「街場の現代思想」内田樹 NTT出版

治療の困難な赤ちゃんの診療に、完治をめざして可能な限りの手段を尽くす積極的治療を行うかそれとも苦痛の緩和を優先する方針にするかといった治療方針の選択に関して、あるいはご両親の心情に対してどのように接するのがよいかという面に関して、「愛する家族ならばどうするかと考える」と、上司がよく言うのですが、果たしてこの図式が本当に真実をとらえるものなのかどうか、常々考えてきました。
 内田先生の最新刊である本書の最終章「想像力と倫理について」に、この疑問に関する重要な示唆がありました。
想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないのかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。
生命倫理の絡む判断は医師1人では行いません。複数の心で考えるのが暴走を防ぐポイントです。もうちょっと卑近なリスクヘッジの思想もあって、出来るだけ多くのスタッフの意見を聞きます。
出来るだけ多くのスタッフと言うのは医師ばかりではありません。多いのは圧倒的に看護師ですから、必然的に、看護師たちの意見を重要視することになります。朝夕の回診にちょろっと入ってくるだけの、NICU滞在時間平均10分/日の医師に何か聞くよりもよっぽど実のある議論になります。そもそも、親御さんと本当に腹の割った話をしているのは看護師たちですしね。
うちは看護職員も学生もキリスト教徒が多いです(看護学校の推薦入学枠はキリスト教徒であることが必要条件です)。彼女たちは赤ちゃんをあやす片手間に賛美歌を綺麗に三重唱できる面々です。その彼女たちの脳に「愛」という言葉が誘発する心象は、質と深度の双方において、一般の20代女子とは違うのではないかと思います。
彼女たちはほぼ全員が独身・子無しです(子持ちのナースでも夜勤が出来るようになってほしいよね)。対して医師たちは全員が子持ち。子持ち医師の中でも、私1人が障害児の親です。やっぱりね、自分の子は名門私立の小学校に通わせている医師が、重症の赤ちゃんの方針に関して「私なら自分の子がこの状態ならもう生きていてほしくない」なんて言うのを聞いたら、障害児の親としては意地になるわけですわ。障害が残るなら死んでしまえというのかってね。同じ「愛する家族」スキームを用いても既に医師内部で分裂していますね。
でもまあ、私らみんな、医療関係者としては一括りな訳で、共通して親御さんをお母さんあるいはお父さんと呼び、彼らを常に赤ちゃんとの関連でとらえて対応しているわけです。ですが、特に赤ちゃんが第1子である場合には、事実上、彼らが赤ちゃんの親として扱われるのはNICU内だけなのですね。親という立場は彼らにしてみれば数ある役割の中の一つでしかない。ちょうど、私のNICU内での役割があくまで新生児科医であって、私が自閉症児の親であるということは日常的には周辺スタッフの意識には上っていないように。その若い夫婦の意向が、必ずしも赤ちゃんを最優先にしているように見えなくとも、それは決して不自然なことではない。
彼らが親として扱われるNICUという環境がどのような環境であるか。四方に並ぶモニタ画面、人工呼吸器、保育器に鈴なりの輸液ポンプ。電子音。人工呼吸器の排気音。慣れない人にはNICUはアルカディア号やヤマトの艦橋あるいは999の機関車内部に見えるはずです。内実はそれほど高尚なものではなくて、せいぜい、大四畳半物語のぼろアパートの一室にテレビを複数台並べたという程度のものなんですが。でも、いきなりこの環境に放り込まれて何か重要な決断を迫られてもねえ、迫る私の姿がたぶんハーロックに見えるでしょうね。考え方が違うと認める相手の下船は許しても逃げるだけの臆病者には死をもって報いるってやつ。私が近視の三枚目だとまでは見て取れた親御さんでも、私を大山トチローと思っても「おいどん」だとは思ってはくれないでしょうね。一応九州男児だし一人称代名詞を「おいどん」で喋ることも抵抗はそがんはなかとばってんね。
「愛する家族」スキームを採用している自分達が共通して「医療関係者」という狭い業界の人間であるということ、そのスキームを採用している現場がNICUであるということ。そのような自分達を規定する特殊な背景要素は常に意識していなければならない。意識するためには、そのスキームを採用すれば必然的にそれを意識するような設計でスキームを作っておかなければならない。自分の愛する家族ならばと自分が考えてそれを患者さんの状況に代入するというのは、自分と患者さんがそれだけ均質な存在でなければならないのですが、まあ、その前に自分が他人とどれだけ違うかを考えるべきでしょうね。
とまあ、内田先生の受け売りでした。この話題今後も続けます。

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