抗議行動の噂のような嘘のような

京都発
京都迎賓館ではブッシュ氏滞在の折の職員3名の行動について内部調査を進めている。
仲居のAさん(34歳)は会談中のブッシュ・コイズミ両氏にとつぜん「お茶漬け」を届けた。予定外の配膳にブッシュ氏は驚かされた様子であったが、「ジュンイチロウ、君お得意のサープライズか?」と笑い、慣れぬ手つきで箸を使った由。Aさんは「純粋に最高級品のお茶漬けで歓迎したかった」と話しているという。
仲居のBさん(43歳)は迎賓館の玄関に座布団を放置したとして叱責されている。問題の座布団は約半分が上がり框を越えて垂れ下がる形で放置されていた。Bさんは「特に他意はなく単に置き忘れただけ」と話している。また庭師のCさん(55歳)は清掃用具を放置した理由を聞かれている。事情を聞かれたCさんは「箒を一本片づけ忘れただけだ」と答えているというが、問題の箒は迎賓館入り口に逆さに立てかけられてあったという。迎賓館担当者は、いずれも意図的に行われた行為ではないか慎重に調査を進めると話している。
いや、こういう抗議行動もありかなって思いました。京都だし。

偉い人が来ていたらしい

ブッシュさんが上洛していたらしい。私は当直していたしヘリの音は聞こえなかったけれども(NICUではHFOがばりばり言ってるし)、噂には京都じゅうに警察官が溢れていたと聞く。宮城県警のパトカーなんて初めて見たと妻が笑っていた。あちこち通行規制もされていたようで、たまたま今日の予約だった子が迷惑していた。
滞在時間はかなり短かったらしい。御所から金閣を経てヘリで帰ったという。金閣ってのが如何にもブッシュだと思った。なんか金閣に失礼だけど。でも秋の嵐山観たいとか保津峡下りたいとか言われても警備陣が泣いて止めるんだろうな。それに彼も小泉さんも都ではお上りさんだから、「一見さんお断り」の店には入れずで短い時間も持て余したに相違ない。御所まできたのなら同志社の学食くらい行ってみたら、大学時代の学業成績が振るわなかったのを自嘲しているブッシュ氏もちょっとは愉快だったかも。などと、こういう時ばかり都人ぶってみる。

「瀬島龍三 参謀の昭和史」

「瀬島龍三 参謀の昭和史」保阪正康・文春文庫を読む。一人の人間についてたった一冊の評伝からものを言ってはならんのだろうけれども、私はこの瀬島という人に自分を重ねてしまった。
この瀬島という人は生涯を通じて生粋の参謀であったのだと思う。彼の性根は心底から参謀であった。それも極めて優れた参謀であった。そのことが彼にとって幸福だったのかどうかは疑わしい。心底からの参謀である彼は、上司からの問いには真面目に取り組み正しい解答を出そうと奮闘するのだが、しかし上司の出す問いが状況に照らして正しく立てられた問いかどうかは彼の関心の埒外にある。大本営でも、シベリアの流刑地でも、伊藤忠商事でも、第二臨調でも。
彼は自ら問いを立てることはない。問われたことに答えるのみである。答えた内容が実行に移された結果がどのようであろうとも、彼にとっては、結果は実行者の責任である。事態が歴史にどのように位置づけられようとも、それは彼の答申を得て歴史に自ら参画した上司の問題である。本書の著者である保阪正康氏は瀬島氏がその体験を語らないことについて批判しているが、瀬島氏自身は、おそらくは、自分には責任のないことを詰問されてもと、保阪氏の批判を理不尽に感じていただろうと思う。
私は瀬島氏を批判している訳ではない。私には彼のこのような精神性が理解できる。というのも、これは私自身の性根に他ならないからだ。私自身、彼の生涯のどの時点に我が身をおいたとしても、そこで私が取ったであろう行動は彼が実際に取った行動に他ならないからだ。東京裁判で彼がソ連側証人として証言したときですらまだ34歳だったことを考えると、彼の生涯のどの時点でも同年齢の私に替わり得るほどの胆力があるかどうかは些か疑問ではあるが。本書を読むとまるで前世の自分を批判されているかのような気分になる。

日曜参観へ行って来た

子どもたちの小学校で授業参観があった。日曜日なので行ってみた。
特殊学級で息子が作文を書いていた。作文の題材は先だって行った宿泊授業であった。宿泊の日程表を参照して時系列で書き進めていた。脇で監督している先生が要所要所でデジカメ写真のプリントアウトを出して下さって、それを参考にディテールを埋めていた。参考にしたデジカメ写真を原稿用紙に貼り込んでいたので作品としても読みやすい(まさにブログの書き方である)。
ちょうど息子の能力に程良い課題かと思えた。家で宿題をやるときはうだうだと文句を言いつつ時にはパニックも起こしつつで進行するが、今回の授業では全くパニック無しに進んでいた。NICUで言えば必要十分の呼吸管理とディベロップメンタルケアでストレスサイン最小限の体重増加良好というところであろう。満足である。
最近の彼のコミュニケーション能力は「過去にあったことを想起して提示する」という段階が出来始めたところ。しかし「その情報を相手に既に提示したことがあるかどうか・相手が既に知っているかどうか」の考察がまるで抜けているので、周囲としては「同じことを何遍も何遍も聞かされてうんざりする」という段階である。この作文教育が発展して「日記をつける」ところまで行ったら、日記を参照することで、話す内容にバリエーションが増えてくれるのではないかと思った。

戦後60年の「特攻と日本人」

「『特攻』と日本人」保阪正康著・講談社現代新書は予想外の好著であった。著者は保守系の評論家だし(違うかな)、てっきり、特攻隊員を褒め称え、返す刀で今の日本人を腐すような書物なんだろうなと思っていた。詰まらぬ本だと笑ってやろうと読んでみて、良い意味で裏切られた感があった。
特攻隊員を愚劣な作戦の犠牲者と位置づけた書を初めて読んだ。というかメジャーな保守系の評論家がそういう位置づけを公然と唱えるのを初めて見た。管見の及ぶ限り、特攻に関するこれまでの言説では、立場の違いはあれ、作戦の主体は隊員たち自身であると見なす点では一致していたように思う。それがどうにもやりきれなくて特攻に関する書物は敬遠していたのだが。
当時の軍でさえ「特攻作戦は統率の外道」という諒解を持っていたとは初めて知った。美濃部正少佐のことも私は知らなかった。彼は海軍の航空部隊である芙蓉部隊の指揮官であったが、特攻作戦に公然と反対した。芙蓉部隊は沖縄での特攻編成から外れ、彼の部下には通常の戦闘での戦死者はあれ、特攻での犠牲者は出なかったという。こういう軍人の存在を私は知らなかった。あるいは日本で初めての特攻攻撃を行ったのは当時49歳で第26航空司令官であった有馬正文氏であったということも、私は知らなかった。彼は、戦争では年齢の高い者から順に死ぬべきであると言い、自らの機で体当たり攻撃を行ったのだという。何故に私はそういう人々のことを知らなかったのだろう。
私が不勉強なのみか?陰謀説って浅はかな考え方だとは重々承知しているが敢えて問う。隊員たちが主体的に特攻したことにすることで、あるいは特攻に公然と反対した軍人の存在を隠すことで、あるいは指揮官自らが率先して特攻したのが第1号であるという事実から世間の目を逸らすことで、得する面々があったのではないか?戦後の日本で特攻に関する認識を形成してきた人々の中には、そういう個人的事情を抱えて言論を誘導せざるを得なかった人もあるのではないか?いや、別に私はそういう人を糾弾しようとまでは思わないけれども。保坂氏ははっきりとその人々を一部名指しで批判している。私としては、なるほど今までの私の特攻に関する認識はこういう人々の影響で歪められていたのかもしれないと、保坂氏のおかげで知り得た次第である。糾弾するしないは別として、そういう人々があったと言うことは、知っておくべきだと思った。

英語で診療する

留学生の子女を時折拝見する。勤務先のロケーションがロケーションだし仕方ないことではある。
流暢に日本語を話す人もある。こちらが恥じいるくらい上手に日本語を話される人もあって、やっぱりこの人らは賢いから留学してきたんだなと思う。モノリンガルな某国の田舎者に傲岸な顔で英語を使われても畜生としか思わないけど、留学生の人たちの日本語を拝聴すると外国語に関する自分の努力不足を痛感する。
どうしても日本語がだめな場合は英語で話す。私のほうが英語は苦手だから出来ればご遠慮申しあげたいと常々思っている。留学生のほうでも英語を母国語としている人は案外少なくて、お互いに第二(或いはそれ以下)外国語としての英語を使って互いに苦心して語り合うことになる。こういう使い方なら、植民地的卑屈さから逃れて真っ当な言語の使い方だよなと思う。無論、大抵は向こうの方が英語も上手である。いま俺が喋ってる英語を聞いたら高校の恩師は泣くだろうなと思う。我ながら酷い英語だ。

今度はパラサイト・ミドルなのだそうだ

「パラサイト・ミドルの衝撃」三神万里子著・NTT出版には、45歳以上の奴らって働きもせず若手の稼ぎに寄生してるじゃないかと論じてある。昨今は、色々と新種の寄生生物が生物学以外の研究者によって発見されているらしい。しかし本書はパラサイトミドルの惨状に心を痛める人々を相手にした書ではなく(そういう本ならごまんと出てますけどね)、多分、そうなのか俺の周りの45歳以上があんな風なのはそういう訳だったのかと、実体験に照らして頷く人を読者に書かれた本である。例えば私みたいなね。飛びついて買って読みましたよ。自分の周りの年長者見てても、自分の将来の理想像ってのが全然描けませんもんね。ひょっとして私は間違った場所に居るってだけかな。NICUの局所的な居心地の良さに騙されて。本書によればどこに行っても同じなようだけど。どこの45歳以上もうちと同じだとしたらね。
本書の効能は、単に溜飲を下げるのみならず、何だって今の世知辛いご時世にこの世代がこんな風になってしまったのかという分析を詳細に行ってある点である。その分析が当たってるのかどうかは私にはわからない。でもああいう風にならないためにはどうすればいいと考える一助にはなるかも知れない。全助にしようと思うようなマニュアル発想ではパラサイトミドルまっしぐらなんだろうなとも思う。

日本人ってほんとにナンバで歩いてたのか?

内田樹先生のブログで古武術関連の話題を読んでいると、「江戸時代までの日本人は現在とは身体の使い方が違っていた。歩く時は身体を捻らずに歩く。歩く時に腕は振らない:強いて振るとしたら右手と右足・左手と左足が同時に前に出るような振り方になる」云々のナンバ歩きの話題が時々出てくる。
それ本当か?と、日々の外来で赤ちゃんの発達を診ていて思う。要はナンバって生後2ヶ月頃の「非対称性緊張性頚反射」がそのまま大人まで続いてますってことかいな。顔の向いた方の手や足が屈曲し、対側の手足が伸展しますっていう姿勢反射だが。その後には赤ちゃんは生後6ヶ月すぎから手足を交叉性に使うようになる。ハイハイの時には必ず右手と左足・左手と右足がペアで用いられる。右手と右足をペアで使ってちゃ体幹の動きが活用できないからハイハイにならない。
でも幼い頃に父の日曜園芸を手伝って鍬を振った時の動きとか、高校の剣道の授業で竹刀を振った時とか、たしかに半身を入れて右手と右足が同時に前に出てたなとも、思い出す。

beautiful name

私の受け持つ患者は受け持ち時点ではたいてい名がない。姓だけ。
生まれてきたばかりの、○○ベビーとか、多胎なら○○Aベビーと○○Bベビーとか。
初日の嵐のような処置を乗り越え、排尿と体重減少が始まり哺乳も増量しはじめた生後2~3日頃に、保育器の名前シールが埋められる。看護師の筆跡の姓の隣に、違った筆跡で、いつの間にか親御さんが名を書き込んでおられる。それで最後の空白が埋まる。
名が付くと、保育器の中の数百グラムが、急に「個人」になる。
それまで自分はこの子を何だと思ってお世話していたのだろう、と思うこともある。常にだいじに接してきたつもりで、しかし名前がついた時にはいつも我に返る感がある。この感触があるかぎりには、至らぬところがあるということかもしれない。物体と思ってなかったか?受け持ち患児に名前が付いたときのこの新鮮な感覚には反省するべき点があるんじゃないか、とは思う。
生まれたばかりの赤ちゃんをNICUに預けることになった親御さんの思いが、名に籠められている。すこやかに生き延びてくれとの祈りのこもった、立身出世上昇系ではなくて健康安定志向の名が多くなる。極めてありふれた名が多い。しかし有り難くないということではない。その名をカルテ表紙に書き込み、養育医療意見書を仕上げる。字画を一画一画、書き飛ばさず丁寧に書く。
beautiful name. ひとりずつひとつ。NICUで脳裏にリフレインする。あれは真実を歌った歌だと思う。世界中の全ての人に、こうした願いを込めて命名した誰かがいるのだと思うと、一瞬、気が遠くなる。

正しい居場所にいる幸せ

奇妙な静かさ。ゼクリストのかん高い排気音とハミングの振動音。看護師が薬剤をダブルチェックする早口の復唱。間接照明で薄暗くした夜のNICUに座っていると、自分が正しい場所に居るという幸福感が沸々と湧いてくる。いま自分は right time, right place に居ると実感する至福。