日本周産期・新生児医学会雑誌の学会プログラム号が送られてきた。でかい。タウンページかと思った。たぶんiPadの本体よりもでっかいんだろうと思う。両方持ってる人だれか教えてください。
たぶんあと2〜3年もすれば学会誌もiPadとかで配布されることになるんだろう。そうしてくれたほうが片付きそうでよいと思う。ポスターセッションなんかもみんなiPadで片付けばいいのかな。そうしたら学会とか言って時期を指定して集まる意味もなくなったりして。
集まるってことにはそれなりの意義があるんだろうけどね。
今日は朝から自院のNICU日直。といってももう一人の医師と二人体制で、休日の救急外来とNICUとを回している。NICUの子らはみんな落ち着いている。
麻疹、といってもワクチン後の修飾麻疹だから患家に落ち度はないんだけど、の子の入院をさせようとしたら、うちの病棟にそんな移る病気は入院させては困ると言われた。萎えた。親御さんに謝って他の病院を紹介した。いま病棟の二期工事が進んでるんだけど、それが終わっても小児科の病室がそんな状況なら、どっか他所に勤務先を探したほうがいいかもわからん。こんな病院に老いぼれるまで勤めてても、退職金もらった時点でものすごく空虚な気分になりそうな気がする。
大学での短期研修で留守している間に、自院では電子カルテの導入が進められている。蚊帳の外に置かれている感があるが、まあどのようなシステムであれたいがいは順応できるつもりでいるからいいやと思っている。導入を進めるといっても、カルテのプログラムを変更する余地はいまさら無くて、運用側で、ようするに人間がどう動くかを、今後詰めていくと言うことになるんだけど。どれほどプログラムのできがよいかというより、どれほど人間の側でさばけた考え方ができるかが問われることになる。運用次第でずいぶん使いやすくも使いにくくもなるもんだから、まずは仮組みされたシステムを動かしてみることだと思っている。
動かしてみてどうしてもうまくいかなくて、プログラムの変更を求めたりすると、かなりの追加料金を支払うことになるらしい。それも釈然としない。だってNICUがどのような方式で仕事を動かしているか、プログラミングの人たちは一度たりとも見に来なかった。彼らの脳内にある仮想病院に合わせて作られたシステムが、実際の病院に合わないからって、合わせる費用を実際の病院側に求められてもねえと思う。彼らにしてみれば報酬を自分らの脳内にある仮想貨幣で支払われても腹がふくれないだろうけれどもね。話し合いを重ねてプロトタイプ作って、動かしてみて調整してということを繰り返して、合意を得た上でのシステムに、変更を求めるときの費用負担なら、まだ喜んで払おうという気も起きるんだけれどもね。
実際にNICUの臨床プログラムでいちばんうまくいってるのは青森のプログラムだと聞くが、そこのシステムですばらしいのは、大手ではなくあえて地元のベンダーさんに頼んで作ったということだ。ベンダーさんはほとんどNICUに常駐状態で、NICUスタッフの意見を聞いて改善を繰り返しておられるのだそうだ。そんなベンダーさんが地元にあるなら我々も、、、って「はてな」の本社はどこだよ、、、お願いしたいものではある。そんなベンダーさんに月いくらとかでお金を払うのはぜんぜん惜しくない。
exciteブログでお世話になっていましたが、このたび広告の強制挿入を開始する由の発表がありました。有り体に申して、それをしないのがexciteブログの最大の長所と思っておりましたので、これを機会に引っ越すことにしました。有料会員になれば広告は入らないらしいのですが、有料会員相手ですら、exciteブログが提供する機能は、ちと貧弱に過ぎるような気がしました。
旧ブログは こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか
さらにその前の日記は こどものおいしゃさん日記 おおきくなりたいね
これらを継承したブログを今後はここで書かせていただこうと思います。よろしくお願い申し上げます。
時節柄、収益をあげなければならないというexcite社のお立場もわかるのですが、今回の広告挿入の決定は、金の卵を産むガチョウを殺してしまう類の愚策ではないかと思えてなりません。
冬の極北からの知らせ Life in the North
文化によっては死が一瞬のものではないということを、脳死云々の議論で読んではいたが20年来よくわからなかった。この記事を読んで、なにか眼が開いたような気がした。引用元に綾をつけるようで恐縮だが、書き留めさせていただくことにした。
こういうおばあちゃんが亡くなったという知らせは、こういうおばあちゃんがお住まいだった土地ではなかなか即時には伝わらないものじゃなかったかと思った。アラスカなんて行ったこともないので想像だけで(星野道夫さんとか野田知佑さんとかの著書で読みあさったことも参考にして)申してますが。なにさま、どこそこの村にどういうおばあちゃんが住んでいると、ときどき思い出しては、その人徳のおかげで思い出した人の幸せ度がちょっと上がる(たとえばファイナルファンタジーとかで白魔導士が「祈る」コマンドを一回実行したくらいのコストなしの小回復が得られる)みたいなおばあちゃんがあって、連絡をとろうにも物理的にはそうとう遠隔だからそう簡単には連絡がつかない、便りの返事も数週間とか数ヶ月とかのようなところに住んでおられて、そういうおばあちゃんなら、亡くなったと聞くその瞬間まで聞く人にとってはまだ生きておられるんじゃないかと思った。そうして時をおいて聞く訃報には、即時に伝わるニュースの生々しさはなくて、伝わった時点である程度枯れた感じがするようになっていて、ああ亡くなったかと淡々と受け止められる感じになっているんじゃないかとも思った。そういう訃報に接したときの受け止められかたは、その瞬間に全く100%生きていた人がある瞬間からすぱーんと100%の死に移行するんじゃなくて、生と死のあわいの霞のかかったような領域でやんわりと「どっちかといえば生」みたいな領域から、「どっちかと言えば死」みたいな領域へ移っていくんじゃないかと。その二つの領域の差はそんなにどぎついものではなくて、受け取る側がやんわりとその知らせを受け止めて消化するのを待ってくれるようなものではないかと。
そういう人なら、亡くなった後で思い出しても、そんなに痛切な心の痛みはなくて、それなりに暖かく思い出されて、思い出されるうちにもだんだんと遠くなっていかれて、そのうちにみんなの心の中でその人の死が納得される、そうなるまでその人は完全には死んでいないというか。物理的な遠隔さの故に亡くなったという情報が即時性・同時性をもって共有されない、それ故に残された人にとって、人はだんだんと死んでいくものではないかと。昔はみんなそうだったんじゃないかとも思う。
仏教の知識はあんまりないけど、「成仏」というのはかなりこれに近い感じの概念じゃないかと思うのだが。
などと勝手な思考をくだくだ述べた後で恐縮ながら、これも何かの縁と思い、エディスおばあちゃんのご冥福を、お祈りさせていただきます。
攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG DVD-BOX (初回限定生産)
/ バンダイビジュアル
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いやDVDボックスを買った訳じゃなくて、ケーブルテレビで録画してたのをぼちぼちと見終えたんですがね。なんだかなあ、という感想です。
以下ネタバレです。というかネタ知らないと読んでも意味ないと思いますけど、あえて今さら本編を観るほどの手間もいらないと思いますので・・・ならこの記事にはどういう意味があるんだろう。
草薙素子のようなしっかりした女性が、敵将のクゼが昔の男かもしれんくらいの理由で作戦中に上の空になったり職場放棄したりするものだろうか。大召喚士のユウナ様でももうちょっとしっかりしていたんじゃないいか。ユウナ様に関しては19歳の女の子が消えた(文字通り消えたんだけど)男を2年間も思い続けてるものなんだろうかという議論があったよね。素子さんならどうなんだろう。
優れたハッカーであるはずなのに、クゼの正体については何も具体的な調査をせず爪を噛んで物思いにふけるだけってのは何なんだろう。クゼは素子同様に成長につれて義体を更新しているのだから、その経過は病院の記録なり義体メーカーの記録なりで追跡できるのではないかと思うのだが。素子さんにすら追えないほど痕跡を消すことができてたらそれだけで大したものなのではないか。
さらにはその昔の男に言いくるめられて不確かな作戦に手を貸したりまでするものだろうか。そもそもゴーストはコピーできないってのは攻殻機動隊の世界観でもごく基本的な要素のはずなのに(それを言っちゃうと原作の「人形つかい」と素子が融合するってのもおかしな話になっちゃうか)。
世界観といえば、「米帝」が覇権主義を強めるが経済的には没落していたりとか、どう見ても朝鮮半島な国家が崩壊して難民が大量に発生していたりとか、そのくせ日本は東京周辺が核攻撃をうけてほとんど水没しているのに経済的にはおおいに繁栄していたりとか。いろいろと制作者の願望みたいなものが透けて見えるようで気味が悪かった。制作陣は世の中に対して卑屈なルサンチマンを抱いてやしないだろうか。
原作にはない素子のツンデレぶりもアニメ制作者の願望なんだろうかね。素子みたいなしっかりした美人がじっと自分のことを思っててくれたらなあみたいな。そしていざ自分に遭ったら職務も忘れるくらいにめろめろになってくれたらなあみたいな。こんな絵に描いたような(アニメだから絵に描いてるには違いないけどね)月並みな脚色を見せつけられると、お前らもてないアニメオタクもこういう願望持ってるだろうみたいな勘ぐりをされているようで、どうも嫌だね。いや、持ってないとは言わないけどね、勘ぐられるのは嫌だ。
タチコマの運用について。重要なシステムはバックアップをとっておく、というのはノヴァ教授(@銃夢)も教えるところの教訓なのだが、タチコマのAIをまとめて一個の人工衛星に積んであるってのはシステム管理としてどうなんだろうかね。太陽にフレアでもあったらどうするんだろう。衛星にデブリでも当ったらどうするんだろう。たった1個の衛星に依存するってのはシステム的な堅牢さに欠けるような気がするのだが。地上にサーバーを置いて衛星にバックアップを積むくらいが間尺に合う方針かと思うが。
そもそもたった1個の衛星で運用していては、衛星が食に入ったらタチコマが動作を止めるのではないか。衛星にこだわるなら複数の衛星に並列して積み込んで、衛星のうち一個は地球のこっち側にいるように調整するのが本来かと。たった1個の衛星での運用にこだわるなら、食に入らぬよう静止衛星に積むことになるんだろうけれど、静止軌道にあるAIでは地上との通信にかかる時間が無視できないんじゃないかと。通常の平和的な機器ならまだしもタチコマは戦車なんだよね。
合田が自分は内乱罪だけど自首したから罪に問われないとかなんとか言ってるけど、内乱罪は暴動に至らないうちに自首してこそ罪が免じられるんだよね。あそこまでやっておいて今さら自首したもなにもあるまいに。だいたい彼のやったことは内乱じゃなくて外患誘致じゃないかい?外患誘致罪は有罪なら死刑しかありませんし自白したからって「それが何?」な重大犯罪ですが。合田には内乱罪にこだわらなくても余罪は殺人教唆とか特別公務員何とかとか爆発物何とかとか数知れずあるし。叩けば幾らでもホコリは出ようものを。トグサはともかく荒巻さんまでが合田のこんなでまかせにひるんだりして今後の9課は大丈夫なのか?
決して止めてはならない基幹業務を運営する上では、そこに携わるスタッフに「プロフェッショナルさ」が必要条件となってはならない。ごく普通に淡々と業務をこなせばそれで業務が回るようなシステムが構築されていなければならない。
ゆるゆるに余裕をもたせたシステムでも、それでも実際に運営してみれば細々した破綻が次々に生じるもので、システムを動かし続けるためにはそれを絶えず復旧しつづける作業が必要である。まして、個々人が超人的な努力をすることを前提として構築されたシステムなど、生じうる破綻の規模も大きくなり、結果として業務に支障の出る確率が飛躍的に高くなる。そんなものシステムと呼ぶにも値しない。
自分の仕事に誇りをもつことはあっていい。中にはプロフェッショナルと呼ばれる超人も出現するだろう。それを否定することはない。しかしそれを必然と期待するのは馬鹿げている。現実のほころびやすさ、あるいは「日々平穏」を実現する困難さとでもいうものを舐めすぎている。自分で仕事をしたことがない人がはまりやすい陥穽である。
非現実的な英雄意識ではなく、せめて「隣人愛」程度の穏やかな倫理で、現場が運営できたらいいと思う。思いつつ、年末年始の当直編成に頭を痛めている。今年はインフルエンザの流行開始も早そうだし、救急外来が大混雑しそうな予想である。ウルトラマンに3分戦ってカラータイマーが切れて後もセブンの救援を得て10分ほど戦闘時間を延長してもらって、セブンもまた3分以降も戦闘を続けて新マンの到着を待ち、新マンもまたエネルギーを補給して戻ってきたウルトラマンが交代するまで10分戦って・・・の繰り返し。むろん3分過ぎたからスペシウム光線なんか撃てませんなんて言うようなウルトラマンは、法廷や報道ではプロ意識に欠けた一族の面汚しと呼ばれるのである。
文献まで含め、私の知る限り、自分の職業倫理を「プロフェッショナル」と最初に称したのはデューク・東郷氏である。一般的にはゴルゴ13という通称で知られている人物である。初出は1960年代の末頃か。
「ゴルゴ13」の、特に初期の作品でこの語がよく使われる。ゴルゴ13の作品世界においては、あくまでも、裏稼業の人間が自分たちの非合法な稼業をさして言う語である。たとえば、敵役と自己紹介しあっても握手をしなかったことを振り返って、「俺たちは初対面で互いにプロだと名乗りあったようなものだ、プロなら自分の利き手を相手に預けるようなマネは絶対にしない」とかなんとか、まだ若くて生意気そうな時期のデューク・東郷氏が述懐する場面がある。(正確な台詞は第1巻を参照してください)。
この用法での「プロフェッショナル」と言う語をあえて日本語に訳すなら「極道」という語がちょうどぴったりするのではないかと思う。元来、陽の当るところでは自称しにくい語である。世間様に逆らって自分の価値観を突き詰める代償として、世間様の表街道を歩くことを自粛するべき立場を呼称する語である。あまり、他者からそう呼ばれて無邪気によろこぶべき語ではないように思える。
wizpy定価29800円のところを9800円にしますから買いませんかというメールが、ターボリナックス社から来ていた。医療器具にも滅多にない大幅な値引きである。せめて在庫を吐きたいという意図すら感じられる値引き幅だ。よほど売れなくて困っているのだろうか。
実は1年前の発売の折に、ちょっと良いかなと惹かれたんだけど、惹かれたなりそのまま忘れていた。いまでも嗜好が変わったわけではないはずなのだが、不思議に欲しくない。同じ重さのiPod nanoが発散する類の凶悪な吸引力が、この機械にはずいぶん弱い。iPod nanoをDellやPanasonicのノートパソコンに接続してリブートしたらLeopardが立ち上がるなんてことになったら、もうちょっと違う売れ行きになったんだろうけど。
小倉優子さんには迷惑になってなきゃいいがと思う。彼女がマッチ売りの少女の格好をして街角でwizpyの入ったかごを持って泣いていたら、ひょっとしたら買うかもしれない。
http://www.chikawatanabe.com/blog/2003/03/accountability.html
responsibilityとaccountabilityってこう違うのよ、という上記の記事を半年遅れで読んだ。なるほど。勉強になった。
私ごときがこの二つの語の各々に新しい訳語を思いつけるわけもないが、この二つの概念の違いは理解できるような気がする。ようするに、受け持ち患者の病気に対して、医者が責任を持つと言うとき、この責任というのはresponsibilityのほうなんだろう。それに対して、世間から求められ裁判所で糾弾されるときに、求められる「責任」ってのがaccountabilityなんだろう。同じ責任という日本語を使われてもその二つがものすごく違うために戸惑っているのが、いまの医療倫理とかの大きなテーマになってるんじゃないかと。元記事にも『responsibleな人は一生懸命がんばれば成果が出なくても許されるかもしれないが、accountableな人はがんばったくらい・謝ったぐらいでは許されない。「ゴメンで済むなら警察はいらない」のである。』とあるが、まさにaccoutabilityが問われる状況が生まれてきて、警察が医療に介入してくるようになったんだよなと思って腑に落ちた。
元記事のコメントに
Responsibility — 取る責任
Accountability — 取らされる責任
と紹介されていて、なら私が医者だから、医者としてとらされる責任がaccountabilityなんだということで元記事の掌を(お釈迦様の掌を出られなかった孫悟空のように)まるで出てないじゃないかよというご指摘もあろうが・・・いやご指摘通りなんですがね。ここまでなら譲歩できるという緩い責任がresponsibilityで、そんなご無体なという詰め腹レベルの厳しい責任がaccoutabilityでと、そういう量的なレベルの違いなのだろうかというと、元記事ではそう言っているようにも読めるが、医療に関してはそうでもないように思う。それは私が医者だから医療を特別視してるだけなんでしょうか。
患者さんの病気にaccountableなのは本当に俺らなのかよと思うことは大いにある。誰かがaccountableだと言うのなら、それは天の上におられて本名を呼ばれるのが嫌いなあの方とかじゃないのかとか思ったりして。人の身で人の病に対してresponsibleなのは隣人愛だけど、accountableと称したところでキミは自分が何様のつもりだよと言われるのが落ちだとも思う。医療を巡る裁判も、responsibilityに欠けるというご指摘ならまだ話し合いの余地もあるが、accountabilityに欠けると言われてもそれはないぜという構造になってるような気もする。医者がaccountableだと自ら認めるのは誤薬などいわゆる「初歩的ミス」で、多くの場合は医者は自分のresponsibilityに関しては議論のテーブルにつけるけど、accoutabilityを言われても議論自体に納得しがたいわけで。
傍から見てると、たぶんだけど、accountabilityを巡る議論は冷静な議論に見えるんだろうと思う。でも自分のresponsibilityを議論しようとする奴は議論しようとするだけでヒトデナシみたいに見えるんだろうと思う。だからaccountabilityを巡る議論をしようとしているときに、あたかもresponsibilityを巡って四の五の言っているような報道をされると腹が立つのだろう。そうしたほうが扇情的に面白くなるから意図的に混同してるんだろうと、どうしても思えてしまって。