私が読売新聞を誉めるなんてかつて無いことだと思うのですが・・・この3日間ほど特集されていた小児救急に関する記事は出色の出来でした。素晴らしい。
【変わる小児救急】(上)自治体の壁超え新拠点
【変わる小児救急】(中)軽症から救命一拠点で
小児科医が過労死したとか爆発寸前だとかたらい回しで子どもが亡くなったとか色々と先の見えない報道ばかりの中で、こうして頑張っている試みを紹介していただくと嬉しいですね。
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読売新聞の小児救急の特集を誉める
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中1日の当直あけ
金曜に当直、土曜を半日で帰って、日曜日に日当直。
金曜は睡眠時間は細切れに合計3時間ってところだろうか。もっと寝たかな。寝た気がしないけど。日曜の睡眠は3分割で5時間くらいか。
しかしこの日程だと、若手が来てなかった頃は、土曜日も泊まり込むことになってた。土曜日の当直医は本当に泊まるだけの当直で、実際には自宅待機番だった若手の方が土曜日の夜のNICU滞在時間がよほど長かったらしい。まだ、この若手のお陰で、土曜日は家で寝られた。それだけでも良しとするか。
それにしてもこのヘビーな日程はけっこうこたえる。
お陰で昨日の外来では久々に患者さんとトラブルを起こしてしまった。やはり睡眠不足とか疲れとか空腹とか重なると、心構えのギアが普段とは違う段に知らぬ間に変わっている。変速しているのに自分で気付いていないものだから、普段はきちんと説明することを省いたり言わなくても良いことを言ったりして口が災いの門となる。患者さんとは滅多にもめないのが隠れた自慢のタネだったこともあって、睡眠不足に加えてダメージ3倍増ってところ。振り返ってみてもやっぱり私の方が悪かったので反省は至極。例えば前述の当直医が同じことをやってたら後ろ指をさすだろうね私は。厭な性格だと失敗の逃げ場がないね。はは。
そもそもの発端はNICUを開設するときに、NICU当直=小児科一般当直という誤解を内外に広めてしまったことだと思う。いまさら、小児科医が24時間いると市民の皆様に分かってる病院で小児救急を切り捨てることはできないのだけれど、かといってNICU開設時とは比較にならぬほどの重症児を受け入れるようになった今も小児救急を並行して診療するってのは、はっきりとうちのような弱小病院の体力には余ることじゃないかとも思う。
トラブルの遠因はNICU当直医が小児救急を診療しないと誰も小児を診ないということにあり、また小児科医が居るからと小児の外傷まで救急で診ることになるからであり。私は小児科医と言っても初期研修医の2年間は勤務先の救急外来でそれなりに全科学んだから、内心そこそこ外傷も診れるつもりではあるのだが、例えばその救急外来ではアダラート舌下投与なんてやってた時代だから、客観的に考えればそこで学んだ外傷治療もそれなりに遅れてはいるのだろうし。「新しい創傷治療」のHPなんて拝見するといつも目から鱗が落ちますからね。
閑話休題、おそるおそる、カルトスタットとか使ってみてます。ほんと、消毒なんかしなくても傷は化膿しません。洗うことが一番大事。
しかし新生児専門だからとNICUに籠もるのは京都の事情が許しそうにない。三次救急が主体の第一日赤の救命救急センターがコンビニ診療であふれかえって身動きが取れなくなり掛かっていると人づてに聞いた。それなりに自分達ができることをやって、本当に自分達の技量ではあかんわという患者さんだけを高次医療機関に集中するようにせんといかんとは思う。
診療でストレスを感じるときのことを後から振り返ってみると、結局は診療の能力がない(知識がないとか技術に習熟してないとか)が一番の原因であることが、私にはもっぱらであった。たとえコミュニケーションレベルの問題と当時は捉えていても(「診断治療は間違ってなかったんだけどさ、詰まらんことで親と言い合いになっちゃってね・・・」と同僚にぼやくようなケースでも)、後になってみれば、それは診療能力が足りないことを弥縫しようとした結果、それが説明過程で矛盾を顕わにしてトラブルのタネになっていたことが多かった。なんたって自分に診療能力が足りないってことは一番認めたくないことだけに、その兆候は当座は必死こいて無視しようとするんだよね。そして、あのころは俺もまだ未熟だったな・・・と振り返ることが出来るほどに自分の努力なり進歩なりを自信持って語ることが出来るほどの晩期になってはじめて、あれはヤブ医者が起こす類のトラブルだったと気付くのだ。というか、認める気になるのだ。当座は決して認めようとしなかったことも、後になって、自分は内心ではそうと分かっていたと言うことに気付くのだ。
当人が必死になって無視しようとし抑圧しようとしているその当の事項は(私にとっては自分がヤブ医者だと言うこととか)、周りの人間には筒抜けに見て取れると、内田先生の書にあった。「寝ながら学べる構造主義」の冒頭のところとかである。とすれば、私の周囲にとって、私は自分が診れないということを必死に糊塗しようとしているように丸わかりに見えてるのかも知れない。これはみっともない。かなり危ない。
次は中2日で水曜に当直。しかし水曜午後はオフなのに・・・3時間だけ帰って寝てからまた出てこいという当直日程。患者さんが待っているってことは重々承知です。けどね、気合いだけで勝てるなら竹槍でB29を打ち落としてそのままアメリカに勝ててた訳ではないですか。気合い一発太平洋を泳ぎ渡ってカリフォルニアに上陸とか。精神主義ではどもならんということは、やっぱり、実際に当直明けに低出生体重児の分娩立ち会いのあとそのまま外来なんていう勤務やってみないとわからんのかもしれないけれど。 -
強制の怯懦なやりかた
言葉の強姦
他人に何か強制するときはせめて自分の顔とリスクでものを言え。
何を強制するにせよ、「自主的に・・・するよう」強制することは卑怯である。
他人に何か強制しておきながら、その強制する行為のリスクすら回避しようとする卑怯さ。
「自主的に」やったことだからとその結果をも強制された者に負わそうとする臆病さ。
自分の顔すら見せられない、意思とも呼びがたい矮小な根性。
気高さの一片もない。虫酸が走る。
圧倒的な強制も決してこわもてな顔をしているわけではない。
怯懦な小役人の小心さが総体となって、全体主義を推進するのだ。 -
やっぱこの戦争はやっちゃいけなかったね、とは思う。
後知恵は猿知恵とはよく言ったものだが。
肥壺に落ちるべきじゃなかった。小泉さんもブッシュさんを煽ったりせずに忠告するべきだったのだ。格好良く飛び込もうとしてるようだけどそれは肥壺だよと。
私らも南京を一直線に目指し陥落させてはみたけれど、結局戦争には勝てず、徒に大虐殺の汚名ばかり着ただけだったと。点と線しか確保できない戦略では侵略しても泥沼に嵌るだけだよと。私らも蒋介石なんかと嘗めてかかってたら毛沢東というのが出てきて大変に苦戦したと。
靖国神社にあれだけ熱心に参拝してるんだからそれくらいの教訓話はしても罰は当たらんのじゃないか?そもそも当時の枢軸国で国体を護持してるのは我が国だけなんだから、そういう教訓話って我が国しかできないよ。
超大国ったって、相手は所詮は独立以来200年ほどの歴史しかない青二才国家である。
都会の大学に行った隣家の長男坊が、1年目の夏休みにすっかり鼻高々で帰省してきて、初めての大学の講義で聞きかじった社会理論をべらべらと喋るのを、一応うんうんと感心して見せる、貧乏で学が無さそうだけど実は知恵に溢れた隣家のおじさんといった役回りはできないものか。ワシも昔は青かったからのう、とか、若造の弁舌の合間に遠い目でふと語った言葉の意味を、青二才はその後の人生の曲折を経てやっと悟るのである。
映画なら高倉健の役回りかも知れない。小泉さんは歌舞伎やオペラばっかりじゃなくて健さんの映画も観るべきではなかろうか。過去のある無口な男ってのが、侵略戦争の過去を追った国の最も適切な恰好のつけ方ではなかろうか。 -
撤退するべきだったのかな
今回イラクから撤退するべきだったのかどうか、正直よく分からない。結論が出せない問題には言及しないという節度は必要かとも思う。一方で、何を考えて迷っているかという報告を挙げておくことも何らかの足しになるかも知れない。
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国旗や国歌に関して
私は国旗国歌を排せよとは思わない。国旗国歌を排斥することで日本国の歴史や政治に関する負の面に対して責任を免れるとは思いたくない。国旗を揚げると言われたら起立するし国歌を歌えと言われたら歌う。前記事に書いた理由で決して愉快なことではないけれども、日の丸君が代を攻撃したら日の丸君が代につながる歴史的責任から免罪されるなんて思ってるようなナイーブな奴だという自覚や誹謗の方がよほど辛い。
端的に言えば国立大学の医学部で学んで医師免許と国民皆保険制度のお陰で飯を喰ってるんだから国家から受けた恩恵の方がマイナスより遙かに大きいわけだし(私自身の実人生で国家から何かマイナスを被った具体例があっただろうか)。日本国のなかでもわりと陽の当たる人生を歩ませて頂いた立場としては、国旗国歌に抵抗を感じる人の抵抗感の由縁である歴史的な因縁を拒絶するわけにも行くまい。
ただ、国旗国歌が教育の現場で最高度の優先順位を要する懸案事項だとも思えない。せいぜい、数ある重要事項の一つという程度の位置づけが妥当なところではないかと思う。 -
国歌斉唱と含羞
含羞という言葉を、前回のコメントに対する返答に用いた。
内田先生のブログにあった、自国の国歌を歌うという行為に関連する含羞という表現が、いままで自分の中にわだかまっていたものをぴたりと表現して下さったような気がして、物事が腑に落ちるときの爽快感とともに記憶していた。
それは自尊心に膨れ上がり、自信にあふれ、自慢話をしまくるだけでは足りず、「自分をたたえる歌」を歌い、「自分の旗」をつくって振り回す人間を見たとき、あまり尊敬する気にならないのと同じ感情の働きです。
自分の日記に「さわやか日記」という表題を選ぶ行為。たとえ自分の棋風が「さわやか流」と呼ばれるものであったとしても。他人に誉められる言葉をそのまま自分の日記に使える感覚が、なにかNHKのど自慢をみているような(間違えて日曜の昼下がりに床屋に行ったら地獄を見るんだ)、むずがゆい思いをさせる。一種お気の毒な、痛々しいような、とうてい見ていられないナイーブさ。
まあ、私が特に攻撃せずにいられない悪徳って全て「ナイーブ」で総括できるような気もするのだが・・・私が最も恐れるナイーブさは自分自身のナイーブさなんだろうなとも思ってたりして・・・まあそれは自戒するとして。もとより「こどものおいしゃさん」という自称は内田先生の仰る「子供」を相当意識した自戒のタイトルです。
そのナイーブな心理と、国旗国歌が最大の懸案と思いこんでしまう心理と、それを事もあろうに国旗国歌に一番傷つけられたであろうお方の前で口走ってしまう無神経さと、なにか根が通じるものがあるように思います。一人の人間がやったことに全く根の共通しないことはないだろうと言われたら論が終わってしまいますけどね。 -
愚かものの迷惑さ
強制でないことが望ましい 陛下、園遊会で異例の発言
たぶんこの教育委員は今後「自主的に国旗を掲げ国家を斉唱するよう」ますます奮起して各学校に圧力を掛けるのだろうなと思った。コミュニケーション能力なさそうだし、たぶんそれが御意に適うことだとナイーブに思いこんじゃってるのだろうな。そして陛下のお墨付きを得たとばかりに強制に走るんだろうなと思った。
普通、このようなお言葉を頂いたら、「ほどほどに止めておきなさいよ」という警告だと受け止めるものだと思うが。
暗澹とする。
この話題続けます。
