• ジロもそろそろ最終日

    そのときコンタドール(スペイン、サクソバンク・サンガード)が横に来ていつがアタックすべきタイミングかを耳打ちしてくれたんだよ。

    最終日のタイムトライアルで、途中で自転車を降りて昼寝でもしない限り、コンタドールが今回も優勝する。
    ライバルたちが次々に「あいつは別格だ」と降参してしまうような、圧倒的な展開だった。
    優勝予想キャンペーンも行われていたようだが、サクソバンク・サンガード以外の投票ってあったのだろうか。

  • たぶんシーシェパードは捕鯨を続けてほしがっている。

    NHKスペシャル|クジラと生きる

    自宅で観ていてあんまり痛かったので、ジロの中継が始まったのを言い訳にチャンネルを変えてしまったのだけれど、昨夜の当直室でテレビをつけたらちょうどそのときの場面が出ていたので、これは観ろと天上の誰かさんがおっしゃってるんだろうと思った。

    シーシェパード他3団体が太地町に入って「反捕鯨活動」をやってるらしいんだけど、彼らにイルカやクジラを守ろうという気持ちが本当にあるんだか、大変疑わしいと思った。太地町や日本国の人に自分らの意見を聞いていただこうという態度はまるで感じられなかった。

    たぶん彼らがほんとうに好きなのはイルカやクジラじゃない。彼らが好きなのは反捕鯨活動なんだろう。人を罵ったり侮辱したりして金を貰うのが好きなんだろう。だから捕鯨が廃止になったら彼らは困るんだろうと思った。彼らにとって一番良い筋書ってのは、まさにいま太地町で起きている筋書きなんだろう。精一杯自分たちは反捕鯨活動に邁進しているけれど、日本人の奴らぜんぜん反省せず捕鯨を続けてます、もっと私たちの活動をご支援ください、と言えるような筋書きだ。太地町の人らが粘れば粘るだけ、シーシェパードには募金がどんどん入ってくるんだろう。

    だから彼らは太地町の人たちを追い込んでいる。まるで漁師さんらがクジラを湾内に追い込んでいくように。彼らの主張が通るには太地町の人たちが耐えがたい屈辱を味わわなければならないような、そういう作法で反捕鯨を主張する。太地町の人や、あるいは日本人全体が、彼らの行動にダメージを受けつつも彼らの言うことには耳を貸さないような、そういう構図を維持することが彼らの目指すところだと見受けた。

    まあ、苦しい立場には違いないかもね。敵を罵りつつも敵の存在が無ければ自分らの存在価値がなくなるのってのは辛いだろうよね。うっかりいま日本が捕鯨から撤退したらスポンサーからのお金は減るんだろうし。長野県に場所を移して「蜂は社会も言語ももった高級動物だ」とか言って反ハチノコ運動をやるのも一興かもしれないけれどもね。

  • 新生児蘇生法講習の修了登録の費用のこと

    日本周産期新生児医学会の新生児蘇生法講習会を受講した場合、受講そのものには学会はお金を取らないのだが、修了認定にはお金を取る。8000円で5年間有効。そのお金を病院負担にできないかと画策している。

    「当院の周産期病棟スタッフは全員、日本周産期新生児医学会の公認する新生児蘇生法講習を受講し、修了認定を得ております」と、さらっと病院のウェブサイトに書けたら、そうとうの宣伝効果ではないかと思う。というか、そういう点を評価してくださる妊婦さんにこそ、当院でお産していただきたいものだと思う。アメニティも大事だし、マタニティヨガもハーブも結構だけど、そういうことに目を奪われる人ばっかり集まってきては、なにかと詰まらないことで苦労が多くなるような気がする。

    しかし今のところ、それをキャッチコピーにする周産期施設はあんまり多くなさそうにも思う。ということはだ、今のうちにそれを謳えたら、それはうちの病院の大きな売り文句になるだろうということだ。今のうちに限る商機なのだろうけれども。何年かすれば極当然の、陳腐なことになるだろう。そのころには、各周産期施設の人事担当者は目の色を変えて、修了者を雇おうと走り回ることになるだろう。

    個人に与えられる資格なんだから、個人が出すのが当たり前と、先日知り合いの開業の先生にご高見を頂いた。看護師免許だって自前だろうに。そこに金を出し始めたらボイラーマンの資格だって病院から出すことになるんじゃないか?と。なるほどそれが経営者の感覚なのかと思った。それも道理かもなと思う。その一方で、他院の経営者がまだそういう考えでいるってことは、うちが一歩抜け出すチャンスだってことだとも、思ったりもする。

    一方、看護師や助産師たちが言うには8000円は高いとのこと。受講すれば知識や技術は身につけられるし、修了認定を受ける受けないは実力には関係なかろうと言う。それも道理かもしれない。じっさい、私の前任の部長はそう言って、独自の新生児蘇生法講習を行っている。金を出してくれと言う私の稟議書を見ても、あんまり判をつくのに乗り気ではなさそうだ。

    でもまあ、前部長の講習は学会の規定に縛られないからと、大人数を寄せて行っている。道具を与えていろいろやっているなかを巡回する形で指導するんだそうだ。助産師学校の何十人かのクラスを一気に指導するにはそうする手もあるんだろう。まあ、それでも受講しないよりは遙かにマシなんだろうけれど、なんだか、お手盛りは堕落の第一歩という実例のような気もする。私の父は経理が仕事で、他者が監査に入ることの重要さとか子どもの頃に聞いて育ったから、なおのことそう思う。

    個人に与えられるライセンスなんだけど、みんながそのライセンスをもってるってことは施設としても胸を張れることなんだから、折半というのが世間の相場かも知れない。第三者的な目で見たらそうなんだろうなと思う。

    しかし、そこを気前よく全額出すのがこういうときの肝心なところじゃないかとも思う。看護師と病院が4000円ずつとか、いや6000円と2000円だとか、ちまちました値引き合いをしていては、なるほどこの病院はそれだけの額しか出す気が無いんだなとの評価をうけてしまう。世間様とか、裁判長からね。2000円とか4000円とか6000円の補助には、各々2000円とか4000円とか6000円の意義しかないけれど、よっしゃと全額ポンと出す8000円の補助には、心意気で増幅される8000円以上の意義が生じるんじゃないかと思うんだが。

  • 動脈管結紮術

    YouTube – Patent Ductus Arteriusus (PDA) performed on Premature Baby – Pediatric Heart Surgery

    未熟児の動脈管結紮術の一部始終。最初に見たときはいつ動脈管を閉じたんだかよく分からなかった。こんなふうにやってるんだな。

  • 父は夏に背広を着ていただろうか

    自分の父が出勤の時に何を着ていたか。むろん今の私のような勝手な格好で出勤できる商売では無かったけれども、でもどう考えても夏には半袖のワイシャツにネクタイだったように思うのだが。彼が夏に背広の上着を着ていた記憶がどうしても出ない。

    あのころ、長崎本線ディーゼルカーも扇風機がせいぜいで冷房車なんてほとんど無かった頃、勤め先のオフィスも冷房が入っていたかどうかの頃、そのころのサラリーマンって夏に背広を着てたのか? ちゃんとした人間は夏でも背広を着るなんて迷信は、エアコンが当たり前なんていう贅沢をしはじめたごく近年の産物なのではなかろうか。

    夏に着る背広なら、「着ていないときよりも涼しい」背広でなければならないはずだ。汗のにおいを分解しつつ強力に蒸散させて放熱するような背広を、ようするに木の葉よりマシな背広を、作ってみろと言いたい。

  • そういえば夏ものの背広を持っていないな

    昨日の発表も寒かった。内容もさることながら、会場の室温がひどく寒かった。半袖のボタンダウンのシャツで出たんだが。気を利かせた運営側が毛布を配っていたがね。なんで冷房の効いた会場で毛布かぶってなきゃならんのか。

    今は何月でここは何処だよと思った。5月の京都だよな。1月の京都でもないし、5月の昭和基地でもないんだ。

    やっぱり夏ものの背広を持ってないってのが宜しくないのかもしれない。そういう馬鹿馬鹿しいものが世の中にあるんだなんて、迂闊なことに私は知らなかった。買わなければいけないのかなとも思ったが、今の今までポロシャツで押し通してきててこのご時世にかよと今さら感も強い。デパート業界ではクールビズとやらを売りたくって仕方ないらしいけど、背中がシースルーの上着なんて40過ぎた男が着れるか? このまえ「絶望先生」に出てきた「タンクトップの官房長官」並みの恥ずかしさじゃないか。

    いいかげん、暑苦しい格好やめましょうや。

    [asin:B004R0TJLK:detail]
    私はこっちが欲しいんだ。

  • 今のうちに

    最近熱心にやっている、新生児蘇生法の講習会について、昨日は機会を得て発表してきた。

    京都市北部(だいたい祇園から北)を中心に医師同乗の新生児救急搬送をやらせていただいている*1。この2年間の運行記録をみると市内ならだいたい30分以内で到達している。60分あれば木津川市まで行ってるし、高速に乗れば70分で大阪市まで行ける(これは送り出し搬送だけれども)。この速度をもって、産科の先生方におかれましては当院にお電話一本頂ければあとは何とかしますと公言していたんだけれども、今後もそれでよいのかと、昨日は論じてきた。*2

    これからの時代はやっぱりそれではいかんだろうと、昨日は申し上げてきた。むろんお呼びいただくのは構わないが、現在もとめられている新生児蘇生法の水準は出生後30秒刻みの評価と処置のサイクルを回し、最短60秒でボスミンの投与タイミングがやってくる。むろん確実な気道確保はそれより前だ。うちが救急車で駆けつけるのを無手でお待ちいただいては間に合いそうにない。

    お産は必ずしも100%安全というわけではないということは、じわじわと人口に膾炙しつつある。「何かあるかも知れないと言うことは分かりました。覚悟します。しかしその『何か』に対する対策はどのようになさっておられますか」と、面と向かって問われる時代がじきにやってくる。それは理の当然というか、ものごとはだいたいそういう風に進むものだろうと思うし、安全神話によりかかって無手だったことのツケを盛大に払わされている実例がまだ福島で地域の皆様や関係者ご一同に多大なご苦労を強いているなかで、時代は災厄への対策に関する説明責任をさらに明確に求める方向へさらに大きく舵を切ってゆくのだろうとも思う。

    残念なことだが、すべての分娩時仮死がいわゆる「適切な処置」を行えば救えるというものではない。それはこの十年あまりの臨床経験でつくづく身にしみてきた。脳性麻痺が生じたからには適切な処置がなされなかったに違いないとする、医療の現場と言うよりは法廷やその周辺でご活躍の方々が声高に論じられる議論は、私は行き過ぎだと思う。

    しかし、だ。そういう一部の方々の理想とはまた違った次元で、「適切な処置」の体系が存在するものだと思う。存在しなかったら我々新生児科医や産科医は何をもって自分たちをプロフェッショナルと呼ぶのだ? 患者さんに「何かあったら」と聞かれた際に、おそらくご心配の「何か」の具体的内容はこれこれで、それに対する対策としてはこれこれを準備しています、とお答えするときの、その答えの業界的な合格水準というものがあるはずだ。

    「何か」の多くを分娩時仮死が占めることだろうと思う。その分娩時仮死に対しての、これからの業界標準として、「標準的な新生児蘇生法の訓練を受けたスタッフが赤ちゃん担当として立ち会い、実際に仮死が生じた場合には迅速に蘇生法を開始いたします」という答えができればよいのだろうと思う。*3繰り返すが、それをやればすべての新生児死亡や脳性麻痺が生じなくなるというわけではない。減りはするんだろうというのがせいぜいだ。それでも、だ。「何かあったら」と聞かれて黙り込むかごまかすかしかできない、無手の状態よりは、およそ説明責任の観点から見て、大きい進歩だと思う。

    面と向かって聞かれる時代までの猶予を私は5年ほどかと見ているのだが、甘いだろうか。このブログで読んだし聞いてみるってことはご勘弁いただきたいが。なにさま、まだ口に出して言われないうちに、なるだけこの日本版新生児蘇生法の講習を受けて終了登録したスタッフを増やしておきたいと思う。次の地震津波がこなういうちに、だ。

    *1:市民の皆様には道を譲っていただきありがとうございます。

    *2:まあ自分らが公言してきたことに関する討論は自分らの内部でやるものかもしれんがね。それをあえてお天道様のもとでやるってことにも幾ばくかの意義はあろうと思った。

    *3:残念ながら一部の自然志向の施設にあっては「自然におきることなんだから何もしません。諦めてください」と答える施設もあるんだろうけど、そういう施設はできればお考えを改めていただきたい。

  • しんどいときには

    状況が悪いときには、せめて、その状況の悪さを正確に把握しておくこと。受け持ち患者の病状が悪い時とか、どうにかしてこの悪い時をやり過ごしたいと思うあまりに、悪い情報をシャットダウンしたり忘却したりしがちなんだけれども、それをやると、状況が好転したときにどれほど好転したのかがよく分からなくなって、状況にかかわらず延々と自分だけ悪い時を過ごし続ける羽目になる。よくなったときの感動を心の底から味わうのは悪い時をじゅうぶん悪く過ごした者だけの特権だと思う。

  • ジロが始まった

    昨夜は新生児蘇生法の講習会を終え、のこった病棟業務を終え、病態の難しい子のカルテを読み返してうんうん唸って、遅く帰った。夕食をとりながら、そういえばと思ってケーブルテレビをつけてみたら、ジロ・デ・イタリアの第1ステージが生中継されていた。

    最近、ちょっと疲れてたんだけど、ジロをみてわくわくできるだけの余力は残っている。まだ燃え尽きてはいないなと思った。それだけでもありがたい。

    いちどチームタイムトライアルというのを生で見てみたいものだと思う。平均時速54kmとかで走り抜ける自転車の隊列ってどんなものだろう。日本では行われているんだろうか。いちど大原あたりで休憩していたときに、5人組みくらいの隊列が走りすぎるのを見たことがあるのだが、まさに疾風だった。エンジン音がしないんで、いきなりすぐ近くをすり抜けられて驚いた。かなり怖かった。あれより速いんだよな。

    震災に苦しむ日本を応援しようと、日本人として唯一出場するTeam Radioshackの別府史之選手が、特注のリストバンドをつけて走っている。自チームや他チームの選手にも配っているとのこと。彼には頑張って欲しいと思う。
    ひとりじゃない 〜You are NOT alone.〜 | Life is Live! | 別府史之 Fumy BEPPU Official Site

    それにしても。

    2009年のジロではデニス・メンショフダニーロ・”キラー”ディルーカが死闘を繰り広げた。無表情なメンショフとは対照的に、ディルーカの形相は、鬼の形相とはまさにこのことかと思った。
    “キラー”ディルーカ、いまだ総合優勝をあきらめない : CYCLINGTIME.com

    おりしも、イタリアは震災の余波に苦しんでいた。被災した自国民を応援しようという意思をディルーカは表明していた。

    アブルッツォ州ペスカーラに生まれたディルーカは、今日の勝利を最近起きたアブルッツォの大地震の犠牲者に捧げた。彼は「今日、俺は故郷のために勝ちたかった。この目標を達成できて嬉しいよ」とコメント。

    しかし彼はドーピングをしていた。
    ディルーカ、ドーピングを告白 : CYCLINGTIME.com

    どの面さげて、と、私ごときが申し上げては不遜に過ぎるのだろうか。いったい、ドーピングして出場したレースの何をもって被災者を勇気づけようと言うんだろうか。犯罪でも何でもやって復興しろとでも言うのだろうか、と、色々と複雑な思いがした。

  • 予防接種後進国であることに関して・・・いったい何だってこんなことになってしまったんだというお話

    最近、ワクチンに関して本邦は世界に名だたる後進国であることが、世間にも認知されつつある。原子力業界において「それでもチェルノブイリよりはマシ」というのが最後の心の支えであったのと同様、「それでも北朝鮮よりはマシ」というのが、我々の業界内での心の支えであった。後には北朝鮮しかいない、どん尻から2番目の順位ですよというのをあおり文句にしてワクチンを推進している感さえある。

    そういう政治的にナイーブなことをやってると後でツケを払うことになるよと思うのだが、そもそもいったい何だってこんなことになってしまったんだろうということをときどき考えてみる。あのころ、麻疹のワクチンすらまともに接種されていなかった頃、俺たちは何を考えていたんだろう。あるいは、保護者の皆様はどうお考えだったんだろう。

    保護者の皆様のお考えはこんなふうだったよなと、自分の記憶にかなりぴったり来る文章を見つけたので、以下に参照させていただく。この文章を書かれた方に対する悪意とか攻撃的意思はないことを、まず宣言する。不愉快な思いはなさるかもしれないが、市会議員という公的に重大な責任を負ったお立場で発せられたご意見であって、市井のご婦人の懐古談ではないわけだから、多少の反論はご寛恕賜りたいと思う。

    ヒブワクチンと小に肺炎球菌ワクチンの接種、見合わせに: 片山いく子のブログ

    私は予防接種を受けさせるかどうかについては、
    1 感染率が高いかどうか
    2 感染した場合に、重症化する可能性がどのくらい高いかどうか
     を考えて、必要最小限のものだけに限定してきました。

    まさにこれこそが、あの頃の賢いお母さんの態度であったと、私は記憶している。

    惜しむらくは、災難が我が身に降りかかる可能性をつい低く見積もってしまう人間の心理の常で(福島に大津波が来る可能性をどれだけまじめに考えてた?)、感染率や重症化の可能性については過小評価されがちだった。

    麻疹が死ぬ病気であると、当時どれほどの人が考えていたか。「はしかのようなもの」という比喩は、致命的な状況に対する表現であったか。水痘にしても、健常な免疫力のある子には死亡の可能性は低いが、大人は死ぬ可能性がある。免疫不全の子には致命的である。

    過小評価は親御さんを責める資格は我々業界筋にはない。化膿性髄膜炎におびえながら、しかし肺炎球菌ワクチンやHibワクチンの効果について海外での実績を聞き及びながら、それでも今日の自分の外来に化膿性髄膜炎の子がくるかもしれないってことをマジメに考えていただろうか。まじめに考えていたなら、あのころ私らはもっともっとこのワクチン導入をもとめて強く声を上げるべきだった。

    予防接種で得る免疫よりも、自然に感染して得る免疫の方が、より抵抗力が強いと思うからです。
    つい数年前の若者の間で起こったはしかの流行は、予防接種で修正免疫が得られないことが明らかになりました。

    その一方で、予防接種のほうが自然感染よりも副作用がはるかに少ないと言うことは忘れられがちであった。たとえばおたふくかぜにしたって、自然感染後の聴力低下の可能性が従来見積もられていたよりかなり高いことが最近知られてきた。片側であることが多いので見落とされているだけではないか。ステレオで音楽を聴いていないってことに、iPodを買ってもらって初めて気づくことになる。

    麻疹の若年者への流行に関するコメントは不正確である。予防接種で終生免疫は得られないんじゃなくて、麻疹に関しては1回だけの予防接種では終生免疫は得られないというのが正しい。昔はまともにワクチンを接種してなかったから、世間に麻疹ウイルスの野生株がうようよしていた。予防接種をしたあとも、ときたま野生株に接触しては、そのつど免疫が賦活化されていたから、発症しなくて済んでいた。近年はワクチン接種が普及し、結果として野生株の流通が減って、野生株に接触する機会が減った。そのために、1回だけのワクチンでは発症を阻止できるほどの免疫が維持できなくなった。それを考慮しての、麻疹ワクチンの接種回数の増加である。2回で終生免疫を狙っている。

    終生免疫に関して言わせていただく。片山先生には申し訳ないが、鬱積するものがあってつい表現が荒くなる。一生もんじゃないってのをそれほど言い立てられることが、ワクチン以外にはどれだけあるだろうか。一生勤められる訳じゃないってんで就職を諦めて一生ものの生活保護を受けますとか、一生憶えてられる知識が得られないってんで学校に行くのを止めて一生ニートで過ごしますとか、一生添い遂げられると決まったわけじゃないってんで結婚を諦めますとか、そんな選択があり得るだろうか。およそワクチン以外の選択に関して、単なる商品の購入じゃなくって重大な人生の転機にあってさえ、そういうふうに終生続くかどうかが選択の根拠にされることがどれほどあるだろうか。

     予防接種については、一人一人がリスクとメリットの両方から慎重に判断できるように、正しい情報をきちんと伝えていくことが必要だと思っています。

    個人の防疫という観点では、真っ当なご高見である。

    しかし、その一人一人の観点での損得勘定には、たとえば麻疹ウイルスの根絶といった公衆衛生学的な視点は入ってこない。麻疹ウイルスの根絶にはワクチン接種率95%以上を確保する必要があるのだが。じっさい、現在のお母さんたちが、愚直に(と敢えて言おう)MRワクチンを接種するようになってから、本邦でも麻疹の患者数は文字通り桁違いに減少している。

    しかし当時、このような公衆衛生学的な観点でものを言ったら袋だたきに遭っていたということも、あえて証言しておきたい。社会を守るために子どもを犠牲にするのかと、厳しいおしかりを受けていた。それが怖くて黙ってたという自分たちの業界の臆病さ、触らぬ神に祟りなしということでワクチンには極力触れないようにし、個別接種と言われても自院では関わらないようにし、というのがあの頃の自分たちの怯懦な態度であった。触れないようにするから勉強もしない(他にも学ぶべきことは山ほどあった)。勉強をしないからワクチンの必要性が身にしみない。悪循環。

    たとえば、実際のところ夜間救急外来で発熱の小児を診察するということの意義の大半は化膿性髄膜炎の早期診断にあるのだが、化膿性髄膜炎におびえつつ、髄液穿刺をして出てくる膿のような髄液に目の前が真っ暗になりつつ、それでも、これがワクチンで防げる病気だとはあの頃は思っていなかったなと、忸怩たる思いでふりかえっている。

    「みんなの意見」は案外正しい

    「みんなの意見」は案外正しい

    みんなの意見は案外正しいってことも、世の中には確かにある。しかし、みんなの意見の総和だけでは見えてこない次元というのも、世の中にはあるんじゃないかと思う。

    しかし、昨今の医療状況では、加えて、
    「子どもの症状が悪化したとき、すぐ受診できる環境にあるかどうか」
     ということも判断材料にしなければならない、という現実があります。

    僭越ながら春日部市民病院のウェブサイトを拝見した。たしかに、24時間の小児救急を維持するのは不可能だろうなと思った。それは春日部市民病院の瑕疵ではなく、この人口規模の市民病院ではそれが当然だ。小児救急はそれほどたやすい事業ではない。すぐ受診できないからこそワクチンで病気をなるだけ防ぐという論であれば、たしかに本件は判断材料となる。

    しかし逆に、うちには完璧な小児救急態勢があるからワクチンは要らない、というお話になるようなら、それは間違いだと思う。いくらすぐ受診されても、受診時にはすでに重症化しており、生命の危機や後遺症が避けられないということは、あり得る話である。やはりできるだけの予防対策をとったうえで、それでも発生する緊急事態を小児救急で救うという、何段にも重なった対策がとられるべきである。

     これだけの財源を、小児科の救急体制を整備することに充てたほうがいいようにも思うのですが、そのような議論がされた、という情報は得ていません。

    春日部市ウィキペディアによれば人口24万人弱でさいたま市に隣接しているとのこと。そのような自治体で4億円かと、大変勉強になった。

    しかし、その4億円を削って小児救急体制整備といっても、小児科医は集まらないんじゃないかと思う。当地の子供たちは肺炎球菌やHibのワクチンは接種してませんから救急外来で化膿性髄膜炎や敗血症やを見逃さず、一人も死なさず後遺症も出さず完璧に治してくださいって言われても、そんな理不尽に恐ろしい土地の小児救急なんて私なら勤務は願い下げだ。

    それに4億円で支払うことになるのは小児救急の費用ばかりではなくなるだろうと思う。障害を残した子の障害児者医療や福祉の費用とか、診療を巡って市民病院相手に起こされた訴訟の費用とか賠償費用とか、いろいろ他に出費が生じると思う。*1

    金銭で片付かないこともあろう。失われた生命とか、後遺症によって失われたその後の人生の機会とか、そういったことは値段はつかないと思う。小児救急は小児救急で、別口で拡充していただきたいと思う。

    我々小児科の業界内においては、こういう損得を勘定したらワクチンの費用対効果比はおそろしく大きいってことになっていて、損得勘定ではワクチンはほとんど無敵であるというのが常識になりつつある。片山先生の仰る「そのような議論」というのが、医療業界内部でなされる議論をさしたお言葉なら、ほぼ決着済みであるとご報告申し上げたい。市議会や当局での議論ということであれば、このような観点からワクチンと小児救急をともにしっかりとやっていただく方向で、片山先生のご活躍に期待したいと思う。

    *1:医者相手の怪談話を披露すれば、市民病院で発生したそういう賠償については、市が支払った後、あらためてその診療に当たった医師を懲戒免職にしたり医師相手の訴訟を市が起こしたりして医師個人から回収することになると聞いたことがあるんだが、使えるワクチンも使わないままそんなふうに医師を使い捨てることを前提にした小児救急態勢なんて、なおさら願い下げである。怪談話に過ぎなければよいのだが。