当直が明け、土曜午前の外来も済ませた。これから大学へ出向く。
来月からは自院でのfull timeの勤務に戻る。来月分のシフトをそろそろ組みはじめる。8月は主立った学会はないが、いくつかセミナーが開催される。また夏期休暇をとる先生もあるだろう。研修で浮き足立った頭をもとにもどすには、手頃な作業である。
当直が明け、土曜午前の外来も済ませた。これから大学へ出向く。
来月からは自院でのfull timeの勤務に戻る。来月分のシフトをそろそろ組みはじめる。8月は主立った学会はないが、いくつかセミナーが開催される。また夏期休暇をとる先生もあるだろう。研修で浮き足立った頭をもとにもどすには、手頃な作業である。
新生児に気管内挿管するときは、左手の小指球から小指・環指のアーチをつかって新生児の下顎を固定し、拇指・食指・中指で喉頭鏡を持って喉頭展開する。いわば、左手を中指と環指のあいだで縦に割って、各々をひとつの単位として、連動して用いることになる。
それはたとえば、ナイフで鉛筆を削る感覚に似ている。左手に鉛筆を固定し、右手に持ったナイフを鉛筆に当てて、左手の拇指で押す。左手は二つの物体をコントロールすることになる。この場合、右手は添えているだけ。気管内挿管なら、右手に持った気管カニューレを差し込んでいくのだが。
大学で、若い医師が挿管にいちど失敗した。展開してカニューレを差し込んだのだが、進まないと言う。しかしそこで1サイズ細い径で挿管された日には、あとあと呼吸管理の困難さに泣かされる羽目になる。そこでまず私が喉頭展開して、展開したまま彼女に場所をゆずり、カニューレを差し込ませるところだけやらせてみた。幸い、するっと入った。赤ちゃんも息をふきかえした。まずはよかった。
たぶん彼女も声帯は見えてたんだろうと思う。カニューレが入らなかったのは、喉頭鏡の角度がいまひとつで、気管が屈曲していたんじゃないか。と、後になってこの記事を書きつつ反芻して分析している。ついつい頸部を過伸展しがちなんだけど、新生児の挿管では成人よりもはるかにシビアにsniffing positionにこだわらなければならないってことだ。その場でクリアにそう説明してやれれば、若手のためにもなったのだろうが、情けないことにそういう急場では手は動くけど口がなかなかついていかない。だいいち、今はこうして平然と記事を書いてるけど、そのときは内心かなり動転していたし。
特別支援学校の面談で、自立した生活をするために習得しなければならないことは何かと聞かれて、息子は「猫の世話」と答えたとのこと。飼う気なのだろうか。
まあ、誰にも咎められず猫が飼える生活が実現できたら、親としても本望かもしれない。
結局、大学へ行っていちばんよく見えたものは、自分の医者としての現状であり、自院NICUの姿であり。
自転車で行き来できる距離に二つも三つもNICUを設置しても無駄だろうと研修前には思っていたものだが、研修で実際に大学NICUをみてみると、まあ各々に各々の役割があるんだなということが腑に落ちた。うちはうち、大学は大学。まとめればマンパワーも集約できてよろしかろうが、あえてそれを二つにわけて近距離に性格の違うNICUを二つ置くというのも、それはそれで利点があるのかもしれないと思った。
うちがあればこそ、大学は胸を張って「そんなありふれた病気は大学で診る病気じゃない」と言えるわけだし、我々も大学があるから、評価の定まらない先端医療に手を出さないで済む。どっちもこなせるような規模の大きいNICUがあれば、この両者が近距離に並立する現状よりもよい医療が提供できるかというと、今の自分の感想としては、できるかも知れないけれど、実現のためにはよほど意識して、病棟全体が先端医療の慌ただしい雰囲気に巻き込まれないようにしないといけない。
うちの周産期部門を切り離して大学に併合するような大がかりなリストラなんてまず無理なんだから、当面は並立で行くのが最善だ。並立で行くからには、並立していたからこそこんな善いことがありました、みたいなことが幾ばくかでも言えないと世間様に胸を張れないようにも思う。
そのとき、僕はこれまでのすべての2位のことを考えていた。
これまでのすべての2位、か。村上春樹みたいなコメントだ。詩人なんだろうか。
午前中は自院で小児科一般外来。昼で切り上げて、さて大学へ行くかと思っていたら、自院NICUの若手からお呼びがかかった。NICUの赤ちゃんがひとり予想外に悪化しているとのこと。電話を聞いてみたら、自分が何をするべきかは彼自身も分かっているように感じられた。背中を押してやるだけだなと思った。
NICUに行ってみたら、若手ら3人があれこれと話し合って、仕事を分担して、この子の処置を着々と進めていた。私はうしろでそれを眺めながら、うちのNICUも世代が変わりつつあるなと思った。嬉しいことだ。
ラスト1チャンスの血管確保をする段になって、若手が躊躇していたので代わった。自信がないとかで躊躇すると、針先のスピードが鈍る。のろい針からは血管が逃げる。覚悟の決まらない血管確保は成功率が有意に低い。
しかし若手の成長のためを考えると、こういうときに代わるべきなんだろうかとは、いつも思う。血管確保は基本的な処置だが、基本の常で奥の深さは限りない。駆け出し指導者としての私には、自分がやるならともかく、後進がやるときの成功率を読むのはかなり難しい。処置はやらなきゃ上達しないが、できそうにもない難易度に手を出したところで自信をなくすばかりで身にはつかない。なにより処置は成功してこそ痛い目を見る赤ちゃんに申し訳が立つんだけど、痛かった失敗したではどうにもよろしくない。できるできないの境界の、できる側にわずかに寄ったあたりの難易度を各人に見切ってやらせていくのがいいんだろうけれども、そんな達人の領域には私はあと20年ほどは到達できそうにない。
訃報の記事に一緒に書くのは憚られて項を変えるが、大学以降だったと思う、「『星を継ぐもの』を読んでハードSFに目覚めた、なんて中学生並みで微笑ましいよね」みたいな論評を読んだ。そうか『星を継ぐもの』を読んで感動していた俺はダメなのかと思った。
今ならさらっとスルーできるんだろうけれども。
あるいは、せいぜい由緒正しいはあどSF読んで引き篭もってやがれとか、悪態をつくんだろうけれども。
なにさま、当時SFファンのコアだと自認していたような人らが、そんな、平家にあらずんば人にあらずみたいな思い上がったことを言ってたから、中学生並みですがそれが何か?という私を含め多くの読者をラノベの方へ逃がしたんじゃないかと思うのだが。
月の裏側で人間の死体発見─赤い宇宙服に「イチバァン!」の文字 : bogusnews
亡くなったことをbogusnews経由で知った。記事を読むとbogusnews編集主幹のリスペクトが伝わってきた。まだ69歳だったというのに軽く驚いた。
『星を継ぐもの』に続く3部作を読んだのは高校のときだったか中学の時だったか。学校の図書館にあったというのは憶えているのだが、どっちだったか判然としない。4作目は読んでないな。この機会に読むかな。早川書房も増刷かけるだろうし。
学会は最終日。今日もまず大学へ寄ってからJRで神戸へ行く。
今日は生命倫理に関して集中的に見てきた。会頭の意向もそのへんにあるらしくて、今日はいちにち倫理の日ともいうべきプログラムだった。ことに、Steven R Leuthnerという人の “Fetal Palliative Care”という講演が秀逸だった。米国の人の優れたところは観念にではなく実務に現れるのだなと思った。自分たちは何に気をつけてどういうケアをしている、と淡々と述べていくだけだし、その根拠もいささか泥臭いほどのプラグマティズムだと見受けられたが、それでも彼ほど深くなるとその深さが質に転化しているような気がする。この人の文献をいくつか読んでみないといけない。
松田一郎先生の「日本の文化、価値観を元にした生命倫理を考える」がその次に続いたが、さて日本の文化や価値観とはなんぞやというところで、さいきん宮本常一先生やなんかの民俗学や歴史の本をいろいろ読んで、ひょっとして医者がイメージする日本の文化や価値観ってひどく一面的でないかとも思ったりしていたところだった。他国からの侵略を受けたことのない和の国、ねえ。たとえばさ、いったい戦国時代の戦争ってのは戦国武将が世直しをしたくて戦ってたとでもお思いで?
日本人って、生命倫理みたいなことでも、原則が上から降ってくるってのじゃあなくて、一件一件の事例から湧き上がるようにボトムアップでいつのまにか横並びになってるってのが伝統的なあり方じゃあないかとも思った。大きな物語じゃあ日本人は救えないし、「倫理」とか原則とか言った時点ですでにそれは日本的な概念じゃないんだ。などと、宮本常一先生の「忘れられた日本人」を読んで、昔の日本人ってこんなに物事を話しあう習慣を持っていたんだと驚いたりしたことも思い出して、会場で考えていた。
午後は18トリソミーの子らに対する医療的介入の倫理をあつかったポスター討論やらワークショップやら見てきた。こういう倫理の話になると「話しあうことが大事ですね」という、しごく当たり障りの無い、朝日新聞の社説みたいな結論になるんだけど、そしてそれは日本人の倫理の出来上がり方が帰納的・ボトムアップ的なものだと考えればまあ当然の落ちなんだけれども、それはどうなんだろう、そんな結論を出しにわざわざNICUを出てみなさん神戸まで来たのか?そんな土産話で留守番役は満足するのか?神戸牛をキログラム単位で土産に買わんと角が立つんじゃないか?
こういう温い結論とか吹っ飛ばすような画期的な、従来とは一線を画すような高レベルの倫理が語られないものかなとも思う。RDSに対するサーファクテンのような、PPHNにたいするNOのような、従来の小賢しいちまちました苦労が跡形もなく吹っ飛ぶような異次元のものが登場しないかなと。でも生命倫理ではそんなのが出てきても信用しない方がいいかもなとも思う。ふと気がつくと虐殺収容所に送り込む子を選別しているようなはめになりかねない。