琥珀色の戯言 – 本音を書くな
この元記事が批判してる相手って私なのかな。けっこう厳しい批判だし宛先が不明確ってのは気になります。私宛てのような気もするし、しかし私宛てにしては紙一重以上に外されているような気もして、他に誰か念頭に置かれた方があるような。現時点で「本音」に関連する話題って全部自分に引きつけて考えてしまって、夜郎自大だってのは重々承知なんだけど。書いた人が意図的にぼかしてあることを「私宛てでしょうか?」と質問するのはなんか自白を迫ってるみたいで厭だし。まあ、読者諸賢には(むろんfujiponさん含む)反論反撃というよりは、お題を頂いて考えてみましたって事でご一読頂ければと思います。
医師特有の思考のフレームワーク
自分では自由奔放に考えを巡らせているように思っても、実は思考のフレームワークが出来上がっているものだ。なかなか存在すら認識できないものだけど、でも医師がものを考えるときの医師特有のフレームワークは確かに存在する。
これを考えはじめたのは、超低出生体重児の分娩立ち会いとその後の処置から帰った夜に、農学部林学科卒の妻に「林学じゃあ弱い苗は捨てるんだけどね。貴方は一番弱い苗まで一本残さず植え付けようとするものね。」と言われたときである。無論彼女は障害児の母である。弱い苗を簡単に諦めろという人ではない。未熟児医療がつまんない仕事だと言ってる訳じゃない。
例えば医師は物事をトラブルシュートと考える。しかも医師の慣れ親しんだトラブルシュートとは、極めて特殊な形態のトラブルシュートである。
医師のトラブルシュートの仕方は、既存の極めて複雑なシステムを設計図も無いまま与えられ、システムの基本部分は稼働させたまま、手を加えてはシステムの反応を見ることの繰り返しで状況を改善していこうとするもの。システムを全停止してオーバーホールすることはあり得ない。丸ごと捨てて買い換えることもあり得ない。手を加えると言っても、悪くなった部分に手を付けずその機能を代替するサブシステムを付加するという形は滅多に取り得ない。大抵は悪化した部分の除去と、既存の部品の組み替えでしのぐ。これはトラブルシュートを生業とする他業種の方々から見たら相当に特殊だろうと思う。
最も特殊なのは、対象のシステムが自然に回復することがあるということだろう。自然治癒をも計算に入れるトラブルシュートが他の業種で存在するだろうかと思う。とくに小児科は他の診療科よりも自然治癒を多く経験する。それは私の思考にも大きな影響を与えているに違いない。卑近な話、NICUの血液ガス分析装置のメンテナンスをしていて、そういえばこいつは様子を見るうち自分で良くなるということはないんだなと、ふと気付いて新鮮な思いをすることがある。
医師は物事をトラブルシュートと考える。じゃあ何とは「考えない」かというと、メンテナンスだと考える発想は無い。無いと言って支障があるなら、極めて薄いと言ってもよい。例えば病状の安定した子に毎3時間で哺乳しおむつを換え日に一回は風呂にも入れて泣けばあやしてと言った哺育業務を、医師が自分の業務と受け止めることはまず無い。あるいは他科であれ、入院であれ外来であれ、病状が安定しだしたら医師は診察の間隔を開け始める。病状が不安定でトラブルシュートの真っ最中の時期(業界用語では急性期という)と同じ頻度で診察を行うことは滅多にない。たいがいはそれは無駄だと考えている。医師にとってメンテナンスはあくまで「指導」するだけのものであり、実践はあくまで看護師や患者さん本人やご家族によると思っている。だから、医師にとってこの診察は、メンテナンス業務と言うよりは、新たにトラブルシュートの必要な事態が生じるのを予防し、かつ必要時のシュート開始を怠らないための助走段階である。あくまでトラブルシュートの一環なのである。
自分達の言葉の扱われ方も世の中に普遍的なものだと考えがちだ。だが、自分の関連する業務の全てが自分の指示で動くということを法的に規定されている職種が他にあるだろうか。そのために、臨床での医師の言葉は、それが医師から発せられたと言うだけでそれなりの重みを持ち、聞くものに傾聴を強制する。何か言えば取り敢えずは他よりも一段重い言葉として聞いて貰えるという体験が、それを日々体験している人間の語り口に影響を及ぼさないなんてありえない。一般的には、私たちと同年代の人間の言葉は、医師が思う以上に、周囲から聞き流されているのが普通だと思う。「そんな大層に受け止めないでくれよ言いたいことも言えないじゃないか」という贅沢な言説は医師ならではのものだ。たいがい、私たちの同世代は「俺の言いたいことを聞いてくれ」という要求の方が大きいものではないだろうか。違うかな。
医師にとっての理想とは負の状態が零レベルに戻ることである。零レベル以上に持ち上げることは少なくとも医師の義務感のうちにはない。そのフレームワークで、世の中のあれこれを「治療対象」として見ている限り、世の中は問題だらけの負の世界である。世界が基本的には善きものの詰まったプラスレベルの存在だとは考えない。そしてその善きものが善きもののままに保たれるための日々のメンテナンスに、自ら汗を流して直接参加しようとする意思は薄い。自分の言うことが傾聴され、自分の指示が常に誰か他の人によって実行され、誰か他の人がより細やかな目配りで日々の善を維持し続けているという状況に慣れている。
正直、「お母さん」と「看護師さん」がいなけりゃ小児科医なんて口だけの木偶の坊なんだよね。
自己批判的な現状認識でした。
我田引水かもしれんけれども
怒りとともに
このように書ければよかったのだ。私も。
波は静かだが深く底の見えない怒り。
相手を捉えて離さずその脆弱な怠惰さを粉々に洗い流すだろうが、
決して溺死させることはないような。
反証に関して開かれた語り方–畏れながら申し上げよ
前回の記事に頂いたコメントでもご指摘を頂き、成る程と思ったのだが、やはり内容に負けず劣らず、語られ方が重要なのだと思う。私にとっては、であるが。
名著「寝ながら学べる構造主義」(内田樹著)既読の人間が今さら何を言うかと自嘲。
対話、とくに反証に対して、いかに開かれた語られ方であるかが重要なのだと思う。
内容は何でも書けるのかもしれない。「ホンネ」として語られる類の、一見して他人の目を憚る内容でも、「これは『ホンネ』なんだから反証は野暮だ」という態度が見えなければ、案外、許容できるかも知れない。常軌を越えた筆力を持つ論者なら、医療ブログの記事で人類の滅亡を希求してなお説得力を持ち得るような文章すら可能かも知れない。具体的にどういう文面になるかは想像も付かないけれど。
逆に、公序良俗に些かも反しない内容であっても、反証を茶化したり拒否したりといった不真面目な態度は面白くない。周知の正論だから論証不要というのは横着かつ怠慢な油断である。反証に対して閉じていると言う点においてはホンネと同様だ。まして、いわゆる「正論」によくある、論証不可能な無茶苦茶な論に正論という銘を刻むだけで読者に丸飲みさせようという不誠実な語り方は、なお面白くない。
私が「医師ブログ」に期待するのは、医療に関してはあくまでも真面目に語られる論説である。何を主張しようと自由であるとしても、語り方においては反証を予期し誠実に対応する真面目な口調が必要だと思う。自分の誤謬の可能性や自説よりも説得力ある異論の存在に関して常に意識した文章を書きたいと思う。その意識があれば自然と、居住まいを正した文章が書けるのではないかと思う。自分の正当さをナイーブに信じて疑わぬ怠慢な文章は、そもそも文章として面白くないし、知性のレベルとして同業者の面汚しにもなりかねない。紋付き袴で居住まいを正して、畏れながら申し上げよ。それに尽きるのではないか。
閑話休題で紋付きについて考えた
内田樹先生の著書のどこかで拝読したことだが。武士のたしなみについて。
紋付きに紋は5つ付いている。前に2つ、後に3つ。紋の中でも最大のものは背中の中央に着いている。自分では最も見えにくいところだが、他人には最も目につく場所である。しかもその背中の紋を見る他者の視線もまた自分からは見えにくい。自分の背中を見る人ってたいてい自分からは見えないところに居ますからね。でもそういう他者から背中の家紋に汚れでも付けられたら正当不当以前に自分の名折れであったわけだから、気を抜くことは許されない。かくして、自分からは見えない場所にいる人が自分の身体の自分からは見えにくい部分に着目する視線を常に意識することとなる。書くだけでややこしいけど、実践はもっとややこしかったはず。
腰にさした刀は自分の左後方へ伸びている。これもまた自分には見えにくい位置である。この刀の先端を他者の刀の先端へ当てるのを「さや当て」と言う。最高に無礼な行為のひとつである。人の刀に当てぬよう、また当てられぬよう、佩刀の先端まで意識することが必要であった。
しかもそこまで面倒な思いをして携える刀を、抜くときは即ち我が身も滅ぶときである。江戸城中ではいかなる理由があろうと抜いたら切腹が決まりであった。どこの家でも家来の口減らしに熱心で、田舎侍が江戸城下で無礼討ちなどしようものなら浪人になるのは確実であった。侍ってやれやれなものだと思う。ご先祖には申し訳ないが。
自分の身体の、自分からは見えにくい部分までも、配慮を怠りなくすること。自分の身体を自分の目以外の視点から俯瞰すること。それが武士のたしなみであったという。割と、現代に通じることかなとも思う(だからこそ内田先生が論じられるのだけど)。私にはリアルの身体に加え、このブログという、我が身に準じるものがもう一つあったりするからなおのこと。
「医者のホンネ」は医療系ブログの内容として許されるか
ここで考えているのは、種々の文章の中でも「ホンネ」と分類される一群である。世間の良識に逆らう内容を綿密な論証抜きに語り、読者に論の正邪の判断を保留させたまま、筆者はそう考えているとの理解と許容を得ようとする文章。まじめな反論があったとしてもそんなもの野暮で詰まらない「正論」扱いにしますよという魂胆の透ける文章。あわよくば無条件支持をと期待するかのようなニュアンスをさえ感じることもある。そういうもの。
そういうものがブログのコンテンツとして、特に医師の書くブログのコンテンツとして成り立ち得るのか。成り立ち得るも何も医師がそういうものを書いているサイトは既に存在してきたのだから、可能か不可能かと問われれば可能なんだろう。とすれば、ここで問うべき問いとは、「『医者のホンネ』ブログを許容できるか」ということになろう。
私は、現在の「ブログ」という形態の発表形式では、『医者のホンネ』は倫理的に許容できないんじゃないかと考えるようになった。顛末は読者諸賢には周知の如くだが。
本来、「ホンネ」はその性質上、密やかに語られるものである。信じるままを大っぴらに語って何ら後ろ暗くない内容を述べる論なら、別に「ホンネ」と銘打つことはない。ごく一般的に、主張とか、本懐とか、色々と正々堂々とした呼び方があろう。「ホンネ」というのはその本質上、あくまでも「此処だけの話」であり「君にだから話せる話」なのである。
そういうもの・・・ですよね。そういうものだと思ってたんですけど。違います?
それを不特定多数を相手に語るというのは、もう考えるだにナイーブな行為である。世間知を備えた医師が、そういう『医者のホンネ』を語るサイトの筆者に対して「そういうことは話を聞いてくれる先輩にこそっと語れ」と忠告するのは、「ホンネ」というものが本来はそういう語られ方をするものだからだと思う。
医師が『医者のホンネ』をブログで語ろうとする場合、いったい何を根拠に、不特定多数の読者に対して、内容の正邪に関する判断を控える寛容さを期待するのだろう。「医者も人の子だし」という類の、医師も等身大の生身の人間であるということを根拠にか。「お医者様の言うことだから」という、医療という尊い仕事に携わる自分達を世間は好意的に見てくれて当然という思い込みを根拠にか。
残念ながら、医者はそれほど好かれるカテゴリーじゃない。構造的に、医者は世間に嫌われることになっている。
世間で医者に好意を持って下さっている方々は、決して「医者全般」に好意をお持ちなわけではない。得てしてその好意は「普段お世話になっている主治医の○○先生」や「身内が入院したときに身を粉にして働くのを間近に拝見した○○病院の研修医たち」に向いているのであって、決して「医者全般」が均並みに好きになっておられる訳じゃない。
逆に世間で医者に悪意をお持ちの方々はだいたい医者全般に悪意をお持ちである。むろん直接にご迷惑をお掛けした医者に悪意のピークがあるのだろうが、しかし、悪意は好意よりも容易に医師全般に拡大して行くものである。
しかも拡大したからって一人あたまの悪意の量が減るわけじゃない。分けるごとに総量は増える。それはあたかもイエスがパンくずと魚を分配して5000人を満腹させたかの如く・・・ああそうか・・あの逸話はそういう意味か。いま分かりましたよ。彼が配ったのは悪意ではないですけどね。
それは人情として当然のことではある。良い医者であれ悪い医者であれ、最初にその医者を選んだのは患者さん自身だからである。かかった医者が良い医者だとのご評価は、その医者を選んだ自分の選択眼が確かだったという事をも含意して、その医者が他の医者に比較してもなお一層良い医者だという評価につながりやすい。逆に、かかってみた医者がスカだったとしよう。医者全般は良い仕事をしているのに自分のかかった医者だけがスカだったとすると、そんな医者をわざわざ選んでしまった自分の選択眼もまたスカだったと言うことになる。そんな推定を積極的に認める人はあるまい。医者なんてみんなスカだよと思って溜飲を下げようとするのが人情であろう。
私はここで悪医に迷惑を被るのはそんな医者にかかった人が悪いと主張している訳ではない。こういう風に考えてしまうのが人情だろうという、価値判断を入れないシンプルな事実を述べているつもりである。
構造的に、医者に対する好意は局在化するが悪意は全般化するものなのだ。私らは世間に対しては好意よりも多くの悪意を予想して然るべきなのである。この点には不平不満を言っても仕方がない。そういうものなのだから。
であれば、『医者のホンネ』が好意的に迎えられる状況は予想しがたい。予想されるのはむしろ、不適切な相手にナイーブに漏らされた『ホンネ』の一般的な末路である。論の正邪を越えた受容が得られることはない。正当に論の正邪を問われ、論証の不備を攻撃されて、論に対する責任を問われることになる。
もしもそうはならず『医者のホンネ』が奇跡的に受容される場合も、その受容を支えるだけの好意がどこから来るかには敏感でなければならないと思う。過去に書いた自分のブログ記事の恩恵であるとは限らない。何となれば、読者諸賢の価値判断を留保させて然るべきなほど尊い記事を自分が書いてきたと考えるような、そういう偉ぶった態度に出る論者に、読者が好意を持つわけがない。少なくともそういう偉そうな人の『ホンネ』を許容するほど巨大な好意は得ようがない。『医者のホンネ』を許容して下さる読者は、たいていの場合は、筆者の人徳ではなく、読者ご自身の周囲におられる特定の医者に免じて、許容して下さっているはずなのだ。恐らくはブログ等という余録に手を出さず、黙々と日々の診療に従事しておられる医師に免じて。
要は、ブログで君のホンネを聞いて貰えたからって君自身が好かれているわけではないのだよってことだ。
しかしおおかたの場合、そういう、特定の医師には好意を持って下さっている読者諸賢も、『医者のホンネ』などお読みになったら、「私の尊敬する○○先生もこんな事を考えておられるのだろうか。幻滅してしまった。」とお考えになるのではないかと思う。『医者のホンネ』ブログなど書いている医者は、そのお楽しみにあたって同業者の信用を食いつぶしているのだということに、自覚を持つべきだと思う。黙々と働く同業者にも「ホンネ」はあろうに、じっと胸に納めて働いているのだ。その大多数の沈黙が積み上げた徳を、限られたブログ書き医師が掠め取って独占消費することが許されるだろうか。私の理解では、医師の同業者仲間の倫理観では許されないことになっているはずだ。
それはあたかも高山植物を乱獲する登山者にもにた悪徳だ。大勢の人がそっと見守り育ててきた、元来育ちにくく希少な花々を、突然やってきて無遠慮に踏み荒らして根こそぎ摘んでいくような行為。今どき「ホンネが書けなきゃブログの楽しみがない」と言う医者がもしもあるとしたら、彼(彼女)は「高山植物を採れないと登山の楽しみがない」と言う登山者と同様の恥知らずな事を言ってるんだと自覚するべきではないかと思う。じゃあ止めろよってことで。山に登るのにしても、ブログを書くのにしても、別に義務じゃなし。
『医者のホンネ』はブログの内容としては許されない。今回の結論。
懐かしの銘菓
久しぶりに「榎の一口香」を食した。
長崎人なら知らぬもののない「榎の一口香」である。
子供時代には、何でこんなものを専売する店が繁盛するんだと思ってたが、今になって喰ってみたら記憶にある以上に上品で程良く甘くて旨かった。何より、故郷を懐かしむことができた。海産物なら舞鶴から陸揚げされるものでもそこそこ旨い。カステラ屋なら京都にもある。一口香の程良いマイナーさが、故郷を懐かしむのには程良い。
古来、長崎人なら歌えなければならない歌が三つあると言われている。
1.でんでらりゅうば
2.文明堂のカステラのテーマ:「カステラ一番電話は二番」世界一長期に渡り放映されたとギネスに認定されたカステラ屋のCMソング
3.榎の一口香のテーマ:「まあるい小さな宇宙船・・・」決してスターウルフのテーマではない。
ともあれこの銘菓は、その特異な閉殻構造から、我々長崎の人間が子供時代に学業成績の振るわない級友を揶揄するときに引き合いに出されたものであった。長崎以外の土地では野菜の「ピーマン」が持ち出されていたものであろう。今となってはなんと罰当たりな事をしていたものよと思うが・・・それは反省しています。ごめんね。
わかってねえじゃん。全然。
1.この文脈で「発達障害をもちながら支援の足りなかった人」と言われて、既に施設で日常生活やら就労やらの支援が入っている人のことを持ち出されても、ご回答としてはまるで外してます。それで自分は分かってるって主張なさること自体、外れぶりが痛々しいくらいです。全然納得できません。
高機能自閉症やアスペルガー症候群といった概念はご存じじゃないのですか?広汎性発達障害を持ちながら知的障害が無いために従来の福祉の枠から外されてきた人たちのことをお聞きになったことはありませんか?
先天性障害はない、って何を根拠にそのような断定を?今までそういう診断がされてなかったから?現代まで放置されてきたも同然の障害概念ですから、もう50歳近くにもなる方なら診断されてないほうが、むしろ、よくある話ですよ。その生得的な社会性の障害から、二次障害としてアルコール依存症やら来してくることだってあり得ると思います(参考までに、私も、親の会の先輩から「酒は覚えさせない方が良いよ」と忠告されてます)。アルコール依存症に限らず、不適応のままで50歳にも至れば病状はそうとう修飾されてるでしょうね。この方に今からの診断は難しいと思いますよ。午前4時の救急外来でそれを否定診断できるとはとうてい思えません。その後の経過にも、それが問題になったという御言及はありませんでしたね。
ちなみに、私には、この患者さんの情報が与えられれば与えられるだけ、やっぱり基礎に社会性の障害があるんじゃねえの?って印象を強めてますがね。
必ずその診断が下るはずだと主張している訳ではありません。例えばそういう医学的考察もあり得るだろうと申し上げているのです。たまたま私は自閉症と新生児に興味を持ってるからこういう切り方をしたけれど、他にもこの方の背景を医学的に考える筋道は幾らでもあるはずですよ。そして、自分の知識や想像力の及ばないところにそういう幾ばくか深遠な事情があるのかもしれんと考えるような、そういう自分の限界のもう少し彼方へ足掻き出ようとする思慮深さをお持ちなら、「こういう人のために」云々の詰まらぬ詠嘆に足を引っ張られることも無いでしょうよ。他に考えることが沢山あるはずです。2年目の研修医にはむしろその方が普通ですよ。
2.守秘義務は、患者さんから個性を剥ぎ取ることの正当な理由になるのでしょうか。
医者が診るのは一度に一人。並列に何人か診ていても、その瞬間に診ているのは常に一人。そのはずです。そして、診ている相手は「生活習慣病のホームレス」でも「偽せ生保」でも「コンビニ受診生保」でもないのです。あくまで、一人の顔と名前を持った方。医者が診るのは「プロ野球選手」ではなくて桑田真澄氏であり、「IT長者」ではなくて堀江貴文氏ではないかと思います。
患者さんの顔と名前が見えておられましたか?
無我夢中で仕事を覚える最中の研修医さんには過大な要求でしょうか?
患者さんから種々の事情を剥ぎ取って「生活習慣病のホームレス」に仕立て、個人ではなく半ば象徴化した概念に変貌させ、そこへ便乗して普段「偽せ生保」とか「コンビニ受診生保」とかに感じておられる憤りを重ねておられる。彼自身が「偽せ生保」だったのですか?常習的なコンビニ受診者ですか?どうして彼が他の方々の品行まで責任持たなきゃならない?彼を個人名で語ればそんな連帯責任生じないけど、概念化してしまえば文章の上では連想ゲームみたいに滑らかにつながるんですよね。でもそれをやるのは医者として以前にレトリックとして卑怯だと思いますよ。
しかもそれを守秘義務と仰る。やれやれ。
まあ、何だかんだ言って、守秘義務云々の言い訳にたいするお返事はかなり簡潔に要約できますね。「そんなら最初から書くなよ」と。
3.「最近の研修医」云々についてはご指導賜り厚く御礼申し上げますが、あなた一人に当てこすってるのは読めば分かることですし、他の研修医は誰も応えてないと思いますよ。
thunderbirdいいですよ
幻 想 の 断 片
thunderbirdのフィルタリング機能はけっこう気に入ってます。ただ一点、振り分けルールの学習が一段落するまでは迷惑メールフォルダもまめに覗いた方が良いです。私はいちど非常に貴重なメールを迷惑メールフォルダに放り込まれたことがありました。
かつては自閉症も自業自得だった
あちこち読んで、「自業自得」について思うことの断章を。応える人は応えてください(答えなくてもいいけど)。大半の読者諸賢は応えないだろうから、自分宛の記事じゃないんだなと思って無視して下さい。今日は万人宛の記事じゃないです。すみません。
・成人相手の諸先生は「自業自得」の生活習慣病について治療すべきかどうか迷うらしい。少なくとも治療するのに自分を納得させる理由を欲しがるくらいには。現代では道徳的に正しく暮らす人間でないと生存権が認められないらしい。自らの生活に清く正しく美しくない点を自覚なさっている人は、患者さんとして診察室にはいるときは直立不動、右手を斜め上方に真っ直ぐ挙げて「はいる!」と叫んだほうがよいかもしれません。そうすれば多少は真面目な診療をして「頂ける」かもしれませんぜ。
・今の仕事に迷うのなら標榜を変えて新生児医療に来ればいいのに。NICUは「自業自得」などと言う偉そうな言葉からかなり遠い。同じ悩むにしてももう少し血の通ったことで悩めますぜ。
・かつては自閉症も育て方の問題、親の「自業自得」の問題だった。恐らく当時の医者たちは、肺ガンの原因を喫煙に求めるのと同じくらいに、自閉症は親の責任でなるものだと思っていた。思うだけではなく、実際に親を責めた。当時の医師が自閉症を治療するべきかと迷ったかどうかは知らない。当時の医者は今みたいに世間に自分の迷いを手軽に表明する手段は持たなかったし。まあ、子自身の「自業自得」とは思ってなかっただろうし、診療拒否はしなかったかもしれないね。でも、あんまり目立った成果が(当時のこととて)あがらなくても、それを親御さんに指摘されたら当時の医者はかなり怒っただろうね。お前のせいで子がこうなったのを治療してやってるのに文句を言うとは何事だ!とか。想像だけでそう言っちゃうのはアンフェアかな。けっこう真実味のある空想だと思うけど。まあともかく、今では自閉症の原因を育て方に求める考え方が(少なくとも児童精神科の主流では)廃れてしまってるけど、もしもの話、それが廃れてなくて『こんな育て方を間違った親子のために貴重な医療資源を割くなんて』と医者に逡巡されたら、私は納得できないな。
・たばこ40本とか酒1升とか初診で白状してしまう生真面目な正直さに、嗅ぎ慣れた匂いを感じたりするんですけど。それとも、実は80本と2升なのを過少申告したのだろうか。
・そりゃあ我々とて聖人君子じゃあないし内心いろいろ思うことはあるんでしょうけどね。聖人君子だけで業界を構成しようったってただでさえ人手が足りないのに拍車がかかるだけだし、聖人君子も希少資源だから医療業界に優先配分というのも難しかろうし。でも内心思うことの中には決して人前に出してはいけない事もあるし、人前に出すならもう少し恥ずかしげに出さねばならない事ってのもあるでしょうよ。悩みを乗り越えて前進するぞっていう決意表明は嬉しいことなのかもしれんですがね、たとえばの話、「今日は午前4時に韓国人が受診してきた。こんな時間にあんないやな国の奴らの診療にあたるのかと思うと仕事が厭になりかけたが、それでも頑張るぞ」と言われて「よしよし頑張ってくれて嬉しいよ」と答えられますかね。私には無理だな。
