ロング・グッドバイ 

THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ

THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ

仮名書きすれば同名になるチャンドラーの名作へのオマージュである。

「私が初めてビリー・ルウに会ったのは夏至の三、四日前、夜より朝に近い時刻だった。」と書き出され、「アメリカ人にさようならを言う方法を、人類はいまだに発明していない。」と終わる小説が他の何だというのか。ラスト近く、チャンドラー作品でも「少しずつ死ぬ」場面で、「葬式なら、自分のだ」と主人公が言う。

作品のプロットもチャンドラーの作品を忠実になぞっている。チャンドラーの作品を読んでいれば何がどうなったかの予測はつく。しかし二番煎じで質が落ちたわけではない。むしろ細部を全く変えてそれでも同じプロットをきっちり保てているところに作者の力量を感じる。

ハードボイルドは周囲の人物が傷ついたり何かを失ったりしていくなかで、主人公だけが何一つ失わないんで、ご都合主義もいいところだよなと思っていた。医者の目から見ればこれほど毎日飲み放題にしていて脳も肝臓も精神も壊さないってことはあり得ないし、これほど何回も意識障害を来すほどに殴られていて脳がどうにかならないってこともなおあり得ない。「ハードボイルドだど」と茶化して読むのが正しい読書態度だと思っていた。

しかし本書を読んで、なるほど一人称で語るってのは、すべてが終わって、得失の決済がひとわたり終了した時点から振り返って語るから、一見して失うものがなかったように見えるんだなと思った。何も失わなかった訳じゃなくて、主人公はすでに冒頭の時点で失うものをあらかじめ失いきっているのだ。

決済をすませた立場からだと、喪失のその場での痛みも過去のものになる。過去の痛みには超然としていられるように思える。すんだことなのだし。それが目指すべき態度なのかどうかはわからない。そういう生き方をしていると、けっきょく状況を何も変えられないまま独善的に落ちぶれていくしかないようにも思える。

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