医師がブログで患者さんを中傷したので処罰されるというニュースがありたくさんの医療系ブログで言及されている。大方の意見は、公開の場での書き方としては浅慮に過ぎるというものであったと理解している。
投稿者: yamakaw
震災10年
震災から10年。朝から報道は震災一色。どんよりと気分が重かった。
あの地震の後、2月3月の状況を思い起こすにつけても、まだ新潟は被災地まっただ中なんだろうなと思う。インド洋沿岸のみなさんがどうしておられるか想像するのも恐い。
昭和30年頃の日本人はみんな戦争のことをちょうど今の私が震災のことを思い出すような生々しさで記憶していたのだろうか。であれば戦争を記憶している人々は私のかねてからの想像よりも長い期間にわたって生々しく戦争の記憶をお持ちになってこられたことなのだと思う。かつて私は歴史の本を読んではいとも簡単に戦争犯罪云々言っちゃってたけど、あの災害の中に駆け出しの医師として居たお前にも亡くなった方々六千人あまりの中の幾ばくかに責任があるのではないかと言われたら、あの時の無力感が未だ冷めやらず引きずり続けている私にはあまりに痛い。開き直って俺の何が悪かったと反論する事は私にはできない。只、そう言う事を問える君はおそらく私よりも背負うものが軽いね羨ましいものだねと、俯いて嘆息するのみだろう。
日常とは紙に描いた書き割りである。その紙が何かの拍子にうっかり破れてしまったら、その向こうに広がる空間には日常の風景が書き込まれているとは限らない。慌ててその紙を貼り付けて繕ったとて、破れ目の跡は残るものだし、破れ目から垣間見た非日常の世界が脳裏を去ることはない。(その破れ目から放り出されて日常へ帰る事が極めて困難になった子供たちがインド洋沿岸諸国には数多いと聞き、なお心が痛む)。
一度でもその向こう側を見てしまうと、自分の周囲の日常がそれまで信じていたよりも脆弱で危ういものに感じられてくる。その日常に対する虚無感と愛惜と、二つながらの感情を抱くことになる。自分のあり方にかかわらず当たり前に存続すると思っていた世界が、実は非力な自分ですら必死に参加して支えておかないと破綻しはじめるような有限の世界だったと気付かされる。
NICUに赤ちゃんを預けることになった親御さんたちは皆それぞれの家族の震災を生き延びようとされておられるところなのだろうと思う。ただそういう家族規模のマイクロ震災は発生していると言うことすら周囲には気付かれにくい。私らNICUをニッチとしている人間は、恒久的な災害現場で永遠に続く復興活動をやってるようなものなのだろうけど、自分達にとっては日常としか思えぬ場所がご家族にはまるで非日常の現場なのだと、それも祝祭的な場ではなく災害現場なのだと、忘れぬようにしたいものだと思う。
あの日私は神戸にいた。私のよりどころの一つである。
映画
新京極の弥生座で「犬夜叉」と「ハム太郎」みてきました。娘と一緒。あと何年かすればお父さんと一緒なんて絶対厭だと言いはじめるんだからと妻に言われました。そういうものか。
ハム太郎では松浦亜弥さんが大活躍でした。声優さんの中でも一番台詞多かったんじゃないかな。ハム太郎よりも台詞多かったですよ(ロコちゃんより多いのは当然ですね)。上手でした。松浦さんのファンなら彼女の声に浸りに行ってもよいのじゃないかと思います。
子ども相手でも直球勝負で言いたいことをきちんと伝える映画って良いなと思います。教育のためとか啓蒙のためとかではなく、制作者が本当に伝えたいことを子どもの目を真っ直ぐ見て伝えようとする映画だったと思います。2作とも。そういう「真面目さ」を私は昔からずいぶん茶化してきましたが、大事なことだよなあと今さら思います。おじさん化してきたのでしょう。
おじさん化といえば、ハム太郎に出演するまいど君の親父ギャグなど、ファンには「お約束」のシーンはいくつも出ていたのですが、最近そのマンネリに素直に笑えるようになってしまいました。そのうちバナナの皮で転ぶギャグを見ても笑えるようになるかも知れません。かなり危機的におじさん化してます。大人になりきらないうちの「おじさん化」ってのが危機でなくて何でしょう・・・そのうち「演歌っていいよなあ・・・」とか言い出すかもしれません。
帰り道、お腹が減ったねと言ってピザ食べ放題屋さんに寄ってきましたが、こういうときこそ「大人の行く店」にきっちり寄って娘の度肝を抜いておかないと中学生くらいになって親を舐めだしたときに同級生の彼氏の小遣い程度で行けるデートコースで舞い上がっちゃうことになるのかなとか、後で思いました。
頭が寒いよねと新京極の帽子屋で毛糸の帽子を新調しました。頭蓋骨の下に大腿骨二本ぶっちがいの海賊マークの帽子もあって、松本零士さんみたいで良いなあと思いました。ただ病院にはかぶって行けませんよね(医者がそういう帽子かぶって出勤してきたら引くよね)。「ブラックジャック」って海賊旗という意味もあるんだからという言い訳は通じないよね。
看護師さんの仕事は途切れない
この子はいよいよ救命不可能だと、診断をつけてしまった後、気がついてみるとその子の保育器のそばに自分は足を運ばなくなっている。かつては徹夜で張り付いていた事もあった子の、保育器のそばに行かなくなっている。
これはどうしたことか。我ながら不甲斐ない。
今さらですが
悪臭漂ってるのは事実ですから
今さらですが、廊下に悪臭が四六時中しているという訳ではありません。読み返してみて、何だか24時間延々と便臭がしているような書きようだなと思いましたので、それではうちの病院の評判を不当に下げるだけだから付け加えます。マッチポンプで恐縮です。
むろん、たまにだから良いよねって話にはならんとおもいます。院長室から院長の大便の臭いが漏れ出てくるってことは無いわけですし(もしもそんなことがあったら、少なくとも、たまにだから良いよねって考える人間は誰もありません)。
研修医に成り立てのころは、小児科病棟に漂う蓄尿からの尿臭に驚きました。1ヶ月くらいで慣れましたが、それは感受性が鈍っただけでしょう。病院に慣れない人の鼻は私の鼻よりもこの手の病院特有の悪臭に鋭敏なはずです。ひょっとしたら、四六時中じゃないと考えるのは私の鼻の甘さかもしれません。鼻が鈍ってない人が嗅いだら四六時中なのかもしれません。それを自戒しておかないと、油断につながってしまいます。
評価する者は誰か
「尊厳死」の法制化で「この死に逝く人の死には尊厳があった」とか「なかった」とか言う立場に想定されている人って、なんとなくですが、「数年来連絡とってなかったけど危篤の知らせを聞いて駆けつけてみました」みたいな縁の方々であるように思えます。
あくまで何となくな感想なので別稿にしました。
悪臭漂ってるのは事実ですから
死ぬときだけ格好良くってもねえ・・・
患者さんたちにとっては、排泄物と口臭の匂いの中で寝かせられているという事実は変わらない。スタッフが「見えにくい努力」を重ねておられること自体があの臭い部屋で寝かされている状況に幾ばくかでも尊厳をもたらすことが出来るかって、全然そうとは思えない。患者さんにとっては結果が見えてこその改善です。それと、個人的には、ウンコの臭さを改善するのにウンコの除去ではなく臭くないウンコをさせる方策ってのは、手間の改善にはなるんだろうけどあんまりそのウンコをお尻にくっつけたままの患者さんの「尊厳」の改善にはならんような気がします。
あの悪臭がうちの病院のケアが愚かなためなのなら院内の経路で業務の至らなさを締め上げていけば良いわけですが、そんな身内の恥だけの事なら身内で処理します。わざわざブログに書くほど興味を引かれません。でも老人全員の歯を磨いて排泄のたびにおむつを替えてという基本的な手間を掛けられる人数比ではないのは見てて分かりますから、これはもっと根源的で大局的な問題だと思ってます。
1対1看護のNICUから見てると想像を絶しますね。
解決の努力が続けられている問題には指摘を避けるのが礼儀かも知れないけれど、みんなで礼儀正しく百年河清を待ってた挙げ句にこういう尊厳死みたような上滑りな議論が沸いて出てきたわけで。御言及のリソースの問題でも、その少ないリソースを改善しようとする法案は出ず医療費の削減ばかりが声高に叫ばれるなか尊厳死の法制化は出てるわけでしょ。法制化に絡んでる人たちって多分そういう病棟の匂いを嗅ぐ縁のある人たちじゃないのではないかと。それと、尊厳死ってのは幾ら推進したところで医療費の増大につながる訳じゃないので、議員立法しようとしても厚生労働省のお役人たちが慌ててやってきて潰しにかかるってわけでもないのでしょう。
狙撃銃は遮蔽物の後から撃つこと
ディスクのトラブルで進行が止まっていた「ラチェット&クランク3」も父子で着々と進行中である。
息子のゲームを傍から見ていると、敵に丸見えの位置から狙撃銃(照準用の望遠鏡を背中に乗せた単発の銃ですな)でねらい撃とうとする。当然、照準器の向こうから敵がぼこぼこと撃ってくる。敵弾に当たると当然ダメージを受けるし衝撃で照準がずれるからこれは武器の選択として極めてまずい。まずいのだが諦めようとしない。甚だしきは数歩先の角から飛び出して向かってきている敵をおもむろに狙撃銃で撃とうとする。照準をつけて発射するまでに相応の時間もかかるし撃ったとて連射が利かないから一撃で倒せないと後が辛い。そう言うときは低反動で連射の利く突撃銃で撃つのだといくら言っても聞かない。
自閉症のこだわり行動で特定の武器にこだわっているのかと思っていたが、別のメカニズムもあるようだ。変装して敵を騙し警報を切らせたり扉を開けさせたりする必要のあるとき、敵の目の前で変装に取りかかっている。敵は当然こちらの正体を見破って攻撃してくるのだが、それでも変装した姿のままで反撃もせず敵に挨拶を続けてしまう。
多分「敵の視点」が分かっていないのである。
死ぬときだけ格好良くってもねえ・・・
『尊厳死』について
僕が死ぬときは盛大に蘇生の練習をしてください。
挿管がうまく出来ない研修医を連れておいでなさい。
点滴の調子が悪い看護婦さんもおいでなさい。
人の死ぬところを見たことのない若手はみんな来なさい。
僕も患者さんたちに教えて頂いたのだから。
ただし
僕が死ぬまではうんこ臭い部屋には寝かせないでください。
個人名を使って敬語で話しかけてください。
大便と口臭の息詰まる誰も僕の名前を思い出せない老人病棟で死に逝くときに
ラインの数が一本二本少なかったから尊厳ある死だったなんてほざかないでください。
お片づけ
医局のデスク回りを整理整頓する。ひたすら「捨てる」作業である。読まない古雑誌やら、主旨の興味深さと症例調査の手間とが釣り合わなくてほったらかしていたアンケート依頼やら、強引に製薬メーカーがおいていった販促パンフレットやら、片っ端から捨てる。
およそ整理整頓は苦手で、幼い頃から母を嘆かせていた。妻は家の中が散らかっていても姑に何も言われないぶん気楽そうである。今日もゴミ箱が一杯になったのを言い訳に途中でおいて帰ってくる。どうせ医局で座ってられるご身分じゃない(その割によく座ってさぼってるけど)。
なんとうちで一番片づけるのは自閉症の息子だったりする。親がとっちらかした書籍類を本棚に片端から詰め込んでくれる。とうぜん内容なんて知ったことではないので配列は無茶苦茶、有り難いような迷惑なような気分であるが、文句を言えた立場ではない。常々、構造化の出来ていない環境で自閉症児を育てるのは虐待同然と仰っておられる門先生にばれたら激怒を呼びそうである。
