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「あんた、ちゃんと大学を卒業しなかったのは悔いちゃいないのか」
とまどった。そんな質問を受けた経験ははじめてだったからだ。浅井は私の顔をじっと見つめていた。
私はいままでの時間を考えた。二十二年のあいだにやった仕事を思いうかべた。建築現場の作業がいちばん多かった。それにビルのガラス清掃、旋盤工場。店員も多かった。ゲームセンター、パブ、パチンコ屋。事務職では、運転免許証のないことがネックになった。すべて肉体労働だ。そこになにか意味があったのだろうか、と思った。いや、意味があって私はそういう仕事を続けたのではない。逃亡を続けたのでもない。そんなことは考えもしなかった。私はそういう仕事が好きだった。アル中の中年になっても好きだった。バーテンの仕事も気にいっていた。
「悔いてはいないな」私はいった。「まったく悔いてはいない。私がやってきたのは、私にいちばん向いた生活だったと思う」
おそらく本書のテーマからはかなり外れているのだろうが、私の印象に最も残ったのはこの一節であった。主人公は苦難の人生を送りながら、それを怨嗟しない。自分の選択の結果だから等の理由で堪え忍んでいるわけでもない。避けられなかった運命を従容と受け入れるというのでもない。ごく自然に、あたかも何の強制もなく自分自身の自由意思で選択した人生であるかのように、私にいちばん向いた生活だったと語ってしまう。
無理にそう自分に言い聞かせているような自己欺瞞の様子もない。他の可能性を考えられないほど想像力に欠けた人物でもないのに、自己憐憫の様子も見せない。自分に酔っている風でもない。
格好良い男である。かくありたいものだと思う。
ただし私も、小児科医ではあるが、いちおう医者である。医者として語らせていただければ、ここまでアルコールにどっぷり浸かった人間に、ここまでの明晰な知性など残っちゃいないんじゃないかと思う。特に彼は逃亡生活の中でいっさいメモの類を残さず電話番号から住所から何から全て記憶してしまうのだが、アルコールが真っ先に潰すのは飲んだ(飲まれた)人間の記銘力じゃあなかったかと思うが。アルコールに関してだけは、この主人公の人物造型はSFにちかい。まだ彼がプレコグだとかテレパスだとかいわれた方が現実感があるように思う。