鯨肉って好きですか?

捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間

捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間

本書によれば

  • 江戸時代までの日本の伝統的な捕鯨と、明治期以降のノルウェー式を導入して以降の捕鯨はまったく別物。伝統的捕鯨をやってた面々が移行したというわけでもなくて、まったく別系統の捕鯨である。
  • この新しく始められた捕鯨には漁民からの反対運動もあり、なかには焼き討ちにまで発展した事例もあった。鯨の解体処理で発生する多量の血液などが海に垂れ流され海産物にダメージを与えるという点に加え、もとより鯨をエビスとして信仰の対象にしていた土地もあったため。
  • 明治期以降、第二次大戦前後までの日本の捕鯨も、主目的は輸出用の鯨油の採取であった。鯨肉は副産物であって、その消費は日本の伝統というより捕鯨会社による啓蒙によって明治期以降に広まった(とはいっても西日本に限定的にだが)ものである。
  • 大戦中の畜産の壊滅により鯨肉も一時的には消費が増えたが、やがて畜産の回復により鯨肉は歓迎されなくなり、安価に学校給食に回されるものとなった。

そのほか色々。いったい捕鯨が日本の伝統文化ってのはどこから出た話なんだろう。今まで常識と思ってたんだが。裏付けのないことを信じ込んでただけか?

子どもの頃は鯨肉もたまに実家の食卓にのったが、噛み切りにくく飲み込みにくく、あんまり楽しみにする食材でもなかった。ちなみに実家は長崎県なので江戸時代から捕鯨が盛んな地方ではあるのだけれど。

でも鯨油しかとらない欧米の捕鯨と比べて、日本人は肉なども残さずありがたく頂くから善いのだとも聞いていたのだが、本書によれば、日本も遅れて参加したってだけで、鯨油主体の捕鯨に違いはなかったようだ。食べることで生命を頂くのに鯨も鶏も牛も変わらないという見方もあるようだが、それを言うなら四つ足の肉を全般に食べなかったのが日本の伝統なんだよな。

資源量も減少しているし、鯨油の需要も少なくなったしで、欧米各国が斜陽産業に見切りを付けてさっさと手を引く中で、日本だけがずるずると手を引き損ねたというのが真相なのではないかと、本書を読んで思った。むろん戦後の食糧供給が危機的だった頃には鯨肉の供給も意義あることだったろうし、その時代に頂いた鯨肉には感謝しなければならないと思う。そのぶん撤退時期が遅くなるのはやむを得なかったかも知れない。でも、その後の捕鯨は、もう採算の取れなくなった産業を無理筋で温存しているだけなのではないか。中央官庁のその担当部署のメンツや存続も賭かってる、という臭いがぷんぷんする。

しかし捕鯨をやめようとも、さらっとは言いかねる。鯨が賢い動物だから捕鯨をしてはいけないというのはむかつく主張だ。そんな主観的で反証不可能な主張をされても、同意か不同意かではなくて屈服か反抗かの選択しかありえない。そんな主張さえなければ、もう採算も合わんし需要もないし南氷洋捕鯨はもともと日本の伝統文化ってわけでもないしというので、円満な撤退の筋道もあろうにと思う。今の構図では、屈辱を伴わない撤退があり得ないことになっている。

まあ何様、シーシェパードの乱暴な諸君に勝ちどきをあげさせるくらいなら好きでもない鯨肉も食ったろうじゃないかとさえ思う。

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