必要に駆られてではあれ、さいきん臨床で親御さんと話すのに英語を使わなければならないことが続いた。それが意外にうまくいったものだから、我ながらすっかり調子に乗ってしまって、英語で語るのって思ったより簡単じゃないかという気さえしている。
親御さんは多くの場合、私の言うことを理解しようと努力してくださるし、私にわかるように語ろうともしてくださる。私の英語が下手でも、その下手さを理由に私とのコミュニケーションを拒絶する人はいない。まして、そうして拒絶「せざるを得ない」ことの責任を私にかぶせて優位に立とうとする人もいない。
そのような、意思を疎通させるということ自体に関する善意が、疎通した内容における善意悪意とは別のレイヤーで、存在するものらしい。通じることを前提にできない外国語での意思疎通を強いられてみると、この善意の意義が身にしみる。