今日は当直でも待機番でもなく、一日自由に使える日なのに雨。
ロードを買って以来、クロスバイクは主に図書館とか大学とかへ行くときの街乗り用になっているのだが、今日は久々に手入れをする。チェーンを洗って油をさすだけのつもりだったのだが、よくみればディレイラーもスプロケットもブレーキも泥だらけだったのでけっきょく大掃除になった。ワコーズのブレーキパーツクリーナーを吹き付けてはブラシでこすり、ウエスで拭き取る。今度晴れたら図書館へ行くのが楽しみ。
娘の友達があそびに来ていた。昨夜はそれとなく、明日天気になったらいいねとか言ってたが、たぶん自転車に乗ってどっか行っててくれということなんだろうなと思った。娘にとっても今日の雨はうっとうしい雨だった模様。来た友達はいつもきちんと挨拶のできる子で、こういう子もいるのになんで最近の若い子は云々と腐されなければならないのだろうと思う。
昨夜は古田織部に関するNHKの番組を観た。NICUも茶室のように、すみずみまで配慮を巡らして、五感の全てにつくして赤ちゃんを迎えるような整え方ができないかなと思った。
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OFFなのに雨
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乏しいリソースを分配する
「発展」と「アフリカ」 – 過ぎ去ろうとしない過去
この秋から冬にかけてのインフルエンザワクチン接種で、医薬品が足りないという状況を経験した。金を出しても正当性を訴えても医薬品が手に入らないというのは初めての経験だった(神戸の震災の時も同じような状況があったのだろうが遺憾ながら記憶にない)。
リソースが足りない状況での人間の行動というのは浅ましいものだとつくづく思った。それでも私の患者さんは、お子さんは現状でワクチンの優先枠に入るほどの重症ではありませんと申し上げたら聞き入れてくださる方ばかりで、ありがたいことだった。しかし目を外に転じれば、昔の人はこういう状況を餓鬼道にたとえたのではなかろうかとさえ思える言動に接することも再々で、いろいろと考えさせられた。
ワクチンひとつ足りないだけでこれだよという記憶の新しい身で、トラックバック先のアフリカのこと(さらにその言及先のエントリまで)を拝読したのだが、やっぱり腹のふくれた人間は腹の減った人間のお作法についてあんまり居丈高なことを言っちゃいけないなと思った。腹のふくれた人間自身、いざ腹が減ったのに食料が手に入らないという状況になってみれば、どういう行動に出るか知れたものではない。と、今回の新型インフルエンザワクチン配給と接種の過程で学んだ。 -
草食系男子という概念には自然科学的な妥当性があるんだろうか
草食系男子なる概念について書かれた書籍を読んで、妻と娘が、これってお父さんのことだよねと言って笑っていた。
私の個人的評価に関しては局所的な話だからまあどうでもいいとして、いったいこの草食系男子なる比喩表現を用いた人々の中に、草食獣というのがどれほど獰猛で扱いにくいものかご存じな人っているんだろうかと思った。草原でおとなしく草を喰ってる従順で無害なやつらと思っておられるのなら、かなり科学的事実とは異なるんじゃないかと思うのだが。どうだろうか。
なにさま、世界にいま飼われている家畜には、みごとに、アフリカ原産ってのが居ないでしょうよ、と、娘相手にジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の受け売りをしてみる。どうやっても飼い慣らせなかったってことなんだからね、と。父親をどう思うかに関しては、まあそれなりに相手してくれてればいいと思ってるけど、自然科学的な観測にもとづかない空想上の比喩を使うような言説のありかたを見習ってもらっては、いちおう理系のつもりの父としては心外なのだ。 -
朝青龍引退
かねてよりファンの末席に連なってきた者として、朝青龍の引退は衝撃であった。力士の力はただ事ではないから、力士ではない者への暴力沙汰というのはいかにも致命的で、さすがに引退は仕方ないかなとは思う。ただその事実関係の経緯については詳細不明にて何とも。かの第60代横綱双羽黒の引退の騒ぎも、今にして振り返れば双羽黒側にずいぶん不当な経緯だったと聞くし。
けっきょく本人も師匠も周囲も彼の強さを扱いかねていたんだろうと思う。人智を超えて神から授かったとしか思えないような理不尽な強さであった。ただ強いと言うだけで横綱になった、たいへんシンプルな横綱であったと思う。今後も、史上最強の横綱は誰という話題になったら、かならず彼の名前が挙がると思う。
そのシンプルさ故に私は朝青龍が好きだった。弱いんだけど頑張ってますみたいな判官贔屓の必要な強さではなく、本当に彼は強かった。白鵬もかわいそうに、これからいくら頑張っても、ここに朝青龍が居ればという呪詛から逃れることはできない。居ない人は倒せない。
ただその強さを誰も(本人すら)コントロール下に置けなかった。それをコントロールしようと口喧しかった人の職業が脚本家だったというのもなにか象徴的な話だったと思う。彼女は自分の脚本みたいに彼を操りたかったんだと思う。ただ彼女には気の毒だが、彼女が脚本を書いたドラマに、朝青龍が活躍した大相撲ほどにおもしろい作品をひとつも思い出せない。たぶん彼女はその作品に寄らず、朝青龍の天敵として、後世の記憶に残るんだろうと思う。
それをコントロールしようとして、土俵での仕草がどうだとか左利きなのがどうだとかいったあれこれの、およそ大人が大人に対して言うこととは思えないハラスメント的なご指導が幾たびもなされた。それは朝青龍が他の意見に耳を貸さないことに言い訳するネタを与える以上の意義を持たなかった。逆に、彼が再々に渡って稽古場でライバルを負傷させてきたとする醜聞に誰か何か言ったか?と問いたい。何か言うならそこに言えよと思う。それを指導できない相撲界には指導できないだけの事情があるんだろうけれど。いったい大相撲の歴史を振り返って、朝青龍に石を投げて追放できるほど美しいありかたであったか?
なにさま、神が与える力士の強さすらコントロールのもとに置きたがる性根が、ひどく嫌らしいものに思える。人智を超えたものにたいする畏敬の念のなさ。まさにそれを象徴したのが、朝青龍の優勝をまぐれと断じた、かの女性脚本家の態度であった。自分に理解可能な範囲を超えたことを矮小化して片付けようとする態度。いったい国技に対する敬意があるのかと彼女にこそ問うてみたかった。
一頃盛んであった医療バッシングにも通じるものを感じて、朝青龍の攻撃され方には他人事ではないものを感じる。死こそまさにコントロール下に置けないものの代表なのだと思うが、それすらを尊厳死とか何とか言ってコントロールしようとし、予期しない死には医師の訴追を持って報いる、その同じ考え方が朝青龍の強さを許容しなかったのだと思う。
がんばれ朝青龍 -
フーコー先生によると
本書を読んで氷解した疑問
1.MRSA対策とか動脈管開存症の診断治療とかで、大きな施設に自分たちはこうやってるってだけの根拠で偉そうな断言をされていちいちむかつかなければならないのはなぜか。
2.そうやってむかつきながらも表面上ははい仰るとおりでございますとへいこらさせられてしまうのはなぜか。
3.いい大人でプロフェッショナルなはずの我々が、夏休みのラジオ体操よろしく学会参加証のスタンプやらシールやら集めて専門医云々言って汲々しなければならないのはなぜか。
たぶん3にはマルクス先生も仰りたいことがあられると思う。 -
死が一瞬のものではないということについて
冬の極北からの知らせ Life in the North
文化によっては死が一瞬のものではないということを、脳死云々の議論で読んではいたが20年来よくわからなかった。この記事を読んで、なにか眼が開いたような気がした。引用元に綾をつけるようで恐縮だが、書き留めさせていただくことにした。
こういうおばあちゃんが亡くなったという知らせは、こういうおばあちゃんがお住まいだった土地ではなかなか即時には伝わらないものじゃなかったかと思った。アラスカなんて行ったこともないので想像だけで(星野道夫さんとか野田知佑さんとかの著書で読みあさったことも参考にして)申してますが。なにさま、どこそこの村にどういうおばあちゃんが住んでいると、ときどき思い出しては、その人徳のおかげで思い出した人の幸せ度がちょっと上がる(たとえばファイナルファンタジーとかで白魔導士が「祈る」コマンドを一回実行したくらいのコストなしの小回復が得られる)みたいなおばあちゃんがあって、連絡をとろうにも物理的にはそうとう遠隔だからそう簡単には連絡がつかない、便りの返事も数週間とか数ヶ月とかのようなところに住んでおられて、そういうおばあちゃんなら、亡くなったと聞くその瞬間まで聞く人にとってはまだ生きておられるんじゃないかと思った。そうして時をおいて聞く訃報には、即時に伝わるニュースの生々しさはなくて、伝わった時点である程度枯れた感じがするようになっていて、ああ亡くなったかと淡々と受け止められる感じになっているんじゃないかとも思った。そういう訃報に接したときの受け止められかたは、その瞬間に全く100%生きていた人がある瞬間からすぱーんと100%の死に移行するんじゃなくて、生と死のあわいの霞のかかったような領域でやんわりと「どっちかといえば生」みたいな領域から、「どっちかと言えば死」みたいな領域へ移っていくんじゃないかと。その二つの領域の差はそんなにどぎついものではなくて、受け取る側がやんわりとその知らせを受け止めて消化するのを待ってくれるようなものではないかと。
そういう人なら、亡くなった後で思い出しても、そんなに痛切な心の痛みはなくて、それなりに暖かく思い出されて、思い出されるうちにもだんだんと遠くなっていかれて、そのうちにみんなの心の中でその人の死が納得される、そうなるまでその人は完全には死んでいないというか。物理的な遠隔さの故に亡くなったという情報が即時性・同時性をもって共有されない、それ故に残された人にとって、人はだんだんと死んでいくものではないかと。昔はみんなそうだったんじゃないかとも思う。
仏教の知識はあんまりないけど、「成仏」というのはかなりこれに近い感じの概念じゃないかと思うのだが。
などと勝手な思考をくだくだ述べた後で恐縮ながら、これも何かの縁と思い、エディスおばあちゃんのご冥福を、お祈りさせていただきます。 -
長所を聞かれて息子は
昨日は総合支援学校高等科への進学へ向けて、相談会へいってきた。夫婦と長男とで、養護学校の先生お二人との面接であった。
けっきょく職業科からは「言葉が不自由だと指導困難」とのことで、何回か体験実習へ言ったあと、中学校を通じてやんわりと断りが入った。そりゃあそうだろうねと思ったからあんまり横車は押さないことにして、普通科希望へ鞍替えした。昨日は普通科の面接。
いったい、これで合否を決める「面接試験」なのか、それとも入学はもう内定済みでその後の指導方針について両親の意向を確かめる目的の面接なのか、いまひとつ位置づけがわからない面接ではあった。まあ両方なんだろうと思った。あんまり極端な要求を出したら、受け入れ不可能という結果になるんだろう。
面接で息子は、自分の長所はどういうところだと思いますかと聞かれて戸惑っていた。自他の比較という発想そのものがたいへん希薄な人なので、そういうことは全く考えたこともないといった顔だった。墨を吐くことについてどう思いますかと聞かれた鯛のような顔。いやそりゃあタコがすることだろうと答えられればよかったのだろうが。
自他の比較をしないとどれだけ日々を心安らかに過ごせるかという見本のようなあり方を、息子に日々教えてもらっている。おそらく、勝間和代さんに勝てるのは香山リカさんじゃなくて、うちの息子だ。 -
新生児蘇生法インストラクター講習会を受けてきた
昨日は岩倉の京都国際会館で行われた新生児蘇生法のインストラクター講習会を受講してきた。講習後のテストの採点結果を待っているところだが、まさか落第するほどひどい答案を書いたとは思えないので、おそらくあと一ヶ月もすれば合格通知がいただけるはずだと思っている。その後の手続きを済ませてインストラクター資格をいただいたら、医師や看護師・助産師を対象とした新生児蘇生法の講習会を開催することが可能になる。
そんなことを公言しておいて落ちたらかなり恥ずかしいけど、でもまあNICUを一個預かる立場にあって新生児蘇生法の試験に落ちるようではいかんだろうとも思う。隠してすます問題でもなかろう。
赤ちゃんの10人に一人は分娩後になんらかの処置を要するし、さらにそのうち10人に一人(全体の100人に一人)には本格的な蘇生を行わないと生命や発達に危険が生じる。ある程度は分娩前に予測はつくものだから、すべての分娩に等しく100分の1で心肺蘇生の確率があるとはいわないけれど、でも心肺蘇生の必要が生じる確率が数百分の1とか数千分の1でもあるのなら、やっぱりその場には蘇生術ができる人間が誰か居たほうがいいに決まっていると思う。
蘇生術で一番肝心なことは、適切に開始するということだ。蘇生ったってテレビの「ER」とか少年サンデーの「最上の命医」でやってるようなハードなお話ではない。バッグ&マスク蘇生でだいたい片付く。たまに気管内挿管をする程度である。臍カテ入れてエピネフリン投与なんて私もほとんどやった記憶がない。手技はごく単純なことだ。だから一番肝心で、おそらく一番訓練を要するのは、いまここでこの子に蘇生を開始せねばならんという意思決定なのだと、私は思う。米国の学会が「すべての分娩に新生児の蘇生を開始することのできる要員がすくなくとも一人、専任で立ち会うべきである」(太字筆者)と述べているのも、そういう考え方からだろう。 -
駅伝と自転車ロードレース
新春なので病棟では入院患者さん達が駅伝を観ている。
駅伝は残酷なスポーツだと思う。またその残酷さがいかにも日本的なスポーツだと思う。チームの命運を一人に背負わせて走らせるのに、周囲がするのは声援ばかり。実のある援助がないので、選手は孤軍奮闘を強いられる。一人が下手をうつとチームごとリタイヤすることになるから冒険的な戦略も取れない。堅実に、まじめに、耐えて走ることが美徳とされる。失速した選手は落伍者扱いである。彼らのことを語る報道の上から目線ぶりは観ていて痛い。痛くてこの数年ほど駅伝はまともに観られない。
昔はスポーツって一般にそんなものなんだろうとしか思わなかったが(だから体育会系って付き合ってられないんだよねとも思っていたが)、自転車のロードレースを見始めると、こんな考え方をする種目もあったのかと瞠目した。ロードレースではチームが一体となってエースを勝たせようと協力する。エースの前を走って風よけになり、飲み物や食べ物を運び、寒いときの上着を運び、万が一にも接触事故などでエースがこけないように周囲をかためて保護し、云々。チームの命運のかかったエースならみんなで勝たせようじゃないかと、合理的かつプラグマチックなチームプレーが行われる。
まあ昨年のツールでのアスタナみたいな例外はあるかもしれんが、一般的にはそういうものだ。
たとえばレースの序盤でエースの風よけのために前を走り続けて体力を使い果たした選手が後にリタイアしても、それは単に彼が自分の責任をはたしたということにすぎず、彼が未熟だとかいう話にはならない。彼がアシストしたエースが最終的に勝利すれば、その栄誉はアシストした選手にも共有される。リタイアしたからと言って彼に後ろ指をさそうという発想は観るがわにもない。
であればこそ、戦略として序盤にあえて先走って「逃げ集団」を形成するという戦略も取り得る。実力を考えればゴールまでのどこかでメイン集団に追いつかれ追い抜かれることは確実な、いっけん無謀な独走であっても、彼がそうして独走することでチームの戦略にも寄与することができる(らしい。いまひとつ、逃げがチームに具体的にどう寄与するのか私にはピンと来ないのですみません)。少なくとも逃げ集団はテレビ中継によく映るのでスポンサーは大喜びするし、逃げた彼らが最終的にメイン集団に追い抜かれ、力尽き果ててリタイアしたところで、チームが負けることにはならない。
そういう駅伝と自転車ロードレースの精神風土の違いが、そのまま、彼我の風土の違いにもなっているような気がする。先走りも異端も許されず、かといって実質的な応援もあるわけではない孤軍奮闘を強いられ、失速やリタイアはそのまま周辺を巻き込んでの破滅となり二度と浮かび上がれない日本。向こうではどうなのか日本を出たことがない私にはよく分からないけれど、日本で駅伝が精神性の塊みたいに称揚されるのと同じようなありかたで、自転車ロードレースの精神が社会の精神のあり方を象徴しているのだとしたら、向こうでは才覚ある個人の独走をあたたかく見守る雰囲気があるんだろうと思う。その独走が最終的に潰えても、次のレースではまた走ることが許されるんだろうと思う。エース級の人の奮闘にはチームが惜しみなくアシストする雰囲気があるんだろうし、アシストの人たちも自己の犠牲をそれほど自己憐憫することはないんだろうと思う。そうしてアシストされて勝つエースもいたずらに高ぶったり卑下したりすることなく、シンプルに勝利を喜びアシストに感謝するんだろうと思う。行ったこともない社会を理想化しすぎだろうか。
さいきん日本の男子マラソンが世界の水準に追いついていかないのは駅伝という競技が悪いんだとは聞いたことがある。どんどんスピード重視になっていく世界の潮流のなかでは、確実さを極端に重視する駅伝の選手育成方法では世界で勝てる選手は育たないんだそうだ。それは陸上競技に限ったことか?と問うてみたい気はする。 -
一人目はためらい悩むものだが
読んだ本をネタにして見てきたようなことを言うのは憚られるべきことではあるのだが。
旧海軍において特攻の口火を切ったとされる大西瀧治郎中将であるが、本書によれば彼はその決断に際して極度に苦悩したという。当時彼が赴任したフィリピンには米軍が迫ってきていたが、日本軍の航空戦力はほとんど残されていなかった。大西は苦悩のあげく、このとき限りのつもりで、爆弾をとりつけた飛行機による体当たり作戦を決断した。
しかし二人目以降の指揮官が、特攻作戦の命令に際して大西ほどに悩んだという記載は本書にはない。淡々とシステマチックに、あたかも特攻作戦の倫理的問題は大西によってクリアされたと言わんばかりの平然さで、つぎつぎと特攻作戦が続行された。
大西はこの一連の特攻作戦に責任をとるかのように、敗戦直後に割腹自殺している。介錯も救命処置も断って、半日苦悶した果てに死去したという。
じゃあ悩んだ大西が偉くて二人目以降のその他大勢が倫理的にスカだったのかというと、死地に赴かされる部下の立場になってみれば、上司がどれだけ悩んだかなど、まあ些細なことだったかも知れない。そもそも手続き的に何をどうすれば特攻作戦が正当な作戦と呼べるようになるのか、私には見当もつかない。作戦に際して市民や法律家や宗教家を招いて倫理委員会を開けば正当化できるのかというと、それもちょっと的外れだろうと思う。
そもそも論を言い出すと問題が拡散していって非生産的になってしまうが、そもそもあの戦争自体がどれほど正当なものなのかにも、議論の余地がおおいにあると思うし。
