ユーコン漂流 (文春文庫)
野田 知佑 / / 文藝春秋
ISBN : 4167269139
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長野へ行く出張の往路で読んだ本。最近、どこででも生きていけるってどういうことだろうと考え直させられることがあって、思い出した。
アラスカの大河をカヤックで下った顛末である。著者はそれほどの冒険でもないと謙遜するが、しかし動物性タンパクを魚釣りで現地調達するなどいろいろとワイルドである。しかし、著者はそれでも旅が終われば日本へ帰る人である。現地には、そこに永住してしまう人もあって、その人々のワイルドさは著者とはたしかにレベルが違うように思われた。(むろん、新幹線や長距離バスのシートでぬくぬくと本を読んでいる私などと著者とはレベルが数段違うのだが)。
その人たちにも子供があって、当然に教育の問題が生じる。むかしは全寮制の学校が主流だったが、それでは家族を離散させてしまう。なんやかやで、通信教育が活用されているとのこと。その下りで紹介されている逸話。
レポートを提出するのだが、月に一度、生徒が先生の家にやって来て、てほどきする。
生徒の家というのはどんな山中でも100パーセント川や湖といった水辺の近くにある。
飲み水の確保のためと、山奥に入るのに船外機をつけた大きなボートで「水路」を伝って入るからだ。だから、アラスカでは飛行機にフロートさえつければほとんどどんな所にも行ける。
先生は水上飛行機に乗って生徒の家にやって来て、一日いて勉強のアドバイスを与え、帰っていく。
ある年、アラスカ大学にトップの成績で入学した学生は、一度も学校に行ったことがなく、ずっと通信教育でやってきた人だった。入試問題が日本のように暗記のテストではなく、思考力を見る問題だから、こういうことが起こる。
このことが話題になり、マスコミが彼をインタビューした。
アナウンサーの「山の中でいったいどんな勉強をしていたのですか」という質問に彼は答えた。
「私はただ生活をしていたのです」
彼のいう「生活」という言葉の重さをアラスカの人間は理解できるので、みんな黙りこんでしまった、という。
ちなみにこの月一回の先生はいちいち勉強の内容を教えたりはしていられないので、勉強の仕方をアドバイスしていく、とのこと。それはそれでよいとして、「どこででも生きてゆける」という言葉で私が連想するのは、こういう「生活」ができるという意味での「生きる」ことである。
世界中のどこでも生きていけると公言したときに、その「世界」にあまねくプログラミング仕事やネットや銀行証券屋さらには献本を配達する運送屋がそろってるわけじゃありませんよ、とつっこみを入れられてもうろたえずにすめばいいんだけど。私などとうてい世界中どこでも生きていけるなんて言えない。ライセンスは日本限定だし。日本国内どこだって、とみみっちく幅を狭めてみたところで、日本国内のどの病院にもNICUはおろか一般小児科さえあると決まったわけじゃないよとは、よくわかってるつもりだし。
でも思い切ってしゃべってみたら、いかに自分がしゃべれないかってのも痛感させられるけど、いかにいい加減な英語でも通じるかってのには愕然とさせられる。まあ、自分の免許も子供の命も賭けられるほどの英語力を持ってるなら、ある意味、医者なんてやってる場合じゃないかもしれない。
その自分をさしおいて偉そうに言うなら、自分ががひとりで生きていけるかどうかなんて些末な問題なんだ。いい大人なんだからさ。ほんとうの大人が問題にするべきは、食い扶持を自分で稼ぐとか稼げないとかいう些末なお話じゃなくてね、どういう場所にいても自分は周りの人の幸福に資することができます、とかいう問題じゃないかと思うんだがね。食い扶持を自分で稼げない人間はまわりを不幸にするばかり、という社会なら、社会の方を変えなきゃいけないと思うんだけどね。
ちなみに、本書によるとアラスカで野生に生活する人は外出時も自宅に鍵をかけないんだそうだ。遭難しかかった人が這々の体で自分の家にたどり着いたときに、入り口に鍵がかかっていたばっかりに・・・という状況を避けるためだとのこと。まあ、20年から前の紀行だし、時代は変わっているのかもしれないけれども。