臨床力ベーシック 

臨床力ベーシック―マニュアル使いこなしOS (CBRレジデント・スキルアップシリーズ (2)) (CBRレジデント・スキルアップシリーズ (2))
黒田 俊也 / / シービーアール
マニュアル使いこなしOSと銘打ってあるので、てっきり、医者の脳内で各種情報がどう処理されているかといった、いわばメタ診断学のような内容を期待していた。しかしレジデント相手の書物でそんな高尚な内容を期待しても無理なんだろうな。実際には、システマティックレビューで網羅的に診察する方法の推奨であった。
その方法論は、初学者なら、たしかに、一度は通らなければならない道である。私など、もはやとうてい初学者などと言ってられない年代の医師にも、時には思い返してみるのもためになることだ。そういう意味では、本書を読んだことには大いに意義があったと思う。
しかし病院中のベテランがいちいちシステマティックレビューを毎回やれるかどうか。外来で一人30分かけられる病院ならそれも可能だろうが、応需義務と保険診療の制約の下で医師全員がそれをやった日には病院経営が立ちゆかないだろう。せめて初診外来だけでもその程度の時間がかけられたらと思うのだが。
実際にはシステマティックレビューなんて贅沢な手間と時間の使い方が許されるのは病院の医師のなかでもごく一部の人数に限られる。レジデントとその指導医とか。○○リーグ医師とか言ってもてはやされる指導医たちがシステマティックに診ている陰には、大人数かつ大多数の患者さんを「捌く」かのように診ている医師があるはずなのだ。彼らの働きがなければ病院は回らない。いかに天下のK田でもね。
にもかかわらず、そういう医師に対する「あんなふうにはなるなよ」とでも言うかのような蔑視的な視線が感じられて、私は本書にはなかなか好意的になれない。
本書には繰り返し、たくさんの患者さんを診るが診療が甘い医師と、数は診ないが奥深い診療をする医師とが対比され、前者の見落としを後者が発見して一件落着という逸話が語られる。一部始終を見ていたレジデントはああ後者のような診療をしなければと深く納得する。
しかし来院する患者を拒めない日本のシステムにあっては、来院された患者さんは全員その日のうちに拝見しなければならないわけだから、前者の働きがなければ後者はそのスタイルすら保てない。その視点が先達によって明示的に示されないと、世間を知らないレジデントはどうしても前者をバカにするようになる。かつての私がそうだったように。
にもまして、数はこなすが診療の浅い医師と数はこなさないが診療の深い医師の対比って、それはほんとうに世間によくある話なのだろうかと疑問である。臨床にも世間一般にも、仕事が速くて的確な人と仕事が遅くてしかも出来の悪い人との対比のほうが、よほどよくあるお話のように思えるのだが、読者諸賢の身の回りでは如何だろうか。著者を中傷するようで恐縮だが、数はこなすが診療の浅い医師云々の構図は、仕事の遅い人が抱く願望あるいは幻想的な存在なのではないかと、昔より多少は数をこなせるようになった私は思うのである。昔は俺もそんな仮想敵をあいてにいろいろ憤慨していたなあと。いやまあ、全部が仮想だったかどうか検討し始めるとオフラインで色々とカドが立ちそうだから止めておきますが。
仕事が速くて的確な医師は、むろん必要時にはシステマティックレビューもするんだろうけれど、他にもいろいろな認識システムを使いこなしているはずなのだ。なかば無意識的に運用されている、そういうシステムがどういう構造になっているのか、分析したような書物を是非読みたいものだと思う。

聾学校で気管切開に関する講義をしてきた

NICUの退院以来外来で診察している子が聾学校の幼児部に通うことになった。気管切開している子は久々であるからと、招かれて気管切開に関する講義らしきものをしてきた。人手不足でこういう用事は当直あけの週休を使わざるを得ないし、前日から私自身がひどい喘息発作を起こしていたりして、いろいろコンディションは悪かったのだが。
質疑応答では日常生活の具体的な場面についていろいろ質問があり、かえって私のほうが勉強になる感があった。砂遊びで砂を吸い込んだらどうしようとか、プールはどうかとか。なるほど幼児の生活にはそのような場面もあるのだなと改めて思いおこした。自分の母親が幼稚園の先生だったのだから母の仕事を思い起こせば多少は想像もついたろうにと反省した。無認可幼稚園の教諭の給料をほとんどつぎ込む形で医者にしてもらった小児科医なのに恩知らずなことだ。
何にせよ、入園の時点で通園先を訪問できて先生方とも話せて、有意義なことではあった。今後の診療の参考になる上に望外の講演料まで頂いてしまった。新生児医療や救急なんぞやっている身では、京都府がお金をくれるなんて珍しいこともあるものだと皮肉の一つも言いたいところではあったが。
気管切開に関するよりもむしろ嚥下に関する質問が多かった。考えてみれば聾学校なんだからSpeech therapistがいらっしゃって当然なのだな。あんまり気にしてませんでしたと白状すればよかったのかな。その方面に疎いのは見え見えだったろうし。てひどい誤嚥性肺炎を生じなければ楽しい食事を優先という今までの方針は決して間違ってはいないと思うのだけれど、あんまり一度にほおばりすぎてむせていますと言われては返す言葉がなかった。今後はもうすこしお行儀良く食べるという指導も必要そうだ。
京都府立聾学校は御室仁和寺の北側に隣接している。「徒然草ゆかりの仁和寺」と観光看板に対処してあったが、たしか徒然草には仁和寺の僧侶の知的水準についてあまり誉めたコメントがされてないと高校で習ったように記憶している。看板は物事にこだわらない仏教的な徳の表れなのか、ただの自虐ネタなのか、よく分らなかった。
遠いと思っていたが左京区からだと市バスで乗り換え1回ですむ。59系統は御室を出た後は竜安寺・金閣寺や立命館・同志社・京都ライトハウス前など京都市北部の名所旧跡と主立った障害者施設や有名大学を一連回っているようだ。私が降りた後は府立医科大学のほうへ去っていった。

マイクロソフトでは出会えなかった天職

マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった
ジョン ウッド / / ランダムハウス講談社
ISBN : 4270002484
著者の業績をけっして貶める意図ではないが、おそらく、この凄い人も、ただ単に休暇で訪れたさきの貧しさ悲惨さだけでは動かなかったと思う。心を痛めつつマイクロソフトの仕事に復帰して、そのまま北京でのマイクロソフトの販路拡大に奔走し続けたことだろう。彼を動かしたのは、貧困ではなくて、その貧しい中にあって飢えたように学んでいるこどもたちの熱意やぎらぎらした欲求の貢献がかなり大きいんだろうなと思った。
当直室で本書を読みつつ娘のことを考えたのだが。こうやって知識欲に目を輝かせながらネパールの山奥で英語の本を読みこんで育ってきた面々と、これからの人生で出会っていくことになるんだろうなと。彼らに太刀打ちできるほどの、そういうぎらぎらした生命力を彼女も備えているかどうか、ちょっと心配にはなっている。
些事ながら、著者は中国におけるビル・ゲイツ氏の不適切なふるまいにほとほと幻滅した様子で、それもまた著者がマイクロソフトを辞める遠因となっている。どうしてあれほどの大企業が、トップに据えた自閉症者にジョブコーチの一人もつけられなかったのか不思議でならない。

地頭力だそうだ

企業の採用試験において「地頭力」が重視されはじめていると、NHKの「クローズアップ現代」4月3日放送で報じられた。地頭力についてはNHKに先だってbogusnewsに詳細に報じられていたので興味はあったのだが、現実はbogusnewsよりもばかばかしいものだと感じられた。
「5大陸の中でどれか一つを消さなければならないとしたらどれを消しますか、その理由は何ですか」とか、「富士山を移動させるにはどうしますか:トラックとパワーショベルを使う前提で」とかいう、明らかに正解がない設問に答えられるのが、企業の求める「地頭力」なんだそうだ。ちなみに1問目はさすがに政治的影響を考慮してか解答例は示されずスルーされたが、2問目の答えはトラックの積載量から算出して300億回走らせるというものだった。はあ。
さきのグーグルの採用試験の問題ならともかくも、この例題のナンセンスさは何だと呆れた。大陸を消すって、大きめの火山が一発噴火しただけで気象は地球規模で変動するのに、一大陸を消して他が無事に残るわけがあるまい。最初に消えるか余波を喰らって滅ぶかの二者択一なのに、どれを消しますかもあるまい。「日本沈没」を第二部まで読むとよい。富士山を動かすって、あれは活火山である。山塊そっくり平地になるまで削っても後から後から吹き出てくるに決まっている。現在の山を構成する岩や土砂を他所に盛り上げたところで、現在地に新しく火山が盛り上がってきたら、その後に富士山と呼ばれるのは、たいがい現在地に新しくできた山のほうだろう。
「泣く子と地頭には勝てぬ」とは、昔の人はよく言ったものだと思う。大陸を消すとか富士山を動かすとか、まさに泣く子か地頭的な無理筋の発想である。こんな浅薄な設問で測定できるのは求職者の教養や思考力の深さではあるまい。求職者についてはどれくらい無根拠な法螺を平気で吹けるかであり、募集側についてはどれくらい無理筋な要求を他に課す企業であるかということだろう。NHKの特集でも、糸井重里氏の「企業も必死ですね」というコメントが秀逸であった。
私も職業柄、地頭はともかく泣く子の相手はずいぶんしてきたつもりだが、対戦相手としてはかなり手強い。地頭を採用するのに失敗した企業は、つぎはうちのNICUの泣く子たちに給料をくれることを考えてもいいのではないかと思う。大陸を消すならどれとか富士山を移動させるにはとかいう問答で採用されたような面々くらいには世の中の役に立つだろう。
とは言いながら私も答えを考えてみたのだが。1問目、大陸の中で消すならやっぱりオーストラリアでしょう。今後は島と呼ぶことにすれば大陸がひとつ消えます。2問目、山頂の一番高いところを削ります。削った土は噴火口を半周したくらいの場所に盛り上げればなお宜しいでしょう。山頂の位置が動けば地図上では山が動いたことになるのではないでしょうか。しょせん地頭でも泣く子でもない私にはこれくらいしか思いつかないが。こんなんで企業に採用されてもオフィスでは椅子ではなく座布団を重ねた上に座らされて仕事することになるかもしれんね。成績に応じて座布団が増えたり減ったりして。

考えない勇気、なのだそうだ

ふだん愛読している「児童小銃」を経由して、ココロ社さんの「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ!というエントリーを拝読した。その奇妙な明朗さも手伝って、全体主義国家の中央党が「その他おおぜい」的な位置づけの青年党員を対象に発行する機関誌の巻頭論文にはちょうどよい内容だと思った。いらんことを考えず党の指導に従って国家建設に邁進しよう、首領様の偉大さは君の意見ごときでは微塵も揺るがないんだから(でも、もちろん、首領様を疑うなんてことはないよね)、というような。
まじめな話、水伝や血液型性格診断のようなつまらないことを考えないことにするというのがどうして勇気の問題になるのか、さっぱりわからない。考え続けるほうがよほど骨折りではないだろうか。その労力を維持するのは勇気というより根気の問題だろう。
そういう、考えるに値しないことをあえて考える労力を維持している理由とは、考えるに値することを考えずに済ますための自分や他者に対する言い訳なのではないか。
だから、もしここで勇気を話題に持ち出す余地があるとすれば、それは、「そういう詰まらないことを考えることによって、直視するのが辛いことから逃避していないか」ということを考える勇気じゃないかと思うがどうだろうか。真の勇気とは、たとえば水伝を考えない勇気ではなく、「水伝のごとき疑似科学を持ち出さないと自分の言葉は生徒に対する十分な説得力を持ち得ていないのではないか」という恐ろしい観点から逃げずに考える勇気ではないのか。
格差の問題もまた、考えても這い上がれないのならと考えず自らの境遇に甘んじるのが勇気ではなかろう。ひょっとして自分の能力やらキャリア形成の戦略やらに見直すべき点がないのかと考えるのが勇気であろう。あるいは自分はもうどうしたってこの構造から逃れようがないとしか考えられなくとも、その構造のなかでいかに生き抜くかを考えるのが勇気であろう。そういう事を私やなんかの他人が言うのはポリティカル・コレクトネスに欠ける行為であるが、そして私は個人的にはそういう個人的資質をあげつらって社会的対策をおろそかにしようとする動きには批判的であったつもりだが、しかし本人が自分をそういう目で見直すこと自体は勇気あることだと思うのだ。その勇気を他者から強制するのはやはり間違ったことだとは思うけど、もしこういう案件に「勇気」という概念が介在する余地があるとすればそういうことではないかと、私は思う。

万年筆が欲しくなる本2 読者を「あんた」よばわり

万年筆が欲しくなる本 2 (2008年版)―あんたの万年筆がきっと見つかる… (2) (ワールド・ムック 714)
/ ワールドフォトプレス
ISBN : 484652714X
発売されたと聞いてアマゾンを検索して驚いた。「あんたの」というワイルドなつかみ文句がじつに斬新だ。顧客を「あんた」呼ばわりして客商売が成り立つ人ってゴルゴ13くらいしか知らない。この会社は大丈夫なんだろうかと思った。
画像を拡大してみると表紙には「あなたの」となっているからアマゾンのミスなんだろうけれども。こういうときアマゾンは発行元に対してどういう対応をするんだろうか。
万年筆が欲しくなる本―あなたの万年筆がきっと見つかる… (ワールド・ムック―HEART LINE BOOK (635))
/ ワールドフォトプレス
ISBN : 4846526356
スコア選択: ※※※※
じつは1冊目ならもっている。書斎に転がしておいたら、娘が目をまるくして眺めていた。要は価格帯ごとに主要各社の万年筆を写真入りで紹介してある書物なのだが、中の「ラブレターを書くために使いたい万年筆」と称する一節で、価格が10万円前後の万年筆をならべて紹介してあった。ラブレターを書くための筆記用具に10万円もつっこむようなバカな男にひっかかるんじゃないよと娘には注意しておいた。たぶんそいつはひどく自己愛の強い人間だからいろいろ苦労するよと。その万年筆をプレゼントにくれるならまだしも。

城繁幸「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」内田樹との対決

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708))
城 繁幸 / / 筑摩書房
ISBN : 4480064141
スコア選択: ※※※※※
土曜の午後(午前は仕事)、「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読した。
「若者はなぜ3年で辞めるのか」の続編である。どこへ行ったのかと括られると、いかにも落剥したような印象を与えるが、本書では「3年で辞めた」若者がその後もタフに働いている姿が報告されている。報告例では仕事の内容も報酬も充実していて、負け惜しみではなく辞めてかえって成功している。著者は、彼らの姿に照り返されていよいよ輝きを失う、年功序列に代表される昭和の価値観を本書でもてひどく批判している。
ひとりでは生きられないのも芸のうち
内田 樹 / / 文藝春秋
ISBN : 4163696903
スコア選択: ※※※
内田樹先生は近著「ひとりでは生きられないのも芸のうち」において、「若者はなぜ3年で辞めるのか」を批判している。要約すれば、城氏はけっきょく人生は金がすべてだと思ってるんだろう。こういう主張をする人間は、今は若い者の立場に立っていても、年老いたらこんどは老人の既得権を最大に生かして若者を搾取するんだろうから信用ならない。労働というのは他者のためになされることなのだよ。自分にあった仕事なんて行っててはいかんのだよ。云々。
その批判を内田は以下の問題提起で開始する。

私が考えこんでしまったのは、これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずなのに、この200頁ほどのテクストのなかで、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていなかったからである。

たしかに「若者は・・・」において城氏の著述はもっぱら現状分析にとどまっていた。しかし「基本的な問いが一度も立てられなかった」は内田先生最後まで読んでなかったでしょうと申し上げるしかない。この問いは確かに立てられていた。答えが出されていなかっただけである。その回答を城氏は本書「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」で示したと私は理解する。
城氏の「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読したうえでは、内田先生の批判はいかにも昭和的価値観の範疇を出ないもののように思える。釈尊の指に署名して上機嫌な孫悟空を彷彿とさせる。そもそも、城氏の分析によれば今の若い者は年老いたところで今の老人が享受している既得権など手にしようがない。そんなもん期待しようがないと見切りをつけて若者は3年で辞めていくのである。
「何をなしとげようとしているのか」という基本的な問いとおっしゃるが、それを上の世代が一度でも立てたことがあったのか?と内田先生に逆に問いたい。それを体を張って示す先達を職場に見いだせなかったこともまた、若者の離職に拍車をかけているのであると、城氏は分析している。何を?昭和の遺残組は滅私奉公と引き替えにした年功序列の出世しかなしとげようとしなかったじゃないかと城氏は反論しているかのように、私には読めた。
しかし、内田と城がまったく対立しているかと言われると、どうにも。結局この二人は似たような主張をしているだけではないかと、私には思えるのだがどうだろう。内田先生の、城君の言ってることは間違いなのだよという言に引き続く、人の世のなりたちは本当はこうなってるんだからねと説かれるその説諭は、ほとんど城氏と異口同音のように思えるのだが。振り返るに内田先生は城氏の分析する年功序列型のレールをずいぶん早くから降りてしまって我が道を進んできた大先達なのだから、けっきょく彼の来し方は城氏の理想に近いのではないかとも思える。城氏には、次の企画として、内田先生のインタビューを是非やって頂きたいものだと思う。案外と気が合って、おもしろい対談ができるかもしれない。
誉めるばかりでは済まさないという当ブログのポリシーに沿って、「3年で辞めた若者はどこへいったのか」に一矢つっこむとすれば、3年で辞めた連中の皆が皆そんなに信念を貫き通して成功してるわけではなかろうということは是非申し上げたい。城氏の尻馬に乗ってか乗らないでか早々と辞めてはみたけれどやっぱり上手くいかなかったよと、不遇をかこつ人も実際にはあるんじゃないかなと私は思う。それもまた人生と覚悟してその後の道をみずから切り開けるほどの強さを、城氏が思ってるほどの水準でそなえた若者は、城氏が思うほどには多くないんじゃないかと危惧する。内田先生が城氏のような思想を目の敵にされるのも、その危惧をお持ちだからなのではないかと思う。教え子が城氏に毒されて人生を誤るかもという危惧をお持ちなんじゃないか。
冷たく言い放つとすれば、城氏はそれにも答えを出しておられるのだが。最近の若者はなっとらんと昭和的価値観の企業の御大がぐちる中、優秀な若者はどんどん海外をめざしていると。

しかし、彼らの口からは、それら大企業の名前は一社たりとも出てはこなかった。なんと30人中29人が、外資系企業の名を上げたのだ(ちなみに、残り一人はテレビ局)。一人ずつ志望先を聞いていくうち、だんだんと顔がこわばっていったのを覚えている。
 大学名や就職活動に対する真摯さから見るに、彼らは90年代であれば、おそらく日系金融機関や官僚といった道に進んでいた層だろう。少なくともそんな彼らは「日本企業が割に合わない」という事実に、とっくに気づいているのだ。要するに「やる気があって前向きで、アンテナの高い学生たち」から、日本企業の側が見捨てられているわけだ。

 
ようするに嘆く君らの周囲にはそれだけ質の低い連中しかいないのだよということだ。とすれば、内田先生が、学生が英語ができないとか連立方程式がとけないとか仕事に関する覚悟が甘いとか、あんまり若者を腐してばかりいると、勤務先の大学で内田先生と縁のある若者の質がだんだんと知れてくるということはないのだろうか。学生に迷惑でなければよいのだが。

不機嫌な職場 医療崩壊の構造にも関与するところがあるのでは

不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書 1926)
河合 太介 / / 講談社
スコア選択: ★★★★
職場が「一人ひとりが利己的で、断絶的で、冷めた関係性が蔓延しており、それがストレスになる」ことの原因と対策を論じたものである。
良いところとして、個人の資質(マッチョだとかウインプだとか)とか世代論(団塊とかバブルとか)に一方的に責を帰して「お行儀を良くしましょう」みたいな説教を垂れるのではなく、社会科学的研究の成果をふまえて考察してあるのが快い。最終的には、そっと、それでも互いに手をさしのべあうことには意義があるのだよと述べてあるのだが、それも個人の努力のみで実現しようというのではなく、職場のシステムを変えることに重きをおいて実現を目指してあるのが、個人的責任と環境の関与のバランスがほどよくとれた論考だと感じられる。ひねくれもせず多責的にもならず、すなおに読める良書だと思う。
本書の第2章で論じられている、職場の不機嫌さをうむ問題点「組織のタコツボ化」「評判情報流通と情報共有の低下」「インセンティブ構造の変化」はそのまま、崩壊の進む医療の現場で起きていることのように思える。医療の高度化にともなう専門分化・タコツボ化はある程度は避けられないことだし。インセンティブ構造の変化にしても、世間の人はいまごろようやく自分のキャリア形成を優先するようになったらしいが、医者は昔から自分の診療能力の向上を儲けより優先させるのが美徳とされてきたものだし。こういう問題点は世間の先陣を切って医療業界でまず起きていたことではないだろうか。
評判情報の流通ってのは医局の噂話みたいなもんかね。定型発達のひとに聞いてください。私はわからん。
崩壊の第一の原因が絶対的なリソース不足にあることは無論なのだが、本書にあるような構造とリソース不足が、ハウリングを起こすかのように、たがいに強めあっているという構図はないだろうか。医師がとつぜん集団退職して診療科や病院の単位で閉鎖に追い込まれている現場では、単純に激務のフィジカルな辛さのみならず、本書にあるような構造の精神的なストレスが、最初の何人かが辞めた時点で爆発したのではないかと思う。

「キュア」 各論的には不愉快だが、読まれるべき作品である

キュア cure
田口ランディ / / 朝日新聞社
スコア選択: ★★★★
土曜の夜に田口ランディ著「キュア」を読了した。久々に、力のある物語を堪能した。読む者を引き込んで放さない力をもった物語である。理屈の上では荒唐無稽な、理不尽で泥臭い物語なのだが。物語の力というのは理屈にあうとかあわないとかいった話とは違う水準に存在するのだと、読者として思い知らされるような作品である。
じっさい、各論的なつっこみどころは満載なのである。主人公には特殊な治療能力があるらしいが、電磁力に関係するらしいその力を手術室で使おうったって、手術用手袋がその力を絶縁してるんじゃないかとか。腫瘍病棟が地下にありますって、患者さんが寝起きする病棟を地下室に置くことが法令上許されてただろうかとか。ガラスの保育器っていったい何十年前の代物だよとか。
そのような、と学会的に一笑に付せる些事に混じり、安楽死に関して、ホスピスに関して、あるいは未熟児の予後や障害新生児のフォローに関して、現代医学に関する著者の悪意が感じられる描写が多々ある。読んでいて気持ちがざわつく。思いつきで書いたのなら許し難いところであるが、著者はご家族の病気でさんざんご苦労なさった経験をお持ちなのだから、病院に足を踏み入れたことがないわけではあるまい。そのご経験をふまえての著作なら、無碍に排撃することもなるまい。患者さんの中にはこういうふうにお考えの人もあるのだと、拝聴の上で一応は胸に納めるものであろうと思う。一応はね。同じネタを何回も使い回したら許さないけど。
著者が本作で提示する死生観には、現代医学に関する描写の不愉快さをおぎなってなお、胸を打たれる。この死生観は医療を変える力を持つと思う。おそらくは崩壊を食い止める方向に働く力となると思う。この死生観ゆえに本作は読まれるべき作品だと思う。少なくとも医療関係者にとっては、医学的描写の不備や悪意をがまんして最後まで読む理由にはなると思う。この場に要領よく要約する筆力を持たないことには寛恕を乞う次第である。

医局の片付け

医局の机とかレターボックスとかに山積みになった書類を片付けた。さきの記事を書いてから今までごそごそと始末していた。浪費癖の一環として医局にCanonのDR-2050C IIをもっているので(御手洗とかいう人のフトコロを一文でも潤したかと思うと業腹だが)、捨てられる書類は捨てる、迷う書類は電子化してから捨てる、の方針で対処したところ、驚いたことにほとんどすべての書類がごみ箱行きとなった。一部シュレッダー行きになった書類もあるけど。ファイリングしたのは退院サマリーだけ。
今日は娘が進学塾の入試だとかで外出しているので、家に帰っても徒然ないから雑用をかたづけようと思った。山の半分も崩せれば上出来と思っていたが、まさか全部片付くとは思わなかった。こんなに早く片付くならもっと早く取りかかっておけばよかった。
しかし娘も公文では中学2年くらいのレベルをやってるくせに、いまさら中学入試の準備でもなかろうと思うのだが。入試でうっかり方程式とか使わないようにとかいったテクニックを学ぶんだろうか。そのあたりは色々と不可解だ。
息子もひとりで留守番にはしのびないので、連れて行くとのことだった。鉄道関係のポッドキャストをたっぷりダウンロードしたiPodを持たせておいてみると、妻は言っていた。なるほどあの機械も色々と使い道があるものだ。うまくいったろうか。