カテゴリー: 新生児医療

  • 東京に出張

    出張でいま新宿にいる。東京駅はいつ見ても小さい。札幌の時計台もたいがいだけど東京駅もよい勝負だと思う。新幹線を降りて、八重洲口から丸の内口ってんですか、うええ駅を突っ切って歩かされるのかよと、京都駅の烏丸口から八条口まで歩かされる感覚でうんざりしたのだけれども、歩いてみると拍子抜けするくらいあっという間で、この駅が本当に本邦の首都の中央駅なのかと、ちょっと疑問になったりもした。まあ、この駅があんまり小さかったからこそ、上野がおいらの心の駅だったりする人々も出てきたんだろうけれども。

    地下鉄に乗りながら、いつ来ても東京は仮普請だなと思う。これで完成しましたという思い切りが感じられない。今のところはとりあえずここまでという思想が、東京のデザインに通底している。であればこそ発展が続くのかもしれないけれども、向こう1000年くらいこのままで行きます!という腰の据わり方を見せてもいいんじゃないかとも思う。

  • 新生児蘇生法の講習会を公募で行う

    新生児蘇生法の講習会を続けている。受講者は公募する。公募にこだわっている。

    むろん公募で講習会を開くほどの技量が自分にあるのかどうかとは疑問である。たぶん、お金を頂くにはお粗末なんだろうと思う。震災復興支援にかこつけて図々しくも有料・公募で続けている。

    有料ったって全額義援金に回してるんだから私の懐には一文も入らない。通信費やなんかで病院からは雑費が持ち出しである。応援のインストラクターも平然と手弁当で呼んでいる。そういうことにお金を回し始めたら、とたんに夏の日の氷みたいに浄財が減っていく。

    公募にこだわるのは昔の自分への落とし前である。公募の講習会が開催されていないと、零細な施設のスタッフは講習会に縁が持てない。学会が新生児蘇生法の普及事業を始めたころ、いったいどこでそんな講習が受けられるのやらと、途方に暮れた記憶がある。この講習を受けたスタッフが立ち会っていないと無過失補償から外されることになるんだろうとは予想した。しかしどうやって講習を受けろというのだと、どこにそんなインストラクターが居るんだと思った。

    我々は縁をたどってなんとか講習会を受講できた。しかしそれは場末ながらもNICUであったからこその縁だった。我々よりもさらに零細な施設では、おそらく今でも当時の我々のポジションにいる。

    そういう、公募でないと講習会を受講する機会が無いような、そういう施設の人たちにぜひ受講して頂きたいと思う。

  • NICUでの看護師さんの教育について

    某所でNICUでの「看護師教育」について論じられていたので。直接議論に加わってもよかったのだろうけども、まあ、覚え書き程度以上の意見も根拠も持ち合わせていないので、傍流でつぶやくだけにしておく。

    ちなみに私は看護師に関してはたいへん恵まれているので、ありがたく感謝しつつおおいに自慢させていただく。およそ積極果敢さにおいて私のNICUの看護師たちを超える看護師はよそのNICUにはそうそう居ないと思う。それはエドモンド・ハミルトン著の「スターウルフ」シリーズにおける地球の立ち位置に似ている。豊かな資源に恵まれた他の惑星とは違って「人間」しか資源のない地球。そのためにいろいろな分野で優秀な人材(いや、この熟語はほんらい人財と書くべきだ)が銀河系の各地へ出て行っている。私のNICUにも資源はない。規模は小さいし、財源にゆとりもないし、医師を確保することにすら汲々としている。小児外科も心臓血管外科もない。うちから看護師のガッツが抜けたら平凡なNICUでしかなくなってしまう。

    私のNICUは常に京都で最後まで外部に空床を開けているNICUだ。最後の1床はつねにうちが開けている。それは私たちの仕事が暇だからではない。完全に否定はしないけど、それだけではないと思う。ガッツの要素が常にある。とことん空床を開けるのがうちの役割だと、看護師の指導層が認識している。*1

    「教育」というとなんだか偉そうに聞こえる。指導者口調の人って自分が一人前であることを前提にしてるから、指導者口調になった時点で自動的に成長が止まることになっている。自分はもう成長しなくていいという態度の人をどういうふうに見習えば成長の糧になるんだか、私にはよく分からない。

    もうひとつ、指導者口調の人って基本的に無責任だから、自分の担当の仕事を「指導」してもらうのってあんまり気分が楽にならない。むろん責任を問われない仕事には充実感も成長もなかろうと思うが、しかしあまりに指導者口調を徹底されると、なんであなたの判断の結果の責任まで実行者の私に負わせるんだという憤慨が湧いてくる。

    だからもう教育とか指導とかあんまり言わない方がいいと思う。というか、彼らを育てるべき下段の人とかお荷物とか思ってはいけないと思う。新しい人には新しい人にしか果たせない役割があって、彼らがいてこそうちの熟練層のガッツが保たれてるんじゃないかと思う。

    もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
    そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
    これは私の経験的確信である。
    それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。

    *1:むろんこう言ったからって他の施設を見下しているわけではない。各々に果たすべき役割がある。たまたまうちのNICUが地域医療に占めるポジションが、使命感を燃やしやすいポジションだってことだ。

  • 新生児蘇生法講習の修了登録の費用のこと

    日本周産期新生児医学会の新生児蘇生法講習会を受講した場合、受講そのものには学会はお金を取らないのだが、修了認定にはお金を取る。8000円で5年間有効。そのお金を病院負担にできないかと画策している。

    「当院の周産期病棟スタッフは全員、日本周産期新生児医学会の公認する新生児蘇生法講習を受講し、修了認定を得ております」と、さらっと病院のウェブサイトに書けたら、そうとうの宣伝効果ではないかと思う。というか、そういう点を評価してくださる妊婦さんにこそ、当院でお産していただきたいものだと思う。アメニティも大事だし、マタニティヨガもハーブも結構だけど、そういうことに目を奪われる人ばっかり集まってきては、なにかと詰まらないことで苦労が多くなるような気がする。

    しかし今のところ、それをキャッチコピーにする周産期施設はあんまり多くなさそうにも思う。ということはだ、今のうちにそれを謳えたら、それはうちの病院の大きな売り文句になるだろうということだ。今のうちに限る商機なのだろうけれども。何年かすれば極当然の、陳腐なことになるだろう。そのころには、各周産期施設の人事担当者は目の色を変えて、修了者を雇おうと走り回ることになるだろう。

    個人に与えられる資格なんだから、個人が出すのが当たり前と、先日知り合いの開業の先生にご高見を頂いた。看護師免許だって自前だろうに。そこに金を出し始めたらボイラーマンの資格だって病院から出すことになるんじゃないか?と。なるほどそれが経営者の感覚なのかと思った。それも道理かもなと思う。その一方で、他院の経営者がまだそういう考えでいるってことは、うちが一歩抜け出すチャンスだってことだとも、思ったりもする。

    一方、看護師や助産師たちが言うには8000円は高いとのこと。受講すれば知識や技術は身につけられるし、修了認定を受ける受けないは実力には関係なかろうと言う。それも道理かもしれない。じっさい、私の前任の部長はそう言って、独自の新生児蘇生法講習を行っている。金を出してくれと言う私の稟議書を見ても、あんまり判をつくのに乗り気ではなさそうだ。

    でもまあ、前部長の講習は学会の規定に縛られないからと、大人数を寄せて行っている。道具を与えていろいろやっているなかを巡回する形で指導するんだそうだ。助産師学校の何十人かのクラスを一気に指導するにはそうする手もあるんだろう。まあ、それでも受講しないよりは遙かにマシなんだろうけれど、なんだか、お手盛りは堕落の第一歩という実例のような気もする。私の父は経理が仕事で、他者が監査に入ることの重要さとか子どもの頃に聞いて育ったから、なおのことそう思う。

    個人に与えられるライセンスなんだけど、みんながそのライセンスをもってるってことは施設としても胸を張れることなんだから、折半というのが世間の相場かも知れない。第三者的な目で見たらそうなんだろうなと思う。

    しかし、そこを気前よく全額出すのがこういうときの肝心なところじゃないかとも思う。看護師と病院が4000円ずつとか、いや6000円と2000円だとか、ちまちました値引き合いをしていては、なるほどこの病院はそれだけの額しか出す気が無いんだなとの評価をうけてしまう。世間様とか、裁判長からね。2000円とか4000円とか6000円の補助には、各々2000円とか4000円とか6000円の意義しかないけれど、よっしゃと全額ポンと出す8000円の補助には、心意気で増幅される8000円以上の意義が生じるんじゃないかと思うんだが。

  • 動脈管結紮術

    YouTube – Patent Ductus Arteriusus (PDA) performed on Premature Baby – Pediatric Heart Surgery

    未熟児の動脈管結紮術の一部始終。最初に見たときはいつ動脈管を閉じたんだかよく分からなかった。こんなふうにやってるんだな。

  • 今のうちに

    最近熱心にやっている、新生児蘇生法の講習会について、昨日は機会を得て発表してきた。

    京都市北部(だいたい祇園から北)を中心に医師同乗の新生児救急搬送をやらせていただいている*1。この2年間の運行記録をみると市内ならだいたい30分以内で到達している。60分あれば木津川市まで行ってるし、高速に乗れば70分で大阪市まで行ける(これは送り出し搬送だけれども)。この速度をもって、産科の先生方におかれましては当院にお電話一本頂ければあとは何とかしますと公言していたんだけれども、今後もそれでよいのかと、昨日は論じてきた。*2

    これからの時代はやっぱりそれではいかんだろうと、昨日は申し上げてきた。むろんお呼びいただくのは構わないが、現在もとめられている新生児蘇生法の水準は出生後30秒刻みの評価と処置のサイクルを回し、最短60秒でボスミンの投与タイミングがやってくる。むろん確実な気道確保はそれより前だ。うちが救急車で駆けつけるのを無手でお待ちいただいては間に合いそうにない。

    お産は必ずしも100%安全というわけではないということは、じわじわと人口に膾炙しつつある。「何かあるかも知れないと言うことは分かりました。覚悟します。しかしその『何か』に対する対策はどのようになさっておられますか」と、面と向かって問われる時代がじきにやってくる。それは理の当然というか、ものごとはだいたいそういう風に進むものだろうと思うし、安全神話によりかかって無手だったことのツケを盛大に払わされている実例がまだ福島で地域の皆様や関係者ご一同に多大なご苦労を強いているなかで、時代は災厄への対策に関する説明責任をさらに明確に求める方向へさらに大きく舵を切ってゆくのだろうとも思う。

    残念なことだが、すべての分娩時仮死がいわゆる「適切な処置」を行えば救えるというものではない。それはこの十年あまりの臨床経験でつくづく身にしみてきた。脳性麻痺が生じたからには適切な処置がなされなかったに違いないとする、医療の現場と言うよりは法廷やその周辺でご活躍の方々が声高に論じられる議論は、私は行き過ぎだと思う。

    しかし、だ。そういう一部の方々の理想とはまた違った次元で、「適切な処置」の体系が存在するものだと思う。存在しなかったら我々新生児科医や産科医は何をもって自分たちをプロフェッショナルと呼ぶのだ? 患者さんに「何かあったら」と聞かれた際に、おそらくご心配の「何か」の具体的内容はこれこれで、それに対する対策としてはこれこれを準備しています、とお答えするときの、その答えの業界的な合格水準というものがあるはずだ。

    「何か」の多くを分娩時仮死が占めることだろうと思う。その分娩時仮死に対しての、これからの業界標準として、「標準的な新生児蘇生法の訓練を受けたスタッフが赤ちゃん担当として立ち会い、実際に仮死が生じた場合には迅速に蘇生法を開始いたします」という答えができればよいのだろうと思う。*3繰り返すが、それをやればすべての新生児死亡や脳性麻痺が生じなくなるというわけではない。減りはするんだろうというのがせいぜいだ。それでも、だ。「何かあったら」と聞かれて黙り込むかごまかすかしかできない、無手の状態よりは、およそ説明責任の観点から見て、大きい進歩だと思う。

    面と向かって聞かれる時代までの猶予を私は5年ほどかと見ているのだが、甘いだろうか。このブログで読んだし聞いてみるってことはご勘弁いただきたいが。なにさま、まだ口に出して言われないうちに、なるだけこの日本版新生児蘇生法の講習を受けて終了登録したスタッフを増やしておきたいと思う。次の地震津波がこなういうちに、だ。

    *1:市民の皆様には道を譲っていただきありがとうございます。

    *2:まあ自分らが公言してきたことに関する討論は自分らの内部でやるものかもしれんがね。それをあえてお天道様のもとでやるってことにも幾ばくかの意義はあろうと思った。

    *3:残念ながら一部の自然志向の施設にあっては「自然におきることなんだから何もしません。諦めてください」と答える施設もあるんだろうけど、そういう施設はできればお考えを改めていただきたい。

  • しんどいときには

    状況が悪いときには、せめて、その状況の悪さを正確に把握しておくこと。受け持ち患者の病状が悪い時とか、どうにかしてこの悪い時をやり過ごしたいと思うあまりに、悪い情報をシャットダウンしたり忘却したりしがちなんだけれども、それをやると、状況が好転したときにどれほど好転したのかがよく分からなくなって、状況にかかわらず延々と自分だけ悪い時を過ごし続ける羽目になる。よくなったときの感動を心の底から味わうのは悪い時をじゅうぶん悪く過ごした者だけの特権だと思う。

  • 当事者って誰?

    ヒヤリ・ハット報告というものが病院にはあって、ネーミングセンスのなさはジャニーズ事務所を笑えないなと思うのだが、まあそれはともかくも、齟齬があったが大事には至らなかった事例を拾い集めて分析することで、破滅的な事故を防ぐというものである。

    ことの性質からして、できるだけたくさんの事例を集めることが優先されるべきものだと、私は思うのだが違うんだろうか。

    何か私が間違ってるのかな?といつも違和感を憶えるのだが、ヒヤリ・ハット報告において一番根掘り葉掘り聞かれるのが、当事者の属性である。当事者は誰?職種は何?職歴何年何ヶ月(何ヶ月、まで勘定して記載しないと受け付けられない・・・ええと俺が国試に受かったのは何月だったっけか)?そのうちうちで何年何ヶ月勤務?そのとき疲れてた?なんだかんだと。オンラインの入力システムは何ページにもわたって、「それを報告する君は誰なの?本件は誰のせいなの?」と聞いてくる。職歴が何年まではよいとして、何ヶ月?を入力する辺りで嫌になってくる。そのとき疲れてた?とか、ちゃんと寝てた?とか聞かれると、おいおいまだ俺のせいだと決まったわけじゃなかろうよと不愉快になってくる。

    そもそも当事者って誰なのよと思う。報告者と同じなのだろうか。それならヒヤリ・ハット報告システムにログインした時点で分かることだろうに。匿名報告も受け付けるためかもしれんが、職歴何年何ヶ月の医師とか、簡単に個人を特定できるだろうから、このような個人の属性を根掘り葉掘り聞いた時点でもう匿名も実名もなくなってるだろうに。

    しかし記載するのは必ず当事者に限るのだとしたら、それは事故報告書であってヒヤリ・ハット報告ではない。ヒヤリ・ハット報告なら、傍で見ていた立場であってもあれは危ないと思ったら書くってのが本当だろう。家の窓から火が出ているのを通りがかりに気づいて119番通報したときに、「君って燃えるもの見たらわくわくする?」とか消防署は聞かないだろう。隣家から助けてくれと悲鳴が上がっていると警察に届けた際に、「隣の家に恨みはありますか」とか聞かれたら、届けた俺をいきなり犯人扱いかよと不愉快になるものだろう。黙って見ないことにしておく方がよいってことになるだろう。

    それにもまして、ヒヤリ・ハット報告で本当に集めなければならない事例ってのは、「まずいことが起きたけれど、その事例の当事者が自分だとは誰も思わない」ような事例なのではないかと私は思うのだがね。センターとショートとセカンドがお見合いする真ん中にぽてんと落ちるみたいな事例。誰もその事例についてヒヤリ・ハット報告を書くべきなのが自分だと思わないような事例。そういうのを放っておくことが大事件につながるんだろうにね。

    紙に記入して出してた時代なら、こういう理不尽な質問項目は白紙で出していたのだが、コンピューター処理だと一項目でも空欄があったら登録できない。いろいろと、やれやれである。

  • ベテラン

    新生児蘇生法講習会の、自分はインストラクターってことになってたんだけど、受講者にはベテランの助産師さんが多かった。実習の手つきをみているだけで、数知れずのお産をとってきたんだろうということはわかった。

    歴史的にそういうシチュエーションが実在したかどうかは知らないが、陸軍の若い大尉あたりが、山岳遊撃隊でも組織しようとして、熟練したマタギを相手に銃の撃ち方とか雪中行軍の方法とか講義をしているような、そういう場にいるような感じがした。

  • 震災復興支援新生児蘇生法講習会1回目終了 対価と贈与について

    1回目が終了した。トーキング・ハイから回復するのに1日かかった。

    受講生からはしっかり受講料をいただいて、義援金に回す手配をした。なにさま、手持ちのお金を拠出するばかりではなく、復興支援の事業が義援金を増幅するようなシステムを作ってみたかった。むろんそれは車輪の再発明的なことであって、「チャリティー」という概念には今さら感さえあるが、私にとっては、乏しい懐から1回きり義援金を出して義理を果たしたことにするという、それ以上のことをするのは初めてのことだった。

    受講料はいささか高めだと思った。正直、俺がインストラクターでこの受講料として、俺が管理職だったら研修費として支出をみとめるかどうか、たしょう微妙だと思った。受講生の皆様にも、それは同じ印象だったのではないかと危惧している。

    しかしここで言い訳がましく申し上げるが、受講料は受講の対価ではない(ということでご勘弁いただけませんでしょうか)。そこでお金を払うことが対価ではないということ。これも自分にとっては初めてのことだった*1。対価でないとしたら何か、というと、これは贈与なのだ*2と私は思っている。

    受講料は全額義援金に回す。東北地方の皆様には義援金を、受講生の皆様には日本周産期・新生児医学会公認の新生児蘇生法プロバイダー登録を、私にはインストラクターの貴重な経験を、うちの病院には、まあ、業界内での宣伝のチャンスってことになるのかな*3、学会は大喜びで新品の講習会セットを貸してくれて会場セッティングまで手伝ってくれたけど、たぶん震災までは何となく低調だった講習会普及事業がなんとなく活発になる気配を感じているのかもしれない。関係者がいろいろなものを玉突きのように贈与しあったことだった。

    そういう、対価ではなくて贈与でつながるありかたというのが、自分にとっては新鮮だった。対価ではないから、フェアとかイーブンとか、相場とか、なにより得と損とか、そういう計算は上品さを欠かない程度に控えめにして、自分が出せるものを出し、受けるものを有り難く受ける。あの場はそういう場になっていたんじゃないかと、首謀者としては思う。というか、そうであって欲しいと願う。

    どう考えても一番多くを受けたのは私自身なんで、それもまた申し訳なくはあるのだが。

    *1:チャリティーが初めてなんだから、まあ、初めてなのが当然だ。でなきゃ詐欺を働いたことがあるってことになる。

    *2:再々で済みませんがそういうことでご勘弁ください

    *3:まじめな話をすれば、うちの病院は、敗戦直後に占領軍が島津家の別荘を接収して、米国のキリスト教会からの献金で病院にしたのが始まりである。政教分離の原則に照らしてまずくないかそれ?ということはこの際おいとくとしても、そもそもの成り立ちが義援金で立ち上がった病院なんだから、こういうときには恩返しをしないと罰が当たる。