お受験の時にはワクチン接種歴についても聞かれるんだろうか

現在、おそらく名門と呼ばれる幼稚園や小中学校へ受験して入学しようとする動きはますます強くなってるんだろうと思うのだが、その入試の面接の時、各種のワクチンの接種歴について、尋ねられることはあるんだろうか。尋ねてみたら、学校側にとってもいろいろと興味深い所見が得られるんじゃないかと思う。狭義の医学的なことだけではなく、親御さんの公共とか道徳とかに関する考え方についても。

ワクチン接種したらキャッシュバックってアイデアはどうなのかな

NICUで夕方の回診後にだべってて思いついたんだが、ワクチンの接種をさらに推進する方策として、ワクチン接種時に500円とか1000円とか、親御さんにキャッシュバックってのはどうかなと思った。思いついただけであんまり深い検討はしていないんだけど、我ながら意外によい着想なんじゃないかという気がする。
良識的には、ワクチン接種の結果として子が感染症への抵抗力を得るってのが、親にとってのワクチンのメリットで、それ以上の現世的なメリットを求めるのはあんまり上品なことではないはずなのだが、しかし、そういう理屈が通らない親御さんもたぶんあって、そういうところの子ももれなくワクチンを接種しなければ、ある一線で接種率は頭打ちになるんじゃないかと思うのだ。たとえば麻疹の根絶に必要とされる、95%以上という数字はまず達成できないんじゃないかと思う。
そんなことに予算を回すのかとおかんむりの向きもあるかもしれないが、すでに麻疹の接種1回に9000円強の予算が行政と病院の間で動いているはずなので、キャッシュバック分をもうちょっと足すとかして親御さんに回せば、さらっとこの95%が達成されちゃったりして費用対効果も大きいんじゃないかと思った。そう思うのは私が世の親御さんの品性を見下しているってことなんだろうか。あるいは臨時に行われている中学生高校生への麻疹風疹混合ワクチン接種も、なかなか接種率が上がらなくて関係者は難渋しているが、ひとり500円出してやれば一気に解決ってことはないかな。
なにさま、個人の良識と自己責任の理屈にばかり頼っていては、公衆衛生の悲願である麻疹の根絶はなかなか果たせないように思う。他の課題に関しても、たぶん公衆衛生っていう分野は、世に思われている以上に泥臭い分野なんじゃないかとも思うし。どれほど正当な道理を説いても言うことを聞かない人らに、言うことを聞かない君らの自己責任と言ってしまっては、たぶん成り立たないのがこの分野なんじゃないかな。
そう書いてて新約聖書の放蕩息子の話を思い出したのだが、キリスト教的にそれは正しいのかどうか。これがこの放蕩息子の話の正しい理解だったとしたら、キリスト教圏では公衆衛生の活動は理解がされやすいのかもなと思った。
そのキャッシュバック500円のうち200円くらいは病院の取り分から出してもいいよってのが、小児科医の良識かとも思うが、それは経営に関して脳天気な立場に居るから言えるきれい事かもね。キャッシュバックの額で病院どうし患者さんを取り合うようなお話になっても下品だし。

OFFなのに雨

今日は当直でも待機番でもなく、一日自由に使える日なのに雨。
ロードを買って以来、クロスバイクは主に図書館とか大学とかへ行くときの街乗り用になっているのだが、今日は久々に手入れをする。チェーンを洗って油をさすだけのつもりだったのだが、よくみればディレイラーもスプロケットもブレーキも泥だらけだったのでけっきょく大掃除になった。ワコーズのブレーキパーツクリーナーを吹き付けてはブラシでこすり、ウエスで拭き取る。今度晴れたら図書館へ行くのが楽しみ。
娘の友達があそびに来ていた。昨夜はそれとなく、明日天気になったらいいねとか言ってたが、たぶん自転車に乗ってどっか行っててくれということなんだろうなと思った。娘にとっても今日の雨はうっとうしい雨だった模様。来た友達はいつもきちんと挨拶のできる子で、こういう子もいるのになんで最近の若い子は云々と腐されなければならないのだろうと思う。
昨夜は古田織部に関するNHKの番組を観た。NICUも茶室のように、すみずみまで配慮を巡らして、五感の全てにつくして赤ちゃんを迎えるような整え方ができないかなと思った。

乏しいリソースを分配する

「発展」と「アフリカ」 – 過ぎ去ろうとしない過去
この秋から冬にかけてのインフルエンザワクチン接種で、医薬品が足りないという状況を経験した。金を出しても正当性を訴えても医薬品が手に入らないというのは初めての経験だった(神戸の震災の時も同じような状況があったのだろうが遺憾ながら記憶にない)。
リソースが足りない状況での人間の行動というのは浅ましいものだとつくづく思った。それでも私の患者さんは、お子さんは現状でワクチンの優先枠に入るほどの重症ではありませんと申し上げたら聞き入れてくださる方ばかりで、ありがたいことだった。しかし目を外に転じれば、昔の人はこういう状況を餓鬼道にたとえたのではなかろうかとさえ思える言動に接することも再々で、いろいろと考えさせられた。
ワクチンひとつ足りないだけでこれだよという記憶の新しい身で、トラックバック先のアフリカのこと(さらにその言及先のエントリまで)を拝読したのだが、やっぱり腹のふくれた人間は腹の減った人間のお作法についてあんまり居丈高なことを言っちゃいけないなと思った。腹のふくれた人間自身、いざ腹が減ったのに食料が手に入らないという状況になってみれば、どういう行動に出るか知れたものではない。と、今回の新型インフルエンザワクチン配給と接種の過程で学んだ。

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草食系男子という概念には自然科学的な妥当性があるんだろうか

草食系男子なる概念について書かれた書籍を読んで、妻と娘が、これってお父さんのことだよねと言って笑っていた。
私の個人的評価に関しては局所的な話だからまあどうでもいいとして、いったいこの草食系男子なる比喩表現を用いた人々の中に、草食獣というのがどれほど獰猛で扱いにくいものかご存じな人っているんだろうかと思った。草原でおとなしく草を喰ってる従順で無害なやつらと思っておられるのなら、かなり科学的事実とは異なるんじゃないかと思うのだが。どうだろうか。
なにさま、世界にいま飼われている家畜には、みごとに、アフリカ原産ってのが居ないでしょうよ、と、娘相手にジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の受け売りをしてみる。どうやっても飼い慣らせなかったってことなんだからね、と。父親をどう思うかに関しては、まあそれなりに相手してくれてればいいと思ってるけど、自然科学的な観測にもとづかない空想上の比喩を使うような言説のありかたを見習ってもらっては、いちおう理系のつもりの父としては心外なのだ。

朝青龍引退

かねてよりファンの末席に連なってきた者として、朝青龍の引退は衝撃であった。力士の力はただ事ではないから、力士ではない者への暴力沙汰というのはいかにも致命的で、さすがに引退は仕方ないかなとは思う。ただその事実関係の経緯については詳細不明にて何とも。かの第60代横綱双羽黒の引退の騒ぎも、今にして振り返れば双羽黒側にずいぶん不当な経緯だったと聞くし。
けっきょく本人も師匠も周囲も彼の強さを扱いかねていたんだろうと思う。人智を超えて神から授かったとしか思えないような理不尽な強さであった。ただ強いと言うだけで横綱になった、たいへんシンプルな横綱であったと思う。今後も、史上最強の横綱は誰という話題になったら、かならず彼の名前が挙がると思う。
そのシンプルさ故に私は朝青龍が好きだった。弱いんだけど頑張ってますみたいな判官贔屓の必要な強さではなく、本当に彼は強かった。白鵬もかわいそうに、これからいくら頑張っても、ここに朝青龍が居ればという呪詛から逃れることはできない。居ない人は倒せない。
ただその強さを誰も(本人すら)コントロール下に置けなかった。それをコントロールしようと口喧しかった人の職業が脚本家だったというのもなにか象徴的な話だったと思う。彼女は自分の脚本みたいに彼を操りたかったんだと思う。ただ彼女には気の毒だが、彼女が脚本を書いたドラマに、朝青龍が活躍した大相撲ほどにおもしろい作品をひとつも思い出せない。たぶん彼女はその作品に寄らず、朝青龍の天敵として、後世の記憶に残るんだろうと思う。
それをコントロールしようとして、土俵での仕草がどうだとか左利きなのがどうだとかいったあれこれの、およそ大人が大人に対して言うこととは思えないハラスメント的なご指導が幾たびもなされた。それは朝青龍が他の意見に耳を貸さないことに言い訳するネタを与える以上の意義を持たなかった。逆に、彼が再々に渡って稽古場でライバルを負傷させてきたとする醜聞に誰か何か言ったか?と問いたい。何か言うならそこに言えよと思う。それを指導できない相撲界には指導できないだけの事情があるんだろうけれど。いったい大相撲の歴史を振り返って、朝青龍に石を投げて追放できるほど美しいありかたであったか?
なにさま、神が与える力士の強さすらコントロールのもとに置きたがる性根が、ひどく嫌らしいものに思える。人智を超えたものにたいする畏敬の念のなさ。まさにそれを象徴したのが、朝青龍の優勝をまぐれと断じた、かの女性脚本家の態度であった。自分に理解可能な範囲を超えたことを矮小化して片付けようとする態度。いったい国技に対する敬意があるのかと彼女にこそ問うてみたかった。
一頃盛んであった医療バッシングにも通じるものを感じて、朝青龍の攻撃され方には他人事ではないものを感じる。死こそまさにコントロール下に置けないものの代表なのだと思うが、それすらを尊厳死とか何とか言ってコントロールしようとし、予期しない死には医師の訴追を持って報いる、その同じ考え方が朝青龍の強さを許容しなかったのだと思う。
がんばれ朝青龍

フーコー先生によると

フーコー入門 (ちくま新書)

中山 元 / 筑摩書房

本書を読んで氷解した疑問
1.MRSA対策とか動脈管開存症の診断治療とかで、大きな施設に自分たちはこうやってるってだけの根拠で偉そうな断言をされていちいちむかつかなければならないのはなぜか。
2.そうやってむかつきながらも表面上ははい仰るとおりでございますとへいこらさせられてしまうのはなぜか。
3.いい大人でプロフェッショナルなはずの我々が、夏休みのラジオ体操よろしく学会参加証のスタンプやらシールやら集めて専門医云々言って汲々しなければならないのはなぜか。
たぶん3にはマルクス先生も仰りたいことがあられると思う。

死が一瞬のものではないということについて

冬の極北からの知らせ Life in the North
文化によっては死が一瞬のものではないということを、脳死云々の議論で読んではいたが20年来よくわからなかった。この記事を読んで、なにか眼が開いたような気がした。引用元に綾をつけるようで恐縮だが、書き留めさせていただくことにした。
こういうおばあちゃんが亡くなったという知らせは、こういうおばあちゃんがお住まいだった土地ではなかなか即時には伝わらないものじゃなかったかと思った。アラスカなんて行ったこともないので想像だけで(星野道夫さんとか野田知佑さんとかの著書で読みあさったことも参考にして)申してますが。なにさま、どこそこの村にどういうおばあちゃんが住んでいると、ときどき思い出しては、その人徳のおかげで思い出した人の幸せ度がちょっと上がる(たとえばファイナルファンタジーとかで白魔導士が「祈る」コマンドを一回実行したくらいのコストなしの小回復が得られる)みたいなおばあちゃんがあって、連絡をとろうにも物理的にはそうとう遠隔だからそう簡単には連絡がつかない、便りの返事も数週間とか数ヶ月とかのようなところに住んでおられて、そういうおばあちゃんなら、亡くなったと聞くその瞬間まで聞く人にとってはまだ生きておられるんじゃないかと思った。そうして時をおいて聞く訃報には、即時に伝わるニュースの生々しさはなくて、伝わった時点である程度枯れた感じがするようになっていて、ああ亡くなったかと淡々と受け止められる感じになっているんじゃないかとも思った。そういう訃報に接したときの受け止められかたは、その瞬間に全く100%生きていた人がある瞬間からすぱーんと100%の死に移行するんじゃなくて、生と死のあわいの霞のかかったような領域でやんわりと「どっちかといえば生」みたいな領域から、「どっちかと言えば死」みたいな領域へ移っていくんじゃないかと。その二つの領域の差はそんなにどぎついものではなくて、受け取る側がやんわりとその知らせを受け止めて消化するのを待ってくれるようなものではないかと。
そういう人なら、亡くなった後で思い出しても、そんなに痛切な心の痛みはなくて、それなりに暖かく思い出されて、思い出されるうちにもだんだんと遠くなっていかれて、そのうちにみんなの心の中でその人の死が納得される、そうなるまでその人は完全には死んでいないというか。物理的な遠隔さの故に亡くなったという情報が即時性・同時性をもって共有されない、それ故に残された人にとって、人はだんだんと死んでいくものではないかと。昔はみんなそうだったんじゃないかとも思う。
仏教の知識はあんまりないけど、「成仏」というのはかなりこれに近い感じの概念じゃないかと思うのだが。
などと勝手な思考をくだくだ述べた後で恐縮ながら、これも何かの縁と思い、エディスおばあちゃんのご冥福を、お祈りさせていただきます。

長所を聞かれて息子は

昨日は総合支援学校高等科への進学へ向けて、相談会へいってきた。夫婦と長男とで、養護学校の先生お二人との面接であった。
けっきょく職業科からは「言葉が不自由だと指導困難」とのことで、何回か体験実習へ言ったあと、中学校を通じてやんわりと断りが入った。そりゃあそうだろうねと思ったからあんまり横車は押さないことにして、普通科希望へ鞍替えした。昨日は普通科の面接。
いったい、これで合否を決める「面接試験」なのか、それとも入学はもう内定済みでその後の指導方針について両親の意向を確かめる目的の面接なのか、いまひとつ位置づけがわからない面接ではあった。まあ両方なんだろうと思った。あんまり極端な要求を出したら、受け入れ不可能という結果になるんだろう。
面接で息子は、自分の長所はどういうところだと思いますかと聞かれて戸惑っていた。自他の比較という発想そのものがたいへん希薄な人なので、そういうことは全く考えたこともないといった顔だった。墨を吐くことについてどう思いますかと聞かれた鯛のような顔。いやそりゃあタコがすることだろうと答えられればよかったのだろうが。
自他の比較をしないとどれだけ日々を心安らかに過ごせるかという見本のようなあり方を、息子に日々教えてもらっている。おそらく、勝間和代さんに勝てるのは香山リカさんじゃなくて、うちの息子だ。

新生児蘇生法インストラクター講習会を受けてきた

昨日は岩倉の京都国際会館で行われた新生児蘇生法のインストラクター講習会を受講してきた。講習後のテストの採点結果を待っているところだが、まさか落第するほどひどい答案を書いたとは思えないので、おそらくあと一ヶ月もすれば合格通知がいただけるはずだと思っている。その後の手続きを済ませてインストラクター資格をいただいたら、医師や看護師・助産師を対象とした新生児蘇生法の講習会を開催することが可能になる。
そんなことを公言しておいて落ちたらかなり恥ずかしいけど、でもまあNICUを一個預かる立場にあって新生児蘇生法の試験に落ちるようではいかんだろうとも思う。隠してすます問題でもなかろう。

赤ちゃんの10人に一人は分娩後になんらかの処置を要するし、さらにそのうち10人に一人(全体の100人に一人)には本格的な蘇生を行わないと生命や発達に危険が生じる。ある程度は分娩前に予測はつくものだから、すべての分娩に等しく100分の1で心肺蘇生の確率があるとはいわないけれど、でも心肺蘇生の必要が生じる確率が数百分の1とか数千分の1でもあるのなら、やっぱりその場には蘇生術ができる人間が誰か居たほうがいいに決まっていると思う。
蘇生術で一番肝心なことは、適切に開始するということだ。蘇生ったってテレビの「ER」とか少年サンデーの「最上の命医」でやってるようなハードなお話ではない。バッグ&マスク蘇生でだいたい片付く。たまに気管内挿管をする程度である。臍カテ入れてエピネフリン投与なんて私もほとんどやった記憶がない。手技はごく単純なことだ。だから一番肝心で、おそらく一番訓練を要するのは、いまここでこの子に蘇生を開始せねばならんという意思決定なのだと、私は思う。米国の学会が「すべての分娩に新生児の蘇生を開始することのできる要員がすくなくとも一人、専任で立ち会うべきである」(太字筆者)と述べているのも、そういう考え方からだろう。