NICUに常時誰かが居る

午前も午後もNICU詰め。小児科医が増えて仕事がシンプルになった。一日NICUに居ればよい日。幸せな日であった。
中心静脈確保を一人でやっていると、新しく赴任してこられた医師が介助に入ってくれた。外来を2診たてて、一般病棟や外来の処置係を置いて、それでも複数の医者がNICUに居られるということだ。有り難いことだと思う。新任の先生は「一人で中心静脈を確保する(看護師の介助も無し)」という手技を初めて見たとかで目を丸くしておられた。私もずいぶん一人の手技に慣れてしまったが、無論、介助があった方が迅速に進むのは道理である。それも、自分でその処置をやり慣れた医師が介助についてくれると、思うところに適確に手が伸びてくるので、俺ってこんなに処置が上手かったかと思うくらいにうまく行く。
それに「NICUに誰かが常にいる」のは、実は初めての経験なのだが、安定感が予想以上である。今日も午前中にいちど外来に呼ばれて出向かなくてはならなかったのだが、その間にNICUの業務が止まる云々との気苦労をせずに済んだ。NICUに戻ってみると、何ごともなかったかのように業務が着々と進んでいた。
これは当院の態勢では小児科医6人(うち4人がNICU患者を受け持つ)となって初めて実現したことだ。5人(うち3人がNICU受け持ち)まででは実現できなかった。以前は小児科医4人(NICUは原則全員私が主治医)だったから、他の医師が常在するなど望むべくもなかったし。
新しく来られた先生は温厚で、若手の指導もうまい。今後はこの先生がうちの中心になるんだろうなと思う。こういう人を見ていると、人望を集めるってのは天賦の才だなと思う。

皇孫を保育器に入れてはいけないというお話

Dead Letter Blogを拝読して興味を引かれ、病院の売店で週刊新潮を買って読んでみた。分娩予定日よりも早期の帝王切開に関して、宮内庁は異議を唱えていたという。

「もし、胎児が十分に成育していない状態で出産となれば、保育器が必要になる。もし生まれてくるのが将来皇位を嗣ぐかもしれない男児ならば、”弱々しく生まれた”ようなイメージは相応しくない。母児ともに健康であることをアピールする必要がある・・・」

だから予定日(40週0日ですな)までもたせろと宮内庁は主張した由。そんなご無体な事を言っちゃった時点において、自分らが母子の健康を損ねることにつながる主張をしていると自覚していたのかどうかは、文面からはよく分からない。
多少は横車を押してくれてたほうが週刊誌ネタとしては面白いのかもしれんが、実際のところは、宮内庁は無知の勢いで自分らの都合を口走ってはみたものの、愛育病院から医学的に諄々と諭されて、成る程と素直に折れたのかもしれない。単純に前置胎盤だけなら37週早々ってのは決して遅すぎるとは思えないし。
あるいは前置胎盤以外にも、母や子の健康を損ねる未公開な要因があったとしたら、是非にも37週より早くという医学的要請もあったかもしれない。そこを宮内庁の冷酷な横槍で、「37週早々なら通常の前置胎盤でも説明つくから」みたいな落としどころになってしまってたのかも。あくまでも「かもしれない」話ではある。実際に論議がどう進んで、どの程度の妥当性を持つ結論に落ち着いたのかは、藪の中である。無事お生まれになったから結果オーライなのかもしれんが、それとて薄氷を踏む思いの危機的勝利かもしれんし。
それにしても人生は勉強だなとつくづく思った。
お産に関わる人は皆、なにをおいても母子の健康を優先するものだと思っていた。母子の健康以外のそろばん勘定を持ち出すときには、ほんらいは言うべきではない卑しいことを言ってるんだと、普通は、自覚するものだと思っていた。そこにはある程度の含羞が漂うものではないかと。
無邪気にそう信じ込んでいたのは、私が世間知らずだったのかも知れない。しかし、それを反省してさえも、『母子の健康そのものよりも「母子共に健康であることのアピール」のほうが大事だ』という宮内庁の理屈はどうにも理解できない。価値観が違うと言うより、論理の体系からして違う感がある。国家にそういう論理でものを考える機関があって、その機関に幾重にも取り巻かれて生活せねばならない人々がある。そりゃあオランダにでも逃げださにゃあやってられんわなと、ご心労を思う。
「弱々しく」云々に至っては、こういうものの考え方もあるんだと恐れ入った。保育器に入ったってだけで天皇失格の弱い子扱いか。本邦の新生児医療を舐めとりはせんか?だいいち、「保育器に入るなんて弱い子は○○家の跡取りに相応しくありません」なんて、まるで絵に描いたような嫁いびり姑の悪役台詞で、滑稽ですらある。宮内庁としては、姑根性ばかりじゃなくて、白頭山の抗日ゲリラキャンプで産まれたという金正日大将軍閣下に対抗するつもりもあるのかもしれんが、我が国の天皇にそういう伝説を演出するのは妥当な話なんだろうかとも思う。
散々偉そうな事を書いて、最後になって恐縮だが、私もまたdeadletterさん同様、君に幸あれと願う。あくまでも、私が待っていたのは君だ。君のおちんちんじゃない。

臨時停車もテツには平気

夏休みに妻とこどもたちは知人が北海道に持つ別宅へ遊びに行った。旭山動物園もみてきたとのこと。娘はあこがれの動物園で一日すごした。息子は動物園には興味なかったらしいが、行き帰りに飛行機や電車に乗れるので喜んだとのこと。そもそも北海道の線路は貨物列車が多いので、機関車フリークの彼には垂涎の土地だったらしい。
私は留守番してお仕事と猫の世話。ごみ当番の始末を忘れてて近所からお叱りの投書を入れられてしまった。ゴミ当番はカラスよけのネットを片づけるのも忘れないように、だそうだ。
彼らが帰路で乗った電車が信号の故障で臨時停車した。自閉症児を連れて臨時停車なんて大変だったろうと、事情を知る知人からは心配して頂いたとのことだが、息子は余計に電車に乗れたので大喜びだったらしい。苦労なしだったとのこと。
別に予想の範囲内なのでそういう土産話は聞き流していたが、その停車駅について、「コボロとか言ったかな・・・」と妻が言うので俄然向き直る。あの小幌駅かよ。妻はどれだけ有名な駅だか知らなかったらしいが。「そう言えば何にもなかったね」と笑っていた。

蘇生処置なしにApgar1分10点ってどうすれば実現できるのだろう

いまだに、一切蘇生処置無し(酸素投与も無し)のApgar1分10点の子って自分が立ち会った分娩では行き当たったことがない。たいていは皮膚色で減点して8点とか9点とか。筋緊張も呼吸も良好で元気に泣いてる子でも(だから他項目は全て2点満点でもさ)、1分じゃチアノーゼが完全に消えるのって無理だと思うんだけどな。
そりゃあ新生児科医が立ち会う分娩なんだからそれなりにハイリスクなんだろって言えば言えるけど。ハッピーに進む分娩ではそういうタフな子も居るのかな。
ときどき他医で出生して新生児搬送入院になった子の情報用紙に「蘇生処置なし:Apgar10」なんて記載があって、この子の分娩を拝見してみたかったと思う。ましてそういう子の主訴が「呼吸困難・チアノーゼ」だったりすると、もう訳が分からない。まあ、陥没呼吸があっても呻吟しててもApgarスコアには影響しないし、次第に進行する呼吸困難っていう病態もあり得る話だし。それで納得することにはしてるんだけれども。

女医さんがやってきて歓迎会

日曜の朝から日直宿直やって月曜午前の外来をやって、昼からNICUを回診して(かなり居眠りもしてたけど)、ようやっと連続32時間の勤務が明けるぜと思ったら、今日は医局の歓送迎会だと言われた。そう言えばそういう話もあったな。
当直明けの暑さと疲労の脂汗が滲んでる夕方に、これから飲み会やるから来いってねえ・・・にこやかに「先生は当直明けでオフですから当然参加と言うことにしておきました!」と仰る。いかにも月金9時5時勤務の背広の口から出そうな台詞ではある。でも考えてみたら、今度の新人には小児科の女医さんも入っている。麻酔科の常勤が来てくれたんで霞んでるけど。他科の先生方が歓迎会を開いて下さるってのに、俺は眠いからうちの新人を君らで適当にもてなしておいてくれなんて言ったら、反感を買うだろうなと思った。渋々参加。
渋々参加しては見たが、さすがに大人の医師が集まる席であるから、なごやかで快適ではあった。私のような社会性の乏しい人間には、ああいう席で仕事の話以外に話題が出ること自体が驚きではある。学生時代のスポーツの話とかゴルフの話とか、趣味で釣りに行く話とか。人に言える過去や趣味を持ってるって羨ましいよねと思う。
会場の店に入ったら若主人に「先生うちの子がお世話になっております」と丁重なご挨拶を頂いて、やれやれ長いこと一所にいると気軽に入れる店が少なくなるなと嘆息もした。でもまあ、歯医者の寝台で「先生うちの孫がお世話になりました」と老先生に言われた時ほどには危機感は感じなかったけれども。

猫殺しの小説家の一件に関して

なんとかいう作家が常習的に子猫を殺していると新聞連載のコラムに告白した一件に関して。
このニュースに接しての感想は、このコラムは将棋や囲碁で言うところの「無筋」、つまりはあまりに下らなくて考慮に値せぬ手筋ではないかということ。囲碁にしても将棋にしても、ある程度に上達すると、この手は先を読むまでもなく何の意味もない着手だということが、直感的に分かるという。あるいは、骨董の鑑定なんてやってるひとが贋作を見た場合には、何とも言えぬ奇妙な感覚を感じると聞く。自分のこれまで得てきた鑑識眼の何処にも「引っかからない」、「語るにも言葉がない」というのか、その奇妙な言葉で語られる、そういうものかと思っていた。
まあ、平たく言えば、語るに落ちるからほっておこうと思った。俺も語るに落ちるものが直感的に分かるようになったんだなあと、おかしな自己満足が無かったとは申すまい。猫飼いの一人としては猫を殺すって言われるだけで直感的に腹が立つんですけどね。
子猫を産まれる片端から崖下に投げ捨てる行為の、どこが生命の
多分にこの人は猫を殺すと告白したところで失うものは何もないんだろうなという勘ぐりもある。作者は自分の飼い猫が子猫を産む片端から崖下の空き地に投げ捨てて殺す人ですって、そういう前振りがあったほうが作品の売れ行きが伸びるような、そういう類の作品をお書きのようだし。

新版K式発達検査初級講習会

昨日から4日間の日程で、「新版K式発達検査」の初級者向けの講習会に出席している。3日間座学で、4日目は実習だそうな。伏見の、桃山御陵の麓まで、京阪に乗って通っている。
今日は座学の2日目。だんだん煮詰まってきた。NICUに帰りたい。
当院では掛け声ばかりで臨床心理士を雇う話が全く進展しない。NICUを退院した後のこどもたちの発達フォローには、詳細な発達評価が不可欠であるのに。業を煮やして、自分で手を出してみることにした。お陰で夏休みが潰れた。
受講してみて、これは無謀な話だったと思う。全体の分量が多いし、手続きは言葉のひとことひとことや、教材の提示の角度まで、まるで茶道か華道のお稽古ごとみたいに厳密に定められているし。100名もやれば分かってくると、講師はこともなげに言うのだが、そんな暇はさすがに無い。まあ、いままで通り児童福祉センターに外注で評価して貰うにせよ(ってセンターこそK式が生まれた本場なんだけど)、検査の中身くらい分かってて悪くなかろうと、志をやや低くしての受講になっている。
予想外に医療関係者は居なくて、50名ちかい受講者の中で医師は私だけだった。大半が養護学校の先生とか、発達相談をなさっている心理の人らとか。医療関係に一番近いと言えば保健師さんくらいか。何だか会場の雰囲気に馴染めなくて戸惑うばかりである。強いて言えば臭いの差とでも言うしかない。決して無愛想とか攻撃的とかいう人らではなくて、むしろ初対面の人たちがこれほど抵抗なくうち解ける様子は初めて見たというくらいで、この人たちに比べたら医者の集団ってお互い身構えてるよなあと思うのだけど。そもそも、この人ら互いを先生と呼んでないもの。変なのは俺らなんだよな。
いや、むしろ人口密度に圧倒されているだけかも。一部屋に数十人が詰めて座っているわけだが、私はそもそも隣家まで徒歩20分の環境で育った人間だから、周囲に人が多いというだけで疲れる。村の小中学校は生徒数少なかったからまだ良かったけれども、高校では息苦しくて叫び出したくなるのをけっこう堪えていたのだよ。医者仕事はそれでもけっこう自分勝手が言えるし、息苦しくなったらちょっと隣室に引っ込んで一息入れることも可能なんだけれども。
まあ、座学は実質あと1日だけだ。実習はもうちょっと少人数になるはずだ。

大和って結局何隻沈めたの?

「男たちの大和」の興行が京都では二番館まで終わったらしくやれやれと思っている。新聞の映画案内にこの題名を見るたび、何とはなく見たいような見てはいけないような気がして落ち着かなかった。賛同して観ようが批判的に観ようが、入場料を払ってしまえば興行成績の一部としてポジティブにカウントされてしまう。それは不本意なのでこの映画は観ないことにしていた。
私も昔はプラモデルの赤城とか武蔵とか紫電改とか作ってた口である。機械は好きだ。巨大な機械は大好きだ。検査機器をメンテする姿を見られて「お前は機械に赤ちゃん相手と同質の愛情を注いでいる」と同級生の医師に冷やかされたほどだ。それは「男たちの大和」を制作された方々と同様である。特別あつらえの大和が大画面を勇猛に進む姿は一見の価値があったんだろうなと思う。当時プラモデルにつぎ込んだ金額よりも安くで観れたわけだし。画像的には、観たい映画だった。
ただ先の大戦で犠牲になった方々への礼儀として、大和が筆頭にでるってのはどうなんだろうとは思った。犠牲を追悼するなら、「男たちのガダルカナル」や「男たちのインパール」を差し置いて「男たちの大和」が出来上がってしまったのには違和感を覚える。
むろん、大和の面々が喰うものは喰えて武器弾薬も持ってたからって、ろくな補給もないままジャングルに逐次投入されて飢餓とマラリアで殺された飢島の人々に、犠牲として優れているとか劣るとか言う話はない。そんなこと言うほど増長はしたくないものだと思う。
とはいえ、やっぱり、「男たちのガダルカナル」じゃなくて「男たちの大和」なのは「絵として美しい」からだろうという邪推を否定しがたい。ガダルカナルには大和の巨躯に匹敵するような機械ネタがないというばかりではない。大和のガンルームではそれなりの議論もできただろうが、密林で自分が飢え死にしつつある意味を考えて、何か結論めいたものが出るわけがない。カズシゲ氏ですら口にすれば決まるような名文句など残ってはいまい。
ガダルカナル戦を始め、英霊と呼ばれる方々の多くは、拝見して鼓舞されるというよりは、辛くて目を背けたくなるような死を余儀なくされたのではなかったか。「シン・レッド・ライン」はガダルカナルが舞台だったと聞くが、あの映画に猿なみの惨めな姿で登場する日本兵をこそ、日本人は追悼しなければならんのじゃないか。彼らの辛さを直視し記憶することが追悼だろうよと思う。

立つことの出来る人間は、寿命30日間
身体を起こして座れる人間は、3週間
寝たきり起きられない人間は、1週間
寝たまま小便をするものは、3日間
もの言わなくなったものは、2日間
またたきしなくなったものは、明日

そんな絶望の中で亡くなった方々を追悼するためになら、靖国参拝もぜひ行われるべきだと思うが。でもなんだか、そういう「画像的に醜い」死に方をした兵士たちのことを、コイズミさんたち靖国にこだわる方々が念頭に置いておられるようには、なかなか思えない。英霊について、いかにも自発的に「国のために生命を捧げた」かに仰るが、国のために死ぬのが厭とは言わんが鉄砲玉もなくこんな密林に放り出されて飢え死にするんが国のためかいなと、英霊と呼ばれた方々は仰るのではないかと思う。
ついでに申しあげるなら、勇猛果敢な戦果を讃えるなら、「男たちの雪風」なんじゃないかと思う。大和の戦果って、輸送鑑としては大活躍だったらしいけど、戦艦としては駆逐艦1隻撃沈だけじゃなかったかな。あの主砲は宇宙戦艦に改造されるまでは一隻の敵艦も沈めてないらしい。道理で波動砲が必要なわけだとは納得したけれど、敢えてそんな大和を持ってくるってのは、やっぱり慰霊というよりメカフェチが動機で作った映画でしょと勘ぐらざるを得ない。あるいはメカフェチでないとすればホテルフェチか? 次は「男たちのプリンスホテル」かも知れませんね。
そもそも「男たちの」という枕詞も何だか気恥ずかしい。「男の隠れ家」「男の一人旅」「男の手料理」「男の休日」・・・森羅万象、「男の」という枕詞をつけてみるとたいてい何でも恥ずかしくなってしまう。娘が一頃「ずっこけ」とかいうシリーズものを読んでたけど、対象への尊敬度において「男の」と「ずっこけ」は同列くらいなような気がする。そういえば「男塾」だってギャグまんがだった初期のほうが深くて面白かったし。あの映画は大和を小馬鹿にして楽しむ映画だったのかも知れない。撮影後のセットを見世物に払い下げたりしてるし。