70回目の長崎原爆忌を過ぎて

 長崎の被爆者も年老いて、語り部が少なくなりつつあると聞いた。8月9日の登校日には毎年被爆者の話を聞いていたのにほとんど忘れてしまった、長崎県民の風上にも置けない私としては、それについて何を言う資格もないと言われればそれまでなのだが。しかし「それまでなのだが」とみんなが言って語るのを止めた結果が現状だとも思うので、70年目の原爆忌を過ぎて、個人的な見解というのを書き付けておく。

 長崎で被爆の話を聞いて育ったことで、戦争とか平和について自分たち長崎県民は何か他者に優越する見識をもったかのような錯覚をしていたと、私は自らを省みている。東京や沖縄やその他、国内外のあちこちの土地の人たちに対して、そうは言っても君たちは通常兵器しか知らないだろうという意識をどっかで持っていた。それを他人のせいにするのは卑怯だがあえて言う。長崎の原爆に関してそういう意識を持つような教育を私は受けてきた。

 なぜ長崎の被爆体験を聞いてくれという願いが聞き届けられないのか。自分が欲しいものを手に入れる最善の方法は自分がその欲しいものを他者にくれてやることだと言う。その理屈を応用すればだ、被爆の体験を受け継ぐものであると、長崎に戦後生まれた私たちが自己規定するならば、私たちが行うべき主張は「私たちの話を聞いてくれ」ではなかったはずだ。「私たちに話を聞かせてくれ」であったはずなのだ。「あなた方のところではどうだったのですか?」という問いであったはずなのだ。

 その問いをどれほど私たちがしてきたか。私たちがそれを問うように長崎で育ってきたか。たとえば原爆資料館に他の土地の戦災についてなにか学ぶよすががあったか。たとえばワルシャワレニングラードドレスデンが、あるいは敗戦間際のベルリンが、那覇が、南京が、どういう惨禍をなめたか、私が知ったのは勤め先が夜間小児救急を断念した結果として10年来の睡眠不足から解放され、実に10年ぶりに本を読むようになってからあとのことだった。いやそういう本の向こうにある他所様のお話を持ち出すまでもない。父方の実家については8月9日は原爆投下の日だが、当時満州にいた母の実家にとっては8月9日はソ連参戦の日だ。祖父は80歳過ぎるまで健在だったのに、私は彼の苦難を聞かねばならんという意識すらなかった。

 長崎も広島も叩けば埃が出る都市だ。聞いてまわればいろいろと、自分達自身にとって耳の痛い話が出てきただろう。その耳の痛さに自分たちが耐えないで、どうして米国人があれは終戦のために仕方ないことだったと嘯くことを責められよう。そうして聞いて歩くうちには、あの戦災について異常に執念深く聞いてまわってるあいつらは何なんだという興味ももたれよう。それにしても君らずいぶん熱心だね、なにかわけがあるのかねと相手が言って、それからじゃないかね。いや実はね僕らのところではねと語り始めるのは。

 

 まあとりとめもない個人的見解ながら。

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