偉い偉い研修医大先生へ苦言

陽だまり日記
こういう小言めいたトラックバック記事は、書いてて、幼稚園の砂場で玩具を取られて涙ぐんでいる子どもを慰めているような気分になるが、こういう幼い詠嘆は早めに卒業しておかれる方がなにかと為になる。ちと酷だがあれこれ申し上げることにする。
まず私はこの記事が非常に不愉快である。それは申し上げておく。私が筆致を抑えているように思われたら、それは彼女への気遣いではなく自分の品位への気遣いだと思われたい。
Mari先生の時とはずいぶんと態度がちがうじゃねえかというご指摘はたぶんあるでしょうがこの人とMari先生との差はけっこう大きいと思うので。同じ診療科の身びいきかもしれませんが。でも、うまく言語化できないけれど、なにか違います。やっぱり。

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臨時に当直

本来の当直医が体調を崩したので臨時に当直。何故かちょうど私の当直の間が大きく開いていたのでちょうど良かった。中6日空く予定だったのでどうしたんだろう一体と思ってたら中3日と中2日に分割された。これでいつものペースだ。
ただ、いったんは帰らねばならなかった。猫の餌とトイレの始末をしに。にゃん太郎はささみ猫である。魚は猫の喰うものではないと思っている。茹でササミが大好物。猫のくせに湯気の上がる熱々の茹でササミをはふはふと喰う。とは言っても、猫の分際でそうそう毎日ササミを喰うような贅沢はさせたくないので、大袋入りの冷凍ササミを数日おきに茹でてやっている。貰えない日は渋々キャットフードを喰っているようだ。だからにゃん黒ほどにも太らない。肥満の過ぎるにゃん黒に付き合わされてにゃん太郎もダイエット用フードを喰わされているからなおのこと。筋肉が締まって、良い体をしている。
ついでにシャワーも浴びてきた。当直中は自分の汗くささにも閉口するものだがそれが随分と楽だ。
今はちょうど妻子が帰省していて私一人が居残っている。であればこそ猫の世話にいったん帰宅が必要だったのだが。中6日も空くんなら一緒に帰れば良いのにとも思う。実情は、先に小児科医が一人夏休みをとっちゃってて、たまたまその人が普段からほとんど当直をしない人だから当直日程には影響がなかったってだけで。まあ、休めないには違いない。そういう人って休暇の予定立つのは他人より早いんだよね。
それに、故郷には帰りたいけれど、故郷に関連する詰まらぬしがらみには触りたくない。山や海は黙って迎えてくれるけれど人には口がある。
妻もそうだと見えて子供たちをおいて早々に帰ってくる予定。

安心な産科医院

産科詰め所で助産師が話してたことによれば、市内のある産婦人科医院から紹介のあった妊婦さんは、まず間違いなく同じ医院に帰って行かれるとのこと。
これは二つの意味がある。一つには紹介が適切なタイミングであるから安静と陣痛抑制で切迫早産の病態が落ち着き、一般の産科医院で分娩しても安全な週数に到達できるので、大半の妊婦さんを円満に逆搬送できるということ。もう一つは、この医院への妊婦さんたちの信頼が篤いために、うちの病院への鞍替えを希望される妊婦さんがおられないと言うこと。いずれにしてもこの医院の実践は素晴らしい。かくありたいものである。
むろん産科的に最善の治療をしても結果的に早産となる症例はある。この医院から紹介の妊婦さんであっても例外ではない。あるいはこの医院で産まれた赤ちゃんに異常があって新生児搬送に出向くことも、決して無くはない。ある程度の分娩数を扱う産科ならある割合で切迫早産があり異常分娩があり病的新生児もあるものだ。しかしこの医院関連の御用のときには無用の緊張をしなくて済む。例え赤ちゃんの病状が重篤であっても、重篤な病状への対処に専心していられる。これは引き継ぐ立場としてはとても有り難いことだ。
患者さんや関係病院の信頼を集めて、この産科医院は徐々に評価を上げている。標準的な産科医院から一流の産科医院へと、じわりと歩を進めてゆかれるところだと思う。どの業界でも標準と一流の差は遙かに遠いような紙一重なような、分かりにくいような歴然としているような、いずれにしてもその境を越えるのは難しい。無論努力も要るが、知恵のない力任せの努力では決して越えられない。でも小賢しいトリッキーな思いつきで一流になれるわけでもない。自分や自分達の施設に関してはどうすればいいのやら途方に暮れるが、この産科医院は確実に我々の先を行っている。

吸啜

保育器の中の赤ちゃんがどうしても泣きやまず、まるで診療が進まない。試しに指を吸わせてみたらものすごい勢いで吸い付いてきた。痛かった。爪が抜けるかと思った。
あの勢いで吸われるのか。

メカふぐ

先の日曜日、息子が田宮模型から出ている「メカふぐ」を作った。
例によって設計図を一目見るなりギヤボックスをするすると組み上げてしまった。この子の目や頭はどういう構造になっているんだろうと、毎度のことながら不思議でならない。ただ、部品番号と絵で理解しているのは確実なようで、文字で書かれた「グリスを塗ります」という指示は最初はきれいに無視した。多少気にはなったが、実は私もギヤに油を塗らないとどうなるかよく分からなかったので、口を出さずにおいた。
電池ボックスとギヤボックスを本体に取り付けて、試しにスイッチを入れてみる。わくわくしているのが見ててよく分かった。しかしモーターが呻るばかりでまるで動かない。そこでグリースのチューブを渡してやると、黙々とギヤボックスを取り外し、ギヤ表面にグリスを塗り込んでいた。その淡々としたリカバリーぶりが、傍目には冷静沈着な職人に見えて、我が子ながら惚れ惚れした。
それにしても、組み立て中の模型が期待通りに動かないとか、PS2で遊んでいるときに妹が電源コードにけつまずいて抜いたとか、そういうトラブルにはこの子は全く動揺しない。まるで、これで遊べる回数が1回増えたとしか思っていないようだ。本当に好きなことってのはそういうものなのかもしれない。

自閉症者の身体感覚

「自閉っ子、こういう風にできてます!」ニキリンコ・藤家寛子 花風社 遅まきながら拝読しました。
自閉症者の身体感覚について書かれた本です。自閉症というと精神や心理のことばかりに私は気を取られていて、こういう肉体的な面倒もいろいろ抱えておられるというのは初耳でした。全く新しい分野の本を読んだ気がします。面白い本でした。
うちの息子見てたら、自閉症児って身体はやたらタフに出来てると、無根拠に独り決めしていたのですが(少なくとも私は小児科医としてうちの息子を診たことがほとんど無いです)、認識が甘かったかも知れません。
もう一つ、自閉症ではない人をさして「定型発達」という語を使ってあります。なるほどこういう風に使うのかと腑に落ちました。良い語です。今後は私も自称に使うと思います。

「親のせいにすること」の構造的欺瞞

発達障害の原因を母親の育て方に求める考え方は、科学的にいかに荒唐無稽でも、構造的に無敵である。
自分の言うとおりにテレビを消してひたすら「言葉掛け」をした家の子に言葉が増えたら自説の正しさが補強される。しかし言葉が増えなくとも、それは親御さんの努力不足のためであって、自説の正しさは些かも揺るがない。努力不足だとどうして分かるか、それは努力すれば増えるはずの子どもの言葉が増えないからである。
どう転んでも彼の説が否定されることはない。だから臨床では破綻がない。いつまでも生き残れる。生き残っているということが彼の説に信憑性を増すかにも見える。生き延びるのみならず偉くもなるかもしれない。
しかしこの破綻の無さは彼の説が科学的に正しいことの証左にはならない。言説の内容がどんな内容であれ、この構造をとらせれば破綻することはないからである。
例えば「海辺で念じれば鯨を目撃できる」という論(たったいま私がでっち上げた論だが)を検証してみる。念じて実際に遠方にでも鯨が出たらこの説は正しい。鯨が出なくともそれは念じる人の努力が足りないためであるからこの説自体は正しい。努力が足りないとどうして分かるか、それは鯨が出ないためである。
構造的に反証不可能になっている言説を科学的言説とは呼ばない。たしかカール・ポパーとかいう人がそう言ってなかったかな。「矛盾のない公理系はそれ自体が無矛盾であることを証明できない」ってのは誰の言葉だったっけか。まあ、そこまで大層な話かよとも思うけど。
みみっちくて誠のない説だよなと思う。欺瞞的で無責任である。この説を唱えて子どもの言葉が自分の言うとおりに増えなくても、全然自分の責任にはならないんだよね。上手く行かないのは全部が親のせい。気楽だろうなあ。自信たっぷりに毎日外来が出来るだろうなと思う。これだけで一生喰っていけるかも。俺ももう少し矜持とか良心とかを振り捨てることができたら、この説を採用した「言葉の発達外来」で大繁盛できるかもしれない。
ただ、帰る家が無くなりそうだね。どの面下げて妻や息子に会えようか。

アメリカの個人破産の半数は高額な医療費が原因なのだそうだ

暗いニュースリンク: アメリカ:個人破産の半数は高額な医療費が原因

米国内で破産した人のおよそ半数が、医療費の高騰が原因で破産しており、病気のために自己破産に陥った人々の大半は中産階級で医療保険加入者であることが調査で判明した。

とてもよくまとまった記事で読みふけってしまって、ついでにアマゾンで推薦図書まで買い込んでしまった。
日本の医者はダメだねえと米国の医療が引き合いに出されるたびに、仰るような医療にかかる高額な費用はどうやって捻出されるんだろうと不思議に思っていた。李啓充先生の「アメリカ医療の光と影」はむろん既読で、向こうには向こうの色々な事情があるのだろうと思っていたが、こういう悲惨な実情があるとまでは思ってなかった。
これじゃあ医療が本当に人を幸せにしてるのだかどうだか分かったものじゃあない。病気は治って無一文、か。治らなくて無一文っていう可能性もありか。それじゃあ医者を訴えたくもなるよな。

大丈夫の言葉が欲しくて来院する人が9割以上。それは当然

小児科外来は時間内も時間外も「大丈夫」の言葉が欲しくて来院する人が圧倒的大多数。
それはもう、プライマリ・ケアに近いところに居る人間ほど身に染みて分かってることで、今さら語るに落ちる内容だからあんまり言葉にしないんだけど、病院は病気を治すところだと思ってる人にはけっこう意外なことなんだろうなと、時にこの事実に戸惑う人に出会うたびに新鮮な気分になる。
小児科は唯一病気が
相応の権威を持って「大丈夫」と申し上げる、この言葉そのもに言霊的な治療効果があるんじゃないかと思うこともある。むろん大丈夫じゃあない子に大丈夫とは言いませんよ。それなりの診断手段を尽くし、説明を尽くした上での「大丈夫」という結論の一言を心掛けてます。うちの小児科で一番採血をし点滴をし再来予約をマメに取るのは私だと思ってます。一方で単純な感冒の子に「念のため抗生物質」を処方することが最も少ないのも自分だと思ってますけど。
闇雲に「大丈夫」と申し上げてるつもりじゃなくて相応の勉強はさせて頂いてるつもりです。例えばメジャーリーグの強打者が打撃の秘訣を聞かれて「来たボールを打つだけじゃないか」と答えたとして、その「来たボールを打つ」というシンプルな言葉にどれほどの彼の努力と才能が籠もっているかというような、そういう重みを私は医者の「大丈夫」という言葉に籠めたいものだと思います。