NICUの入院患者数が少なくて閑散としている。京都府の空床情報を見てるとどこの施設も似たり寄ったりの模様。
午前中は新しく買ったaEEGを試し、午後は時間外外来のあいまに新生児脳波の教科書を読んでいた。外来もどっちが合間だか分からない程度。みなさんお元気なのは何よりなのだが。
- 作者: 奥村彰久,新島新一
- 出版社/メーカー: 診断と治療社
- 発売日: 2008/10
- メディア: 大型本
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たまには医学書も読んでいる。
NICUの入院患者数が少なくて閑散としている。京都府の空床情報を見てるとどこの施設も似たり寄ったりの模様。
午前中は新しく買ったaEEGを試し、午後は時間外外来のあいまに新生児脳波の教科書を読んでいた。外来もどっちが合間だか分からない程度。みなさんお元気なのは何よりなのだが。
たまには医学書も読んでいる。
ネットを通じて世界とつながるつながり方と、昔ながらの家族の縁や社会の縁でのつながり方との、いろいろな水準で人と人とがつながりあって、圧倒的に不利な状況で個別になら撃破されてしまいそうな状況であっても、そのつながりの力に支えられて強くなる。強くなって各々が各々のできる仕事をする。そういう物語だった。
先端的なネットがずたずたになった中で、当主のおばあさんがダイヤル式の黒電話を使ってあちこちへ電話をかけ、励ましたり宥めたりしながら一人一人の心に支えを入れていくシーンが印象的だった。あのような状況であの一本がどれだけ心身を支えてくれるか、私も不肖ながら多少は知っているように思うので、なおさら感動したのかも。偉い人はあれができなきゃいけない。というか、その一本の電話がどれほど人の支えになれるか、それこそがその人の本当の偉さなんじゃないかと思う。
何となく録画してあったのを、昨夜の夕食前に思い出してつけてみたら、娘や妻ともども熱狂してしまった。たいへんによくできた物語だと思った。読者諸賢には、私が素直に誉めるということがどれほど珍しいことか想起されたい。威張って言うことじゃないけれども。
蛇足かもしれないが、神木隆之介君も桜庭ななみさんもよくやったと思いますよ。アマゾンでは賢しらなレビューアに酷評されてるけど。彼らを起用するという商売の手法は、映画のできばえを制作者自身が信じていないようで、私もあまり感心できないけれども、それで神木君や桜庭さんを責めるのはお門違いかと思う。彼ら自身は与えられた仕事をよくやったと思うけどな。それは映画の登場人物の各々が、互いに支え合って各々の仕事をしっかりこなしたように、周りのスタッフがしっかり支えたのだと思うけれど。
そんな時は、FaceTimeのビデオ通話でライブの楽しさをわけてあげましょう。
野放図にそれをやると犯罪だ。友達のバンドならいざしらず。
NICU当直は真夜中の入院1件。すこし眠い。
宵の口は本書を読んでいた。日本の村落での伝統的な教育が失われつつあるとして、宮本常一が本書を著したのが昭和18年だとのこと。
一般向けの書籍であるし、いくら御大宮本常一とはいえ故郷のことではあり多少の美化はあるだろうけれど、それにしても、昔の村落の大人が子どもを育てるあり方には、現代とは次元の違うものを感じる。よく新聞の論説に書いてある、社会全体で子育て云々と言ったお題目の、具体的な例を初めて読んだような気がした。
しかし既に本書において既に宮本が、「他家の子を叱れば、その親がかえって怒るようにまで変わってきた」と述べているあたり、その美風は70年前に既に失われつつあったのだろう。現代の子どもが駄目なのは昔のような教育がなされないからだと、仰るむきも多々あるが、昭和18年当時すでに伝統が失われつつあったというなら、彼ら保守派ご自身、ご自分が思うほど保守的にご立派な教育は受けておられないんじゃないかと拝察したりする。孔子だって自分が生きていたわけでもない周の時代を理想として弟子を教育していたわけだし、それが一概に悪いとは言えないにしても、まあ昭和18年当時すでにそうだったのだねという事実も、記憶されて良かろうと思う。
本書に登場する宮本の祖父や父しかり、また他書に登場する人々にしても、宮本の紹介する人物は、この土地で生きていくしかないと覚悟を決めて粘り強く生きておられる方が多い。もとより優れた人格を備えた方々なのだろうが、それ以上に、その覚悟が人格を練り上げるという一面もあるのだろうと思った。俺もまた今後は京都で生きていくしかないんだなと思うと、普段の自分の軽佻浮薄なセカイ系の発想を反省させられるように思った。
救児の人々 ~ 医療にどこまで求めますか (ロハスメディカル叢書 1)
NICUの仕事が閑散としていたので、昼間から本書やら医学雑誌やら読んでいた。本書を読むのは3回目くらいだろうか。読後感がよろしいような宜しくないような本だといつも思う。
何かに連載された記事のまとめなのだろうか、本書は冒頭部分と最終章あたりで著者の意見がだいぶ変化しているように思えた。冒頭では著者は新生児に対する選択的医療停止をかなりあからさまに主張しているのが、終わり頃には影を潜めているように思われた。当初の主張が影を潜めた代わりに何かほかの主張が出てきたかというと、そうでもなくて、最後のほうはインタビューの相手が言うことをひたすら筆記することに徹していた。当初の主張といってもずいぶんプリミティブで論拠の浅い主張だったので(自分の体に匹敵する大きさのメスで手術されるのは怖いだろうってのが治療停止の理由になりますか?)、取材を重ねるうちにご自身が取り組んだ問題の大きさ複雑さに圧倒されたのではないかと思った。まあ、それでよいのだが。
昨日は当直明けに、当直明けなのであんまり上り下りのあるコースは嫌だなと思って、ふだん尊敬して読んでいるブログでみた小関越え〜琵琶湖〜瀬田川〜天ヶ瀬ダム〜宇治のコースを走ってみた。
北山は峠がつきものだがこのコースはほとんどアップダウンがない。というより延々下り坂のような気がした。エッシャーのだまし絵でもあるまいし、どこかで下ってたらどこかで上ってないとつじつまが合わないのだが。
宇治から山科を通って蹴上までが、ひどく暑くて辛かった。どこか涼めるところがないかと道々見たのだが、小銭しかもってなくても入れて自転車もそれとなく監視できるところとなると、せいぜいコンビニくらいだった。でも川沿いの歩行者・自転車専用の道を二人乗りの原付が走り抜けていくような土地では、たとえコンビニの窓越しであれロードバイクから目を離す気にもなれなかった。せめて木陰のある公園でもないかなと思ったが見つけきれなかった。懐が寒いと熱射病よけもひときわ困難なのだな。よい教訓だった。
熱射病で行き倒れて、うっかりその辺の救急病院に担ぎ込まれたりしたら、どこの病院の医者だってことになって院長に恥をかかせることになるなあとも思った。鍛え直してやるとか言ってゴルフにつきあわされるような羽目になるのもなんだかなあと思った。
とは言いながら帰り着いてシャワーで体を冷やして一息ついたら、録画してあった「サムライたちの夏 2010」なんて見たりしていた。新城幸也さんのフォームってやまめの学校の堂城賢さんが理想とおっしゃるほど骨盤倒れてるかな?とか思った。骨盤はしっかり立ってるように見えるのだが。
夕方のニュースで小学生のグループがビワイチに挑戦して2泊3日で走りきったと報じられた。距離は200kmだそうだ。坂道を登るシーンがあったが賤ヶ岳旧道ってあたりだろうか。意外にひょいひょいと登っていく。ヒルクライムの人たちが体重にこだわるわけだな。
今回はあんまり身の丈に合わない自転車に乗ってる子はいなさそうに見えた。悲壮な動機を抱えていそうな子もいなかった。ただ、みんなマウンテンバイクで、例によってブロックタイヤの子もいた。タイヤをスリックタイヤに換えるくらいの手間はかけても・・・と思って、いまさら思い当たったのだが、あれは本物のマウンテンバイクじゃなくて「ルック車」ってやつなのだろうか。フレームからホイールを外すのも一苦労ってやつ。それじゃタイヤがそのままなのも仕方ないかも。
大人はボランティアの大学生だそうだが、なんで野球帽なんてかぶってるんだろう。しかもお揃いの。自分らだけで遊ぶぶんには何も言わないけどね。子どもを引率するときには格好優先じゃなくて子どもの手本になるように考えてほしいんだけどね。*1なんで全行程舗装路なのにフロントサスのマウンテンバイク?とか思ったけど、歩道を走るにはその方がよいのかも。
途中で子どもが3人ほど絡んで落車してしまって、壊れた自転車を押しながらその日のゴールまで歩いてたどり着いたと紹介されていた。大人はゴール地点で拍手して出迎えていた。その場で修理できなかったのかな。子どもはよく頑張った、でほめられるけれど、大人は反省してほしいものだと思う。
*1:とか言いながら、むかし湖西地方で勤務していた頃の記憶をたどっても湖西湖北はそんなに救急医療が潤沢じゃないんで、頭をぶつけても大事に至らない準備はしておいてほしいとは思うけれども。