女医さんに「妊娠出産するな」なんて言う大学にも臨床系大学院があって、
若い医師たちが4年間臨床を離れて「研究」をしておられる。
4年ですぜ4年。さらに勉強好きな人はその後に海外留学なんてするし。
ならどうして1年2年の子育て期間を目の敵にできる道理がある?
いったい小児科医として、フルタイムの臨床をしばらく離れていた医師があったとして、
1.4年かけて博士論文書いてた医師 と、
2.4年かけて一人(ないし二人)自分で子育てした医師 と、
患者さんにとってどっちが頼りになる医師だ?
どっちか取れって言われたら私が小児科部長ならぜったい2番だけれども。
実際には大学院生も病棟で働くことは多いらしくて、
4年間の研究生活のはずが最初の1年はびっちり病棟勤務とかやらされたり。
でもそんな、研究のはずが穴埋め要員扱いじゃあ、不条理の度合いがさらに増す。
いったいそんな半端仕事の傍ら書いた博士論文が世界をどれだけ変える?
一人のこどもがこれからの生涯で世界に与えるインパクトに匹敵するほどの
インパクトを持った研究成果が出てるんか?
謙虚になれとは言わんがせめて合理的になろうよと思う。
大多数の若い医局員が当然のように大学院に進学するような医局で
産休を迫害するのは不条理だと思う。
病院で暴れる人への対応 私論ですが
あらかじめお断りしておきますが、私は何処で何があったとは一切書いてません。
読者諸賢が何をご賢察になろうとも、それはあくまで皆様のご想像に留まります。
あくまで一般的な状況に関して、私は語っています。
さて。
病院内で暴れる患者・関係者への対応について。あくまで私論ですが「躊躇無く警察を呼べ」という対応がベストなんじゃないかと。主張ではなくて、そういうことを考えました的なメモとして、この記事を書きました。
警察を呼ぶのに何を躊躇うのだろうと思います。肩書きはある癖に背後で眺めてただけの人に「病院職員にも実際の危害は及ばなかったし器物損壊もなかったから警察を呼ばなくても良かった」みたいな事を言われると、恐い思いをした身には大変に辛いです。不信感を覚えます。また例えば、被害者が加害者の身内だったなど、実際に暴力を受けた人が加害者を告発する意思に薄いと推定されたとしても、それはあくまで推定に留まるわけで、その被害者の方から、有効な手だてを打たなかったことを手落ちとして非難された場合、病院はどう弁解するんだろうとも思います。
医者ってそういう暴力的な人への対応に「手慣れている」というタフさを演じて得意がる傾向があるんだなと思います。医者がそういうサラリーマン金太郎的な自演をしても寒いだけなのに。そんなに胆力があるんならあの時云々とは私は決して申しませんが。ええ。そういう状況があったなんて決して申しません。まあ一般論としてね、その時点では何もしなかった人間が、確かに立場上は第一当事者にはならないですむ立場だったとしてもね、後になって「あの相手は弱そうだったしその気になれば制圧できた」なんて言ってもねえ。ええ。繰り返しますが身近にそういう卑怯者が居たなんて決して申してませんよ。そんな奴って居たら不愉快だなあ、という話です。
「前の病院でも再々ヤクザが暴れることがありましたが、そういう時の対応としては警察を呼ぶんじゃなくて・・・・」としたり顔に仰られても、そういう微温的な対応をしてたから「再々ヤクザが暴れる」病院に成り下がったんじゃないかとしか思えない。あの病院では暴れた方が話が早い、みたいな噂や雰囲気が伝播してね。ええ、「できるだけ大多数の職員を集める」は正解です。人数で圧倒するほうが暴力は少なくなるでしょう。火事だって消防署から来てくれるまでは自分たちで初期消火するものだし。でもそれって消防に電話しない理由になるんだろうか。「相手の言動をカセットテープに残して後の証拠にする」も良い手段ですね。でも「後の証拠にする」って、証拠を保管するだけですか?後でって仰っても、病院で暴れる人が「後で」法廷とかの論争の場を準備してくるとでも?暴れる人ってその場での言い分を通してしまえば、「後」なんて無いことが大概じゃないんですか?いや、私は知りませんよ。私は「ヤクザが再々暴れる」病院になんて勤務したことがないし。
そういうことを後で言われる一々が、頑張って事態に対処したにも関わらず「胆力」の無さを小馬鹿にされているような気分にさせられます。
私はおよそ「暴力に訴えて言い分を通す」という態度とは縁のない育ち方をしてきました。至極当然のことだとは思いますが、私の親は子を撲る親ではありませんでした。それに、私の握力は高校の時でも30kg台、背筋力は70kg台。俊敏さにも欠けますので、およそ暴力で他人に言うことを聞かせるなんて、私の人生では選択し得るオプションではありませんでした。
そのためでしょうか、私は目前で誰かが「切れる」と、たとえそれが自分に向かうものでなくても、その光景に接するだけで大変な圧迫や恐怖を感じます。まして、誰かが誰かに実際に暴力をふるう現場に行き会わせると、膝が本当に震えます。それは出生したての赤ちゃんが仮死状態でも冷静に蘇生できるっていうこととは違うと思います。患者の生死の境目でビビる医者はその胆力を疑われても仕方ないかも知れません。私だって他の医者からアンビューを取り上げたことはありますよ。でも、暴れるヤクザの相手ができるできないの胆力なんて、私にそんなもん期待されても困ります。それ相応の方々の助けを呼んで頂かないと。
そりゃあ、健さんが演じる「過去のありそうな人」みたいに、そういう暴れる相手に一言「止めませんか」と声を掛けるだけで相手が黙ってしまうような、そういう迫力があったら、いいなと、それは憧れますよ。そのために網走番外地まで行く気はないけれど。
暴れる相手の言うことを聞くか聞かないか。いや要求を呑むという意味じゃなくて、そもそも耳を貸すか貸さないかというレベルで。相手がふっかけてくる論争に乗って説得を試みるのがよいのか、論争には一切耳を貸さず、ひたすら「静かにしろ」「暴力を止めろ」を繰り返すのがよいのか。むろん「あなたの言動から私は身の危険を感じている」「あなたの言動は正常な医療業務を妨げている」ということはきっちり通告するとして(それでも止めない相手には、こちらへの脅迫とか威力業務妨害の意図があると見なすとして)。そこはまだ私も結論出せません。真摯に相手の言うことに耳を傾けるのが誠意ある対応というものなのかもしれません。でも、論争に乗ってしまうと、こちらの態度が100点満点で一点の瑕疵もないというのでない限りは形勢がどんどん不利になる。だいいち、暴れる本人だって何か言いたいことがあって暴力に及んだわけで、その論争に耳を貸すのは、即ち暴れる利得を認めたことになるんじゃないかと。それはすなわち、次の暴れる人が出現する下地を作ることじゃないかと。ここんところはよく分からない。
なにやかや、そういう状況への対応のしかたを教示した文書ってなにかないでしょうか。ご紹介願えれば幸甚です。
盆も働く
8月15日は朝から鬱陶しいニュースを聞きつつ出勤。これはたぶん、忙しいのを予想もせず朝7時半から出勤して病棟回診に入らなかった私への天誅なのだろうと思う。盆は忙しいに決まっているのに。周りじゅう休診である。世間も近所は休診だと思ってるから最初から当てにせず当院を目指して集まってこられる。院長は大喜びだろうけれども現場はキャパシティを越えるので難儀する。
うちはキリスト教病院だから盆は休まない。ちなみにクリスマスは休みたいよねとか思うけど、私企業だからクリスマスも休まない。8月15日の小児科受診数はちょうど100人。通常の総合病院なら普段の人数かも知れないけれども、当院としては8割り増しくらいに多い。外来が爆発していた。
私自身は火曜日で外来担当じゃないよとNICUで涼しい顔をしていたが。放棄するわけにも行かないしとか言って。内心、俺って幸運だなと思ったりしていた。たぶん、昨日が火曜日でなかったら、もと患者の人たちが帰っておいでになる日だからって総勢で逃げ出さなくてもよかろうにとか、悪態ぼやきまくりだったんだろうなと思う。
日曜にみんなで休んでるうちはまだまだです
日曜祝日に病院は休む。医者はみんな休む。頭の高い業界だ。こんな業界から小児科医不足とか医療費抑制反対とか言われても一般にはピンと来ないんじゃないかと思う。うだうだとした日当直明け。むろんフルタイムで働いて残業して帰宅。
月金の9時5時で営業しててコンビニ受診批判も無かろう。
製造業なら休みを揃えた方がやりやすかろう。休みがバラバラでは仕入れも納入も不便だろうし。だが病魔はべつに曜日を頓着はしないだろう。どうして日曜に揃って休む必要がある?
医師会の内部でどういう申し合わせがあるのかは私は知らない。知りたくもない。知りたくないとは申しながら、もうすぐ四十郎の私には日当直が辛くなってきた。なんで平日に休診日を散らさないんだろう。いつまで俺らはNICUの傍ら「近所の○○先生に罹ったけど治らなくて心配」なお父さんに連れられた子供を日曜に診なければならない?「○○病院には日曜には小児科の先生が居られなくて・・・」な病院の継続処方を書かなければならない?俺自身が退職して日曜休みの診療所を開業するまでか?
更新してませんでしたね
ときどき、ネットに倦怠することがあります。喰い飽きた、とでも言いますか。しばらくコンピューターも開かず、メールチェックだけPDAでやってました。
今回は何でへたってたんでしょう、と思い返してみます。日本沈没の第二部が外れだったせいか。あるいは、若い医者に「カラマーゾフって何ですか?」と真顔で聞かれたせいか。・・・いや、べつにドストエフスキーなんて読まなくても医師免許は頂けるんですけどね。でもねえ・・カラマーゾフって何ですか、か・・・・そのうち、坂本龍馬ってダレっすか?とか聞かれるんでしょうね。ぐちぐち。いや、いいんですよ(棒読み)、医学さえしっかり学んでいればね。
「日本沈没 第2部」は、SFとしてはきっちり完成してました。自然科学的には、確かに、日本が沈没したらその後はこうなるはずです。小松左京氏が第一部の執筆をなさっておられた折に、ここまで考えておられたかどうかは知る由もないですが。むしろ、他の小説に描かれる(たとえば「果てしなき流れの果てに」の1シーンとか)沈没後の断章を読むと、日本の存在だけがポカッと脱けた世界が延々と続くという構想をなさっておられたようにお見受けします。
でも火山の一発だけで気象は変わるのに、富士山をはじめとした日本中の火山が火を噴きながら沈没していった後で・・・とこれ以上書くとネタばれなんでしょうけれども。
でも本書には、経済やら政治やらといった方面でどれほどの説得力があるでしょう・・・。たとえば国内の土地という担保を全て無くした日本人のカネが、沈没後の世界でどれほどの力を持ちうるのでしょうか。紙切れ以下の存在になりはしないのか。是非知りたいところです。あるいは、国土を失った国の政府が、一国の政府として認められる正当性は何なのでしょうか。たとえばの話、本書にある如く狡猾な中国政府なら、自国内の難民キャンプに傀儡的な自治政府を作らせて、日本国政府としての正当性を主張させるような、そういう事はやらんのでしょうか。
そういうツッコミの一つずつで、第3部第4部が書けちゃったりしそうで、やっぱり日本沈没ってのはでっかいテーマだと思います。
本書の中では、日本人は勤勉で謹厳で誠実な、プロジェクトX的美徳に溢れる民族です。日本人ってここまで大したものか?とも思いました。やたら他責的な評論家ばかりが増えて、お産すらままならなくなっている日本人が、国土を失ってなお本書にある如くしぶとく生きていけるのでしょうか。あっという間に雲散霧消するような気がしてならないのですが。
悪役として、熱湯浴的に中華思想に凝り固まった中国やら米国やらが出てきますが、そのキャラの立ちようがあまりに2ちゃんねる的で辟易します。まして、隠蔽しようとした事実を暴かれただけでへへーっとへりくだるなんて、そういう水戸光圀時代の悪代官じみたヘタレさを、米国政府に求めても仕方ないんじゃないかと思います。
小野寺さんとかつての恋人の再開シーンは、谷甲州氏による、「復活の日」の最終シーンへのオマージュでしょうね。あるいは最終シーンは「果てしなき流れの果てに」の1シーンそのままでした。いかにも取って付けたようなラストシーンで、小松へのオマージュ以外に存在意義は無いんですけども。でもあの状況で「君が代」を歌うような面々と同じ恒星間宇宙船には乗りたくないものだと思います。月並みではありますが、国土を失った日本人が、ついに地球上には国土を再建し得ず、宇宙に新しい国土を求めて旅立つとして、その旅立ちに口をついて出る歌はやっぱり「兎追いし彼の川・・・」ではないかと思うのですがね。
カラマーゾフって何ですか
スーパーローテート研修医に真顔で聞かれた・・・・・・・・
J J Paris, N Graham, M D Schreiber and M Goodwin.
Approaches to end-of-life decision-making in the NICU: insights from Dostoevsky’s The Grand Inquisitor. J Perinatol 26: 389-391なる文献について話していた時でした。文献の要旨としては、「回復の見込みのない赤ちゃんの人工呼吸を中止するなんていう決定は、とくに親としてそういう決定を求められるってのは人間一般の心情として過酷すぎる要求ではないか」というもので、多いに首肯できるものではありました。といいますか、これまで自己決定できない奴は自分の当然の権利を放棄する腰抜けだみたいな倫理観を世界中に押しつけておいて、この期に及んで今さら何を言い出すんだと苛立ちましたね。こういう議論はとっくに終わってるんじゃなかったのかね。
いやあ今さらカラマーゾフなんて持ち出してるけど向こうの奴らってカラマーゾフ読んだことがなかったんかねと、研修医に振ってみたんです。勉強が忙しくて古典なんか読めないんでしょうねという感想が当然頂けるモノだと思ってたんですがね。彼女の答えが、「先生、カラマーゾフって何ですか?」でしたね。
参りました。もう海の向こうの面々の倫理とか教養とかもう二の次です。私はいったいどういう若者たちをこれから相手にしなければならんのだろうかと、目眩がしました。
ドストエフスキーの小説じゃないかよと言われて、ああ、と思い出されるようならまだ救われたんですがね。いくら生命倫理の話をしてるったって、医局でいきなりロシア文学の話がでるなんていう文脈は読めなくても当然だし。でも「カラマーゾフの兄弟」って読んだことないの?と聞かれても手応えなし、どう見ても、そういう古典文学の存在を知らない様子でした。
いや読んだことがないのは別に恥じる事じゃないかもしれんですよ。確かに大部な小説ですしね。でも、その題名すら聞いたことがないってのは、およそ医学部を出て医師免許とった人間の一般教養としては、すこし貧しすぎるんじゃないかと思いますがね。知らないという告白も、もう少しおずおずと、恥ずかしげになされるべきものじゃないかと思いましてね。
2言目に、「いやドストエフスキーって暗いというイメージがありましてね」と続けられて、これで彼女がドストエフスキーを一冊も読んでないってのが明白になったんですが。
そりゃ貴様こそ大学時代にドストエフスキーなんて読んでたから今になってそんな場末のNICUで燻る羽目になるんだなんて言われたら、たしかに御言葉ごもっともではあります。彼女らが、ドストエフスキーを読む時間を潰して他の何かの教養を身につけておられるのなら、それはそれ、尊重するべきではあります。ひょっとして医学の修練のためにはドストエフスキーよりも為になるものを身につけてこられたのかも知れませんしね。でも、まあ、産科で干されてる間に本の一冊でも(カラマーゾフは新潮文庫で3冊だけど)お読みになってきたらと、嫌味がのどまで出かかったりはしましたね。
買ったーーーーー
「日本沈没」の第2部が出ました。
朝刊の広告で見て、仕事が引けたら本屋に直行して買ってきました。
アマゾンからライフログ引こうと思ったんだけどまだアマゾンにも登録してませんね。
もうアマゾンから送り届けられるのにかかる時間すら惜しいと思いました。
まあ、著者のペンネームのもとになった土地に住んでる訳ですし、
その土地で大学生相手に商売してる本屋に置いてなかったら世も末だと
(いや本当に日本は沈むんじゃないかと)
思いましたが、平積みの最後の一冊で残ってました。
入手の状況としては最善ですね。やっぱりそれなりの土地に住んでるんだね。
大学のころ古本屋で見つけた「日本沈没」を読んでかなりな衝撃を受けました。
普段に当たり前と思っている、ものを考える際に無条件に前提にするような事柄が、崩壊していく。
田舎の高校から京都に出てきたばかりの無邪気な医学生にはもう贅沢すぎるような本でした。
第1部がすでに地元でも古本屋でしか入手できなくなっていた時代から、幾ら待っても第二部が世に問われる様子はなく、ときおり報じられる近影はどんどん年を召されていき、これはもう絶筆かなと失礼ながら思ってましたが。
その間に私は医者になり、阪神大震災を経験し、いまは医療崩壊のまっただ中に居るわけですが。
実はまだ読み出していません。
読み出したら徹夜になるに決まってるんで。
週末に心を落ち着けて読み始めます。
我々に与えられるのは「彩雲」なのか
未熟児:死亡率に差…専門病院間で0~30% 厚労省調査
の記事にある、「死亡率の低い病院の治療を普及させて、全国的な死亡率低下を目指す。」という下りが気になる。どういう治療法が出来上がるんだろう。そりゃあまあ、さぞや優秀なマニュアルが出来上がるんだろうけれども。
呼吸管理は慢性肺疾患の少ないこの施設の管理法を、急性期の循環管理は脳室内出血の少ないこの施設の管理法を、と、各施設の継ぎ接ぎになるんだろうか。それとも、際だって優秀な特定施設の方法論をまるごと各施設へ移植するものなんだろうか。
そういう、天から降ってくる絵には、胡散臭さを感じる。この絵を飾ればうまく行くはずだと言われそうで、うまく行かない時は功徳とかヤマトダマシイとかが足りないとも言われそうで、その絵って「彩雲」じゃないでしょうねと突っ込んでみる。国力の無さを秘密兵器で逆転しようと画策した敗戦前の軍部と、同じ発想にはまりつつあるような危うさを感じる。
「彩雲」は旧海軍が設計した偵察機である。設計上は極めて優秀な飛行機なはずだった。南方の飛行場も航空母艦もつぎつぎに失って、本土から長距離の偵察機を飛ばさざるを得なくなった日本海軍にとっては救世主なはずだった。しかし実際に現場に降ろしてみると、生産しにくく故障はしやすく、戦場で信じて飛ばせる飛行機ではなかった。事情は以下のサイトに紹介されている。若干過激なところのあるサイトだから、よい子の目のある場所では開かない方がよいかもしれない。
反米嫌日戦線「狼」(美ハ乱調ニ在リ): 日本海軍の傑作偵察機「彩雲」は飛べない飛行機だった!
孫引きになるが結論部分を引用する。
『性能第一主義は機体、発動機、プロペラなどの組み合わせを、それらに実用性があるとないとに拘らず、性能上最も優秀なものを選んでしまい、とにかく安全に飛べる飛行機を早く大量に作ることを忘れていた。その結果、競争用の飛行機や展覧会への出品機ならともかく、戦争に役に立たない飛行機が出来てしまった』(日本航空学術史1910-1945より)
戦争のアナロジーで医療を語るのは些か下品かも知れないが、僕らだってNICUで競争や展覧会をやってるんじゃないんで・・・そりゃあ医療をやってるんだけど、臨床は展覧会よりもどちらかといえば戦争なんで。
極低出生体重児の死亡率に格差があるそうな
ふだん拝読しているブログ「新小児科医のつぶやき」経由で以下の新聞記事を読んだ。
出生体重が1500グラム以下の未熟児「極低出生体重児」の死亡率に、専門病院の間で、0~30%まで差があることが、厚生労働省研究班(分担研究者・楠田聡東京女子医大教授)の調査で分かった。平均死亡率は11%で欧米より低かったが、脳の出血や肺障害を起こす率も差が大きく、病院による治療法の違いで差が出た可能性がある。班は死亡率の低い病院の治療を普及させて、全国的な死亡率低下を目指す。
次の段落を読むと、これは「総合周産期母子医療センター」の調査だそうだ。だものでちょっと他人事気分である。うちは総合じゃないし。だもんで、Yosyan先生よりはセンターに対してちょっと辛口。貧乏病院の僻みでね、年間何千万円から補助もらってるんだから成績評価の一発もやったっていいんじゃない?みたいな。
でも「死亡率が低い」と「優れた新生児医療をやってる」とはイコールじゃないんですよね。
例えば23週なんて超早産の子は消化管穿孔を起こすことがあるから、哺乳開始の時は腸管血流にかなり気を遣うんだけど、たとえ消化管穿孔をおこした極低出生体重児でも、当院では他施設に比べて死亡率が低いはずです。なぜって当院は小児外科がないから、そういう開腹して手術しないと救えないような子は他施設に転送ということになるので。不幸にしてその子が亡くなったとしても、「当院での死亡症例数」にはカウントされないことになります。
でも、当然ですが、転院を引き受けて下さった施設のことを「君ら消化管穿孔の死亡率が高いじゃないか」などと笑うようなマネは絶対できません。まして、「消化管穿孔でも赤ちゃんが亡くならない管理法を教えて」なんて言われても困ります。「消化管穿孔を起こさない管理」なら、ちょっと掴めてきたような気はしてますが、他人様に誇れるほどではないですし。
今回の記事で報じられたセンター間の格差についても、同様の事情があるんじゃないかと思います。頼りにできる先のあるセンターなら、全てを引き受けなければならない状況におかれた孤立無援のセンターとは、成績がちょっとは違ってくるかも知れません。たとえ総合周産期でも、小児外科に限れば近在の「地域周産期」扱いの大学病院のほうが強いとか、心臓外科なら循環器病センターだとか、いろいろ地域の事情による搬送先があったりするものです。実際、先のリンク先で総合周産期云々施設の内訳をごらんいただいたら、意外に大学病院が入っていません。少人数だけど管理が猛烈に難しい(従って死亡率も高い)一群の赤ちゃんを大学が引き受けて(ほんらい大学病院ってそういう病院ですよね)、総合周産期施設は大多数の平均的難度の赤ちゃんをスケールメリットに物を言わせてお世話している、みたいな状況が現実にあり得ます。京都なんてそんな要素が強いんじゃないかな。
先に述べたように私は貧乏な中規模私立病院の人間ですから、8桁規模の補助金を貰ってると伝え聞く総合周産期施設には僻みがあるんで、「総合名乗って銭もらうんなら言い訳めいたこと言わんと実績をだしてみろよ」みたいなことも思ったりしてるわけですが。しかし逆に、蟷螂の斧めいた矜持ではあれ、赤ちゃんを救ってるのは我々草の根の地域周産期だとも思ってるわけで、そういう僻みは潔くないし賢くもないと思ってます。
端的に新生児医療のレベルを比較しようと思ったら、施設間の成績比較よりも、むしろ、地域ごとの成績比較を参考にするべきかと思います。要は、俺たちも数に入れろよって言ってるんですけどね。当該の都道府県で何人の極低出生体重児が生まれてて、どれくらい生き延びてて、そのどれくらいが障害なしなのか。上手くいってる地域では各々の医療施設がどのような配置になっててどのような連携をしているのか。全国を相手にしての医療政策的なお話をするなら、そういうマクロの視点が欲しいと思います。
って、どの口が誰に説教してるんだか。楠田先生の前任は大阪の府立母子だし。大阪と言えば新生児医療の地域化がむちゃくちゃ進歩した土地ですし。医療施設の網の目が、まるでGoogleのサーバ群みたいなネットワークをつくってますし。そのネットワークの最重要のノードを束ねておられた方ですから、そんなことはお見通しだとも思います。
上達の法則
上達の法則―効率のよい努力を科学する
岡本 浩一 / PHP研究所
先回に書いた上達云々の話のネタ本。というか、なんか自分で考えたことのように勘違いしてたけど。そういえばそんな本もあったと思って読み返してみたら、先回記事は全然オリジナリティが無いことが判明した。でも自分が書いたものででもあるかのように、本書には違和感がない。読むだに、そうだよなそうだよなと頷かされる。
まあ私とて多少は上達したけれども、小児科診療の上にはまだ上があるはずだし。世界が変わったかのように感じられて、ああ俺も上達したなと思っても、また次の段階で世界が変わって見えたりすると、以前の「悟り」はまだ幼いものだったなと自嘲することになったり。いやもう昔の退院サマリーなんてこっぱずかしくて読めたもんじゃないですからね。本書にも、「脱皮を重ねるようにして上達していく」という表現があるが、そういうことなんだろうなと思う。
