東京は行くたびに狭くなっていくような気がする。東京駅で地下鉄に潜り、新宿で上がる。新宿から渋谷、渋谷から品川。何処で上がっても同じような眺め。地形のなかに自分をマッピングできない。なんとはなく土地と切り離されたような。
自分が地理的に移動していると保証してくれるのは、地下鉄のなかで感じる加速度だけ。窓の風景が変わらない地下鉄でしか、移動しているという実感ができない。おかしな町だと思う。
東京は行くたびに狭くなっていくような気がする。東京駅で地下鉄に潜り、新宿で上がる。新宿から渋谷、渋谷から品川。何処で上がっても同じような眺め。地形のなかに自分をマッピングできない。なんとはなく土地と切り離されたような。
自分が地理的に移動していると保証してくれるのは、地下鉄のなかで感じる加速度だけ。窓の風景が変わらない地下鉄でしか、移動しているという実感ができない。おかしな町だと思う。
出張でいま新宿にいる。東京駅はいつ見ても小さい。札幌の時計台もたいがいだけど東京駅もよい勝負だと思う。新幹線を降りて、八重洲口から丸の内口ってんですか、うええ駅を突っ切って歩かされるのかよと、京都駅の烏丸口から八条口まで歩かされる感覚でうんざりしたのだけれども、歩いてみると拍子抜けするくらいあっという間で、この駅が本当に本邦の首都の中央駅なのかと、ちょっと疑問になったりもした。まあ、この駅があんまり小さかったからこそ、上野がおいらの心の駅だったりする人々も出てきたんだろうけれども。
地下鉄に乗りながら、いつ来ても東京は仮普請だなと思う。これで完成しましたという思い切りが感じられない。今のところはとりあえずここまでという思想が、東京のデザインに通底している。であればこそ発展が続くのかもしれないけれども、向こう1000年くらいこのままで行きます!という腰の据わり方を見せてもいいんじゃないかとも思う。
1gは1兆pgなので、セシウム137 1pgは3.21ベクレル、セシウム134 1pgは47.6ベクレル、ということになるんでしょうか。pgってピコグラムと読みます。先だって京都市が松の樹皮から検出したセシウムは、樹皮1kgあたり、セシウム137が588ベクレル、セシウム134が542ベクレルと報道されていました。各々割り算すると、この2種の放射性セシウム合計で200pg弱ってところですね。
私が小児科医なので自分の土俵でpg単位で勘定するものを探してみると、赤血球1個あたまのヘモグロビン含有量が30pgなので、200pgっていうと平均的な赤血球7個に含まれるヘモグロビンとだいたい同じ重量ってところですか。
あらためて、放射線関係の検査っておそろしく鋭敏なんだなと、変な感心をしてしまいました。
この分量が無視できる量だったのか、たいした量だったのか。あんまりたいしたことのない量にも思えますけど、いま京都市でちょっと患者さんが増えている腸管出血性大腸菌を200pg飲めるかっていわれると、胃が弱ってるときなら感染が成立しかねんなという気もします。まあ、セシウムは増殖はしませんが。
新生児蘇生法の講習会を続けている。受講者は公募する。公募にこだわっている。
むろん公募で講習会を開くほどの技量が自分にあるのかどうかとは疑問である。たぶん、お金を頂くにはお粗末なんだろうと思う。震災復興支援にかこつけて図々しくも有料・公募で続けている。
有料ったって全額義援金に回してるんだから私の懐には一文も入らない。通信費やなんかで病院からは雑費が持ち出しである。応援のインストラクターも平然と手弁当で呼んでいる。そういうことにお金を回し始めたら、とたんに夏の日の氷みたいに浄財が減っていく。
公募にこだわるのは昔の自分への落とし前である。公募の講習会が開催されていないと、零細な施設のスタッフは講習会に縁が持てない。学会が新生児蘇生法の普及事業を始めたころ、いったいどこでそんな講習が受けられるのやらと、途方に暮れた記憶がある。この講習を受けたスタッフが立ち会っていないと無過失補償から外されることになるんだろうとは予想した。しかしどうやって講習を受けろというのだと、どこにそんなインストラクターが居るんだと思った。
我々は縁をたどってなんとか講習会を受講できた。しかしそれは場末ながらもNICUであったからこその縁だった。我々よりもさらに零細な施設では、おそらく今でも当時の我々のポジションにいる。
そういう、公募でないと講習会を受講する機会が無いような、そういう施設の人たちにぜひ受講して頂きたいと思う。
某所でNICUでの「看護師教育」について論じられていたので。直接議論に加わってもよかったのだろうけども、まあ、覚え書き程度以上の意見も根拠も持ち合わせていないので、傍流でつぶやくだけにしておく。
ちなみに私は看護師に関してはたいへん恵まれているので、ありがたく感謝しつつおおいに自慢させていただく。およそ積極果敢さにおいて私のNICUの看護師たちを超える看護師はよそのNICUにはそうそう居ないと思う。それはエドモンド・ハミルトン著の「スターウルフ」シリーズにおける地球の立ち位置に似ている。豊かな資源に恵まれた他の惑星とは違って「人間」しか資源のない地球。そのためにいろいろな分野で優秀な人材(いや、この熟語はほんらい人財と書くべきだ)が銀河系の各地へ出て行っている。私のNICUにも資源はない。規模は小さいし、財源にゆとりもないし、医師を確保することにすら汲々としている。小児外科も心臓血管外科もない。うちから看護師のガッツが抜けたら平凡なNICUでしかなくなってしまう。
さすらいのスターウルフ (ハヤカワ文庫 SF 1 スターウルフ・シリーズ 1)
私のNICUは常に京都で最後まで外部に空床を開けているNICUだ。最後の1床はつねにうちが開けている。それは私たちの仕事が暇だからではない。完全に否定はしないけど、それだけではないと思う。ガッツの要素が常にある。とことん空床を開けるのがうちの役割だと、看護師の指導層が認識している。*1
「教育」というとなんだか偉そうに聞こえる。指導者口調の人って自分が一人前であることを前提にしてるから、指導者口調になった時点で自動的に成長が止まることになっている。自分はもう成長しなくていいという態度の人をどういうふうに見習えば成長の糧になるんだか、私にはよく分からない。
もうひとつ、指導者口調の人って基本的に無責任だから、自分の担当の仕事を「指導」してもらうのってあんまり気分が楽にならない。むろん責任を問われない仕事には充実感も成長もなかろうと思うが、しかしあまりに指導者口調を徹底されると、なんであなたの判断の結果の責任まで実行者の私に負わせるんだという憤慨が湧いてくる。
だからもう教育とか指導とかあんまり言わない方がいいと思う。というか、彼らを育てるべき下段の人とかお荷物とか思ってはいけないと思う。新しい人には新しい人にしか果たせない役割があって、彼らがいてこそうちの熟練層のガッツが保たれてるんじゃないかと思う。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
これは私の経験的確信である。
それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。
岩倉まで自転車で往復。チェーンの洗浄剤と潤滑油を切らしたので買いに行った。久々の実走。ロードで公道を走ったのは今シーズン初めてじゃないかな。お使いにはたいていクロスで出るし、ロードではずっとローラー台に乗っていたので。さすがにロードを買った店に行くのにクロスでは気まずい。
実走してみて、3本ローラーで練習したのは間違ってなかったなと思った。よろめきかたが減ったように思う。よろめいたときの回復もよくなった。総じて、乗り出したときのクロスくらいには自在にロードを扱えるようになった。
速くもなっているはずなのだが、それは暑さに相殺された形になった。
ローラー台に乗りながら、もうすこし前後に凹凸がなくクッションの硬いサドルがよいかなと思っていた。今日ひさびさに実走してみて、実走ではそうでもなくしっくり走れるので、ちょっと物欲が減りながら店に着いた。
店にはサンマルコのサドルが並べてあった。サドルも換えてみたいなと思っているので見せて貰ったが、リーガルは重すぎ、コンコールはクッションが柔らかすぎるように思った。乗り心地は決して悪くないんだろうけれども。
ツール・ド・フランスの中継を観ている。鉄骨なんかぜっったい入ってないなとおぼしき石積みの民家が平然と使われている。耐震性なんかまったく考えてなさそうだと思う。今年のツールはそんなところばかり目につく。
13世紀とか16世紀とかの建築だと解説で言う、やはり石造の城や教会も紹介される。むろん補修を繰り返しては居るんだろうけれど、フランスというのはあんなのが基本的な形を残して数百年も保つ国なのだなと思う。地震の無い国ってそんなんなんだなと。
壊れた教会もあったが、地震じゃなくて戦争でナチが壊していったんだそうだ。
原発80%ってのは、そういう国が語ることなんだと思う。
久々に三本ローラーに乗って、サボったらてきめんだなと実感。体が重い。余計な重さをどっぷり抱えてしまったような気がする。むろん筋肉ではなくて水の重さだが。脂肪の重さではないと思いたい。
とりあえずLSD。心拍は120を越えないようにと気をつけて「走り」だしたつもりだが、最初はしんどいのになかなか心拍が上がらず、そのうち130まで上がったら今度はいくら抜いても落ちず。うるわしくない。
たしょう、ペダリングのこつをつかんだような気はする。膝がトップチューブをこするような内股にならないように、大腿が平行になるようにペダリングするってのは、たしかに良いやりかただと思う。それが最短距離だからではなく、もうちょっと、解剖学的に、筋肉の付き方にまつわる効率の善し悪しが、よくなるような気がする。
ハムストリングを使うというのが次の課題かと思う。サドルの前後位置を詰めないといけない。サドルを前に出したほうが当面の力の入り方はよろしくなるような気がするが、それだと大腿前面の筋しか使っていないようにも思える。
菅首相が辞めさせられようとしている意味合いが分かったような気がした。菅さんがこんな下品な人間を被災地に送り込んで、いったい何をさせようって言うのかというと、それは決まっていて、もう国からの支援は必要ないですと被災地の皆さんに言わせるのが目的だ。俺たちが助けてやろうとしたのに奴らが断ったんだという形を取るために、相手の口からNOと言わせるためのお使いだ。他にこんな人間を使う理由があるか?
九州の人間は語気が荒い。確かにそうかも知れない。私は関西に出てきたときに、こっちの人があんまり気安く面と向かって他人に阿呆と言うのに面食らった覚えがある。しかしだ。語気が荒いのと品が無いのとは異なる。語気が荒いのと礼儀をわきまえないのとも異なる。語気が荒いのと自分の品のなさを出身地のせいにする無責任さとも異なる。何だって自分自身のできが悪いのを出身地のせいにするんだ。不愉快極まる。一緒にして欲しくないもんだ。
近所の大学の学食で、皿洗いや掃除の実習を1週間させていただいてきた。一日目の日誌には「マイペースでがんばってます」とあって、なるほど仕事が遅かったんだなと思った。2日目には「パートさんのミスを指摘していました」とあった。なんだかもう新入りの分際でこの調子なのがいかにも自閉症ではある。