iPadなど電子新聞実現に思わぬ壁─爪切りに使えず : bogusnews
先だっての自宅分娩礼賛の記事を読んで、この期に及んでこんな記事書くようじゃもうだめかなと思ったけど、まだまだ存在意義はあるようだ。兵庫の山中で自然な生活をなさるにも、焚き付けやなんかで重宝することだろうし。
iPadなど電子新聞実現に思わぬ壁─爪切りに使えず : bogusnews
先だっての自宅分娩礼賛の記事を読んで、この期に及んでこんな記事書くようじゃもうだめかなと思ったけど、まだまだ存在意義はあるようだ。兵庫の山中で自然な生活をなさるにも、焚き付けやなんかで重宝することだろうし。
入院少ないなとか言ってたらまた少しずつ混んできた。ようやく、外へ提示する空床数が世間並みになった。今まで怠けていたのが世間並みに働くようになったというのではなく、うちは内部留保をつけず空床をそのまま外へ出しているので、積極的なだけなのだ、と胸を張っておこう。
もうすぐ小児科部長を拝命しそうな気配だ。何とはなく小児科の運営やなんかについて上層部から話を振られるようになった。いまはNICU部長だけだけど、そうなるとNICUと一般小児科とを総括する立場になる。大丈夫なのかと自分でも思う。なんとなく、出世をきっかけにうつ病になる人が一定数以上あるというのが分かる気がするような心持ちがする。
宮本常一先生の本を読むと、昔のお百姓は息子が一人前になったら壮年期にさっさと隠居してしまって、以降は公務から解放されて新しい畑の開墾とかほんとうに自分のやりたいことを気兼ねなくやったんだそうだ。当主ってのは偉くはあるが、じつのところ地域共同体の仕事にかり出されることが多くてあんまり自家の仕事に専念できなかったらしい。医者も管理業務の繁忙なところは若手がひととおり仕事を覚えたらさっそく譲って、元部長とか顧問とかいった形でじっくり臨床だけに打ち込むってのが、よい人生設計なのかも知れないと思う。病棟や病院あるいは地域全体を見渡しての仕事を覚えることができるから、若いうちに管理職ってのもけっして悪くない。むしろそういうこともじっくり覚えて年功を積んだうえで、自由自在な立場から臨床をじっくりやるというのが理想かも知れない。むかしの隠居が長男にあとを継がせて次男以下をつれて隠居所に移り、次男以下も育てていったように、若い人のお世話も管理業務から解放された立場の「老師」として行うのがよろしいのかも。ということでさっさと後継者を捜そうと今から考えている。
今日はけっこう外来も混んだ。外来をやってて難しい症例(病気そのものが難しかったり社会的状況がややこしかったり)に当たると、部長になったらこういう症例は自分が引き受けねばならんのだなと思う。ほんとに大丈夫なのかな。
昨日は午後週休の後で当直。へんな日程だが、ときには融通の利かないこともある。
当直はただ泊まっていただけだった。勉強をして読書もして、十分睡眠もとった。わずかな入院中の子たちはみな落ち着いていて、その日のぶんの成長を着実にこなしている。
入院がないかなと心待ちにする気持ちも正直あるが、それは誰かのトラブルを心待ちにすると言うことだから上品な態度ではない。あまり強くは願わないようにしたい。そのうえで、もし需要があればまず当院にお声がかかるといいなとは思う。
ほんらい現状が正しい競争のありかたなのかもしれない。これまでは各施設の空き病床を探して空いてるところに入って頂くという形になっていて、紹介元による選択の余地がなかった。
それは限られたリソースを配給するというあり方であって、選択権が配給側にあった。供給側が十分なリソースを提供できていて選択権は受給側にあるという、一般的なサービス業のあり方ではなかった。そもそも配給と供給は違う。その違いゆえに一般的には医療はサービス業たり得ないのだが。
この状況がいつまで続くか分からない。たぶん無期限には続かない。人件費に始まる経済的な費用は日々刻々と必要だし、また診療経験を積み重ねることでしか身につかないスキルもまた、これまでの蓄積が暇な日々のうちに取り崩されていく。経営を考えればどこかで規模の縮小を上層部から打診されることだろうし、医師も看護師もとくに若手は症例の豊富な施設に出してやらないと今後のキャリアにも響くだろう。
どの時点で縮小に転じるべきか、その趨勢を見極めるのにはまだ時間がほしい。いったんNICUを閉じてしまったら、その時点で伝統は雲散霧消する。こういう組織的な仕事には休眠はあり得ない。はっきりとそれは死であって、また必要が生じたからよみがえってくれとと言われてもそうそう簡単なお話ではない。
まあ、不安を感じるのは現状では私ら当事者だけでよいです。当地の皆様には、いま京都では超低出生体重児の入院先も豊富に供給されているんだなと、安堵しておいて頂ければよいと思います。
昼間からブログの更新なんてしていて、まあそれは今日の午後は週休だからってこともあるけど、読者諸賢にはご賢察の通り、たいへんに暇である。
入院が長期になる極低出生体重児が入院しない。切迫早産で母体搬送で来られる方々もことごとく産科管理が奏功して危機を切り抜けてゆかれる。ときに正期産児の新生児搬送依頼もあるが、正期産児はそれほど入院が長くならない。さっさと元気になって退院してゆく。
それは大変にめでたいことなんだろうと思う。反語や皮肉抜きで。もとよりトラブルシューティングを生業としているものにとって、トラブルが未然に防がれているのは理想的状態だし、それで自分らの仕事が無くなっていったとしても、それはそれとして淡々と受け止める話なんだろうと思う。
京都のNICUの空床状況を見ても、どの施設もいつになく多くの空床数を提示している。どこも閑散としているのだろうと思う。むろんどこもかしこも空床0のときに自分のところだけ空床1と提示するのと、どこもかしこも空床1とか2とかのときに自分のところも空床1というのとでは、必要とする度胸の程度が違うだろうとは思うけれど。私らの施設が空床3でコメント欄に「超未熟児歓迎」云々と入れているのだから、他の施設にはそうそう手に余る赤ちゃんをお願いすることはないはずだし。
少子化は進んでいるがそう簡単にNICUが余るわけがなし、とは思うのだけれど、あるいは奈良や滋賀でもNICUの整備が進んで京都へ越境してくる搬送が少なくなっているのかもしれず、あるいは妊婦健診の公費負担の回数が増えたためかもしれず、なにさま現在のところは新生児以外の一般小児科の仕事をしながら、忙しいときには読めない文献など読みながら、状況の推移を見守っている。
もちろんみんな元気にトラブルなく分娩にいたり、NICUなんぞとは縁無く育ってゆかれるのが最善ではあるのだ。私らが他に職を探さなければならなくなっても、世の中全体としては良いことなんだと思う。
妻が図書館から借りていたのを、病院から帰ってから読んだ。勉強になった。
急激にいろいろ詰め込んだので頭の中がガンガンしているが、とりあえず、「そういうこととはつゆ知らず」だったあれこれを書き留めておく。
などなどいろいろと勉強になった。むろん再読は必要だろう。ということでいずれ購入することにする。
本書の難点をあげれば、あんまりお年寄りを悪く言うもんじゃないよ、というくらいか。世代間格差を強調するあまり、「ひとーつ ひとの生き血をすすり」「ふたーつ 不埒な悪行三昧」みたいな醜い浮き世の鬼あつかいだ。鈴木君(と同世代の彼をあえて君付けで呼ぶが)、きみには親がないのか? 私自身としては、この世代間格差がなくては最低4人の老人を扶養しなくてはならなくなるんで、仕送りしなくて済んでいるぶん、現代の年金制度の恩恵を受けていると思う。十分受けていまそれなりに食うに困らず子どもたちも養えてるんで、将来はこの子らの世代をむしることはしないようにしようと思う。俺らの世代でこの世代間格差の連鎖を断ち切らんといかん。
「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った? ~世界一わかりやすい経済の本~ (扶桑社新書)
続いて本書を読んだ。
「年金は本当にもらえるのか?」において鈴木氏が論破していた厚生労働省の主張を、そのまま繰り返した本だった。「社会保障国民会議」の一員として議論に参加する中で(って最初のうちは何を議論しているかもわからなかったと告白しているあたり、この会議とやらのお里が知れるが)、年金について学んだとのこと。この会議にしたって鈴木氏によれば厚生労働省の御用会議なんだし。
当然のことに本書の内容は鈴木氏によりきれいに論破されている。なんだか解答を先に読んでから問題を解いたような気分だ。あるいは犯人を先に明かす刑事コロンボとか古畑任三郎とかの番組を見た気分だ。年金制度は破綻しません、って、制度の会計は破綻しなくてもさ、このままじゃ将来恐ろしい人数の年金もらえない老人を生み出すことが確定なんだけど、それって年金制度の本質として破綻してるって言わない? 僕ら医者が「病気は治ります。患者さんは亡くなりますけどそれが何か?」って言っても君ら納得しないよね。
それにしても著者は骨の髄から予備校の先生なんだなと思った。教えることの内容には疑問を持たず持たせず、どんな内容であっても効率よく解説して相手の頭にたたき込むというのが著者の神髄なんだろう。年金制度の問題点を解明しろなんて彼には専門外だが、年金制度に関する厚生労働省の官僚や関係者の語りを聞き手に疑問を抱かせなず丸ごと信じ込ませるという点においては恐ろしく適役だ。それを見抜いて著者を巻き込んだ厚生労働省のプロパガンダ力は決して侮れない。
いくつか気になったことを。
NICUの入院患者数が少なくて閑散としている。京都府の空床情報を見てるとどこの施設も似たり寄ったりの模様。
午前中は新しく買ったaEEGを試し、午後は時間外外来のあいまに新生児脳波の教科書を読んでいた。外来もどっちが合間だか分からない程度。みなさんお元気なのは何よりなのだが。
たまには医学書も読んでいる。
医局秘書さんから、アポイント希望が入ってますとメールがあった。
【MRアポ】と表題に書かれたメールを見るとどよっと気分が悪くなる。読者所見におかれても、訪問販売が行きたいと言ってますと知らされて心が晴れる人はそう居られないかと思うがどうだろうか。しかも、何を売りたいのか分からなかったりすると、なおのこと。
秘書さん宛に届いた、私とのアポイントを希望する旨のメールが転送されてくるのだが、それならそのメールに用件を書いておいてくれよと思う。読むだけなら1分もかからんのに。詳細を知りたいと思えばメールで問い合わせるし(そのために病院からアドレス支給されてるわけだし)。そのほか95%以上の場合には単純に黙殺すれば済むのに。
昨日は休日外来で終日病院にいて、今日は代休である。代休がとれるほどマンパワーが充実するなんて夢のようだ。
休日出勤や当直の代休をとるためには、何曜日の午前の外来は誰という担当を流動化させる必要がある。でなければ、たとえば月曜午前の外来担当と決めうちされている医師は日曜日の代休を翌日には取れないということになる。もちろん代休は基本的な権利であるが、どうせとってもらうなら激務の後の疲れているときにとってもらって十分にリフレッシュしていただくのがよろしいと思う。
で、外来には代診をたてることが多くなる。誰それ先生の外来だから行く、というご期待には沿えないことも多くなる。しかし、無理を押して外来してても、睡眠不足で疲労困憊していてはどうせご期待には沿えまい。それよりは、同じ水準の診療をする医師が代診している方がよほど患者さんのためになる。
診療水準をそろえるためにも、ふだんから独善に陥ることなく、共同で勉強をしなければならない。代休一つにもいろいろとやることがある。
そういうことを考えながら、兵庫県の施設まで搬送に行ってきた。代休だと言ってこういうことに時間を使うようでは下に示しがつかないとは反省している。最近の若い者は容赦なく代休にはきちんと休むからいいけどね。
それにしてもよい施設だった。外来者には笑顔で挨拶するという習慣は疲れた心身に染みる。それだけでもよい勉強になった。今後は部長としてはNICUスタッフに挨拶と笑顔についてちとやかましく言わねばならん。というか自分でやって見せたらたいがいは見習うだろう。
ちょうど昼だから食堂で昼食を召し上がってくださいと言われ、運転手二人とともにありがたく頂戴して帰ってきた。ちょうどテレビでは野球場のすみで高校生が穴を掘っていた。いろいろな若さの形。
小児外科転科の子を転院搬送。
最近、不思議にどの病院も愛想よく転院を引き取ってくださるようになった。昔は「渋々」感が電話口の向こうにひしひしと感じられたものだったが。あのどんよりした不愉快さはどこへ消え去ってしまったのだろうか。今ははつらつと仕事をする先生が、文字通り「喜んで」依頼を引き受けてくださるようになった。慶賀の至り。というか、めでたいめでたいと喜んでないでしっかり見習わないと。たまには私自身、転院を依頼される立場になるんだし。
頼まれるほうの態度が変わったのか、頼む私の態度が変わったのか、どっちだろうと思いながら帰ってきた。たぶんあの頃とは「中の人」が交代してるんだろうから、頼まれる側としては何の自覚もない可能性も高い。とはいえ私が思うに、頼まれる側で変化したのは「中の人」ではなくてその背後の人なんだろうという気がする。入院を引き受けるには私の許可が必要と、非公式にだが公然と考えている人が病院には予想以上に(むろん必要以上に)たくさんいて、外部から直接入院を頼まれる「中の人」の頭には、依頼の文言を聞きながらも脳裏にはその面々の顔がずらっと浮かぶものなのだ。その面々は当然のことに笑顔ではなくて、そのたくさんの渋面が「中の人」の表情まで渋面にしていたんだろうと思う。
他人様のご事情ばっかりじゃなくて自分のことも考えてみる。頼む私の態度がどう変わったか。たぶんああだこうだと要らぬことを考えず、これは小児科の私の仕事、ここからは他科の先生の仕事、とさらっと割り切るようになってるんじゃないかと自己評価したりして。たぶんそれはいろいろな意味で執着が薄れてきているということでもあろうが。優れた医者だと見られたいとかいった、言語化すればいろいろ恥ずかしい自分へのこだわりが薄れてきてるんだろうと思う。それが電話やら何やらでの、ものの頼み方の態度に出てるんじゃないかと思ったりしている。ひと頃よりは聞きやすい、という程度だろうけれどもね。
畢竟、自分が「がんばって」診る資格がある分野は新生児の限られた領域だけだと思うし。