投稿者: yamakaw

  • ますます陛下を尊敬する

    Dead Letter Blog
    例えば米長邦夫不敬発言事件などあれこれとあるたびに、私は今上陛下に尊敬の念を強めているし、昭和天皇についても歴史をあれこれ学ぶにつけ、昔思いこんでいたほどの唾棄すべき戦争犯罪人という単純な断罪はできなくなってきた。この Dead Letter Blog さんの記事を拝読するとなお、昭和天皇をご存命のうちに陛下とお呼びしておくべきだったなと思った。この記事を拝読すればそういう気持ちになったが、今まで散々天皇の戦争責任を否定し侵略を美化し靖国参拝を訴えてきたあれこれの記事でそういう気持ちになったことはついぞ無かった。

  • 自民党は

    http://www.excite.co.jp/News/politics/20050208175619/Kyodo_20050208a136010s20050208175624.html
    自党の二君には政治的影響力がないと主張したいのだろうか。その謙虚な姿勢には好感が持てるが。

  • 南北アメリカ大陸からの麻疹根絶の経過

    麻疹は理論的には根絶可能な疾患である。発疹が特徴的で診断に困らない。ウイルスの血清型が1種類だけである。宿主はヒトだけで動物に感染しないし媒介動物もない。不顕性感染も長期の潜伏もない。その他もろもろ。既に根絶された痘瘡と同様の条件がずらりと揃っている。強力な効果を持つワクチンもある。
    麻疹を根絶した地域もある。
    http://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/mm5050a2.htm#fig1 を参照してほしい。南北アメリカ大陸から麻疹が駆逐された経過である。1990年には25万件あった麻疹の症例数が、2001年には423件である。25万件の発生数のあった1990年当時の、乳児の麻疹ワクチン接種率は80%である。この折れ線が上昇するにつれ棒グラフの症例数が激減している。
    WHOは麻疹根絶のためには95%を確保せよと言う。20人中18人接種ずみとして19人目が接種するかどうかに分岐点があるのである。独裁国家の翼賛選挙の投票率並みの、かなりシビアな数字である。でも、それを実現するほど努力した地域があるのである。麻疹が根絶可能だと立証したのである。偉大な成果だと思う。カート・ヴォネガットは20世紀最大の発明はAlcohlics Annymousであると述べているが、この麻疹根絶もけっこう良い線いってるのではないか。

    (さらに…)

  • 殺人者という語は

    我が子を殺人者にしない
    麻疹による死亡者、大多数は0~4歳、中でも0~1歳に集中するのだが、この死亡者の数だけ、その子たちに麻疹を伝染させた人が居るということだ。麻疹は伝染病である。決して穏便な事実ではない。直視したくないことかもしれない。しかし、事実ではある。
    ただ、派手な言葉を使ってぶち挙げておいて今さらこんな事を言うのは逃げている印象を与えるかも知れないが、その伝染させた人たちを責めるのは私の主意ではない。殺人者という言葉自体にその責める響きがこもるという点で、この表現は確かに拙いと思う。我が心の善くて殺さぬにはあらず。既に自分を責めているか、自分から伝染した人が亡くなったことを今は知らずにいるけれど知れば自分を責めることになるか、どちらかであるに違いない人を、得意顔して指弾するようなことはしたくない。だから今後私はオンラインでもオフラインでもこの件に関してこの言葉はつかわないつもりである。
    麻疹ワクチンを接種することが社会に対する責任だとの考えは変わらない。
    家族は社会の端緒である。もしも麻疹脳炎で障害を遺した弟に日々接する兄が、この麻疹を弟にうつしたのが自分だと知ったら、どれほど苦悩するか。この兄を責める人は誰も居るまい。しかし誰に責められなくともこの兄は生涯この事実を背負って生きていく。人間の心には生来その程度には気高い倫理性が備わっていると私は思う。(ついでながら、うつした相手が肉親ではなくとも、肉親ではないからと知らぬふりができるほど子どもは非倫理的にはできていないと、私は思う。)いたずらにそういう重荷を子どもに負わせまいという配慮もまた、社会責任の範疇に含まれることではないだろうか。
    人間の心はその荷を降ろしたくても降ろせないように出来ているというのが性善説の根拠である。降ろせない荷物だったらせめてその一端を共に担おうと言うのが、ナザレのイエスの言葉である。

  • その譬えは正しくない

    弐式沿岸警備日誌改の記事は全く正鵠を居ており、拝読して頭が下がる思いである。社交辞令ぬきにそう思います。最終段の、WEBの多様性を擁護する下りはとくにその通りです。説得力を持った記事を書くことが有用とのご指摘は反省させられます。
    「殺人者」云々は私は本当にそう思ってるわけですが、やはりこの表現を医者として使うことが妥当ではないとの批判を他サイトで頂いたことなど考えると、やっぱり麻疹に対する認識は私と世間とでは乖離が大きいようです。(死亡率1000分の1+急性脳炎発症率1000分の1の疾患を他者に伝染させて、その他者が死んでしまったら、やっぱり未必の故意のからむ殺人だと思うのですがね。過失致死にとどまるのでしょうか。と、これはトラックバック先の記事と直接は関係ない話でした。)その認識の話から根気よくやっていかなければならないのでしょう。後進に教えられました。

     思い出しても見なさい。大学受験の時、あなたの親は何て祈っていたんだろうか。おそらく「うちの子が受かりますように」と思わない親はいないだろう。合格枠がある以上「うちの子が受かる」と「うち以外の子供が落ちる」は表裏一体のことなのだが、一方「世の中に受験失敗の悲しみを味わう子供が出ませんように」「うちのアホな子供より本当に優秀な人間がこの大学に受かって世のため人のためにになりますように」と祈る親御さんはほとんどいないだろう。親ってそういうもんだ。

    この譬えだけは外してます。親心の解説としては当たってるけど、大学入試の競争で互いを蹴落とそうとする時のロジックで予防接種を考えることを肯定しているかと思います。もしもその大学が、「該当年度の受験者全体の成績をもって合格ラインを決定する」システムであったらどうでしょう。それも受験者の成績が良ければ合格ライン点数の絶対値が下がる方向で。今年はみんな凄く出来るから合格ラインを引き下げて全員合格だ!とか、今年はみんな成績悪いから受験者3万人いるけど満点とった3人しか入れねえよ!とかのラインの引き方をするとしたらどうでしょう。親心としては、みんな頑張ってくれと我が子以外の子も応援するのではないでしょうか。むしろ予防接種に関してはそのようなものだと思いますが。

  • FZ20が届いた

    FZ20が届いた。明日NICUに持って行ってみるつもり。
    うちのNICUでは赤ちゃん一人一人に面会ノートと称するアルバムを作って、写真を貼ったり親御さんや看護師が書き込んだりしている。B6版のカードとバインダーでブログやってるようなもの。保育器に一人一冊ぶら下げてある。
    そのアルバムに写真を貼りたいのだが、NICUのデジカメが最近故障してしまった。撮るにはとれるがパソコンに取り込めないから印刷ができない。仕方なくチェキを使っているがランニングコストが高いこと高いこと。
    新しいデジカメには、薄暗いNICUで赤ちゃんを驚かさないようにフラッシュを出来るだけOFFにして撮りたいので、シャッタースピードや絞りがこっちで設定できるものが欲しかった。保育器の透明な壁越しに撮りたくもあるのでピントがマニュアルで合わせられることも必要である。赤ちゃんをバックに壁のキズを鮮明に撮影しても仕方ない。三脚を立てては邪魔なので手持ち撮影でも手振れしない機能が欲しい。あれやこれやでFZ20を奮発した。ウェブサイトの情報では一応の条件を満たしているはずだ。
    今日届いた機体を弄ってみた第1印象は、良くできた機械だということ。
    しかし、付属ソフトには呆れた。インストール時に使用許諾書を読むと、パソコン1台にしかインストールするなと言う。そんなものか?自分の携帯機とNICUの据え置き機と、両方にインストールしておきたいんだけどな。じゃんじゃん出先の至る所にインストールしまくって我が社のカメラで写真撮りまくって下さいってのが商売のありかたじゃあないかと思うが。主人公はカメラだろうに。

  • 我が子を殺人者にしない

    ちりんのblog
    予防接種についての記事、おおむね賛成。
    とくに麻疹の予防接種をわが子に受けさせるのは、我が子を麻疹に罹患させないためではない。
    それは2番目の目的である。勘違いしてはいけない。
    1番目の目的は、「我が子を殺人者にしないこと」である。
    我が子が他人様の子を殺してしまうことがないようにというのが、麻疹ワクチンの本来の目的であると、私は考えている。
    我が子に拳銃やバタフライナイフを持たせないのと同様、我が子に麻疹ウイルスを持たせてはいけないと思う。世の中には通り魔も居るし丸腰では危険だと、我が子が学校に拳銃持参で行くのを黙認する親があろうか。
    何遍も繰り返しているような気がするが、「はしか」は死ぬ病気である。
    麻疹で死んだ子がいれば、その子に麻疹をうつして殺した人があるのである。
    ついでに、このリンク元の子育てエッセイは、自分では医者や製薬企業やなんか全く相手にしない態度を誇示しておいて、後で付け加えた注釈では専門家に聞けとのこと。どういう「専門家」を想定しておられるのかをこそ尋ねてみたい気もする。

  • 昭和天皇はA級戦犯の靖国合祀に反対されておられた由

    Dead Letter Blog
    かつては陛下も参拝しておられたが、陛下のご意向に逆らうA級戦犯の合祀以降は参拝されなくなった由。そういう事情であったのかと、驚いたが、しかしおおいにあり得る話だとも思った。

  • 紋切り型

    紋切り型の言い回しというのがいろいろある。たとえば列車は電車でもシュッポッポ。シュッポシュッポ言いながら走ってる汽車って実物みたことあります?
    私が最もよく耳にする紋切り型は、聴診器を当てられた赤ちゃんに向かって親御さんが「冷たいねー」と仰るもの。今どき昔ながらの冷たい金属聴診器なんて使ってる小児科医居るのか?と思う。私のはリットマン社の小児科用、もちろん「non-chill」加工のされた製品である。冷たい聴診器が冷たいと糾弾されていた時代よりは余程快適なはずである。常に暖めてるし。
    根の深い紋切り型もある。障害児が可哀想かどうかに関わるもの。
    障害があるから可哀想、というのは紋切り型。
    ビルゲイツも広汎性発達障害であったから自閉症だからって可哀想とは限らないというのも、(さるサイトでそう主張してある記事を読んできたところだけれど)残念ながら、自閉症児の親としては紋切り型に聞こえる。障害があるから可哀想というよりは余程高水準だが、もう聞き飽きました。この言説はあくまでも、障害があるから可哀想という一番低次元の言説に対抗するカウンターパンチとしての存在にとどまって欲しい。独立して存在意義を求める言説にならないで欲しい。
    うちの子はビルゲイツでもアインシュタインでもないもの。実際に、こういう特異的な能力を持つ自閉症の人って自閉症者全体の中では少数派である。特にアメリカの映画では自閉症者は特異的な能力を持つことになってるが、あれは認識がエキセントリックに過ぎる。「レインマン」でカードの並びを全部記憶したりとか、「マーキュリー・ライジング」で国家機密レベルの暗号を一目で解読したりとか、そういう特殊能力を一般の自閉症児者に期待されても困る。
    優れた能力がある障害児の例を挙げて障害があるからって可哀想じゃないと言われると、何の取り柄も無さそうに見えるうちの息子はやっぱり可哀想なんかなと思ってしまう。
    障害を補って余りある能力を持つ人もあるから障害即可哀想ではないというのは、もう障害児の親としては聞き飽きて余りある紋切り型である。障害があるから可哀想と言われるよりは遙かに良いですよ。特定の分野に才能があってそれを生かしてゆく人生の幸福さも分かります。特殊な才能があったらおおいにそれを生かしてゆかれたら宜しい。祝福します。でもね、冷徹な事実だけど、障害児も障害のない人同様、取り柄のない平凡人であることが多いのよ。障害さえなければ平凡な人生を送る幸せを享受できるのに、障害があったら特殊能力を持たないと可哀想扱いってのは、ちょっと差別的な考え方じゃないかと思う。
    それと、これも冷徹な事実だけど、高機能自閉者はかなり「可哀想」な人生を送っている。
    ビルゲイツ氏の社会性の無さはマイクロソフト社が世間にどれだけ波風立ててるかをみても一目瞭然だけれども、彼にプログラミングの才能がなかったら、いったい彼はどういう人生を送っていただろう。想像してみて下さい。今のマイクロソフト社のように振る舞う個人を。羨ましい人生を送っているだろうか。マイクロソフトの社長ではなかったビルゲイツ氏と立場を変わってみたいと思う人、だれか居ますか?
    高機能自閉者が就労に成功する率は中機能自閉者(幾分かの精神発達遅滞を伴う)よりも低いと聞いている。その原因の多くは周囲の理解の無さにある。彼らの抱える問題を周囲の者が(あるときは自分自身でさえ)理解できないことによる対処の不完全さ。頭は良いはずなのに何故いちいち常識を外れた言動ばかりするんだという冷たい視線。書き出したらキリがないけど(私の自伝を聞きたい?)、ビルゲイツ氏でもアインシュタイン博士でも無かった大多数の広汎性発達障害の子には、それなりの対処をしないと、やっぱり可哀想なんです。

  • 小児内科の記事から

    「小児内科」という、我々の業界筋のけっこうハイグレードな月刊誌に、子どもの事故予防情報センターの山中龍宏先生が「子どもたちを事故から守る」という連載をされておられる。今月号が最終回であったのだが、先生曰く「今回の連載を書くにあたり、取り上げる材料には一つも困らなかった」というのがなんともやりきれない本邦の現実である。さらに一節を引用する。

    ・・・事故予防で問題なのは医学の領域で事故予防そのものへの取り組みがないことにある。
    たとえ話にしてみると、主に医学が関わるべき事故予防という1000mの氷壁がそそり立っている。その垂直の氷壁を一歩一歩よじ登って、頂上をめざさねばならない。しかし、現在の小児の事故予防として行われていることは、暖かいふもとの青い芝生の上で、「事故予防」という歌に合わせて皆でフォークダンスをしているように思える。その歌の歌詞には「注意しましょう」、「気をつけましょう」、「目を離さないようにしましょう」という言葉がちりばめられ、皆で踊っているそばには「事故予防センター」という名前の展示ケースが設置されている。この状態を続けていては事故を予防することはできない。

    小児の事故予防に尽力してこられた先達の言葉だけに、胸に響く。小児の事故死を報道する記事を目にして私は随分と嘆息してきたが、しかし小児科医の私が小児の事故死に嘆息することは、山中先生に言わせればフォークダンスの品評会をしているに過ぎないのかも知れない。それを恥じて事故防止云々と声を上げても、それは観る阿呆から踊る阿呆に変わっただけのことなのだろう。
    なにせ、0歳を過ぎたら本邦の小児の死因のトップは「不慮の事故」なのである。白血病よりも心臓病よりも、何よりも子どもは事故で死んでいるのである。しかしいったい、小児の事故予防を小児の脳死移植よりも喫緊の問題だと認識している大人がどれくらい居るだろう。小児科医のなかにすら少数派かも知れない。