長野へ行ってきた

長野県で開催された新生児関連のフォーラムに参加してきた。

専門のイベント屋さんが関与しない、医療者と企業との手作りが売りの会だった。ご苦労を頂いた皆様に深謝しつつ、ありがたく勉強させて頂いた。

しかし新幹線・中央本線大糸線でテツの旅を満喫した勢いかもしれないが、有り難く勉強しつつも、こういう会のあり方には、愛好者が動態保存するSLの保存鉄道じみた印象をぬぐえないなと思った。運行に当たる皆様のご尽力には深謝しつつ、乗って到達する先の見晴らしの良さには感激しつつ、それでもなお、これは蒸気機関車だよなと思った。

エネルギー効率が悪く、小回りがきかない。走らせる前には長時間かけて湯沸かししなければならないし、走らせる間も石炭の投入具合にまで気を遣わないと出力が得られない。運用しておられる方々のご苦労のありがたさを否定する意図はないが、しかし、そこまでしなければならないシステムをそこまでして運用しておられるというところに、保存鉄道の運行に苦労しておられる愛好家の方々に対するのと同様の印象をもってしまうこともまた、正直なところである。

業界を前進させるあり方として、こうした学術集会という蒸気機関車的な方法を主眼とするのは、多少まだるっこしいような気がした。それじゃあ代案として何かできるのか?と聞かれても辛いんだけれども、いったいそう聞かれたときに、どういうあり方を理想として目指すのか、蒸気機関車を脱却して目指す先のシステムは、メタファーとして何に例えられるものなのか、そこから考えるところかなと思った。

科学者の喧嘩

宇宙船ビーグル号 (ハヤカワ文庫 SF 291)

宇宙船ビーグル号 (ハヤカワ文庫 SF 291)

哲学的にすごく深そうな気もするし、単に絢爛豪華な張りぼてのような気もする。

いろいろな作品の元ネタになってるんだろう。クアールはダーティペアのペットになってるし、エイリアンはたぶんイクストル。最後に出てくるガス状の生物に惑星がひっくり返されるってのが、たぶん、ジョン・ヴァーリィの八世界シリーズにも影響していると思う。

初めて読んだときは小学生か中学生か、たぶん少年少女向けのリライトで読んだんだけど、たんに怪物をやっつける筋書きが面白かっただけだった。大学でまた読んだときは総合情報学とかいう学問のあり方が面白いと思った。まだまだ自分の学問的な未来を信じていた。中年になって読んで目を引いたのは、学者同士の権力争いのありかた。結末のつけかたは、学者の喧嘩の決着としてこれ以上はないと思った。

それはそうと当時は脳波を操ることで人の精神を操れるという信憑があったのかな。アジモフの小説でもそんな設定を読んだ記憶があるが。

再開

いろいろあって毎年この時期はぐだぐだするんだけれども、気を取り直すことにして。と、なにか気の利いたことでも書こうと思ったが、何も出てこない。

パンクの神様

栗村修氏がサイクルロードレース番組の解説で「パンクの神様」についてよく言及される。曰く、多少パンクすることなく過ごせていても「俺ってパンクしたことないぜ」とか口に出そうものなら即刻パンクするとのこと。それはもう「パンクの神様」がいて、軽はずみな口をたたく人間に天罰を与えているとしか思えないとのこと。

臨床にもそんな神様がおられるのかもしれない。辛い目にあっては、あのとき大口を叩いたせいかと後悔させられる。

ベトナム戦争はあまり自分に関係ない気がする

ロング・グッドバイ」では自分より10歳程度年上の主人公が、自身に個人的に関わりのあることとして、ベトナム戦争を語っている。ベトナム戦争ってそんなに生々しいことだったか?と意外に思って、指折り勘定してみる。たしかに、ちょうど私が小学校に入るころあいに終わった戦争である。私より約10歳年長の二村なら、自分より多少年長のビリー・ルウあたりの世代が参戦していてもおかしくないわけだ。

振り返れば私にはあんまりベトナム戦争って「我がこと」じゃないなあと思った。長崎近郊で生まれ育った私の歴史観って、直近の戦争は原爆で終わってるんだよな。おなじ県内でも佐世保で育ってれば違ったかもしれんが。たとえば村上龍みたいな。でも私の長崎県での生活圏は大村・諫早・長崎の三角形に収まってたしな。米兵なんて見たことない。おそらくは幸いなことなんだろう。

太平洋戦争なら祖父が二人とも兵隊に行ってたんで、ベトナム戦争よりもよほど自分に近い感じがする。原爆とか、わりと実家に近いところに酸素魚雷の試験をしていた施設があったりとか、いろいろネタもあるしで、戦争にまつわる歴史にはセンシティブだと自負していたんだが、でも横須賀や佐世保には進駐軍とかベトナム戦争とかの記憶をより濃厚に残している人々がおられるんだろう。小泉純一郎氏のバックボーンは横須賀の米軍に対するルサンチマンだという内田樹先生のご高見にも、本書を読んで頷けるところがあった。

さらに言えば、むろん当然のことに、沖縄の人たちのご苦労は現在もなお進行中である。

ロング・グッドバイ 

THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ

THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ

仮名書きすれば同名になるチャンドラーの名作へのオマージュである。

「私が初めてビリー・ルウに会ったのは夏至の三、四日前、夜より朝に近い時刻だった。」と書き出され、「アメリカ人にさようならを言う方法を、人類はいまだに発明していない。」と終わる小説が他の何だというのか。ラスト近く、チャンドラー作品でも「少しずつ死ぬ」場面で、「葬式なら、自分のだ」と主人公が言う。

作品のプロットもチャンドラーの作品を忠実になぞっている。チャンドラーの作品を読んでいれば何がどうなったかの予測はつく。しかし二番煎じで質が落ちたわけではない。むしろ細部を全く変えてそれでも同じプロットをきっちり保てているところに作者の力量を感じる。

ハードボイルドは周囲の人物が傷ついたり何かを失ったりしていくなかで、主人公だけが何一つ失わないんで、ご都合主義もいいところだよなと思っていた。医者の目から見ればこれほど毎日飲み放題にしていて脳も肝臓も精神も壊さないってことはあり得ないし、これほど何回も意識障害を来すほどに殴られていて脳がどうにかならないってこともなおあり得ない。「ハードボイルドだど」と茶化して読むのが正しい読書態度だと思っていた。

しかし本書を読んで、なるほど一人称で語るってのは、すべてが終わって、得失の決済がひとわたり終了した時点から振り返って語るから、一見して失うものがなかったように見えるんだなと思った。何も失わなかった訳じゃなくて、主人公はすでに冒頭の時点で失うものをあらかじめ失いきっているのだ。

決済をすませた立場からだと、喪失のその場での痛みも過去のものになる。過去の痛みには超然としていられるように思える。すんだことなのだし。それが目指すべき態度なのかどうかはわからない。そういう生き方をしていると、けっきょく状況を何も変えられないまま独善的に落ちぶれていくしかないようにも思える。

インフルエンザ流行開始

この冬もインフルエンザの流行が始まった。外来はインフルエンザ一色になる。他のウイルスを駆逐する力でもあるんだろうかと思う。

年々、インフルエンザでパニックになる親御さんが減っている。喜ばしいことである。今の親御さんはほんとうに賢明になった。

現代の子育てをあげつらう人は自分が紋切り型に陥ってないかいちど反省してみた方がよい。景気は悪くなっているけれど、人心はよほどまともになっている。

カンフル剤って何ですか?と現役医師が尋ねてみる

医者になって15年以上たつわけだが、カンフル剤なんて見たこともない。小児科だからとは限らない。初期研修で救急病棟をまわっていたときにも、「こういう状況ではカンフル剤を打つんだ」なんて指導をうけた記憶はないし、後期研修で全科当直をしていたときにも、内科の先生から「こうなったらカンフルで云々」と申し送られた記憶はない。

つまるところ「カンフル剤」なんていう語はテレビや新聞でしか聞いたことがない。それも医学記事ではなく、経済記事や政治記事で、駄目になりかけた状況を救おうと意図した一発逆転の方策をたとえてである。それとてたいていはその場しのぎに過ぎないのだが。医学関係においては、医療崩壊をあおる半端記事にすらカンフル剤への言及はみたことがない。

邦文の医学雑誌をほぼ網羅した検索サイトである「医中誌Web」で「カンフル」を検索してみると、2000年からの文献でヒットしたのはたった29件である。蘇生剤としてのカンフルについて言及した文献は皆無である。何の目的でか軟膏として使うことはあるらしいが、およそ軟膏を塗って生き返るってことはないだろう。歯科で使うこともあるらしい。全身作用としては、防虫剤として用いるカンフルを小児や認知症の老人が誤飲して中毒云々の記事ばかりである。

したがってニュースなんかで「専門家」がコメントするときに「カンフル剤」云々と言った場合、なるほどこの「専門家」はちゃんと下調べをしない人なんだなと思うことにしている。むろん、そのご高見はそれなりに割り引いて聞く。

落ち目の政治家が自分の名前とひっかけてブログのタイトルに使っておられるとのこと。自分は時代遅れで役に立たず見捨てられましたと知らず知らずに公言なさっておられるようで気の毒である。あんまり官僚をいじめたから厚生労働省の人もなにも言ってくれなかったんだろう。友達にまともな医師はいなかったのかな。