飼い猫に顔を掻かれる

16日の休日に当直明けで帰って昼寝をしていたら、猫のどれかに顔を引っ掻かれた。4匹もいるとどれにやられたんだかよく分からない。たぶんにゃん黒だろうと思っているのだが。私が寝るといつも寄り添ってくるので。たぶん誰かに挑発されたんだろう。
7kgもある重量級の猫が顔の上を駆けたにしては軽傷で済んだが、しかし一夜あけてもむろん切創が残っている。仕方がないので一日マスクをして過ごした。そのためか新生児搬送に行ったさきの産科の先生に疲れてるんじゃないかと言われてしまった。やれやれ。まあ確かに疲れてますけどね。
べつに顔を晒していてもいいんだろうけれども、たぶん夫婦喧嘩したんじゃないかという冷やかしがあるんだろうと思った。私はその手の冗談は好かない(カエルラ・サングウィス風に)ので、マスクは「触れるな」というメッセージ代わりのつもり。

万年筆フリーク

スーパーローテートで来ている研修医が万年筆を使っている。普段からなんだか高級そうなのを使っているので、単によいところの坊ちゃんなんだろうと思っていたが、先日は白衣のポケットにラミーサファリをさしていたので、これは本当に万年筆好きなのかなと見直した。臨床はあまりろくなこと教えないくせに万年筆談義をするのも気が引けて、病棟ではその話題を振らないでいる。
いちおう私もMONT BLANCのMEISTERSTUCKを持っていたりする。むろん自腹で買ったものではない。妻の身内に長崎でも最大級の文具店の偉い人があって(だから妻は生意気にも子供の頃から鉛筆は三菱ハイユニだったらしい)、その方から頂戴したものである。
さすがにプロだと思ったのは、下さったのが定番149ではなくて146だったということだ。ル・グランとかいう製品系列のもの。149より一回り小さい。それが私の手の大きさによく合う(注)。149が定番なのは本国ドイツ人の手の大きさに合うからだろう。阪神大震災の時に海外から救援物資として届いた手術用手袋は大半が9号だったし、海外の人の手はやっぱりでかいんだろう。手術用手袋なら7号がフィットする私の手には149はたぶん大きすぎる。試し書きもしたことないからよく分からないけど。
‘注)Randomized controlled trial はしていないのでエビデンスレベル高くありません。はは。やってみたいなそういうRCT。
ただ病棟では万年筆はあまり使い出がなかった。というのは病棟で医者が書くものの半分以上が複写伝票だったからだ。3枚複写の退院サマリーなんて万年筆では3枚目が読めない。それでも強引に使っていた時期もあったが、さすがになんだかペン先の調子が悪くなってきたような気がして、いつのまにかボールペンに戻っていた。それが最近はオーダーリングのオンライン化が進み、気がついてみると複写伝票が相当駆逐されている。かえって、昔ながらに医者は万年筆という時代になりつつあるのかもしれない。戦前のように流麗な筆記体でドイツ語カルテを書いたりして。
当初は使い方もありがたみもよく分からなかったということもあって、そうとう荒っぽい使い方をしていたから、先日修理に出したら大半の部品が新しくなって帰ってきた。頂いた当時の部品がどれだけ残っているやら。なんだかトライダーG7みたいですが。でもこの万年筆を大事に使い続けることが私ら夫婦にとっては大事なことのような気もする。他のは買えないねということで、物欲に歯止めをかけている。

謦咳に接する

周産期新生児学会では多くの有名な人の謦咳に接したのが収穫だった。論文や著作やメーリングリストやで名前や意見を知っていても、実際にどういう人なのかは、語り口に接してみるのがやはり一番のような気がする。強面な外見とはうらはらに実に細やかな心配りをなさる先生、理路整然とした発表を良い声でなさる先生、訥々と語る先生、そのほか諸々。誰が優れているとか劣っているとかじゃなくて、なるほどそういう風に語る人なのかという認識をいろいろな人について得たということで。
初対面の私にも細やかにものを教えてくれる先生もある。いかにも老師といった感のある先生であるが(老という漢字にはほんらい尊敬の意味が含まれているのだよ)、こういう著名な先生はたぶん「この先生こそ自分の師だ」と思わせるのが大変に上手なんだろうなと思う。さらには「自分こそがこの先生の目指す先を誰よりも正しく読み取っている」つまりは自分こそがこの師の正当な弟子だと、思わせるのが巧いんだと思う。そういう人のまわりにこそ人が集まるんだろうなと思う。技巧的な人間関係作りだと非難しているわけではない。たぶん老師はいまご自身がいちばん興味をお持ちなことを楽しそうに語っておられるだけなのだ。
地域の中心となって大きな施設を引っ張っている先生はそれなりの強い言葉を使われる。熱心なのは分かるがそんな物言いしてたんじゃ気づいてみたら誰も後ろについてきてないってことになりはしないのかと、他人事ながらちょっと心配になったりもした。引退間際に気づいてみたら自分が引退した後は施設も地域医療も衰退の一途だということになってたりして、と。じゃあ私自身みたいに弱腰な人間なら後ろに誰かついてくるのかと言えば、なおさら人は逃げるわけで。今日も600gの子の点滴に苦労しながら、老眼鏡を買う時分には後継者が現れてるんだろうかと、我が身と勤務先の行く末を案じたりした訳なのだけれども。
そんな中にあって、自閉症はメディアが原因と力説しておられるかのK先生がご発言なさるのを拝聴した。書き物ではトーンダウンしておられるけれども会場でははっきりとそう仰った。その語りと会場の反応を見聞きして、逆説的な言い方ではあるが、多少は安心した。数年待てばよいだけだ。

そのときは彼によろしく

そのときは彼によろしく
市川 拓司 / / 小学館
ISBN : 4094081607
周産期新生児学会で東京に出張した帰りに、新幹線の中で読んだ。
一昔前なら、これは藤原伊織「シリウスの道」と村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を折衷して、さらに「目黒のさんま」の落ちみたいに脂と小骨を抜いた小説だとかなんとか酷評していたんだろう。でも出張帰りの新幹線で読む本にまで見栄を張って小難しいものを選ばないでもよかろうとは思う。たまに頭を空っぽにして幸せな気分になるのもよろしいじゃないか。なにより、主要な登場人物に邪悪な人間がいない。また主要な登場人物の誰も不幸にならない。頭のなかを洗うのにちょうどよい。

久間防衛相がしょうがなくて辞めた

てっきりこの発言は安倍首相の意を汲んだものと思っていたのだが、違ったのかな。米国の対イラク政策に対する批判を口にしてきた久間防衛相が、ここに及んで、選挙区の事情も顧みないかのような発言をするには、何か意味があるのだと思ったのだが。
米国の対北朝鮮政策に軟化の兆しがあるなかで、拉致問題で強硬な態度をとってはいるものの実際に切れるカードはほとんど切り尽くしてしまった安倍首相としては、米国がこのまま拉致問題を置き去りにしかねないという懸念が大いにあろう。拉致問題をあおって業績と称してきた俺の政治生命はどうなるんだと思うと夜も眠れないことだろう。
さらに米国下院での慰安婦問題に関する決議が追い打ちをかけてきた。慰安婦問題に関しては安倍首相のこれまでの言動はけっして米国受けするものではない。下手すると北朝鮮による他国民の拉致と日本の慰安婦問題とか同列に扱われかねない。ここらで強烈に米国にすり寄っておく必要がある。
なんだかんだで「昔はみんな悪だったよね」とか「今から考えたら非道な話だけど当時の事情ではしょうがなかったんだよね」とかいうメッセージを送って、慰安婦問題も「しょうがなかった」ことにしてもらおうという思惑なんだと私は解釈していたのだが。拉致問題もしょうがなかったということにはならないよう、そこは時代が違うんだということで差異をつけることにして。もともと大きな選挙の前には自民党は米国にすり寄るものだし。そういう首相の意を受けての発言ではなかったのかと思っていた。
何にしても安倍首相は久間防衛相を即座に切るわけにはいかなかっただろう。イラク戦争を批判した時点で彼を切らず原爆投下を容認する発言をした時点で切ったとしたら、米国がそこにどういうメッセージを読むかは明白である。せめて「泣いて馬謖を斬る」形にしておかないとねという思惑はあろう。

それでは俺が過労死するのは俺のせいなのか

若者はなぜうまく働けないのか? (内田樹の研究室)
内田先生の説諭で、かつての俺か過労死しかかってたのは「自己責任」だったということがよくわかった。俺は自分でも知らないうちにイラクに行っててムジャヒディンな諸君にとっつかまってたらしい。やれやれ。
正確に言おう。若い人が過労死しても団塊の世代の奴らは自己責任だとしか言わないってのが、よおおおおおおく分かった。実によく分かった。自己責任だと言えばいい理論武装が着々と進んでいるんだ。戦慄の事態だね。もう一つ、倫理的な正しさと論理的な明快さというのが全く別物だと言うことも、内田先生に教えていただいた。全くこの先生には学ぶところが多い。いろいろな面で。
内田先生の論理が通用するのは、職場のみんながみんな一人前以上に働くという前提があってのことじゃないかな。無人島に流れ着いた一家なら家族の皆が皆それなりに働くだろうが。各々の良心を各々が信頼できるだろうがね。スイスのロビンソンが全くの赤の他人ならあそこまでまとまれたかね。赤の他人なら各々が必死になって貝殻を探してきたんじゃないかね。食器がないから巧く食えませんなんてお行儀のいいこと言ってなくて、さ。家族全員分の貝殻を拾ってくるくらいの智慧が自分に働かなかったことを恥じろよ親父!(とか言いながらその親父の職業が医者だったことを思うと私は穴があったら入りたい)。
そんなぬるい小説だからクルーソー氏の漂流記ほど売れなかったんじゃないかね。
無人島に流れ着いて自分らで働かないと食い物すらないって時に、のほほんと寝てる奴が居るような状況ならどうよ。寝ていた奴らに、必死に働いた人間が、寝ていた奴らの分まで働かなかったからとなじられたらどうよ。必死に働いてようやく一人喰っていけるかどうかの食料をかき集めたときに、「努力の成果は占有してはならず、つねに他者と分かち合わなければならない」とかなんとか言ってそのかき集めた食料を寝てた奴らに強奪されるのが、それが「社会のルール」なのか?

「お前は当直中に回診しておくと明けには効率よく休めることに気づいたのだね?」
当直医は誇らしげに「そうです」と答える。
すると診療科長は厳しい顔をしてこう言う。
「では、なぜお前は患者を全員回診しようとせずに、自分の分だけ回診したのだ。お前には当直明けに休む資格がない」

私は39歳くらいの現在でもこんなエピソードにでくわしたら、「がーん」とするだろうね。たぶんほかの業界の人でも、内田先生とか雑誌社の人に「うまく働けない」責任が自己責任だよと言われた人には、がーん、とするひと多いんじゃないかな。
とか何とか書いておいて読者諸賢には拍子抜けされるかも知らんけど、私自身はこれまでけっこう戦ってきたから、いまじゃそれほど臍をかむ思いはしなくて済むようになってはいる。NICU入院患者全員を一人で受け持たされてた時分にはつらかったですよ。むしろ今後はパラサイトミドルにならんように自戒せにゃならん年代なんだけれども。いやいや内田先生の説諭は実に勉強になる。でも内田先生の今回の記事が、若い人らの生き血を吸う奴らに力を与えることのないように、切に願う。それが「一般ルール」だと言うのなら、変えるべきはルールのほうである。

無礼の乱打

CS講演の続き。思い出しているうち腹が立ってきた。久々のフラッシュバック。
まず内田先生のお言葉を引用しておく。

これからはお客様である志願者や保護者のニーズを第一に配慮して・・・
でもさ、そういうことを言っている当のコンサル諸君は、キミたちの「お客様」であるところの大学人を「第一に配慮」なんかしてないじゃないか。
「食い物」にしているだけでしょ。
自分がやる気もないことを他人に要求するというのはよくない。

先の講演でコンサルさんがおっしゃるには、東京ディズニーランドで男女の客(恋人かどうかは定かではない)が施設内にカメラを忘れたんだそうな。閉園直後にそれを申し出られて、ディズニーランドスタッフがそのカメラを忘れた場所まで二人をエスコートしたんだと。その道中、別のカメラを二人に渡して『いまディズニーランド全体があなた方二人のためだけにあるのです』とか言ってあちこちで記念写真を撮りながら忘れ物の現場まで行ったんだそうな。
これを見習えとのことだ。病院も。
私たちはすでに、「閉園」などあってないも同然の時間外救急を夜通し行っている。「いま当院はあなた方二人のためにあるんです」どころか、救急外来には時間外の患者さんがひっきりなしだし、新生児搬送の依頼があれば24時間いつでも出かける態勢でいるし。いったい東京ディズニーランドではスタッフが日勤のあと当直で時間外の顧客の相手をしたあと翌日の日勤に出ているとでも言うのか。ネズミの中の人がじつは寝不足で過労死寸前だとでも言うのか。
コンサルさんは顧客としての病院の現状をちょこっとでも調べてからやってきたんだろうか。調べてないとしたら語るに落ちる。病院の現状をわかった上であんなご垂訓ぶりだったとしたら、悪意をもった挑発をうけたとしか思えない。かすたまあ・さてぃすふぁくしょんなんていったいどの口で言えたんだと思う。
医療も崩壊しかかって医療事故という疫病神にとりつかれやすいってのは確かにそうなのだが、ほかにも、弱目を見せると群がってくる手合いというのがあるようだ。ものは何であれ、腐りかけると、腐ったものが好きな獣や虫や菌類が寄ってくるんだよな。分解者というのは生態学的にはたいそう重要なものだと大学で習ったが、しかし日の当たるところに出ても見栄えのよいものじゃないんだよね。ハイエナにしてもシデムシにしても。
ディズニーランドのお話はたしかに感動的だとは思う。本当にあった話ならなおのこと感動的だと思う。閉園後の施設内ってどういう施設でも迷いやすいものではあるし、それとなく監視も必要だろうし、いらぬところに触るなといちいち注意するよりは要所要所で記念写真と称して行動をコントロールしたほうが上品だろうし。さすがは東京ディズニーランドだと思いますよ。ディズニーランドに他意はありません。

病院職員は電気ネズミの夢を見るか

勤め先の病院が全職員対象に、環境変化におけるCSの重要性とか称した講演会を開催した。3回繰り返してやるからどれかに必ず出席することというお達しで、事前に出席予定の調査まであった。なんだか詰まらない予感がしたんで、さっさと済ませるに限ると思って、先の金曜日に開催された初回に登録しておいた。
確かにCSは重要である。適切なタイミングでcesarean sectionに踏み切らないと母児ともに危険にさらされる。これだけ周産期医療をとりまく環境が厳しくなったご時世では正しく帝王切開を行うことは病院の死活問題である。死活問題ではあるがしかし、全職員を集めて地方銀行の関連企業が講演するってのは何か不釣り合いな気がした。
実際にはCSというのはCustomer Satisfactionの略であった。読者諸賢にはご明察の通り、東京ディズニーランドの接客が理想として語られた。ネズミの一派を見習えというご託は私はもう聞き飽きた。コンサルってみんなそう言うんだよね。枕詞はCSだとか何だとか(以前のはみんな忘れたよ)いろいろ変わっても。いったいコンサル君たちは東京ディズニーランドの接客を指導しとるのは自分だとでも言うのだろうか。他人の手柄を他人の職場で自慢して銭は自分がいただくけれど後の顛末は他人の責任でってのは、それはまっとうな商売というのか?そもそも君ら自身は俺ら顧客の満足を考えてるのか?
それでも、俺も出世したことだし、たまにはよゐこな面も見せなければならんなと、前半の講演は我慢して聞いていた。我慢ばかりだとやられ放題な気がして、この人は説教臭すぎるのが原因で銀行から関連企業に左遷されたんじゃないかなとか考えてみたら多少は気が晴れた。そのうち、私のお話はこれくらいにしてとようやく言ったので、やれやれこれで帰れるぜと席を立ったら、後半ではお互い同士で挨拶の練習など実際に行いますなどと言い出した。なんだかもう一刻もその場の空気を吸ってられないような気分になった。まだ帰るところではありませんよという声が羽虫のように背中にまといつくのを振り払って、そそくさと帰ってきた。
しかしこうして病院にやってくる面々の誰もが病院は東京ディズニーランドを見習えと言うってのは、なにか世間に広く根源的な認識として、病院はディズニーランドたるべしという暗黙の要求が出回ってるんではないかと思った。健康保険証という入場パスを買って入場したら、あとは無料で希望通りのアトラクションに入れて、アトラクションでは黙って座ったら座席が勝手に動いて100%安全保障のお楽しみを味わわせてくれて。多少は行列で待つことがあっても職員が完全無欠の笑顔でパレードしてるから全然退屈しなくて。病院にもかくあれと求められているのだろうか。理解できそうな気もするし、医療ってそんなものではないだろうと腹が立つような気もするし。なんだかなあ。
Customer Satisfaction についてはその後、内田樹先生の論評を拝読した。ネズミ話よりもよほどためになったので書き留める。

太陽の塔

太陽の塔
森見 登美彦 / / 新潮社
ISBN : 4101290512
昨日、当直あけの週休で、眠くて勉強する気にはならないが寝るには時間が半端だし気も立ってるしで、買ったまま置いてあった本書を読んだ。愉快な小説だった。京大生男子を描いて何がファンタジーノベル大賞なんだろうと思っていたが、過去と現在やら現実と夢の中やらがごっちゃに入り混じって、まさにファンタジーであった。のみならず、文体の韜晦ぶりも「キャッチャー」に始まる古典の引用も、その「ありがちさ」がいかにも大学生の書く文章の雰囲気を醸し出していて、巧い小説だと思った。
大学の頃ってこうだったなと思った。そうか俺はあのころファンタジーの世界に住んでいたのか。SFは好きだったけど、ファンタジーなんて因果律無視のご都合主義な物語なんか子供の読み物だと思ってたんだがな。主人公は過剰な自意識を相対化できているぶん、大学生の頃の私より偉いと思う。かつての私は、自分が自意識過剰だなんて思いつきもしないほどに重篤かつ深刻な自意識過剰ぶりであった。観念云々言って高橋和巳なんて読んでたし埴谷雄高にも手を出しかけてたし。でも男子学生の頭の中なんて「死霊」よりも本書に近いんだよなと思う。
小説の舞台がまさにいま自分が暮らしている土地だったのが、また特別な気分にさせられる。本書を買った本屋も小説内に登場する(とか何とか本屋が自称して平積みで売ってた)。主人公が行きつけのパン屋も実在である。実在ではあるが店の名前は赤毛のアンにちなんだもので、とうてい安下宿に逼塞する5回生が通う店名ではない。赤毛のアンにはマシューという登場人物もあることだし全く無縁とは言えないか。アルバイト先の寿司屋にも、たぶんあそこだろうなと思われる寿司屋がある(ちなみにかなり旨い寿司屋である)。映画の撮影をしていた廃墟ビルのモデルはこのまえ中台間の帰属問題でニュースになってた光華寮ではないかと思ったが、他にも訳の分からない廃ビルがひょこっと建ってたりする街だから明言は避けたい。避けたいとは言いながら、仁川先生って誰?
男汁がどうたらと女性に縁の薄そうなことを書いていたが、主人公の下宿から目と鼻の先にうちの看護学校があるのにと思った。学校には数年前までは寮もあって山全体が女臭かった。気づいてなかったんだろうか。縁なき衆生は救いがたいものである。
大文字山や鷺森神社もとうぜん実在である。散歩のついでに火床に登ったり鷺森神社まで行ったりするのはけっこう健脚だよなとは思う。さすが運動部員である。火床までの登り道は鬱蒼と木々が茂る昼なお暗い山道だから、よほど慣れないと少人数での夜間登山は危険である。まして夜中に火床で飲酒して帰るなど、あまり真似しないほうがよい。
鷺森神社の近辺からは叡山電車は見えないはずだ。あの辺では叡山電車は住宅地の隙間を縫って走るので、まず見えっこないと思う。だから見えないものがみえるあのシーンはファンタジーである。まあファンタジーなんだからいいんだけど。