• Panasonic ハリヤにカーゴキャリアを引く

    BurleyのTravoy, これは初期型でだいぶ使い古してはいるが、ハリヤにつけてみる。バッテリーのぶん後輪の後端が後ろに突き出るので、装着可能かどうか不安ではあったが、車輪の直径がEscape R3より小さいこともあってか、装着可能であった。

    走ってみるとたしかに楽である。背景に見えるとおり敷地より先には山林しかないような病院への坂道を、それほど疲れずに上がってこれる。しかしこうしてみるとハリヤもかっこいいマウンテンバイクというより、軽トラである。スピードは出ないが荷物が積める。Travoyには呼吸リハビリ用の機器が積んであってけっこう重い。パーカッショネア・ジャパンが扱っているインパルセーターというやつ。ウエブサイトみたらちょうど10kgありよるのな。偶然なのだろうけどTravoyのバッグに寸法がぴったり納まる。

    Panasonicは涙目かもしれないが、俺が本機を買ったのはこれがやりたかったからなので、ご勘弁いただこうと思う。Travoyはむろん必要時には切り離せるので(キャリアとして引いて歩くことも可能。でないと訪問診療になど使えない)、休日には遠乗りなんかもしようと思う。

    でもまあ電動アシストがついていればこその、荷物運搬用の自転車というジャンルが勃興しないものかな。簡易な改造をして幼児を乗せた電動アシスト自転車が走ってるけど、あれは重心が高くて危なそうに見える。なんだか昔のオーディナリー型の自転車を彷彿とさせる。幼児を乗せるつもり、あるいは荷物を載せるつもりでフレームから設計し直した電動アシスト自転車が出てもよいのではないだろうか。

  • Panasonic ハリヤ 改造

    Panasonicの電動アシスト自転車「ハリヤ」を購入した。いくつか不満な点があり改造した。

    グリップ交換

    購入時についてきたグリップはまるで衝撃吸収性能がなく、ハンドルを握った印象はひたすら硬く、小刻みな振動がひっきりなしに伝わってきて不愉快だった。Amazonで衝撃吸収をうたったエルゴグリップを見繕って購入。直接握ってみた印象は従来のものとそれほど違うかよくわからなかったが、付けかえて走ってみると不愉快な振動がぴたりと止まった。

    GORIX ゴリックス 自転車グリップ (GX-AGOO)

    購入時のグリップはネジ止めも接着もされていないので、ただ単にナイフでハンドルにそって割を入れたら簡単に外れる。むろん再使用はできなくなるが、どのみちそのつもりはない。あとは新しいグリップをはめてネジ止めするだけだが、作業時には、左右のブレーキやグリップシフトあるいは電動アシストの操作盤を、六角レンチやドライバーなんかで固定を緩めてたしょう内側に寄せる必要がある。新しいグリップを装着したあと、これらの装置の位置を戻して完成。左側のブレーキや操作盤の位置取りは問題なかったが、右側はグリップシフトが幅をとるので、新しいグリップがハンドルの端から数mmはみ出していた。エンドキャップをしっかりはめたら分からなくなった。

    フロントバッグ

    ハリヤにはメーカーから、やたらごついワイヤ錠をつけてくれるのだが、これ皆さん走行時にはどこに携帯されるのだろうか。前カゴに放り込んでおくのか自分のカバンにしまうのか。私にはカーゴトレーラーを引かなければならない事情があって、リアキャリアは使いにくいしサドルバッグも使えない。フレームバッグをつけてみたが、マウンテンバイクはみなそうなのかハリヤの特殊事情なのか、フレームの三角形が小さくてボトルケージと干渉する。フロントバッグしか選択肢がない。

    やはりAmazonで購入。WILD MANというメーカーらしいが商品名のわからないフロントバッグ。寿限無みたいな、タイトルだか能書きだかわからん呼称は、ときに不便なこともありはしないか。ともかくも装着する。シフターやブレーキのケーブルをよけるのに工夫が要ったが、ケーブル類の下をくぐらせればなんとかなる。

    クイックリリースと言うがいまひとつバッグとマウントのかみ具合がしっくりしない。すっぽんと填まってカチッとリリースボタンが浮き上がってほしいものだが、そういう加工の精度を期待すると値段がひとけた上がるのかもしれない。グリースをうすく塗って対処する。塗りすぎて試運転のときキュイキュイ異音をたてていたが、過剰なグリスを拭き取ったらおさまった。

    ペダルにハーフクリップと蹴返しをつける

    この十数年がところ、ハーフクリップかビンディングかがついている自転車にしか乗っていなかったので、引き足にペダルがついてこないと戸惑う。とくに走り出しのとき、片足をクリップに引っかけてクランクを良い位置にもってくる癖がすっかりしみついている。電動アシスト自転車にハーフクリップなんて、そんなものが要らないのが電動アシスト自転車というものではないかとも思うのだが、まあ取りつけてみる。

    三ヶ島のケージクリップ蹴返しを入手して装着を試みた。もともとのペダルについていた反射板を外さなければならない。マイナスドライバーでこじると簡単に外れる。しかしペダルの形状が独特で、三ヶ島のケージクリップは装着不可能だった。もともとクロスバイクに付けていた、今となってはよくわからないメーカーの古いクリップなら装着可能だった。

    装着したところがこの写真であるが、明らかにクリップ側が重いはずなのに、クリップが最下点に来ない。どれだけペダルの回転が悪いのか。これはハーフクリップとか蹴返しとかの問題ではなく、ペダル自体を交換するべき状況なのではないかとも思う。玉押し調整とかグリスアップとか、経験のうちと心得てやってみるのも悪くはないのかもしれないが、しかし買ったばかりで充電も1回くらいしかしとらん新品でいきなりそれを求められるのもなんか不愉快である。

    ペダルの踏面がクリップの踏面より一段高くなっているので、クリップの甲が下がった形になり、試運転してみると足の甲の当たりが強い。やっぱりトゥークリップを使うなら使う前提のペダルに交換するべきなのかもしれない。いっぽうでこの踏面の広い形状のペダルも、クリップさえ諦めれば良い感じである。電動アシスト自転車ではとくに、ペダルを踏むとモーターの力もいっしょにかかるので、とっさの時にペダルと足が離れないと危ないという状況もあるかもしれない。しばらく考えてみる。

    それにしても昔の鐙みたいな形なので、京都で走るには似合うかも知れない。

  • 小児科発熱外来

    当院では2020年の新型コロナウイルス流行当初の5月より、病院の喫茶室を改装して小児発熱外来を成人発熱外来とは別に設置した。当初は検査対象者もとくに方針を定めていなかったが、同年11月からは初診患者全員にPCRを行うこととした。設置後2年が経過した。早いものだと思う。

    喫茶室は病院1階にあり、病院前のロータリーに張り出すかたちの設計になっていた。診察後にコーヒーでも飲みながらロータリーを見ていて、迎えの自家用車なりタクシーなりが回ってきたら出るという発想での行動に便利な設計である。感染防止のため会食制限となっては、病院の喫茶室は真っ先に営業を中止するべきと考えられた。ガラスのはめ込みであった外壁を引き戸に改装して外からの出入り口とし、病院外来ロビーからの入り口をふさぐことで、発熱外来への改装はわりと簡単だった。費用に補助金をいただいたこともあり。内部は最適なレイアウトが判明するまでと思って、人の目線ほどまでの高さの衝立でおおまかに仕切っていたが、換気が大事とわかってきてみると今さら衝立を廃して仕切り壁を設置する気もしなくなった。

    外に面した窓に換気扇を3個設置し、診察室の卓上では二酸化炭素濃度を常時モニターしている。おおむね400ppm台である。空気の取り入れ口は出入り口からとなるので、常にすこし開けさせている。出入り口付近に立つと風が吹いているのがわかる。二酸化炭素濃度が600ppmを超えたときはだいたい出入り口が閉まっている。開けるとすっと下がる。

    内部には診察ブースを2診、個別の待合スペースを衝立で仕切って7ブースほど(臨時に増やすこともある)、処置スペース。出入り口前にテント待合。たいていの小児科診療所よりは広いのではないかと思う。診察ブース脇の衝立はフィルターと換気扇内蔵で、診察中の子の周囲の空気を吸い上げてフィルターを通して天井方向へ排気している。その排気は窓の換気扇が外へ出す。

    診察にあたる医師や看護師はむろん全身防護衣、いわゆるfull PPEである。かつての喫茶室スタッフ出入り口から入り、休止中のパン焼き窯のわきで防護衣他を装着する。手袋は患児ごとに換える。

    2年間診てきても(とはいえ実際に小児の陽性者が増えたのは2022年に入ってからだが)、小児では症状所見からCOVID-19とそれ以外の感染症の患者を臨床的に見分けるには至っていない。強いて言えば病歴で、周囲にCOVID-19患者が存在すれば患児自身も陽性となる可能性が高いように思うが、それとて「周囲に風邪は流行っているが誰も検査されておらずコロナとも言われていない」子には応用しようのない問診事項である。どうしようもないので発熱はもちろん、咳嗽や鼻汁、嘔気下痢など、感染症の症状ある受診者はすべて発熱外来に案内している。明らかに周囲に陽性者のいる患児は自家用車中など別途で待ってもらう。

    PCRは院内に2台保有しているが、小規模なので受診者全員分はできない。受診受付の早い子から院内PCRを行い、院内分がまんたんになったら検体を保健所へ送る。院内でやれば午後には結果が出るので電話連絡する。保健所に送ればだいたい翌日判明で、保健所が結果連絡までやってくれるが、この場合も我々から発生届を提出しなければならないのはいささか「お役所仕事」だなとは思う。むこうも忙しいのだろうしその方が手間が良いのならこちらで代行することも悪くないと思って協力している。

    抗原定量検査「ルミパルス」という機器も院内にはあって、これを使えば小一時間(検査時間は正味30分)で結果が出るのだが、感度80%では5人に1人を見落とすことになるし、低い測定値での陽性のときにPCRで再検すると陰性という、いわゆる偽陽性例も散見されるので、小児科の診療部長である私の一存で小児は原則RT-PCRとさせている。ID-NOWという正味13分の機器もあるが、これも感度はルミパルスを超えないらしい。

    小児科で専用の発熱外来施設を持っている病院の話は当院以外には聞かない。わりと贅沢なコロナ診療をさせてもらっていると思う。しかし一番贅沢になったのは非感染症の患児の診療であろう。従来の小児科受診者の大多数を占める感染症症状の患者がそっくり発熱外来に異動したかたちになったので、便秘や夜尿、長く続くなんとはなしの体調不良、起立性調節障害、不登校、このような子らの話を平日午前中の外来で時間をかけて聞けるようになった。コロナ禍の意外な余禄であった。

    コロナ禍が「終わった」としてもこの感染症と非感染症を分ける外来運営は続けていきたいという希望がある。コロナによって当院の小児科外来がいちだん向上した感がある。またぞろ発熱や咳嗽で不機嫌な児でごった返す外来に戻り、何となく行動に違和感のある児と他にもなにか言いたそうなその親御さんを早々に退出して貰わないと診療が「回らない」という日々は、過去のものと思い返せばいかにも片手落ちで、あれに戻るのは気が進まない。

  • PCR抑制論のこと

    COVID-19が始まったころには、SNSではPCR抑制論が猖獗を極めた。PCRを行っても偽陽性で真の診断には結びつかない、希望者が押し寄せて医療崩壊する、云々。

    私はその論調に乗らなかったが、べつに手柄だというわけではなく、単に幸運だっただけだ。患者数が極めて少ないときの検査は陽性的中率が低い云々の、ベイズ推定の知識を披露して喝采をあびたいという誘惑を、当時感じた記憶はある。それをやらなかったのは、白状してしまえば、単に大勢に先を越されておっくうになったからだけであった。

    ベイズ推定について熟知していたわけではない。ベイズ推定については医学部の講義は1コマ、卒後には基礎的な総説でときどき復習した程度の、臨床医の知識としてはありきたりな程度だ。それらの知識においては、検討する臨床検査の内容はブラックボックスだった。感度と特異度は全ての臨床検査においてトレードオフの関係にあり、感度と特異度がトレードオフならベイズの適応のうちだと認識していた。PCRも、その感度と特異度を語り得る以上はベイズの俎上にあるものと考えていた。そのばけもののような特異度のゆえに例外的なものとして扱うという認識は、発想の内にはなかった。

    私の専門範囲は新生児医療なのだが、仕事の中でベイズ推定と縁の深いのは先天性代謝異常等検査である。実際の罹患率が高くても数千分の1,低ければ数十万分の1などという、医者人生の数十年に新患1人遭遇すれば多い方みたいな疾患を、古典的なガスリー法であれ最新のタンデムマス法であれ、検査一発で確定診断するのは不可能だ。その感覚を敷衍すれば、PCR一発で診断確定というのはほとんど不可能なことのような印象があった。

    PCRについては、正直まったく知らなかった。qPCRという基本的概念さえ知らず、いまだにゲル電気泳動で判定していると思っていたほどだ。蛍光の度合いを肉眼で判定しているのだろうから偽陽性・偽陰性も一定程度はあるだろうなという、根拠を欠いた思い込みをしていた。NICUから発注するPCRといえば髄液の単純ヘルペスウイルスDNA検出程度だったが、新生児ヘルペスという疾患がどれだけ稀なものかは知っているので、念のためと出した検査が全て陰性で返ってきても怪しみはせず、検査の内容を具体的に調べることはなかった。このへんはお恥ずかしい限りだが、忘却して都合のいい記憶を捏造し始めないように、自戒として書き残しておく。

    ただ、週1回だけ当院NICUにアルバイトにきていた大学院生に、PCRというのは喧伝されているほど難しい技術なのかと、流行初期に聞いてみたことはあった。全然簡単なものですよというのが回答だった。プライマーの配列さえわかれば、プライマー作るのに24時間、あとはどしどし検査できますと。京大医学部の大学院で簡単だというものが世間一般でも簡単なものなのかという推定の限界はあれ、世に言われるほど熟練を要する困難な技術というわけではないのだろうとは思っていた。

    臨床医として行うべきと思った検査を外部から制約されるのは癪に障るという、狭量な人格に由来する心情もあった。そうは言っても地方の公衆衛生担当者がてんてこ舞いしているとも報じられており、何らかPCRの施行数を増やせない資源上の理由があるのだろうとは思っていた。いっぽうで、まったく前例のない状況において、まずデータを集めないでどうするのかという疑問もまたあった。そこに費やす資源がないのなら拡充すればよかろう、人手にしても機材にしても金銭を出してかき集めることはできようとも考えていた。

    私が部長をつとめるNICUは京都府初の認可NICUである。京都府の周産期死亡率が全国でも最下位を争っていた時代に、総病床数167床の小規模私立病院が、大学病院や赤十字病院にさきがけて認可NICUを設立し、自院救急車による新生児搬送を開始して現在に至る。むろん京都府からも相当の補助を頂いている。国からだって、特異的に当院へというわけではないにせよ、全国の周産期医療拡充の過程で相当の予算が投じられ資源が拡充されてきたのを、同時代で見てきた。駆け出し時代からそのような職場そのような業界に勤めていると、資源がないからと問題への対処を最初から諦めること、少なくともそれを当然として恥じないような論調は、不甲斐なさを通り越して、奇異なものにも感じられた。

    こうして書き留めたのは、あくまでも現時点においての記録の意図である。第5波が奇跡的に落ち着き、病棟も落ち着いて受け持ち患者もなく休日出勤も必要のない、終日自宅で過ごせる日となった。こういうことは時間が経てばたつほどに自分を正当化する方向へ記憶が傾くものである。書き残しておくに如くは無し。

  • 遠い台湾

    https://www.keio-up.co.jp/kup/gift/bousei.html

    昨年10月、ふと思い立って、パスポートを取得した。

    不惑をすぎたこの年齢まで、私は海外旅行をしたことがない。学生時代までは貧しくて、海外旅行など贅沢だと諦めていた。医者になって多少は稼ぐようになったが、新生児学では博士論文は書けまいと大学院にも行かず、海外留学にも縁がなかった。

    なにより時間がなかった。医者になって3年目以降、私は常に「最後の一人」であった。ラストワン・スタンバイ。当直や自宅待機番の、埋まらない最後のひとこまを埋める人。次月の当直表が確定する月末まで、個人的な事情は宙に浮かせておかねばならない立場に、私は常にあった。

    それが何を思い立ってパスポートを取得しようとしたのか、今となっては思い出せない。ティモシー・スナイダー著の「暴政―20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン」を読んで、一人前の市民たるものパスポートくらいは持っておくものだという教訓に感化されたような記憶はある。しかしそればかりではない。鬱鬱とした当直の夜、アマゾン他の通販で散財することはあった。そのときのような、これが手に入れば今度こそ現状が何か変わるかもしれないという、漠然とした期待によることだったようにも思う。

    むろん実際には、これまで買った積ん読本やがらくたと同様、パスポート1冊が劇的な変化をおこしようもなく、たんに物がひとつ増えただけの日常が始まるのみではあった。それはそうなので、入手したパスポートを手にそのまま京都駅から「はるか」に乗って関空へ行ってしまったらそれは即ち身の破滅だ。

    しかしパスポートを具体的な物体として手にしてみると、国外の領域がにわかに、現実の存在となったようには感じられた。それ以前は、自分の周囲の世界は遠ざかるにつれて霧の中に霞んでいって、ついに国境のあたりでかき消えていたようなものだった。パスポートを手にすることで、 霞が消えて国境が明瞭な線となり、そのむこうの世界が実体となった。物語の世界ではなく、現実に行ってみることのできる世界。となってみると、行ってみたさが募ってきた。

    せめて2泊なり3泊なりだけでも、時間がとれないものか。週末の当直や自宅待機番を外し、金曜午後の予約も入れず、月曜の業務も外して。予定表をにらんでみた。11月も12月も多数の予約が入っていた。1月はどうせインフルエンザの流行が来るから休めまい。強引に休みを入れるにしても2月だと思った。

    そこで2月に4日間、この日は何が何でもオフを取るぞと決意して予定表に書きこんだ。どこへ行こうと考えて、初心者向けで暖かいところにしようと思った。なら台北だ。ソウルやプサンもよかろうが(特にプサンなんて長崎の実家からは京都よりも近いんじゃないか?)、2月じゃ寒かろう。大韓民国との友好を軽んじるつもりはないが、ここは南方だ。とすれば手頃なのは台湾だ。

    そこでexpediaを使って、台北への航空便とホテルの予約をとった。まず既製事実をつくって自分を追いこむのだ。そうしたのは昨年のうち。武漢ですらまだ平穏なころだった。年が明けて新型コロナウイルスが猖獗を極めるなど思いもよらなかった。1月になってもまだ私は、今年は例年のインフルエンザの流行が一向に来ないなと訝しみつつ、武漢から伝わる流行の過酷さについてはどこか他人事だった。これなら休暇は1月でもよかったじゃないかとも思ったほどだ。

    南方だからというだけで選んだ旅行先であるが、行くと思うと台湾が何となく気になる。図書館で「自転車泥棒」呉明益著など読む。すぐれた文学だと思う。また、人情あふれるよい土地じゃないかと思う。近所の台湾料理屋に行ってみる。中華料理といっしょくたにしていたのが、これは全く別のものだなと思う。花の香りのする米飯など、これまでは想像の埒外でさえあったが、食べてみればうまいものだった。飽きるかと思ったが案外そうでもない。 ケーブルテレビの番組で台湾のものがあれば観る。消防署員のドキュメンタリーが今も記憶に残っている。厳しい勤務をする。あいまに皆で飯を喰い、休暇には故郷に帰る。なにかこう、だんだん台湾が世界の中でも特別に縁のある土地であるかに思えてきていた。

    2月の旅行をあきらめたのがいつ頃だったか、今はもう思い出せない。2月の当直や業務配分を組む段になって、なんで過去の俺は休暇が可能だなんて思ったのだろうと頭をかかえたのは覚えている。結局、人が増えたわけではないし、自分がラストワン・スタンバイであることにかわりはない。結局、休暇など自分には無理だったということだろうと、自嘲半分に予約をキャンセルした。expediaの人が交渉してくれて、ホテル代は返金してもらえた。Peachの航空券代は無理だったが、その後の航空業界の苦境を思うと、わずかでもカンパになったと納得している。

    それからすっかり旅行は無理になった。病院は職員に対する生活規制をどんどん強め、国内旅行さえ不可能になった。俺は勤め先の小児科外来を一般と発熱に分け、着慣れぬPPEを着て診療している。会食もできないと出不精に拍車がかかる。近所の台湾料理屋は早々に店を畳んでしまった。ずいぶん早い時期で、ひょっとしたら、日本の対応の拙さを早々に見切って、台湾に帰られたのかもしれないなと思った。

    台湾の今回の流行対策は鮮やかな手腕であった。各論のひとつひとつが輝いて見えた。憧れはいや増すものの、観光に行ける状況ではない。まずは流行が何とかならないといけない。終戦後の大不況も耐えぬかねばならない。私自身も世の中の不況に加え、おそらく極度に悪化するだろう医療不信にも耐えねばなるまい。また台北政府にとっても、すっかり米国が経済も政治も失速し、大陸中国に一極化していくであろう壮況は、とりわけ苦境となるかもわからない。しかし管見の及ぶ範囲においてさえ大陸と明らかに異なる彼の島が、大陸に飲み込まれるのを見るのはしのびない。なんとか渡航できる日が来たときの台湾は、いま同様の華麗な姿であってほしい。

    この流行に、終わりが来るのかさえまだわからない。終結への道は、はるけく遠く、台湾はさらに遠い。その日の物語が、私の人生のうちにあることを願う。

  • 文章を書かなかったことについて

    しばらく書かなかった。俺はまだ書けるのかと疑う。最近はずっとTwitterばかりだった。すっかり140字くらいの呟きになれてしまった。もっと長い文章はまだ書けるのだろうか。

    多くのブログが数年もすれば更新しなくなる。飽きたとか、生活が変化したとか、多くの人に様々な理由があるのだろうと推測する。下部構造が上部構造を規定する。生活が変化して書かなくなるのは、それは怠慢の結果とは考えない。生活とはそういうものだ。

    生活と言えば、実生活では俺は出世した。勤め先ではすっかり小児科の立役者扱いだ。今の病院があるのは小児科の稼ぎのお陰で、その小児科の稼ぎを支えているのは俺の働きのお陰で、と言わんばかりの厚遇を受けている。役職だって単なる診療科部長というにとどまらず、さらに上級の修飾語がついている。これで給料がもっと上がればさらに嬉しいのだが、何と言ってもそこは貧乏病院だ。

    むろん俺の幼児性を盾に取った煽てという一面はあるだろう。案山子の役割を負わせるのに、しっかりもので煽てても案山子にならないような人間では非効率だ。俺は煽てれば案山子になる人間だ。所詮は学校秀才だものほめられて悪い気はしない。もう少し悪い気がしたほうがよいのかもしれない。

    そのような物語を語ったほうが、語ったほうも気分が良いということもあるだろう。だいいち、どう足掻いたって小児科が儲かるわけがないし、儲からない部門にエースが存在し得るわけがない。それをあえて地域医療に貢献する小児科の物語を語り、小児科の部長をエースとして語るのは、まあ大学病院とかに対してうちのような零細な小規模病院が向こうを張るためのナラティブとしては使いやすい構造ではあろう。

    俺をエース扱いしてくれるお陰で、俺の言うことはみんな聞いてくれる。備品を買ってくれと言えばたいがい買ってくれる。金がないときは事務長が誠に申し訳ないが来年度にと丁重に謝ってくれる。こればかりの金もないのかと驚くこともあるが、しかし無いものは無いので仕方ないとは貧乏な家で育った俺は分かっているつもりだ。不平を言えば院長も聞いてくれる。言っていて俺の方が恥ずかしくなる。そりゃあ他人の言葉を何でも素直に耳に入れられるほどの聖人君子じゃあないにせよ、自分が何を言っているかくらいは耳に入る。耳に入りゃあその幼児性は自分で分かる。むかし俺の母は俺の言うことは何でも聞いてくれた。全てをかなえるほど愚かな母ではないにせよ、とりあえず聞くぶんには何でも聞いてくれた。あれは偉い母だと思うが、であればこそ自分が愚かな我が儘を言ったことは自分で分かったし恥じたものだ。齢は不惑を過ぎて知命と言われる頃合いでなお昔の母に我が儘を言ったときのような感覚が蘇るのは、あのころよりもさらに恥ずかしい気分がする。

    聞いて貰えるあてがなければこそ、世間に向かってブログやなんかで愚痴を放流したりしておったわけだが、聞いて貰えるとなればかえって迂闊に愚痴も言えない。聞き流して貰えない愚痴は、真に受けられるとかえって危ないこともある。じつは数回、こりゃあ誇張した愚痴がどっかで読まれて真に受けられたなと冷や汗をかいたことがある。そりゃあもう言説には責任を伴うものだとはいまさら言われんでも分かっている。分かっちゃいる。分かっちゃいるけどそれでも書かざるをえないことをこそ書くべきものだろうと思う。昔の(今もか?)ロシア文学者が、全ての論文の形式を封じられた挙げ句に政治的主張もすべて小説に書かざるを得なかったような、やむにやまれぬことこそが書かれるべきものなのだろう。

    俺にとってやむにやまれぬ事も、他人にとってはよしなしごとに過ぎない。それはそうしたものだ。多くの人にとってやむにやまれぬ事なら、俺以上の文才のある人が誰か書いているだろう。誰かが書いたものを読んでそれで腑に落ちるなら、俺が書き連ねることもなかろう。

    しかし書き連ねられないことは読まれることもない。具体的に読まれないことは刺さりもしない。なんとなくぼんやりした、形のない空虚があるだけだ。そんな空虚は明瞭に存在することすら感じ取れないだろう。あるべきものの形が分かっていてこそ、そこに欠損があれば欠損と認識しうる。あるべき形の分からないものに、欠損があっても欠損とわかるだろうか。

    俺にとってやむにやまれぬ事も、書かずに済ませば止んだまま終わるのかもしれない。そうして多くの大事なことを見過ごしてきたのかもしれない。ちょっとしたことを呟いてちょっとした反応を得て、実質的な解決はなにもないまま小出しにやりすごしてきてしまったのかもしれない。それはよろしくない。

  • NICUのカーテン

    昼過ぎNICUに入ってみると、カーテンレールの工事をしていた。個々の保育器とその周辺の小範囲を囲んでカーテンを引くことができるようになった。普段は空調や監視のつごうがあるから開放しておくけれど、カンガルーケアや直接授乳などを保育器周りで行いたいときのプライバシーの確保が容易になった。

    カーテンは看護師たちのかねてからの念願であった。今回の工事は彼女らが自分たちで看護部上層や経営とかけあって予算を取るところから始めたことだ。俺の手柄といえばケチをつけなかったことくらいだ。

    うちのNICUの看護師たちの積極性というか行動力というか、たいしたものだと思う。彼女らの肝が据わっていないと重症入院が受けられない攻めきれないということになるんで、看護師の勇敢さというのはNICUの宝だ。このカーテンは直接に赤ちゃんの命を救うというものではないが、たぶんこのカーテンをつけたことでうちの看護師たちはいちまい勇敢になったと思う。

    神殿つうもんは人の心の中に作るもんやで、とかのナザレの大工も言ってなかったか。

  • 京都府立こども病院の不在について

    「京都府立こども病院」が存在しないことについて、ときおり考える。

    旧帝大医学部があるほどの土地で、小児専門病院が存在しないのは京都だけである。東京には国立成育医療センターや都立小児総合医療センターがあり、大阪には府立母子があり。べつに旧帝大医学部がなくとも兵庫県立こども病院や滋賀県立小児保健医療センターという病院も近県には存在する。友達の玩具をうらやましがる子供のような言い分だが、京都にはそのような病院がない。

    京都では両大学とも病院の小児科病棟を拡充する方針である。しかしそれでこども病院の代替となるかというと疑問である。大学はあくまで教育機関であり研究機関である。小児内科各分野あるいは外科系各科小児部門、児童精神科あるは小児歯科障害児者歯科とまんべんなく小児臨床の各領域を揃えるというものではない。むしろ何らか最先端の医療をやろうと思えば、いま流行の「選択と集中」が求められてしかるべき組織であろう。行政と連携して小児保健衛生あるいは虐待対策などの一翼を担うという性質の組織でもない。法学部や教育学部が関与するなら別次元の実践もできるかもしれんが、現状では絵に描いた餅というにもその絵すらない。病棟看護だって完全看護にはほど遠かろう。

    かつて新生児専門医の資格をとるための研修で大学NICUにしばらく通ったのだが、そのさいに2件、新生児患者を他県へ搬送した。1人は兵庫県立こども病院へ、もう1人は埼玉県立小児医療センターへだったが、両病院とも、受入を快諾してくださった管理職医師が、まさに異口同音に、「兵庫の(あるいは埼玉の)子供がお世話になりました」と仰った。新生児医療において各々著明な先生であるからお互い面識はあられるのだろうが、本件まさか申し合わせておられた訳ではなかろう。職責に関する認識が各々にその高い水準に至られたということだろう。先達のこの言葉に接しただけでも研修の意義があったと言うのは俺の個人的な事項としても、子供たちにとってみても、兵庫や埼玉の子供たちはこのような先生がいるというだけで幸せだろうし、この言葉を大言壮語にしないだけの充実した小児専門病院があるというのはなお幸せだろう。

    果たして「京都の子供がお世話になりました」と他県に向かって礼を言う立場の小児科医がいまの京都にいるかどうか。俺自身が言うても礼儀には適うだろうが実力が伴わない。両大学の小児科教授だってそのための職位じゃない。行政はその立場は誰だと想定しているのだろうか。想定があればとうぜん、その医師のもとに体系的な診療力をもった小児病院組織を整備する政策があるはずなのだが。

    それを考えるひまもなかったほど、歴史の浅い土地だったろうか。ここは。

  • 知命

    認めたくなくてしばらく考えずにいたけれど、知命といわれる歳になって一月ほど経った。

    たとえて言えば日曜日の午後3時ころのような気分だ。それなりによい天気の日曜日だったが、すでに日は陰って、今さら新たに行楽にいく時間でもない。日が暮れるまでに何か小さい散歩くらいはできるかもしれないし、宵の口には夜ならではのお楽しみもあるかもしれない。でも昼の盛りははっきり過ぎてしまった。まだ朝日が昇ってまもないうちは、よい天気になりそうな陽光をあびて、どんなすばらしい一日になるだろうと思ったものだった。しかしふりかえってみれば、昼の盛りをとくに何に使ったわけでもないような気がする。その場その場のことを忙しく消化していくうち、とくに何のあったわけでもない平凡な日曜になってしまって、ああもうはっきり日が陰ったなと思う、今はそんな日曜の午後3時頃。

    困ったことには、日曜日の夜が明けたら月曜日の朝がくるようには、人生には朝はこない。何時頃になるか、いまはとりあえず大病もなしそう早くはないにしてもいずれ寝てしまうし、寝てしまえば次の朝はこない。

    知命というからには、この歳になればよほど天命をさとって覚悟が決まるものなのだろうと思っていた。しかし実際にその年になってみれば、どうやらそういうものでもなさそうだ。単に、自分の人生にはもう大きいことは起こらないという諦めだ。いまそこに自分がいる、この自分の位置こそが自分の天命なのだというお話のようだ。なんのことはない、童話の青い鳥みたいなもんだ。

    さて。

    耳順という年齢まであと10年だ。この、もう日曜が残り少ないという怒りや焦りを鎮めて、腹が立たなくなって6時半のサザエさんを観るまでにあと10年かかるもののようだ。おのれの欲するところに従っても矩を超えなくなるまでさらに10年。もう桃太郎侍を観て寝る時間じゃねえか。

    こういう手厳しい指摘を2600年も前にしていた孔子というひとは偉いもんだよなと思う。

  • 衰退するNICUで

    NICUの入院患者が2人にまで減った。二人しかいないと静かなものだ。人工呼吸器の作動音も絶えて久しい。覆いを掛けた保育器や人工呼吸器が立ち並ぶ、倉庫のような暗がりの片隅で、赤ちゃんと看護師がひっそり過ごしている。この子らももうすぐ帰る。私は事務仕事も面白くなくてVolpeの新版を読み続けている。

    例年は冬になると極低出生体重児の入院が続くものだが、この冬はその増加がまったくなかった。悪い比喩だが、昭和29年、北海道の海にニシンがぱたっと来なくなったときはこういう感じだったんだろうかとすら思う。この数年、減った減ったと書きながら細々続けてきたが、今度こそ本物という感触がある。

    鰊も獲られたくないだろうし赤ちゃんだって入院したくはないだろう。ニシンは獲りすぎで資源が絶えたんだろうが、そりゃあ赤ちゃんは生まれるのを片端攫えてくる訳もなし、NICUの入院数が減ったのは産科医療の進歩が効いている。ひと頃は維持不可能だった妊娠が維持できるようになり、今日明日にも早産で分娩だと腹をくくって待機した胎児も、けっきょく危機を乗りきって正期産で元気に産まれ退院していく。赤ちゃんの元気は何より言祝がれることであるし、漁師さんたちを見習って俺たちも他の仕事を探すところなのだろう。そうして時代は過ぎる。当事者には色々の感傷はあれ、時代が過ぎるってのはそういうものなのだろう。

    NICUががらがらなのは当院ばかりではなさそうで、京都府の周産期情報ネットワーク情報を参照すると、大半の施設が受け入れ可能の意思を示している。それも複数の空床を提示している。時代は変わるものだ。今夜もし入院紹介があれば府外搬送だと重い気持ちで過ごす当直はもう過去のものになった。生まれる赤ちゃんの1人1人にとっては、これは良いことだ。憂う必要はなにもない。

    この状況を懸念するとすれば少子化の面からだろう。少子化が進行し、子供を産む年齢層の女性の数すら減り始めて久しい。世の中の人には、まだそれほど子供が減った印象は持たれていないかもしれないが、この入院数の減少には少子化もむろん影響している。NICUに入院する子供の総数が減ると、少ない入院は総合周産期母子医療センター他の大施設に集約されていく。我々のような末端の施設はまっさきに変化の波をかぶることになる。少子化をもっとも鋭敏に観測できる場所である。

    小松左京の短編に、サラリーマンの主人公が営業でたまたま訪れた産科医院で、ふと気がついてみれば赤ちゃんが1人もおらず新生児室が静まりかえっているというものがあったと記憶する。赤ちゃんが生まれなくなったのですと助産師が言う。その帰路、うららかな春の日にも、子供の声が街からほとんど聞こえない。御大の作品としては淡々とした、これといって起伏のない小品であったが、いまの様子は御大の想像どおりだ。