When Bad Things happen to Good People

When Bad Things happen to Good People  
 邦訳 「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」 H・S・クシュナー著 斉藤武訳 (岩波書店 同時代ライブラリー)
 最近私がブログに頻々に書いている障害のテーマについて、本書を参考文献に挙げないのは妥当ではない。本書で読んだことをさも自分で考えたかのように語るのはちょっと気が引ける。
内容は題名のとおり。善良に暮らしていた人に突然に災いが降り掛かってくるという不条理を扱った書物である。著者はユダヤ教のラビである。早老症という、幼児期から身体に老化を生じ10代で老衰死する難病で愛息のアーロン君を亡くされた。自分は御心に適う生活をしていたはずなのにこれは不公平なのではないか、仮に自分に何か落ち度があったとしても、何故にその罰が自分ではなくて息子に下されねばならなかったのか、その痛切な問いから始まる書物である。
その問いに、彼は真摯な回答を出している。自ら苦しんだ末にしか出せない回答だと私は思う。その素晴らしい回答を要約する技量は私にはない(そんな文章力があったらいいなとは思うが)。下手なネタばれの愚も避けたい。
紹介のために、一部を邦訳から引用する。

アーロンが生き、そして死につつある時、私たちの助けとなった本や人は、そう多くはありませんでした。友人たちは助けようとしてくれましたし、親切にしてくれましたが、十分な力になってくれたとは言えません。また、私の読んだ本は、神の栄光を守ろうとすることに重きを置き、理論的な証明でもって、悪はほんとうのところは善であり、悪はこの世界を善いものにするために必要なのだと述べるのみで、死につつある子供をかかえる親たちの苦悩や困惑を癒そうとするものではありませんでした。それらの本は、自らが提起する疑問に答えようとしているだけで、私の問いにはなんら答えてくれなかったのです。
この本は、そういうたぐいの本ではないことを願います。私は、神を擁護したり、説明しようとしてこの本を書いたのではありません。すでに出版されている多くの専門書に、さらに一冊を加える必要もないでしょうし、かりにその必要があったとしても、私は正式に哲学を学んだ人間ではありません。私は、人の悲しみを体験した人間であり、根本的に神を信じる人間です。死や、病気やけが、そして拒絶や失望によって人生に傷ついた人のために、また、この世に正義があるなら、こんなことが自分に起こるのはまちがっていると考えている人に読んでもらいたくて、この本を書きました。
そのような人にとって、神とはいったいなんなのでしょうか?そのような人は、いったいどこに、力や希望を求めればいいのでしょうか?もし、あなたがそのような思いを抱く人のひとりであり、神の善や公平を信じようと思いつつも、自分自身や愛する人びとにおそいかかった理不斥な不幸のために信じられないでいるとしたら、そして、この本がそうしたあなたのお役に立つことができるならば、私は、アーロンの痛みと涙からいくばくかの祝福を取り出せたことになります。
もし、私のこの本がその目的であるべき人間の苦悩や痛みからそれて、神学的解釈論にはまりこみそうになったとしても、なぜこの本を書くことになったのかというアーロンとの体験が、私を原点に引き戻してくれるだろうと願っています。


邦訳は岩波の同時代ライブラリーから、「なぜ私だけが苦しむのか」という些か誤解を招きかねない邦題で出版された。これでは我が身の不幸を呪うばかりの愚痴本ではないか。実際には、本書にはこの邦題から想起されるような自己憐憫や怨嗟の陰影は薄い。ほとんど無いと言うべきである。重要な内容で、古典とされてよいはずなのに、邦訳は現在は古書市場経由でないと入手不可能になっている。なんの事情かは分からないが、この間抜けな邦題が一役買っているのではないだろうか。
岩波文庫に入れるべき古典なんですけどね。
私はつい最近まで、書物の題名は著者ではなくて出版社が決めるものだと言うことを知らなかった。とすれば、原書を読まずに売りに出したのは訳者ではなくて岩波書店のほうだということになる。天下の岩波がお馬鹿な事をしたものだと思う。
京都に引っ越してきた直後、息子の自閉症の診断が確定した頃に、私はこの書物に本当は何が書いてあるかをウエブ経由で知った。学生時代にアルバイトしていた本屋でこの邦訳書が平積みになっていたのは記憶しているが、当時はこの邦題ではそんな自己憐憫本など誰が読むもんかいと思っていたし、お客さんもみんなそう思ったらしくて実際に売れなかった(岩波の本は買いきりだから売れなかったのは痛かっただろうなと店長が気の毒である)。あのとき買っておくべきだったと臍を噛んで、今さらのようにアマゾンや紀伊国屋で探したが、入手できなかった。結局、京都市の山科だか伏見だかの市立図書館に所蔵されていた本書を左京図書館経由で借り出して、OCRでテキストファイルに落とし保管してある。PDFにしたら900KBくらいのサイズになった。
その後、古書店で1冊見つけて買ったのだが、NICUの書棚に入れておいたら誰か持って帰ってしまった。稀覯本だと見抜いてたたき売るような抜け目のないナースは居ないはずだし(そこまで抜け目なかったらもうちょっと待遇の良いNICUを見つけるはずだ)、誰か読んでるんだろうね。
こういう書物がお蔵入りしているのは世の中の損失だと思う。岩波書店さえ怒らないようならこのファイルをWinnyかなんかで世間に配布することは出来ないものだろうかと思う。ウイニーって本来そういう使い方をするべきソフトではないか。
なんかWinny論になっちまったな。

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