カテゴリー: 新生児医療

  • 緊急母体搬送

    緊急母体搬送の依頼があった。京都中のNICUに空床がある中でうちに声を掛けて頂いたのが嬉しい。

    11月末から連続して何人か赤ちゃんをお引き受けしたのだが、たいへん幸いなことに皆さんどんどん治って行かれる。いまだに空床は多い。病院経営層は苦虫かもしれないが、思うぞんぶん紹介を受けられて、新生児科医としては幸せな状況だと思う。

    場末場末と卑下してはいるが、外科的合併症のない早産体出生体重の切迫早産だと、うちは総合周産期母子医療センターとならんで受け入れ先の第一か第二候補にあがるべきポジションにあると自負している。大学には大学の役割があるから、大学よりは先にうちが引き受けるのが地域のリソースの有効利用だと思う。

  • この冬は長野へ行く

    新生児呼吸療法モニタリングフォーラム(信州フォーラム)

    参加申し込み終了。こども病院見学のオプションつき。

    毎年この大町市で行われるんだが、地元にとってはとんでもない規模の地域振興なのではなかろうかと思う。この3日間はおそらく同地の宿泊施設の大半が新生児医療関係者(医師やら看護師やら理学療法士やらメーカーやら)で埋まる。日帰りなんぞできる範囲に業界関係者がそう多く住んでいるとは思えない。参加者の大半が昼夜缶詰で新生児医療の話をして、朝昼夜と地元で飯を食って温泉にもつかって、土産物を買って帰る。タクシーにも乗るだろう。

    ついでにスキーやなんかして帰る人も居るんだろうと思う。長崎生まれの私には無縁だが。

    自転車乗りには、有名な「やまめ工房」がある近所じゃないかな。でも、さすがにロードを担いでいく気がおきる季節ではない。

    うちは来春から人員が減るので、たぶんこの機会を逃したらあと数年は行けないだろうと思う。今年は行かなければと思って受け付け開始1時間後に登録終了だ。

    数年後にはまた行けるようになってなければ店をたたむ頃合いと言うことになっているだろうな。

    こういう会合に複数の人間を出せれば幸せなんだろうと思う。うちの陣容では一人が精一杯だ。旅館も一人部屋を確保した。確保してしまって考えたのだが、こういう機会に日本のどこかのこれまで全く縁のなかった同業者と、相部屋になっていろいろ話すというのも良いことではないかと思う。これまでの見知った相手と旧交を温めるだけでは寂しい。というので部屋割は主催者がランダムに割り振るってのも面白いかも、と提案してみたりする。

    とりあえず名刺をたくさん持って行って、ぜんぶ配りきるのを目標にしてみるというのはどうだろう。うん。それはいいかも。

    本日からウェブサイトで受け付け開始です。業界関係者の皆様はお早めに。

  • 新入院、出世しそうなこと、など

    入院少ないなとか言ってたらまた少しずつ混んできた。ようやく、外へ提示する空床数が世間並みになった。今まで怠けていたのが世間並みに働くようになったというのではなく、うちは内部留保をつけず空床をそのまま外へ出しているので、積極的なだけなのだ、と胸を張っておこう。

    もうすぐ小児科部長を拝命しそうな気配だ。何とはなく小児科の運営やなんかについて上層部から話を振られるようになった。いまはNICU部長だけだけど、そうなるとNICUと一般小児科とを総括する立場になる。大丈夫なのかと自分でも思う。なんとなく、出世をきっかけにうつ病になる人が一定数以上あるというのが分かる気がするような心持ちがする。

    宮本常一先生の本を読むと、昔のお百姓は息子が一人前になったら壮年期にさっさと隠居してしまって、以降は公務から解放されて新しい畑の開墾とかほんとうに自分のやりたいことを気兼ねなくやったんだそうだ。当主ってのは偉くはあるが、じつのところ地域共同体の仕事にかり出されることが多くてあんまり自家の仕事に専念できなかったらしい。医者も管理業務の繁忙なところは若手がひととおり仕事を覚えたらさっそく譲って、元部長とか顧問とかいった形でじっくり臨床だけに打ち込むってのが、よい人生設計なのかも知れないと思う。病棟や病院あるいは地域全体を見渡しての仕事を覚えることができるから、若いうちに管理職ってのもけっして悪くない。むしろそういうこともじっくり覚えて年功を積んだうえで、自由自在な立場から臨床をじっくりやるというのが理想かも知れない。むかしの隠居が長男にあとを継がせて次男以下をつれて隠居所に移り、次男以下も育てていったように、若い人のお世話も管理業務から解放された立場の「老師」として行うのがよろしいのかも。ということでさっさと後継者を捜そうと今から考えている。

    今日はけっこう外来も混んだ。外来をやってて難しい症例(病気そのものが難しかったり社会的状況がややこしかったり)に当たると、部長になったらこういう症例は自分が引き受けねばならんのだなと思う。ほんとに大丈夫なのかな。

  • こういうお産のレスキューを求められたらどうしよう、とか思った

    asahi.com : 医師・助産師頼らず自宅出産 朝来の大森さん夫婦 – マイタウン兵庫

    何と申し上げたらよいものやら。まずは母児とも無事で何よりとは申し上げよう。そこから出発しないと、なんだか自宅出産がうまくいったのが悔しいみたいな論調になっても嫌だし。

    何回立ち会ってもお産は怖い。怖いお産に立ち会うのが仕事なんだから当然かもしれないが、十年以上やってて未だに緊張が抜けない。一つ一つのお産が無事に済むということが、一つ一つ奇跡だとさえ思う。それは私らが立ち会うようなハイリスク分娩が無事に終わったから奇跡だというのではなく、通常のお産すら、奇跡なのだという気がする。この世に生きている人がみな、あの過程を経て生まれてきているのだと思うと、多少、気が遠くなる。

    通常の分娩すらひとつひとつ奇跡で、あまり「いいお産」とか言わず謙虚に圧倒されておくのがその正しい味わい方なんじゃないかと、私など思うのだが、価値観はいろいろなんだから分娩に臨む態度もいろいろあっていいんだろうとも思う。

    それでも、やっぱり外してはいけない人の道というのもあるだろう。分娩は母子ともに危険にさらされるものだけど、死亡率一つとっても子の方が高い。ハイリスク分娩は相当の割合で事前に予測できるものなんだから、母の意向一つでその予測の機会を子から奪うってのは私には納得できない。母の納得と母の危険を天秤にかけるのは、判断力を備えた成人のやることなんだしということで愚行権の範疇かもしれないが、母の納得と子の危険では天秤に載せられないんじゃないかと思う。

  • 入院2件

    入院がないようなことを昨日書いてから程なく、若手がNICUから戻ってきて一人入院させましたと報告してきた。人工換気。

    それから夜間にも一人入院。

    それでも空床はびくともしない。まだ困らない。

  • NICUが閑散としている

    昼間からブログの更新なんてしていて、まあそれは今日の午後は週休だからってこともあるけど、読者諸賢にはご賢察の通り、たいへんに暇である。

    入院が長期になる極低出生体重児が入院しない。切迫早産で母体搬送で来られる方々もことごとく産科管理が奏功して危機を切り抜けてゆかれる。ときに正期産児の新生児搬送依頼もあるが、正期産児はそれほど入院が長くならない。さっさと元気になって退院してゆく。

    それは大変にめでたいことなんだろうと思う。反語や皮肉抜きで。もとよりトラブルシューティングを生業としているものにとって、トラブルが未然に防がれているのは理想的状態だし、それで自分らの仕事が無くなっていったとしても、それはそれとして淡々と受け止める話なんだろうと思う。

    京都のNICUの空床状況を見ても、どの施設もいつになく多くの空床数を提示している。どこも閑散としているのだろうと思う。むろんどこもかしこも空床0のときに自分のところだけ空床1と提示するのと、どこもかしこも空床1とか2とかのときに自分のところも空床1というのとでは、必要とする度胸の程度が違うだろうとは思うけれど。私らの施設が空床3でコメント欄に「超未熟児歓迎」云々と入れているのだから、他の施設にはそうそう手に余る赤ちゃんをお願いすることはないはずだし。

    少子化は進んでいるがそう簡単にNICUが余るわけがなし、とは思うのだけれど、あるいは奈良や滋賀でもNICUの整備が進んで京都へ越境してくる搬送が少なくなっているのかもしれず、あるいは妊婦健診の公費負担の回数が増えたためかもしれず、なにさま現在のところは新生児以外の一般小児科の仕事をしながら、忙しいときには読めない文献など読みながら、状況の推移を見守っている。

    もちろんみんな元気にトラブルなく分娩にいたり、NICUなんぞとは縁無く育ってゆかれるのが最善ではあるのだ。私らが他に職を探さなければならなくなっても、世の中全体としては良いことなんだと思う。

  • がき大将を目指さない

    手元に文献がないのであやふやな記憶かもしれない。バージョンがたくさんある作品ではあるし。なにさま、自分の記憶によれば、のび太が将来の夢を聞かれて「がき大将」と答えるエピソードがあったはず。

    どういう手配でか、大人になったのび太が近所の子供たちをあつめて「がき大将」として振る舞うようになったが、その姿を陰から見ていた子供ののび太が、そのあまりのみっともなさに耐えきれず、大人ののび太を叱りつけてやめさせるという落ちだった。私の記憶では、ですが。あるいは他のエピソードと入れ子になっているかも。でもまあ、そういう話があったと言うことにしてください。

    さて。

    うちのNICUの今後を、どういう方針を目指していくのかと考えた際に、今の理想を元に考える将来像ってのは、ひょっとして「がき大将」なのではないかと思ったりしている。

    今の時点で羽振りの良い他施設を見て、ああなりたいなと思うのは、ジャイアンをうらやましく思うのび太と根が同じだったりしないかと。

    どうあっても、今の高額な費用のかかる医療制度が、このまま維持できる訳がないと思う。どこかで大幅な再編があるんだろうとは思う。

    その大幅な再編が大規模施設への集約という形をとるかどうかは分からないが。私見では、大規模施設への集約というのは、大和を沈められた旧海軍が大和よりもでかい戦艦を作ろうともくろむような話だと思うのだが。

    旧軍の話を始めると止まらないから本題に戻ると、よりよい形の新生児医療と、そこから続く小児医療を目指したいし、よい形の医療ができあがった際にそこに自分の率いる施設を参加させていたいと思う。

    しかしそれは子供の集団がさらによい子の集団を目指す訳ではなく、子供はいずれか大人にならなければならず、今の医療も今のままでは継続不可能なのであって、いずれかの時点で質的な変容を迫られることになろう。

    その後の自分たちの姿が、現在の時点における羽振りの良い姿の模倣にとどまっていては、たぶんそれは「がき大将」的な姿なのであって、もしその姿を今の自分がみたらかなり恥ずかしく思うだろう。

    しかし今の自分の想像力には、のび太が将来の夢を聞かれたときほどにも、成長したNICUの理想像というのが描き難い。それではいけないのだけれど。

    まあ、自分のことを差し置いて他の批判をすれば、今さら「がき大将」的な振る舞いをしている隣国があるよね、とか思う。おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの。現代はそういう振る舞いが適切な時代ではなくなったのに。あるいは本当に跡継ぎ息子を「大将」と呼んじゃったりする国もあって、実は馬鹿にされてるんじゃないかと跡継ぎの彼も考えてみた方がいいんじゃないかと思ったりする。

  • 日本がものづくりの国だなんて誰がほざいた戯言なのか 

    [http://kokuhaku.keikai.topblog.jp/blog/10008817.html:title=【シリーズ告白】 (株)メトラン トラン・ゴック・フック氏 – 経営者会報 社長ブログ

    メトランの人工呼吸器はうちのNICUでも使っている。タフで安定した機械である。安心して限界まで攻めることができる。その上、大事なことだが、私ら弱小NICUでもそろえられる程度に安価である。

    社長さんがベトナム出身だとは知らなかった。引用先の記事を拝読すると、想像を絶する辛酸を舐めてこられた方である。こういう人が世に問う人工呼吸器ならタフなのも当然だろうと思う。製品の吟味も確かだろうし、たとえ不具合が判明したとしても、これまでのご苦労に比べれば不具合の公表など軽いものだろうから、隠蔽などと言う怯懦な所行に走ることもなかろう。今後も安心して使いたいと思う。

    しかしこの記事(PDFの1枚目後端から2枚目にかけて)に、気になる箇所があった。

     ある大手メーカーに部品供給をお願いしたときのことである。
     その会社の製品を高頻度人工呼吸器に使いたいと依頼したところ、社長からこんな言葉が返ってきた。
    「何か事故でも起きて、うちの名前が出たら取り返しがつかない。勘弁してほしい」
     同じような理由で断られたことは、一度や二度ではなかった。人間の生死がかかる製品に自社の部品を供給して、リスクを負うようなことはしたくないということなのだろう。

     で、どこの政府が弱腰なんだって?と聞いてみたくなる。日本がものづくりの国なんて、いったい誰がほざいた戯れ言だと思う。この社長の心意気に答えられなかった時点で、すでに、日本の製造業がベトナムや中国や台湾に喰われてしまう萌芽がみえてたんじゃないかと思う。いつ壊れてもいいようなどうでもいい製品しか作るつもりはございません、なんて態度では、そりゃあ、安い方に仕事を喰われるでしょうよ。

     大手に断られたけど技術力があってリスクをいとわない中小には受け入れられた、となったら、もうすこし救いはあるけれども、でもその中小企業をいまばしばしと潰しているところだし。けっきょく日本のものづくりは終わってるってことに変わりはないのかも。

     

  • ひさしぶりに超体出生体重児の主治医をする

    ひさびさに超体出生体重児の主治医をしている。

    この子らを生かすのは誰の手柄なのだろうと、さいきん思う。自分たちの技術や知識が向上しているのは間違いないと思うのだが、にもかかわらず、俺がこの子らを救ったんだという気が昔ほどにはしなくなってきた。

    それは責任からの逃避ではないつもりなのだが。

  • 辺境NICUから

    辺境から眺める―アイヌが経験する近代

    辺境から眺める―アイヌが経験する近代

    アイヌは独自の農業や漁労の体系を持っていたが、松前藩明治政府の支配以降、農業を知らない未開の狩猟社会として認知された。アイヌを狩猟に特化させたのは、松前藩以南の内地の経済的な都合に加え、支配を政治的に根拠づけるためには彼らを未開の民族と位置づけた方がよいという都合もあった。その結果として、アイヌの長い歴史や伝統は故意に忘れ去られた。忘れ去られた後になってみれば、もともと存在しなかったのか忘却されたのか、忘却が自然の成り行きだったのか故意だったのか、それすら問題ではなくなった。シンプルにそれは不在となった。

    今の私の勤務先は、京都では初めて認可を得たNICUである。しかしそれすら平成6年だったか、私が医師免許を得るよりは後だった。学部生の時にも私はこの近所に下宿しており、夏休みに病院実習と称して1週間ほどこの病院に来てみたことはあるのだ。そのときはNICUなどなかった。その後に赴任した前代のNICU部長が作り上げたのが、今の勤務先のNICUである。彼はそれまで勤務していた大阪の病院からNICUのノウハウを一式持ち込んで、看護師らをトレーニングして、京都初の認可NICUを立ち上げ、全国最低レベルだった京都の新生児死亡率を中位くらいにまでは引きずりあげた。

    というのが、当院NICUの現在のドミナントストーリー。

    決してその業績を否定するつもりではないが、しかしこの物語は北海道で言えば明治以降に内地から移住した人々の物語だ。別の物語、アイヌの忘却された伝統にあたる物語もある。いまのNICUが立ち上がる以前にも、ちがった形での新生児医療が行われていた。当時を知るはずの老先生は笑って黙したまま多くを語らない。残っているのは古い人工呼吸器と医療辞書だけ。

    その時代のことが語られないのは、前部長の奮闘に水をささないためか、たんに時間がたったためなのか。しかし語られなくなったものは忘却される。故意なのか否かは問わず。存在したものが無くなったのではなく、もともと無かったものとして歴史が語り直される。京都初のNICUというのが今のNICUスタッフを支えるドミナントストーリーである。そのストーリーを忘れては、なんで京都の隅っこにある小規模病院が分際にあわないNICUを動かしているのかが分からなくなるんじゃないかと思う。分からなくなったら、たぶん病院の経営陣には、NICUを動かし続ける動機がなくなるだろうと思う。そしたら私は失業だ。それは寂しいことだ。