてつけさせていただく。

  • 戦前の少年犯罪

    戦前の少年犯罪
    管賀 江留郎 / / 築地書館
    ISBN : 4806713554
    昭和元年から20年までの時期に発生した少年犯罪について、当時の新聞から事例を集めたものである。本書によると当時は今以上に未成年者による殺人が多い。それも貧困によるものとは限らない。かぎらないどころか、徴兵前の10代は働き口も多く金銭には困っていなかったとのことである。戦前には性犯罪も多いし虐めも校内暴力も学級崩壊も多い。なのに戦前の親の甘さや放任ぶりは目に余る。自分ではしつけの一つもできないくせに学校の先生を責めたてるモンスター親も戦前からあるものらしい。まあ学校の先生も小学校の修学旅行で生徒を強姦したりしてるから似たり寄ったり。引用されている新聞記事は、このペースで猟奇的事件が続いていたらサカキバラ事件も影が薄れるかもしれんとさえ思える。加えて、旧制高校の学生という、特権意識丸出しに治外法権状態で犯罪行為を繰り返した史上最低の連中がいないだけ、現代はマシかも。
    なにしろ、読んでたいへん勉強になった。昔の日本の子育ては折り目正しくて立派だったが現代の親も子もダメだ云々の世迷い言に悩まされたことのある人なら、是非にも読むべきであると思う。というか本書で横っ面をひっぱたいてやりたい奴の顔が一人二人と浮かばない聖人君子ってあるんだろうか。私の領域でも、さすがに戦前の新生児学が今より優れていた等とは言われないが、一般小児科ではむかつくことも多い。とくに小児心身医学の方面に、現代の子育てが悪いから云々と客観的事実と偏見とがごっちゃになったような教科書を書く大家があって始末に悪い。今後はそういう大家の言も相対化して聞くことができるから、自分の診療に一本強い芯を通せそうで嬉しい。感謝感謝。
    著者はべつに現代の子供たちにシンパシーがあってこういう書物を著したわけではなく、ちょっと昔の新聞に目を通す程度の調査をすればすぐにも分ることに関して、まったく調べもせず無根拠なことを言いたい放題にする言説がまかり通っているという現状に対しての問題意識が執筆動機だとのこと。その学問的不誠実に我慢ならないのか、著者はそうとう怒っている。怒りぶりからすると、やっぱり現代の少年に対するシンパシーも、著者の言葉に反して実際は相当にあると見える。現代の少年たちに対してさんざん投げつけられる紋切り型の攻撃表現をそのまま使って戦前の少年を腐してあるから、結果として文章表現がかなり攻撃的である。はっきり申し上げて品がない。それは意図してなされていることなのだから、それも芸のうちと、読者がその背景を斟酌して読む必要はあると思う。
    本書が世に問われた以上は、これまでの自身の言動を恥じて、今後は多少なりとも口を慎むべき面々が、犯罪○○学とか教育○○学とか精神医学とか推理小説家とかといった分野を中心に多々あると、私も思う。ただそういう面々がほんとうに慎むかどうか。せいぜい、「自分を棚に上げて若者を腐す人たち」とか「無根拠に若者を腐す人くささない人」とか「頭のいい人の若者こきおろし術」とかといった便乗本を平然とした態度で書くのが落ちだと思う。本書はたしかに優れた著作だが、本書によって彼らに一矢報いることができると著者がもしも考えていたとしたら、厚顔無恥という悪徳に関して、私などよりも多少楽観的であるように思われる。

  • 江戸むらさき特急 あるいはうっかり八兵衛考

    江戸むらさき特急
    ほり のぶゆき / / 小学館
    ISBN : 4091858910
    「時代まんが」ではなく、「時代劇まんが」である。なぜうっかり八兵衛がついてくるのかと悩む助さんとか、うっかり印籠をなくして「うっかり格さん」と呼ばれてしまい八にまで小馬鹿にされて怒りに震える格さんとか、お白砂で脱ぐなとか自分のことを「さん」づけで呼ぶなとかと老中にしかられる遠山金四郎とか、実在しないことを新撰組に揶揄される鞍馬天狗とか。なかでもいちばん秀逸なネタは「店先で隠密同心に死なれたが死体を片付けられず困る湊屋さん」だと思ったが。
    元ネタを知らないと面白くないらしくて、妻は時代劇の教養が皆無な人だからさっぱり理解できないらしい。そのてん私は大半のネタを知っていたのだが、いったいいつのまにそんなにテレビを見ていたんだか自分でもよく分らない。しかしさすがに隠密同心心得の上を全文は知らなくて(知っていたのはリフレインされる「死して屍拾うものなし」だけ)、今回その全文が分ったので人生の懸案がひとつ片付いたような気分がしている。
    ちなみに八が着いてくるのは、堅物3人の旅だとストレス状況下で容易に2対1に分裂してしまって旅が破綻するからだと思う。助と格の仲裁に手を焼く黄門様というのも何だか痛々しい。1時間ほど放送枠を遅らせ、橋田壽賀子先生に脚本を書いて頂いたら、番組としては成り立つかもしれんが、印籠が毎回出るとは限らなくなるし視聴者層もかなり変わるんじゃないかな。まして由美かおるのかわりに泉ピン子が出たりしたら評判が悪くなるだろうな。
    黄門様御一行に限らず、少人数での長期任務は人間関係のごたごたで失敗するリスクが高いから、わざわざ無駄に多い人数を派遣するものだ、と聞いた覚えがある。たしか藤子不二雄先生のまんがにもそういう作品があったと思う。宇宙旅行ものだったが、外的な状況が危機的になってくると、わざと憎まれるような事をして自分に他クルーの敵意を集め、その敵意を媒介にして彼らの結束を保つというウラ任務を担った人物が出ていた。金銭的報酬はよいが、他クルーには彼の正体はついに知らされることがないので、尊敬や感謝云々の精神的報酬はなし、という過酷な任務であった。まさに、死して屍拾うもの無し、である。
    平時においても、場を和ませて気分を引き立たせる人物って、けっこう重要な役割なんだろうなと思う。黄門様の足取りを見て頃合いかなと思ったら「ご隠居ぉ、あっしはもうくたくたで」云々とふらついて見せたり、宿場についたら土地の旨いものとか案内して晩飯どきも座を盛り上げたり。いや危機においても、たとえば偽黄門一行が現れたら「うひゃあ。あっしは何が何だかもうわかんねえや」とかあわてて見せて、助さんに「落ち着け八」とか言わせて助さん自身の動揺を解くとか。それを意図してやるか天与の感覚でやっているかはよく分らないけれども。でも、目立った業績はなんにも上げていないように見えて、彼がいなくなるととたんにチーム全体の業績が落ちるという存在は、案外とどこにでも、すくなくとも上手くいっているチームには高い確率で、あるのではないかと思う。
    ひょっとしてあちこちの病院で診療科閉鎖とかになってるのも、単に人数が減って負担に耐えきれなくなったというばかりではなく、厳しくなる一方の状況において、単にうっかりしているだけとしか見えない八のような人がまっさきにいなくなった結果ということはないだろうか。無駄な奴を放逐してリストラしたと思ったら云々で。

  • ドラえもん25巻

    ドラえもん (25)
    藤子・F・不二雄 / / 小学館
    ISBN : 4091405053
    「のび太の結婚前夜」が収録された巻である。結婚の前夜、しずちゃんのお父さんが娘にのび太を評して語る「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」という台詞は、たしかドラえもん全話を通じて屈指の名台詞とされていたような記憶がある。が、狭量な私には耳が痛い。
    これはのび太のみならず、ゴルゴ13にも通じる美徳かと思う。彼はいかなる主義主張・イデオロギーにも拘らず依頼を遂行する。それは彼が信じるもののなにもないニヒリストだからとも言われるが、私はそれは皮相な見方だと思う。時として彼は熱い心情を露呈する。例えば「命がけの依頼」に対して破格の低価格で任務を引き受けることが幾たびかあった。標的に対して自らの怒りを表明することもあった。彼が主義主張と無関係に見えるのは、彼が根源的なところで依頼人のしあわせを願い、依頼人の不幸を悲しむことができるからではないかと思う。
    それにしても、と、のび太としずちゃんの結婚に際してはいつも思う。しずちゃんは何故にのび太の嫁で主婦なのか。公認会計士の試験に19歳で合格してマッキンゼージャパンとかに就職したりしてるんじゃないのか。
    しずちゃんがのび太との結婚を決めたのはのび太のダメさが放っておけなくて、だったと思う。のび太の危機を救うのがしずちゃんの意向とすれば、長じてしずちゃんはゴルゴが世界中に構築している救援システムの一環を担ってるんじゃないかとも思う。ゴルゴが日本で窮地に陥った際は「しずちゃんにたすけられる」ことになるんじゃないかと。
    しずちゃんが、のび太の本業がゴルゴだと知っているかどうかは定かではない。もし知っていたとしても「報酬が10倍アップする新・知的狙撃術ー旦那をGOLGO化する方法」といった本は出さない方が無難だと思う。ゴルゴは惚れた女でも(しずちゃんをさしおいて浮気だよね)必要とあれば撃っている。撃った後、じっと照準器の中で彼女の乗ったモーターボートを見送るところに、ゴルゴが中身空っぽの人間でないことが現れているにせよ、撃つときは撃つ。「人を殺すときには余計なおしゃべりをしている暇に引き金を引くことだ」という名言をさえ残しているほどだ。
    ゴルゴ13の過去はのび太だった説

  • 獄窓記 再生のナラティブ

    獄窓記
    山本 譲司 / / ポプラ社
    ISBN : 459107935X
    本書において、著者が描くところの著者自身は、入獄前の政治家時代には自分の行為の犯罪性にうすうす気づいていても目をつぶる愚か者であった。入獄後にはあらためて、活動の重点を福祉にも置いていた国会議員でありながら障害者福祉の実態を知らなかったという愚かさの自覚が付け加わる。その自分が逮捕から実刑判決におよぶ入獄前の体験や、獄中生活の体験によって覚醒していく。獄中では、自らの受刑者としての体験に加え、障害を持った受刑者を糞尿にまみれて世話した体験も加わって、壮絶としか言いようのない体験をしている。その体験を経て再生した自分を語る物語である。
    あくまでもこれは彼が彼自身について語った物語である。獄中生活を終えた自分自身を立て直すために、彼にはこの物語を語る必要があった。自身を正当化するという目的をもった行動ではなく、自身を解釈するためである。まずは自分自身に対して現時点での自分の立ち位置をはっきりさせるために、彼はこの物語を彼自身に語り聞かせる必要があった。それがはっきりしないと彼は先に進めない。先に進めず獄中生活を終えたばかりのまま立ちつくしていては彼は救済されない。
    そう言う意味で、本書は優れた「ナラティブ・アプローチ」の症例報告である。
    冷めた賢しらな目で本書を読めば、この物語の主人公はいささかイノセントに過ぎるという印象を受けるかもしれない。「客観的に見たら」どうだったのよという突っ込みは本書のどの部分にも可能である。しかしナラティブ・アプローチにおいて「客観性」などという概念は従来の特権的な地位を持たない。客観的じゃないと言えば攻撃として即有効だと信じ込むのはナイーブに過ぎる。
    そういう前提を置いてもなお、本書で著者が報告する、獄中の障害者達の境遇は衝撃的であった。獄中がもっとも生きやすいなどと明言されては、障害児の父としては暗澹とするばかりだ。まだ本邦の障害者福祉はそのような状況なのか。

  • インフルエンザワクチンは打たないで、なのだそうだ。

    インフルエンザ・ワクチンは打たないで!
    母里 啓子 / / 双葉社
    ISBN : 4575299995
    まだこの一派が生き延びていたのかと、まるで「バナナの皮で滑って転ぶ一発芸人」が正月のテレビで埋め草番組に出てきたような驚きをもって拝読した。いや、外来とかで親御さんにこの本について質問されたらどうしようと思って読んでみたんですがね。
    確かに私も外来ではインフルエンザワクチンをそれほど熱心には推奨していない。ふだん慢性疾患やらリハビリやらで定期的に拝見している子には、定期受診のおりに接種したりはする。病院職員は全員接種するべきだと思う(むろん自分は毎年接種してますよ)。でも普段元気な子が臨時に受診したような一般外来では、とりたてて薦めることはしていない。打つなとまでは言わないが。だからインフルエンザに関しては、じつはあんまり見解の相違がなかったりするかもしれない。しかし返す刀でワクチン全般について腐してあり、とくに麻疹についていろいろ聞き捨てならないことを言ってるんで、本書について質問されたら、たぶん、そんな本は捨てろと言うと思う。
    本書は伝統的な予防接種反対派の啓蒙書である。ワクチンの効果については理論的な穴が少しでもあれば全面的に効かないことにされ、副反応については逆に少しでも理屈の上で関連づけられそうならすべてワクチンの悪い点となる。ワクチンを普及させようとするのはそれで金儲けしようとたくらむ企業の連中か、危機管理の責任を逃れようとするお役人の連中かどっちかだということにされている。著者のような専門の「ウイルス学者」ではない、我々一般臨床に居る面々は、仕事に追われてそういうことも勉強していないから医者に聞いても仕方がない。云々。論立てが、飛来した宇宙人を米国政府が隠蔽していると主張する類の書物によく似ている。本書に関しては、いちど、と学会の山本弘先生にご検討を賜りたいと思う。
    効果を信じるのにも副作用を否定するのにも、過ぎるほどに慎重であること。それは医薬品を評価するにあたって当然とするべき慎重な態度と言えるのかもしれない。しかしだ。昨今成人に麻疹が流行したのは麻疹のワクチンを打つようになったからだなどと茶化したあげく、

    たしかに、はしかを防ぐには今やワクチンの追加接種が必要なのでしょう。残念ながら、ワクチンによってはしかを撲滅しようという世界の大きな流れの中では、もうしかたのないことのようです。けれど、たとえはしかにかかり、症状が重くなり肺炎になったとしても、今は抗生物質を始めとして、治療する手立ても整っているし、なにより、生活環境も栄養状態も、人々の体力も、昔とは比べ物になりません。この現代で、はしかがそれほど恐ろしい病気でしょうか。

    などとうそぶかれると、医薬品を扱う態度以前にもうちょっと基本的な医療関係者の道徳ってものがあるだろうよと思う。たしかに二次感染の肺炎なら抗生物質も使えるかもしれんが、麻疹ウイルスそのものによる肺炎をどうやって抗生物質でなおすんだろう。治療する手立てったって、麻疹肺炎で人工呼吸管理なんていう患者の受け入れが可能な集中治療施設が日本に何床あると思って居るんだろう。いやいや麻疹はじゅうぶん恐ろしい病気ですよ。ウイルス学者の皆様にはどうか分らんけど、臨床の我々にとってはね。
    まして、以下の下りに私は激怒したのだが。

    欧米諸国では、国内ではすでにはしかはなくなり、国外から持ち込まれるはしかだけになっているといいます。日本ははしかを輸出しているとアメリカに非難されることがありますが、それほどワクチンを徹底しているアメリカで、はしかをちょっと持ち込まれただけで迷惑なほど流行してしまうというのも、変な話です。

    この人には道徳とか人倫とかいう概念の一番基本的なところが決定的に欠けている。医学的知識や一般的な想像力はむろんのこと。日本から到着したての、英語もままならない日本人に「はしかだよ」とか言ってERにやってこられたら迷惑なのは当然じゃないかと思う。AIDSや悪性腫瘍の子だっているだろうし、そんな病気でなくても、母体由来の免疫が切れてからワクチンを接種するまでの空白期間にはどこの国の赤ちゃんだって罹患する危険はあるのだよ。それを「ちょっと持ち込まれただけで」ねえ。はあ。
    本書の著者は知らないことなのかも知らないけれど(知ってて本書に記載してないんなら不誠実きわまりないことだし、そんな不道徳なことをする人が専門家を名乗るなんて厚かましいのも程があるってものだから、たぶん彼女は知らないんだろう)、麻疹は撲滅できるのである。麻疹ウイルスは亜型がない。ヒト以外の宿主がない。不顕性感染もない。云々。撲滅に必要な条件がそろっている。撲滅の過程で、野生に出回っている麻疹ウイルスが減り、接触の機会が少なくなると、1回のワクチンでは免疫記憶が限界以下に薄れる可能性も出るのは避けられない。2回接種が必要になる。だから昨今の成人麻疹の流行は、本邦における麻疹の撲滅がこれほど迅速に進むとは読めず2回接種の導入が遅れたための、いわば政策の不完全さの結果なのだと私は考えている。それを責めたてるつもりで言ってるわけじゃないが。
    それに麻疹が撲滅できたら、著者がお嫌いなワクチンを打つ必要もなくなるのですよ。いまどき種痘を接種してる子どもがいますか?それは人類が天然痘と共存するようになったためですか?

  • 彼らとてサディストではなかったのだ

    「イェルサレムのアイヒマン」から気になったことをいろいろメモ。自分の仕事はしんどいけど尊い仕事だという思いこみに冷や水を浴びせられるような記載がいろいろあったので。

    人殺しとなったこれらの人々の頭にこびりついていたのは、或る歴史的な、壮大な、他に類例のない、それ故容易には堪えられるはずのない仕事(「二千年に一度しか生じない大事業」)に参与しているという観念だけだった。このことは重要だった。殺害者たちはサディストでも生まれつきの人殺しでもなかったからだ。反対に、自分のしていることに肉体的な快感をおぼえているような人間は取除くように周到な方法が講ぜられていたほどなのだ。(同書p84)

    彼らは後世に語られているような変態ではなかった。自分は彼らとは違うから彼らのような過誤は犯さないというのは浅はかな思いこみである。彼らが自分よりも下衆な連中だったとは限らない。私もまた彼らの立場であれば彼らと同じことをした可能性がある。さらに、こちらのほうが恐ろしい可能性だが、私が彼らと同じほどに「容易には堪えられるはずのない」困難な事業に献身するつもりで従事した仕事が、現代あるいは後世の他者から見れば、彼らの所行と同じほどに下劣な仕事と評価されるかもしれない。そして私もまた彼らと同様のサディストとして歴史の記憶に残るかもしれない。

    してみると問題は、良心ではなく、正常な人間が肉体的苦痛を前にして感じる動物的な憐れみのほうを圧殺することだったのだ。ヒムラー—彼自身このような本能的な反応にどちらかというと強く悩まされていたほうらしいが—の用いたトリックはまことに簡単で、おそらくまことに効果的だった。それは謂わばこの本能を一転させて自分自身に向わせることだった。その結果、<自分は人々に対して何という恐ろしいことをしたことか!>と言うかわりに、殺害者たちはこう言うことができたわけである。自分は職務の遂行の過程で何という凄まじいことを見せられることか、この任務はなんと重く自分にのしかかって来ることか!と。(同書p84)

    「自分は職務の遂行の過程で何という凄まじいことを見せられることか」か。時にこれまでの記事でそのようなことを私自身書いたような記憶がある。この任務はなんと重く自分にのしかかって来ることか!と、実際今も思わない日のほうが少ない(むろん、そう思う自分が実は好きだったりもするのだが)。でも、そう思えるからってその仕事が本当に崇高な仕事だとは限らないと、その最悪の歴史的実例ということだな。これはかなりの冷や水である。液化窒素かもしれんねというくらい冷たい。
    それにしても、ヒムラーと言えば、私の読んだ娯楽小説では、冷酷で無表情で血も涙もなくて、あんまり冷酷だから悪の組織ですら人望が集まらずついにトップになれなかった男(たしかショッカーにもそんな奴がいなかったかな)というイメージだったのだが。その彼も「このような本能的な反応に強く悩まされていた」のか。意外。

    そして文明国の法律が、人間の自然の欲望や傾向が時として殺人にむかうことがあるにもかかわらず良心の声はすべての人間に「汝殺すべからず」と語りかけるものと前提しているのとまったく同じく、ヒットラーの国の法律は良心の声がすべての人間に「汝殺すべし」と語りかけることを要求した。殺戮の組織者たちは殺人が大多数の人間の正常な欲望や傾向に反するということを充分知っているにもかかわらず、である。第三帝国における<悪>は、それによって人間が悪を識別する特性—誘惑という特性を失っていた。ドイツ人やナツィの多くの者は、おそらくその圧倒的大多数は、殺したくない、盗みたくない、自分らの隣人を死におもむかせたくない(なぜならユダヤ人が死にむかって運ばれて行くのだということを、彼らは勿論知っていたからだ、たとい彼らの多くはその惨たらしい細部を知らなかったとしても)、そしてそこから自分の利益を得ることによってこれらすべての犯罪の共犯者になりたくないという誘惑を感じたに相違ない。しかし、ああ、彼らはいかにして誘惑に抵抗するかということを学んでいたのである。(同書p118)

    自分の内なる声を「誘惑」と考えて、その誘惑に抗して仕事に邁進する・・・しかし実は人倫に適うのはその「誘惑」の声のほうであって、その時点では倫理に適うと思って従事した仕事のほうが実は唾棄すべき仕事であったと、それは本人にとってはまったく悲劇である。傍から見ると残酷な喜劇かもしれんがね。本人にとっては全く悲劇だ。
    もちろん、殺される方にしてみれば、悲劇だなんてそんなこと知ったことではないのだが。

  • 海を自由に旅したい

    海を自由に旅したい―単独シーカヤッキング(カヌー)日本半周旅漕記
    東条 和夫 / / 文芸社
    ISBN : 4835571851
    一読して後悔している。というか前書きを(数ページにわたって「シーカヤックに出会うまでの著者の自伝」が書いてある)読んだ時点で気持ちが萎えた。買う前によくよくamazonに掲載された本書の表紙を見ておくべきだったと思う。『「夢への挑戦」少年の夢が中年男を海へといざなう』という赤い字の惹句にもうすこし警戒感をもつべきだったと思う。俺が俺がが強すぎる。海やカヤックではなく「カヤックを漕ぐ自分」のことを語りすぎる。語ってはいけないというわけではないが、バランスというものがある。
    中国四国九州の海岸線をほとんど周回するような単独長距離シーカヤッキングが、珍しい体験であるのはよろこんで認めよう。月並みさなどかけらもない、実に興味深い体験である。それに惹かれて私も本書を購入したのである。しかし、まだ俺は若いと主張する「中年男」など珍しくも何ともない。自分を少年になぞらえるなど月並みすぎて痛々しい。自虐だと分かってやってるなら芸風かもしれないが。
    食材も道具も一流のものを揃えた「男の料理」を、作った本人の自慢話を延々聞かされながら喰わされたような読後感である。食材が良いから不味いとは言わない。しかし料理番組の紹介には「素材の良さを生かした」と評される類の味ではある。プロの料理ではない。
    本書は自費出版なのだろうか。まともな編集者は付いてなかったのだろうか。著者が文筆業を専門としていないのは経歴からも明らかだし、素材じゃなくて自分が語りすぎるってのは素人にありがちな陥穽だと思う。それが著者をおとしめる理由には決してならないが(貶める資格が自分にあるとも思えないが)、しかし編集者の職業意識を疑うには足ると思う。

  • 約束の地で

    約束の地で
    馳 星周 / / 集英社
    ISBN : 4087748782
    暗い短編小説集だった。半端に暗いと読んでいて暗澹とするばかりなのだが、本作のレベルまで暗いと読後に不思議な余韻が残った。不快感は残らなかった。当直明けの、どこか頭の芯に澱みが残ったような午後に読んだのだが(週休で運良く帰れたのですよ)、むしろ浄化されたような読後感であった。
    誰も幸せにならない。将来に幸せが待っている見込みもない。誰の未来もことごとく閉塞している。みんな懸命ではあるのだが、しかしその懸命さが有効で実践的な方向に働くことがない。ご都合主義的な奇跡も起きない。やるせないと言えばまことにやるせない。
    物語の脇役のひとりが次の短編の主人公として登場するのだが、最後の短編に最初の主人公が脇役として登場するものだから、短編小説集そのものが円環状に閉じている。

    著者の作品を読んだのは実は初めてである。暗黒小説の書き手であるという。その能書きからして不道徳な作風なのかと思ったが、本作は意外にストイックな感じがした。暴力礼賛は気配すらない。暴力が目的を達成する話はこの短編小説集にはひとつも出ない。
    この著者は、暴力に晒された内臓や神経が精神をどれだけ裏切るかを正確に知っている。殴られる痛みが感覚的な痛みにとどまらず殴られた者をどれだけ奥深くまで浸食するかを知っている。知っていて正確に描写するが、それが告発調を帯びるほど饒舌でもない。その一歩を踏み外さぬ節度が感じられた。
    私ごときが身の程知らずな言い方かもしれないが、この著者の描写力は群を抜くものがある。舞台となる北海道の深山も、寂れた町や造成地も、読んでいてそこに吹く風にこちらの体温まで奪われるような感じがした。過酷で陰鬱で、そこに住んでいるだけで気持ちがすり減りかじかんでいくような土地。

  • 京都の平熱

    京都の平熱 哲学者の都市案内
    鷲田 清一 / / 講談社
    ISBN : 4062138123
    今日は一日病院に出なくて済む日だとなると、なぜか朝早くから目が覚めてしまって午前中に一読した。京都の市バス206系統沿いに京都市を一巡して、コース沿いの風物を色々と論じる書物である。
    京都には様々な奇人があるが、彼らはここまでなら社会は受け入れてくれる(逆にこの一線を越えたらアウト)という実例を示してくれるのでよろしいという記述にはなるほどと思った。人格のみならず、服装だって京都には舞妓の豪華絢爛な衣装と托鉢僧の墨染めという両極端があるから、あの間のどこかに入る服装なら京都では受け入れられるということなのだそうだ。
    田舎の息苦しさは、そういう実例がなくて、自分の立ち位置が許容される立ち位置なのかどうか分からないところからくるのかもしれないなと思った。確かに変人は田舎にも居るけれども、しょせん人数が限られるから変わりかたの度合いも幅が狭い。まして幼い頃はそういう人の変人ぶりと、彼らへの悪口ばかりが目に触り耳につき、そういう人らでもそれなりに受け入れられているんだなということはなかなか見えにくい。こどもの頃は、故郷の田舎に大人になった自分の居場所があるとは、感覚的に、シンプルに信じられなかった。それがなぜなのかという疑問が本書で少しは解けたような気がした。
    そんなこんなでなるほどとは思ったが、しかし本書に紹介される奇人は本当に奇人ばかりで、読んでて幾ばくか不愉快ではあった。話に聞いて興味深がる程度のおつきあいにとどめておきたいものだと思った。いくら田舎をもがき出ても、しょせん私は京都の人ほどには懐が深くなれないのだろう。こういう感覚的な許容範囲は死ぬまでそうそう変わらない。