カテゴリー: 読書

  • 家郷の訓

    家郷の訓 (岩波文庫 青 164-2)

    家郷の訓 (岩波文庫 青 164-2)

    NICU当直は真夜中の入院1件。すこし眠い。

    宵の口は本書を読んでいた。日本の村落での伝統的な教育が失われつつあるとして、宮本常一が本書を著したのが昭和18年だとのこと。

    一般向けの書籍であるし、いくら御大宮本常一とはいえ故郷のことではあり多少の美化はあるだろうけれど、それにしても、昔の村落の大人が子どもを育てるあり方には、現代とは次元の違うものを感じる。よく新聞の論説に書いてある、社会全体で子育て云々と言ったお題目の、具体的な例を初めて読んだような気がした。

    しかし既に本書において既に宮本が、「他家の子を叱れば、その親がかえって怒るようにまで変わってきた」と述べているあたり、その美風は70年前に既に失われつつあったのだろう。現代の子どもが駄目なのは昔のような教育がなされないからだと、仰るむきも多々あるが、昭和18年当時すでに伝統が失われつつあったというなら、彼ら保守派ご自身、ご自分が思うほど保守的にご立派な教育は受けておられないんじゃないかと拝察したりする。孔子だって自分が生きていたわけでもない周の時代を理想として弟子を教育していたわけだし、それが一概に悪いとは言えないにしても、まあ昭和18年当時すでにそうだったのだねという事実も、記憶されて良かろうと思う。

    本書に登場する宮本の祖父や父しかり、また他書に登場する人々にしても、宮本の紹介する人物は、この土地で生きていくしかないと覚悟を決めて粘り強く生きておられる方が多い。もとより優れた人格を備えた方々なのだろうが、それ以上に、その覚悟が人格を練り上げるという一面もあるのだろうと思った。俺もまた今後は京都で生きていくしかないんだなと思うと、普段の自分の軽佻浮薄なセカイ系の発想を反省させられるように思った。

  • 救児の人々

    救児の人々 ~ 医療にどこまで求めますか (ロハスメディカル叢書 1)

    救児の人々 ~ 医療にどこまで求めますか (ロハスメディカル叢書 1)

    NICUの仕事が閑散としていたので、昼間から本書やら医学雑誌やら読んでいた。本書を読むのは3回目くらいだろうか。読後感がよろしいような宜しくないような本だといつも思う。

    何かに連載された記事のまとめなのだろうか、本書は冒頭部分と最終章あたりで著者の意見がだいぶ変化しているように思えた。冒頭では著者は新生児に対する選択的医療停止をかなりあからさまに主張しているのが、終わり頃には影を潜めているように思われた。当初の主張が影を潜めた代わりに何かほかの主張が出てきたかというと、そうでもなくて、最後のほうはインタビューの相手が言うことをひたすら筆記することに徹していた。当初の主張といってもずいぶんプリミティブで論拠の浅い主張だったので(自分の体に匹敵する大きさのメスで手術されるのは怖いだろうってのが治療停止の理由になりますか?)、取材を重ねるうちにご自身が取り組んだ問題の大きさ複雑さに圧倒されたのではないかと思った。まあ、それでよいのだが。

  • 遠城寺式乳幼児分析的発達検査法 改訂新装版

    遠城寺式・乳幼児分析的発達検査法―九州大学小児科改訂新装版

    遠城寺式・乳幼児分析的発達検査法―九州大学小児科改訂新装版

    新幹線の絵が0系から700系になっていた。

  • 20年前、日本SFがラノベに圧倒される前兆

    訃報の記事に一緒に書くのは憚られて項を変えるが、大学以降だったと思う、「『星を継ぐもの』を読んでハードSFに目覚めた、なんて中学生並みで微笑ましいよね」みたいな論評を読んだ。そうか『星を継ぐもの』を読んで感動していた俺はダメなのかと思った。

    今ならさらっとスルーできるんだろうけれども。

    あるいは、せいぜい由緒正しいはあどSF読んで引き篭もってやがれとか、悪態をつくんだろうけれども。

    なにさま、当時SFファンのコアだと自認していたような人らが、そんな、平家にあらずんば人にあらずみたいな思い上がったことを言ってたから、中学生並みですがそれが何か?という私を含め多くの読者をラノベの方へ逃がしたんじゃないかと思うのだが。

  • J.P.ホーガン氏死去

    月の裏側で人間の死体発見─赤い宇宙服に「イチバァン!」の文字 : bogusnews

    亡くなったことをbogusnews経由で知った。記事を読むとbogusnews編集主幹のリスペクトが伝わってきた。まだ69歳だったというのに軽く驚いた。

    『星を継ぐもの』に続く3部作を読んだのは高校のときだったか中学の時だったか。学校の図書館にあったというのは憶えているのだが、どっちだったか判然としない。4作目は読んでないな。この機会に読むかな。早川書房も増刷かけるだろうし。

  • ヴィンランド・サガ 9巻

    ヴィンランド・サガ(9) (アフタヌーンKC)

    ヴィンランド・サガ(9) (アフタヌーンKC)

    いったん腑抜けになった主人公が再起するってのは、前作「プラネテス」でもあったプロットだな。
    この巻ではまだまだ雌伏しているけど。

  • 居心地のよいNICUとは

    部下は育てるな! 取り替えろ! ! Try Not to Develop Your Staff (光文社ペーパーバックス)

    長野 慶太 / 光文社

    アホな上司はこう追い込め! (光文社ペーパーバックス)

    長野慶太 / 光文社

    居心地のよいNICUとはどういうNICUか、とさいきん考えている。
    内田樹先生の影響でもある。先生がくりかえし仰る、社会の変革をめざす集団ならその集団自体の内部にはすでに自らが実現しようとしている社会の形態が実現していなければならない、という指摘は正鵠を射るものだと私は思う。NICUは社会変革をめざす集団ではないが、しかし、赤ちゃんを含めた家族の新しい出発点となる場所ではある。家族がこれから闊達で幸せな家庭となるのなら、その出発点たるNICUのスタッフである我々もまた、幸せな、きもちよい仕事をしているはずなのだ。風通しの悪い抑圧的なNICUから送り出されても、そこから出発する新しい家族もまた風通しの悪い抑圧的な家庭にしかならないのではないだろうか。
    しかし職場のいごこちを追求しようとしたときに、つい、疑似家族的な人間関係を求めてしまうというのが、よくある陥穽なのではないかと思う。とくに私の年齢層、そろそろ新人の年齢が自分自身よりも娘や息子のほうに近くなってきたあたりから、その傾向が顕著になるのではないかと思う。
    疑似家族的な人間関係はNICUの人間関係としてあまりよろしくない。けっきょくNICUは家庭ではなく職場であって、しかも仕事の内容がかなり重大な帰結をもたらす職場であって、それなりに厳しくなければならない、という事情はある。それは言うまでもないことだ。加えて、私のようにあるていど年長になった人間が疑似家族の家長的な配役を演じ始めたら、若い人たちにはずいぶん抑圧的だろうと思う。大多数のスタッフにとって、それは居心地のよい職場を実現する道筋ではないのではないか。
    半人前のこどもたちを育てて一人前にして世に送り出したり跡目を継がせたりするというのが、家族の物語であろう。疑似家族的な人間関係を職場に求める上司は、擬似的なこどもの位置に置いた部下を半人前扱いする。そして家長たる自分自身は、彼らを育てねばならないと変に意気込む。疑似家族の幻想に立脚した上から目線で。
    だいいち家族においては、一人前になったこどもは出て行くか親を隠居させるかのどちらかである。部下に出て行かれて人手が足りなくなるのも隠居させられるのもきらう家長的上司は、構造的に部下を半人前扱いする。部下の客観的な能力には関係なしに、先験的に、彼の部下は半人前と決まっている。上司としては、自分は彼らを育てようと骨折っているのに、「近頃の若い者ときたら」いつまでたっても成長しない、ということになる。俺が育てて面倒見てやらんとこいつらは駄目だ、と彼は思っている。じつは彼らに去られて困るのは自分の方なのに。
    しかしそもそも職場においては、構成員の誰一人として一人前以下の扱いを受けてはならない。一人前に扱われればこそ一人前の仕事をする、というのが働くものの本来のありかただと思う。ちなみに半人前に扱われるのに一人前の仕事を要求されるのは奴隷という。奴隷扱いされる職場がいごこちのよい職場であろうはずがない。というか、奴隷扱いされて居心地よくなるような変態はうちのNICUにはいらない。
    奴隷は職場を去る自由もない。こどもに家庭を去る自由がないのと同じ。
    前置きが長くなったが、そういうことをあれこれ考えてまとまらないでいるときに、この2冊を読んで深く感じ入った。疑似家族ではない、あくまでも職場の、人間関係はどうあるべきかということが論じてある。他の評でも言われていることだが、タイトルこそ扇情的であるものの、書いてある内容は真っ当である。おりにふれ、繰り返し読むべき本だと思った。だがさすがに、医局の本棚に置いておくのは憚られる。
    しかしこの2冊を読んで我が意を得たりと思うのはかなり危険なことだ。この2冊の大前提として、読む立場の自分自身がそうとう厳しく自律していることが求められている。この2冊の内容を実践するにふさわしいほどの実力の人なら、むしろ、俺なんかがこんな実践やって大丈夫か?と常に疑っていることだろうと思う。逆に、自省なしにこの2冊をそのまんま鵜呑みにしてしまうようなレベルの人が、鵜呑み実践をやってしまうとかえってまずいんじゃないかと思ったりする。自分をも疑いながらおそるおそる実践するのが本書の正しい読み方ではないかと思う。少なくとも、私ごときには。

  • 子猫殺しのその後

    「子猫殺し」を語る――生き物の生と死を幻想から現実へ

    坂東 眞砂子 / 双風舎

    赤ちゃんの生き死ににふだん接している新生児科医として、というよりもむしろ、猫を多頭飼いしている「愛猫家」のひとりとして、関心をもってはいた。著者の、特定の猫には住みかを与え餌を与え、著者にとっては貴重なことらしい性交と出産もさせるのに、その結果生まれる子猫は即座に崖から投げ捨ててしまう、その非対称さが腑に落ちなかった。生命一般にたいして著者がとる態度が、自称しておられるほどに敬虔な態度といえるものなのか、私には疑問であった。むしろ、この非対称さ故に、私は著者が生命に対してひどく恣意的で不遜な態度をとっているように思われてならなかった。
    話題の子猫殺しのトピックばかりではなく、連載のエッセイ全体を通読してみたら、それで初めて分かることもあろうかと思ったので、本書を京都市図書館から借りてきた。しかし、エッセイ自体の内容は「美味しんぼ」で山岡史郎君が述べていたようなことと大差がなかった。全体に、陳腐な論考だと思った。子猫殺しを持ち出す必然性を感じさせるような斬新さは感じられなかった。あえて子猫殺しに言及したのは、子犬殺し(じつは猫だけではなかったのだ)への反響に腹が立ったから、という以上の理由がないように思われた。
    本書では、3人の論客との対談によって、このエッセイの新聞掲載時に受けた攻撃に対して反論している。しかしその反論も、私には、こどものけんかの水準を超えないように思われた。曰く、攻撃してくる面々も牛や豚を殺して食べてるじゃないか私が子猫を殺すのとどう違うのだと。あるいは、避妊することによって子猫の存在の可能性を絶つことも生まれてしまった子猫を殺すことも同じことだろうと。このような主張は、私には、見方によっては共通する点も無いとは言えない事項を持ち出して、部分的な類似点を無理に拡大して全部が同じ事だと言ってしまう、ひどく粗雑な議論のしかただと思えた。
    反論の低水準さを別にしても、反論するということ自体が戦略的な誤りだと、私は思う。あのとき著者に対して集中的になされた攻撃は、著者自身の生命すら奪えと主張するような、極端で脅迫的なものであったからこそ社会的な問題とされるべきだったのではないか。であれば、著者がなすべきは脅迫の不当性を訴えることであろう。しかし著者が本書で行ったのは、必死になって子猫殺しの正当さを主張することであった。そうすることで、脅迫を反論に格上げしてしまった。愚かなことだ。私とて著者は脅迫にさらされるべきではないと思う。それはしかし、子猫殺しが正当な事かどうかとは関係がないことだ。

  • 零式艦上戦闘機

    昨日の記事を読んで、我ながら頭悪そうな記事を書いたなと思った。直截すぎて芸がない。やれやれ。そこで挽回を図ってみる。

    新潮選書 零式艦上戦闘機

    清水 政彦 / 新潮社

    表紙に「れいしき」とふりがなが振ってあったので、うっかりこっちが「ゼロ戦」と読んだら敵性用語だといって鬼の首を取ったように居丈高になる類の、面倒くさい著者なのかなと思った。読んでみたら、それほど思い込みの強そうな印象ではなかった。ただ、どこかで書評を読んでなるほどと思ったのだが、この著者はゲームを通じて零戦に親しんだ人ではないかという印象を、私も受けた。零戦の機体や機銃弾に関する考察が、いちいちシミュレーションくさい。そらまあ実機を飛ばして実弾を撃って実験するわけもいかんから仕方ないんだろうけど。
    本書でなされた重要な指摘は2点だと思う。1点目は、ガダルカナル戦あたりまでは、現場で零戦を飛ばしていた面々はそれほど劣勢に立たされているような気はしてなかったんじゃないかということ。総計してみれば相当に戦力を失っていたんだが、一回一回の戦闘での損耗はそれほど大きくなかったので。
    2点目は、昭和18年になるまで、日本は割の単位で勘定するのが適切なくらいの莫大な戦力損耗というのを経験していなかったということ。イギリスなどヨーロッパの連合国はドイツとの開戦直後にそのような巨大な戦力の損耗を経験していたし、アメリカも直接参戦はしていなかったにしてもその情報を得ていた。まあ対日戦も緒戦はぼろ負けだったしね。日本だけが、この時点に至るまでついに、ほんとうに厳しい戦争というものの経験がなかった。
    戦争のたとえ話で医療を語るのはよろしくないとは言いながら、この分析には他人事の気がしない。今も私は日々淡々とNICU仕事をしているし、身の回りでそれほど困窮した状況を見聞きしているわけでもない。でも後になって振り返って集計してみれば、ああ俺がのんきにやってたあの頃も実は刻々と事態が深刻化していってたのだなと、悟らされてほぞを噛むことになりそうな気がする。それにもまして、いよいよ追い詰められて、損耗率の莫大さが目に見え始めて以降どういうことになるかなと。かつての軍部みたいに現代に幅をきかせている医療業界が、一気に崩壊するようなことになるのかなとも思う。
    ちなみに、連合艦隊の最後の旗艦は「大淀」といった。艦名の由来は宮崎県の川らしいけどね。奈良県の地名じゃなくて。

  • フーコー先生によると

    フーコー入門 (ちくま新書)

    中山 元 / 筑摩書房

    本書を読んで氷解した疑問
    1.MRSA対策とか動脈管開存症の診断治療とかで、大きな施設に自分たちはこうやってるってだけの根拠で偉そうな断言をされていちいちむかつかなければならないのはなぜか。
    2.そうやってむかつきながらも表面上ははい仰るとおりでございますとへいこらさせられてしまうのはなぜか。
    3.いい大人でプロフェッショナルなはずの我々が、夏休みのラジオ体操よろしく学会参加証のスタンプやらシールやら集めて専門医云々言って汲々しなければならないのはなぜか。
    たぶん3にはマルクス先生も仰りたいことがあられると思う。