1回目が終了した。トーキング・ハイから回復するのに1日かかった。
受講生からはしっかり受講料をいただいて、義援金に回す手配をした。なにさま、手持ちのお金を拠出するばかりではなく、復興支援の事業が義援金を増幅するようなシステムを作ってみたかった。むろんそれは車輪の再発明的なことであって、「チャリティー」という概念には今さら感さえあるが、私にとっては、乏しい懐から1回きり義援金を出して義理を果たしたことにするという、それ以上のことをするのは初めてのことだった。
受講料はいささか高めだと思った。正直、俺がインストラクターでこの受講料として、俺が管理職だったら研修費として支出をみとめるかどうか、たしょう微妙だと思った。受講生の皆様にも、それは同じ印象だったのではないかと危惧している。
しかしここで言い訳がましく申し上げるが、受講料は受講の対価ではない(ということでご勘弁いただけませんでしょうか)。そこでお金を払うことが対価ではないということ。これも自分にとっては初めてのことだった*1。対価でないとしたら何か、というと、これは贈与なのだ*2と私は思っている。
受講料は全額義援金に回す。東北地方の皆様には義援金を、受講生の皆様には日本周産期・新生児医学会公認の新生児蘇生法プロバイダー登録を、私にはインストラクターの貴重な経験を、うちの病院には、まあ、業界内での宣伝のチャンスってことになるのかな*3、学会は大喜びで新品の講習会セットを貸してくれて会場セッティングまで手伝ってくれたけど、たぶん震災までは何となく低調だった講習会普及事業がなんとなく活発になる気配を感じているのかもしれない。関係者がいろいろなものを玉突きのように贈与しあったことだった。
そういう、対価ではなくて贈与でつながるありかたというのが、自分にとっては新鮮だった。対価ではないから、フェアとかイーブンとか、相場とか、なにより得と損とか、そういう計算は上品さを欠かない程度に控えめにして、自分が出せるものを出し、受けるものを有り難く受ける。あの場はそういう場になっていたんじゃないかと、首謀者としては思う。というか、そうであって欲しいと願う。
どう考えても一番多くを受けたのは私自身なんで、それもまた申し訳なくはあるのだが。