けれども、フッサールとハイデガーの死者たちはある意味で「静かに死んでいる」。
ひどい言い方をすれば、「現事実的に有用」なしかたで死んでいる。
それはたとえばハイデガーが帝国のために死んだドイツの若者を顕彰する誇らしげなくちぶりからもうかがえる。
ときおり、自分の疑問に対して内田樹先生がタイムリーに回答をくださることがあって、ひょっとしてお読み頂いているのかな?と夜郎自大的な妄想を持たないでもないのだが、先生にはそれは共時性というものだと一蹴されることだろう。
なにさま、このあいだ読んだ平間洋一著「戦艦大和」における戦死者への鎮魂の作法について言及した矢先に、内田先生のブログで上記の指摘があった。そうそう、まさにそれを言いたかったのだよ、と私は思った。
「戦艦大和」における戦死者への言及のあり方は、まさに「現実的に有用」な死者に対する言及のあり方である。いやしくも自衛隊の幹部であった人が、旧軍の戦死者を「現実的に有用」なものとするのは宜しくないと思う。同胞としてのみならず同じ軍人として(あ、自衛隊は軍隊ではないんでしたね、はいはい)あまり美しくない態度だと思う。