• 君の名は

     新規入院はたいてい生まれた当日なので、赤ちゃんに名前はまずついていない。入院後の急場を乗り越えた頃に、赤ちゃんの名前が決まる。

     よい名前と感心することもあり、残念だと思うこともあり。ときには、この子の将来を制約するのはNICUでの経過じゃなくてこの名前なんじゃないかと思うこともあり。

     名前を考える際に、赤ちゃんを抱いた夫婦の写真入りで「○○で〜す」と書かれた年賀状とかSNSサイトとか、そういう場面ばかり想像してるんじゃないかと思うこともある。この子がこの名前を書いた履歴書を手元に持った担当者との面接にのぞむ入試の場面とか、この名前を書いた名刺を取引先に渡してよろしくお願いしますとお辞儀をしている場面とか、この名前が入った名札をつけて部下を叱っている場面とか、多少は想像してみるべきなんじゃないだろうか。

     名前で人を差別するのは、それは単純に悪いことだろうけれども、それでも名前は当人に関して、「そういう名前をつける親御さん」に育てられた子であるという事実を、端的に語る。それを一顧だにするなと相手に求めるのも無理すじじゃないかと思う。

     とかいうことを以前から考えていたのだが、しばらくそういう赤ちゃんがおられず今なら「うちの子のことか?」云々の余計な紛糾を呼ばずにすみそうなので、世に問う次第である。

     ちなみに妻に言ってみたら、たしかにAKB48でも売れてる子は堅実な名前の子が多いよねと言われた。そうなんですか?

  • 震災復興祈念ポン・デ・ライオン

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     震災復興支援と称して新生児蘇生法講習会を行い、受講料を義援金に拠出している。

     短いコースが3時間、長いコースが5時間の長丁場なので、途中の休憩時間にミスドのドーナツを出している。

     そのポイントがたまったので、引き替えてもらった。震災復興祈念ポン・デ・ライオンである。

     ほどよく甘くて血糖が上がるので、私も受講生も機嫌が良くなるし、気分も一新するし、集中力が上がるし、なにかとありがたい。

  • 京都府だってほんとうはレスパイト入院なんて受け入れて欲しくないのだろう

    在宅で介護にご苦労されている重症のこどもたちを、短期なりともレスパイト入院していただこうとしているわけだが、その一環として病状を「診療情報提供書」に書けと言われた。ふだん自分が診ている子の場合だと、自分で自分宛に紹介状を書くことになる。やれやれと思いつつ、その馬鹿馬鹿しい書類を書いたところ、該当病名で身障1級だという記載が抜けているから書き足すようにとのご指導を受けた。

    午後の発達外来で、フォロー中の子を診察室から送り出して、頭をひねりながらカルテ記載をまとめていたところへ、医療ソーシャルワーカーがその書類を持ってきて、これこれだからいつでもいいので書き直せと言った。

    ひさびさに切れた。

    在宅人工呼吸と胃瘻だけじゃ足りんのかと怒鳴った。

    こんなに無尽蔵に怒りが湧くのは何年ぶりだろうと思った。「身障1級です。上記のごとく身障1級です」と備考欄に大書した。ここに書いてあるケア内容を読んで、その子の重症度や介護の苦労が想像できないような阿呆が京都府のレスパイト事業を牛耳ってるのかと思った。そんな奴の給料まで障害者医療の予算から出てて、その障害者医療が国庫を圧迫するってんで税と一体改革だなんて言われてるのかと思った。大書する手が震えた。

    自分の患者を自分相手に紹介状を書くってだけで十分に馬鹿馬鹿しいのに。俺が俺宛に書く書類だ。俺がそれを読んで、なるほどこの子は身障1級だったのか知らなかったなあとでも言うと思ってるのか。

    馬鹿馬鹿しいことを深刻な顔をして実行する滑稽さが、なんだか宮下あきらの漫画みたいだ。なんだか九九の唱和をさせられた挙げ句に、声が小さいと怒鳴られて黒板を竹刀でたたかれたような気分だ。

  • レスパイトの病名付けに苦労する

     外来で拝見している脳性麻痺のこどもたちのレスパイト入院を手配するのに病名で苦労している。京都府からは「厚生労働科学研究難治性疾患克服研究事業対象疾患一覧」なる表がまわってきていて、この表にある病名ならレスパイト入院の助成を認めますよと言われた。しかしその表に「低酸素性虚血性脳症」とか「脳性麻痺」とかいう文言はない。彼らの主病名が無いと、なんとなく京都府は分娩時仮死後の脳性麻痺の子にレスパイト入院の必要を認めていないと言われているようで遺憾である。「ターナー症候群」はあるんだけれどもね。いったいターナー症候群ってだけでレスパイト入院が必要なほどの病状になるんですかねと京都府には聞いてみたい。

     レスパイト入院の費用対効果は障碍の重篤さや、それによる介護の必要度の軽重で決まるんじゃないかと思うのだがどうだろう。問題にするべきは原疾患の難病ぶり如何ではなくて*1障害者手帳の1級相当で、ほかにたとえば在宅人工呼吸してますとか経管栄養依存ですとかいった個別の状況も加味して、といった事項なのではないか。

     まあ向こうがそう言うならそれはそれで仕方ないと、低酸素性虚血性脳症は「重症・難治性急性脳症」の一つですとか、ウエスト症候群を合併している子には「年齢依存性てんかん性脳症」がありますとか、解釈レベルでいろいろと考えた書類を書いている。たぶん受け取る側も事情は分かると思うので助成はおりるはずである。いや、認められなきゃ本当に大げんかですよ。でもまあ、なんとなくそういう抜け道を考えるのは制度の本筋ではないような気がする。本筋じゃないやり方を続けているといつか行き詰まる。

     本件については今後の改善が必要である。協議する機会があればいいんだけどな。

    *1:低酸素性虚血性脳症の病態が難病として研究する価値がないほど単純なものなのかどうかに関しては、それはそれで言いたいことも色々あるが。

  • 引き継ぐときにはつまらないものですがと言う

     NICU部長を拝命して数年経つ。最初はほんとうに名ばかりの管理職だったが、最近は病院経営のお話にもときどき混ぜていただいている。

     むろん今の自分に経営の才覚や知識があるわけではない。だいたいは末席に謙遜して、院長達が病院改革の話をするのを拝聴しているばかりではある。そればかりであっても意外に充実感がある。彼らの姿は、少しでもよい病院を後進に残そうと奮闘しているように見える。引き継ぐ世代としては嬉しいことである。しぜん、前のめりに聞くことになる。

     こういう充実感はNICUを引き継いだころはあまり感じなかった。当時のNICUはあまり変革志向のない部署だった。施設全体としては現状維持が最善最適ということが暗黙の了解であった。改善の余地があるとすればそれは各人の臨床的資質の向上であるということになっていた。

     そういうふうに組織の改善を属人的要素としっかりリンクされると、改善すなわち前任者の否定ということになる。前NICU部長とか、過去に働いてくれた医師や看護師や、あるいは過去の自分自身まで含めて否定することになる。それがいやで改善を渋り、現状こそ最善と、まだ開設して20年とたたない施設が老舗のふりをしていた。京都では応仁の乱以前に発足していないと老舗とは言えないのに。

     後の世代にも進歩を続けさせるためには、自らを完成形として引き継がせてはいけないのだろう。これでよいと言って渡しては後進の手足を縛ることになる。自ら否定しつつ改善の動きを沿えて渡すことが必要なのだろう。これでは駄目なのだ、駄目なものを背負わせて済まない、せめてこういう改善をしてきた、そう言って低姿勢に引き渡すべきなのだろうと思う。むろん内心ではこの組織の仕事は存続させるべき仕事だと確信していても、それでも、これほど完成したものを引き継げて嬉しかろうと、○○アズナンバーワンと言わんばかりに引き継いでは、その時点で停滞が始まるのだろう。どこかの国の政治経済みたいに。

     これは良いものだと言われて引き継いだものはあまり嬉しくなく、まだ駄目だといって改革に奮闘しているものを引き継ごうとしている方が嬉しいというのは、いささか逆説的ではあるが、釣れた魚かまだの魚かという違いだけとは限らず、多少なりとも普遍的なことではないかと思うので、こうして記しておく。
     

  • もうすこし狡猾な人間に国防を任せたい

     一川防衛相がブータン国王を招いた晩餐会を欠席し、政治資金パーティの会場でこちらの方が大事と放言した。続いて、田中聡沖縄防衛局長が、米軍普天間基地移転に関して婦女暴行にたとえた話をしたとして更迭された。

     国防の枢要を担う立場にこのような人々を配置していていいのかと突っ込んでみたい。彼らは自らの職務に関して、多少規範を外れた内容に言及しても周辺はみな自分の仲間であるから大丈夫、という前提をおいた行動をとった。「ここだけの話だけどさあ・・・」という話をする誘惑に逆らう自制心もなく、周りがひとり残らず「ここだけの話」ができる身内なのかどうかを見極める判断力もない(というかさあ、そういう状況なんざあり得ないくらいわきまえてろよいい年して)。

     なんかそう言う人たちに国防に関する機密に触らせておくと、あちこちで「ここだけの話」をされそうで怖い。ましてわざわざ自分で酒席を設けて報道各社を招いて「ここだけの話」をする会を開催しようってのはどういう了見なんだか。ということで田中もと局長の更迭は、発言内容の不道徳の故ばかりではなく、彼の資質はこの任に向いたものではないらしいという理由もあってではないか。

     報道各社の諸氏も多少はお怒りになってもよろしいんじゃないかと思う。そりゃあ記者クラブにもご参加でしょうし御用記事の一つ二つもお書きでしょうよ。だけれども、こういう話をしても黙らせておけるだろう位に思われてるんじゃあ、小馬鹿にされ方も相当なものですよ。

     とはいえ、「ここだけの話」をいっさいしてはならないなどとは言わない。「ここだけの話」という形で、いかに中央が沖縄のことを思っているか、しかしどうにもこうにもならないところへ追い込まれているのかを、切々と語ってみるってのはありじゃないだろうか。あるいは、シジョーとかカクヅケとかリマワリとかに一喜一憂しない、すがすがしい国家のあり方に対する尊敬や羨望を語ってもよくはないか。白々しいと興ざめになるのが落ちかも知れないが、その猿芝居をやりおおせて、周りにそれを信じ込ませられるほどの狡猾な人でないと、なかなか国防は担えないんじゃないか。

     あるいは、こうなることも計算の内の深謀なんだろうかとも考えてみる。

     普天間基地の移設については、話の節目節目で中央政府の人が茶々を入れる。なんかこう、東京でも実はあんまり話を進めたくないんじゃないかと思う。こじらせるだけこじらせて、オバマ閣下もう二進も三進もいきません、本邦において貴国軍がこれいじょう駐留をつづけるのは国民感情の上から不可能ですと、申し上げるための布石なのではないかとも思う。田中氏は自らの地位を犠牲にして、ほとんどもう自爆テロとしか言いようのない発言に挑んだのではなかろうか。いや、他にこの田中もと局長の言動になにかの思慮があったと言えるような筋書きは思いつかないんでね。

     ブータン国王の晩餐会すっぽかしも、たとえば今後胡錦濤氏とかプーチン氏とかの晩餐会も同様にすっぽかして見せることができたら、あるいは何らかの政治的に重要な意味合いを持たせることができるかもしれない。いや君らどれだけ図体のでかい国だって威張ってても俺らブータン国に対する以上の尊敬はしてませんから、とか。いや胡錦濤とかプーチンとかあいてじゃなく、オバマやヒラリー相手にそれをやることで、二人の志が完遂されるのかもしれない。

     たぶん、彼らはその作戦を「ココダケノハナシ作戦」と命名していることだろう。作戦完遂の暁には、勇者達を讃えたい。今はたぶん、国民総出で泥を投げるのが、彼らの意図に沿った対応だろうと思う。涙を込めた泥を投げることにするよ。こうして。
     

  • アナキンさんにはアナキンさんのご事情というものが

    スター・ウォーズのエピソードIVとVを観た。ダース・ベイダーがたいへん魅力的に思えた。昔観たときは単なる悪役にしか見えなかったが。エピソードI〜IIIを観て彼の過去が分かったためか、あるいは私が年をとってものの見方がかわったためか。

    エピソードIVでの彼はじつに頼りがいのある上司だ。率先して働くし、部下への言葉のかけかたもいかにも宜しい。レーアをとらえた時も、なるほどそれとなく彼女を庇ってたんだなと、今回はじめて腑に落ちた。予想外にいいやつじゃないかと思った。

    エピソードVではたしょう酷薄な面が目に付いたが、息子を必死で探してたってことか。しかしやっと会えた息子に、ともに銀河を支配しよう云々と持ちかけたあたりは、父と名乗った直後のふたことめがそれかよと突っ込んでしまったが。なるほどダークサイドに墜ちるとはこういうことかと思った。

    先日、NICUの若いスタッフが親御さんに関して批判的な意見を言った折に、いやいやこれまでの来し方とかご事情とかあるんだからとたしなめたのだが、まさか彼女も部長が念頭に置いてるのがダース・ベイダーだとは思いもしなかっただろう。

    もうちょっと年をとったら、今度はパルパティーンとかヨーダとかに感情移入するようになるんだろうか。

  • 本当に言いたいことは「俺も頭がいい」ということではないですか?

    震災と原発事故からこっち、あちこち読むばかりで自分はだまりがちなんだけれども、よいエントリだなと思った記事につくはてなのブクマとか参照すると貶してあるブクマが多くて、その中には確かにその視点は自分も持たなかったと肯ける貶しもあるけれど、やっぱりどうしてそう言う読みができるかなというまるっぽ誤読としか言えない貶しもあって、それも、それは心底からの反論ですか?とゆるく聞き返してみたい貶しもあって、というのはそういう貶しの画面の裏から「俺頭がいいんだ!」という声が聞こえてきそうな気がして。たった数十字によくもまあこれほどありありと嫉妬とか自己顕示欲とか浮き上がらせることができるものだと、意図的にやってるんならそれはそれで確かに文才だと感心したりもして。俳句とか川柳とか始めてみたらどうですか?とかちょっとお勧めしてみたりしたくもあって。自分のブログにもそういう腐臭はしてるんだろうと思うと、何を書いても私もまた「俺頭がいいって言ってくれよみんな」みたいな願望が浮き上がってしまうんだろうな、と。

    まあ、そういうグチグチを書き連ねておいて言うのも何だが、重大なことにものを言うときにはせめて、ほんとうにそれを主張したいのか、それとも本当に主張したいのは「俺も頭がいい」ということなのか、いっぺんふりかえってからにしたほうがいいんじゃないかな?と、ちょっと言ってみたくなったのでした。しょせんそういう自己顕示欲なんて気体分子のブラウン運動みたいなもんで、大きな流れにはなりようもなしってんでほっといていいのかもしれないけれども、何かと不完全な人間社会を考えるのに天上の誰かさんが拵え上げた物理世界をそのまんまアナロジーに持ってくるのはたぶん論理的に瑕疵があるんだろうし。

  • 下っ端仕事

    医者の仕事というのは不思議なもので下っ端ほど重要な仕事をすることになっている、と、月末や月初めの書類仕事をしながら思った。こういう管理業務なんて下手打っても仲間内のひんしゅくを買うくらいですむ。はんこの位置が違うって、だから何?書類の提出先を間違えたっていっても、総務も人事も同じ部屋で仕事してるでしょうよ。まわしてくれりゃあいいじゃないよ。

    下っ端仕事は病棟仕事だし、病棟で下手打ったら患者さんが危ないよね。院長室で下手打っても病院が危ないくらいですむけどさ。管理業務こそ究極の下っ端仕事なんじゃないかな。初期研修医はまず院長理事長の仕事から始めて、だんだん熟達するにつれ患者さんの臨床に深く関わるってのはどうだろうね。

  • ロールズ的「無知のヴエール」を用いた新生児生命倫理はどうだろう

    ロールズ―正義の原理 (現代思想の冒険者たち)

    ロールズ―正義の原理 (現代思想の冒険者たち)

    重症新生児の治療中止をめぐる倫理的考察は主に、「いかに決定するか」の手続きを巡ってなされてきた。決定の内容については個々人の信念や直感に任されている。功利主義の枠組みを出ていない。したがって現状では、「正しい手続きに基づいた誤った判断」がなされうるのではないかと危惧する。

    ロールズは「無知のヴェール」という仮定を提案している。自分がその社会においてどの地位に(政治的とか経済的とか)出生するのか分からないという仮定のもとで、それでも同意可能な社会のルールを追求するというものである。本人は思考実験として提案したものだろうが、その設定どおりの事態が、新生児医療の臨床では日常的に生じている。どのような身体で/どのような家庭に/どのような社会に出生するのかが分からないと仮定した際に、どのように処遇されると取り決められた社会になら、生まれてくることに合意できるだろうか。