カテゴリー: 森羅万象

  • 鎮魂について

    けれども、フッサールハイデガーの死者たちはある意味で「静かに死んでいる」。
    ひどい言い方をすれば、「現事実的に有用」なしかたで死んでいる。
    それはたとえばハイデガーが帝国のために死んだドイツの若者を顕彰する誇らしげなくちぶりからもうかがえる。

    ときおり、自分の疑問に対して内田樹先生がタイムリーに回答をくださることがあって、ひょっとしてお読み頂いているのかな?と夜郎自大的な妄想を持たないでもないのだが、先生にはそれは共時性というものだと一蹴されることだろう。

    なにさま、このあいだ読んだ平間洋一著「戦艦大和」における戦死者への鎮魂の作法について言及した矢先に、内田先生のブログで上記の指摘があった。そうそう、まさにそれを言いたかったのだよ、と私は思った。

    戦艦大和」における戦死者への言及のあり方は、まさに「現実的に有用」な死者に対する言及のあり方である。いやしくも自衛隊の幹部であった人が、旧軍の戦死者を「現実的に有用」なものとするのは宜しくないと思う。同胞としてのみならず同じ軍人として(あ、自衛隊は軍隊ではないんでしたね、はいはい)あまり美しくない態度だと思う。

  • 12月8日って何の日だったっけ

    12月8日を知らない若者 – 原 淳二郎 : アゴラ – ライブドアブログ

    12月8日に百万遍四条河原町あたりをちゃらちゃらした格好で歩いてみせて、テレビニュースの中継班に「今日は何の日か知っていますか」と聞いて頂いて、「レノンの命日じゃないですか」と答えるというのを、是非やってみたいと、以前から思っていた。その夕方のニュースあたりで「日米開戦からうん十年、このように若者の間では戦争の記憶は希薄になっています」などと月並みな総括をさせて、それを観ながら笑ってやろうと思った。

    Imagine there is no heaven.

    さすがに白髪の目立つ年齢になってしまったのと、着ている服がユニクロばっかりで周囲から浮き立つほど思慮の浅そうな格好ができないのとで、いまだに実行できないでいる。

    原先生には気の毒だが、この学生さんは先生が何の日と言わせようと思っていたかお見通しだったんじゃないかと思う。レノンの歌を聴いていて、その命日も記憶しているのなら、その日が世間一般では何の日として人口に膾炙しているかも、普通知ってるだろう。そして12月8日が何の日かと聞かれたら、あえて真珠湾攻撃には言及せず、レノンの命日だと言うだろう。

    Nothing to kill or die for.

    反骨精神はあるけど俺はポールのほうが好きだという面々は、12月8日って何の日ってきかれたら・・・べつにレノンの命日だって答えてもいいんだろうけどそれじゃあんまりなので、別の回答を準備しておこう。第一バチカン公会議の開催された日です、はどうだろう。「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認された日ですってのも相手を煙に巻くのには使える。レーガンゴルバチョフが中距離核戦力全廃条約に調印した日ですと答えたらウヨ教師も黙るかも知れない。ソビエト連邦が消滅して独立国家共同体が創設された日ですと答えたらウヨ教師は喝采するかも知れない。「ハリー・ポッターと賢者の石」が日本で刊行された日ですと答えてもよいし、欧州でWiiが発売された日ですというのもよい。もんじゅでナトリウムが漏れた日ですというのもある。ジェイコム株大量誤発注事件の日ですというのはどうだろう。そういうのをつれつれ並べてやって、苛々したウヨ教師が「重要な戦闘があった日だろう」とか言い出したら、「ああ、そういえば第一次世界大戦フォークランド沖海戦がありましたね」と答えてやるのもよい。

    ちなみにこの程度は教室でウィキペディアから「12月8日」を検索すれば簡単にわかることだ。だれか一人くらいiPhoneもってるだろう?

    Above us only sky.

    しかし、私はたぶんもう12月8日の計画を実行することはないだろう。娘の中学校で、9月9日の「救急の日」・・救急医療を舐めてるのかと怒りたいくらいの安易な記念日だが・・の訓話をしようと、「今日は何の日か知っていますか」と問うた先生に、娘の級友の一人が、「カーネル・サンダースの誕生日です」と答えたらしい。クラスはどよめき、先生はお話の先を続けることができなかったとのこと。この切れ味には勝てそうにないので、計画は封印である。

  • 自然のこと

    お産やなんかで「自然」を礼賛する人に出会うと不思議な気分になる。

    私は田舎の一軒家で育った。子どもの頃に家で友人と遊んだという記憶がほとんどない。理由は簡単で、そもそも子どもの足で歩いて行ける範囲には私の家にしか人が住んでいなかった。

    父は勤め人をしながら週末の作業で実家の手入れを一人でやっていた。井戸は定期的に掃除が必要だったし、便所はくみ取って畑にまいていた。便所を改築したときに、飼っていた鶏の糞をくみ取り口に蹴って入れて、便所は最初にこうするものだと教えてくれた。人糞だけでは発酵がうまくいかないんだそうだ。

    家の周囲は当然に「自然」であって、海と山だった。遊べば遊べたんだろうけれど、遊び方を教えてくれる年長の子どもおらず、私一人では手に余った。山はほとんど手が入っておらず、迷い込んだら行方不明になるんだろうなと思った。海で泳ぐこともあったが、いま溺れても気づける場所には誰一人いないんだなと思うとおっくうになった。何やかやで本ばかり読んでいた。今更思えばもうすこし父を手伝っておればよかったのかもしれない。

    成人して医者になってからも、「自然」なるものにあまり好印象がない。自然は容赦がないよと思う。都会の人は(妻でさえ)どこかで無意識に「ピンチに現れるヒーロー」を期待しているような気がする。でも本来の自然では、って帰省するたびこんな箱庭みたいな規模の山や海だったかと思うんだけど、とにかく人の手のない本来の自然では、勝手に一人で泳いだ子は深みに流されて溺れたらそのまま溺れて終わるのが結末だという認識が、私の根っこにある。

    今は排泄したら水を流せば糞尿がどこかへ消える生活に、私も慣れてしまったけれど、でも、たとえばの話、水洗便所が当然という都会的勘定の感覚で、お産は自然なことで手間暇なくともうまくいくのが当然と直感的に考えられるとしたら、多少、勝手な勘定ではないかなと思う。井戸をメンテして水を得て、排泄したものの始末も自分で仕舞うような、自然の中での生活はそういう手間暇をいちいち要求してくるし、うまくいかないときにも救いのヒーローは現れない。

  • マルサスの罠というのは

    要するにマルサスの罠というのは

    1. 貧困にも限度がある:人口が増えると一人ずつの分配が減るが、分配があまりに減りすぎると各人が生きていけなくなり、人口増加が限界となる。
    2. 生産性向上にも限度がある:人口が増えると当座は生産力が向上するが、ある限度を超えるとそれ以上人口が増えても生産力は向上しなくなる。
    3. 結果として、生産力が最大限で頭打ちになり、一人分の分配が最小限となる時点まで、人口は増加する。

    という理解でよろしいんでしょうか。人口が増えることを前提としてですが。

  • 日本が破産しなくとも

    日本は破産しない!?騙されるな!「国債暴落で国家破産!」はトンデモ話だ!

    日本は破産しない!?騙されるな!「国債暴落で国家破産!」はトンデモ話だ!

    日本は変動相場制なんで、好きなだけお金を印刷すればいいんだから破産はしないのだそうだ。

    何とはなく、それはやってはいけないことのような気がする。素人なんで根拠は示せない。何とはなく、だ。禁じ手の臭いがする。触っただけでこっちに悪臭が移りそうな、実も蓋もないほどに下品な考え方のような気がする。

    あえて根拠を言うなら、お金ってそんな無根拠なものなのか?という疑問がある。そりゃあ金本位制でもなし固定相場でもなしと、言われりゃたしかにそうかもしれない。けれども、やっちゃいけないって誰も言わないからやっていいんだというのは、ときには因習を打破する考え方になるかもしれないが、多くは、お天道様の元では人としてそれはまずいだろうという、あえて言及するまでもないほどの下策であることが多いんじゃないかと思う。

    さらに言うなら、誰かの負債は誰かの資産だそうで、900億円国が借りてるってことはそれは誰か(大半が国内に居られるのでなお安心だとのこと)の900億円の資産になってるんだそうだが、国や日本銀行の操作でその借金を始末できるってことは、だ、国や日本銀行がその気になればその誰かさんの資産をチャラにすることも可能だってことなんだよな。好きなだけお金を刷るったって、それで何らかの価値が無から生じてるわけでなし、価値を生まない操作で借金が減るってことは、その借金を資産として抱えている立場からすれば、なんらの価値あるものを代替として受け取らないままに資産が溶け落ちていくっていうことじゃないだろうか。

    国や日本銀行がそこまでえげつないことをするかどうかだが、本書の著者は邪悪だ無能だ浅はかだとさんざん国(あるいは官僚)や日本銀行の悪口を言っていても、さすがにそこまではやらんだろうとの基本的な信頼感をお持ちらしい。なんかこう認識が甘くてあっさりしすぎなんじゃないかと思う。「彼ら」が著者が言うほど手前勝手で道徳観を欠いてたら、やるでしょ。それくらい。そもそもルールは彼らの手にあるわけだし。

    まあ専門外ではあるが私ごときの知識でも、お上がなりふり構わず自分の借金を始末した結果として下々が泣かされたことが歴史上すくなくとも2回あるはずと記憶しているのだが。

    その1度目は幕末から明治にかけて、各藩が藩内だけで通じる不換紙幣である「藩札」を大量に発行していたが、維新後にそれは紙くず同然となった。出稼ぎやなんかで苦労して蓄えた一生の貯金がさらっと紙くずになったという記載が「日本残酷物語」にもあった。

    あるいは各藩は大阪(当時は大坂)の豪商に借金していたが、維新に伴ってことごとく踏み倒した。そのために大坂の豪商の10件中9件まで潰れたんじゃなかったかな。今で言えばメガバンク一連も生保もみんなさらっとなぎ倒されるってことだな。

    2回目は米国との戦争で大量に発行した国債を、戦後のインフレでちゃらにしたもの。預金封鎖とか新円切り換えとかいろいろあったけど、とりあえず、戦費に使った国債の借金がどこかへ消えた。誰かの借金は誰かの資産だそうだから、そこで資産が消えた人がだいぶんあったんじゃないかな。

    それらはみな結果的にそうなっただけであって、意図的にそのような操作がなされたわけではないのかもしれない。しかし意図的にであれ結果的にであれ、国家というものはその気になれば国民を犠牲にしてでも生き延びることは可能なのだということは、どこかで記憶しておいた方がよい。国家は破産しない。だから何?その犠牲になって自分らが破産してもよいと?愛国心が強いのは結構なことだと感心はするけれど。

  • がんばれ三井住友銀行

    ガス代の支払いやなんかでお世話になっている三井住友銀行が、高利回りの定期貯金を預けませんかと案内してきた。利回り0.18%だったか、なにさま、100万円を1年預けたら利子が1800円あまりつくんだそうだ。それって天下の三井住友が胸張って提示する利回りか?と戸惑ったが、やっぱり不景気なんだろう。銀行も大変だと思った。思ったけど、申し訳ないが今回の定期預金はご遠慮申し上げることにした。

    しかし社会保障国民会議の資料を拝読すると、資金運用のプロであるはずの(それも一流であるはずの)三井住友銀行にして0.18%はやっぱりちょっと恥ずかしいんじゃないかと思った。下記のリンクのPDF文書の4ページ目、年金の2010年の運用利回りは4.1%だそうじゃないか。三井住友が1800円のところを4万円あまりだ。年金すごいじゃないか。三井住友は何してるんだ。ゴルフがうまくなる呪文の次バージョンでも考えてたのか?
    siryou_1.pdf (application/pdf オブジェクト)

    下の画像は上記PDFから切り出した表である。

    f:id:childdoc:20101110160332p:image

    この表によれば数年来物価もほどよく上がり、物価の上昇率をこえて賃金もさらにほどよく上がっている。どこの国の話だろうと思う。日本じゃないよね。ノルウェーあたりだろうか。いちおう官邸のウェブサイトから出てる資料なんだけど、こんなすばらしい経済の国の心配をしてやるほど暇なのかね。本邦の年金や経済の心配をしてほしいんだけれどもね。もしもこれが本邦の実態だというのなら、もうちょっとがんばれと三井住友銀行に言ってやってくれないかな。

  • 年金の本を2冊読んで考えた

    年金は本当にもらえるのか? (ちくま新書)

    年金は本当にもらえるのか? (ちくま新書)

    妻が図書館から借りていたのを、病院から帰ってから読んだ。勉強になった。
    急激にいろいろ詰め込んだので頭の中がガンガンしているが、とりあえず、「そういうこととはつゆ知らず」だったあれこれを書き留めておく。

    • 年金の負担の話をするときに、厚生労働省の諸君が言うような、雇用者が半分負担していますなんていうマヤカシは専門家は言わないものである。負担分はきっちり差し引いた上で人件費やなんか計算してあるから、ことに正社員に関しては負担は実質全額労働者持ち。
    • 国民年金の未納があっても年金財政は破綻しないって、だから何? 未納の人らは老後はどうしたって生活保護受給者になる。その生活保護費は全額税金からでるのに。その税金を負担するのはやっぱり国民なのに。
    • 厚生労働省が年金を保険から税方式に変えることにとことん反対するのは、消費税を目的税化して年金をそちらから出すってことは年金特会の省益を財務省に持って行かれるってことだからだ。
    • どうあってもこの急激な少子高齢化のなかでは現在の賦課方式の年金制度は行き詰まるに決まってるのに、マクロ経済スライドひとつまるで機能していない。積み立て方式に舵を切らねばならず、その時期は早いほうがよい。

    などなどいろいろと勉強になった。むろん再読は必要だろう。ということでいずれ購入することにする。

    本書の難点をあげれば、あんまりお年寄りを悪く言うもんじゃないよ、というくらいか。世代間格差を強調するあまり、「ひとーつ ひとの生き血をすすり」「ふたーつ 不埒な悪行三昧」みたいな醜い浮き世の鬼あつかいだ。鈴木君(と同世代の彼をあえて君付けで呼ぶが)、きみには親がないのか? 私自身としては、この世代間格差がなくては最低4人の老人を扶養しなくてはならなくなるんで、仕送りしなくて済んでいるぶん、現代の年金制度の恩恵を受けていると思う。十分受けていまそれなりに食うに困らず子どもたちも養えてるんで、将来はこの子らの世代をむしることはしないようにしようと思う。俺らの世代でこの世代間格差の連鎖を断ち切らんといかん。

    「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った? ~世界一わかりやすい経済の本~ (扶桑社新書)

    「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った? ~世界一わかりやすい経済の本~ (扶桑社新書)

    続いて本書を読んだ。

    「年金は本当にもらえるのか?」において鈴木氏が論破していた厚生労働省の主張を、そのまま繰り返した本だった。「社会保障国民会議」の一員として議論に参加する中で(って最初のうちは何を議論しているかもわからなかったと告白しているあたり、この会議とやらのお里が知れるが)、年金について学んだとのこと。この会議にしたって鈴木氏によれば厚生労働省の御用会議なんだし。

    当然のことに本書の内容は鈴木氏によりきれいに論破されている。なんだか解答を先に読んでから問題を解いたような気分だ。あるいは犯人を先に明かす刑事コロンボとか古畑任三郎とかの番組を見た気分だ。年金制度は破綻しません、って、制度の会計は破綻しなくてもさ、このままじゃ将来恐ろしい人数の年金もらえない老人を生み出すことが確定なんだけど、それって年金制度の本質として破綻してるって言わない? 僕ら医者が「病気は治ります。患者さんは亡くなりますけどそれが何か?」って言っても君ら納得しないよね。

    それにしても著者は骨の髄から予備校の先生なんだなと思った。教えることの内容には疑問を持たず持たせず、どんな内容であっても効率よく解説して相手の頭にたたき込むというのが著者の神髄なんだろう。年金制度の問題点を解明しろなんて彼には専門外だが、年金制度に関する厚生労働省の官僚や関係者の語りを聞き手に疑問を抱かせなず丸ごと信じ込ませるという点においては恐ろしく適役だ。それを見抜いて著者を巻き込んだ厚生労働省のプロパガンダ力は決して侮れない。

    いくつか気になったことを。

    • 著者が、自身が提唱する思考力増強に関して、小学生向けの入試問題を例題に取り上げている。原油価格の高騰が続けばあなた自身の生活にどんな出来事が起きると予想されますか?という質問の著者による回答例がみな「トウモロコシの値上がり」がらみで、その単調さが珍妙だった。思考力ってそれほどのものか? 出題元の玉川学園とやらがどれほどの水準を求めているのかは知らんが。
    • 著者自身は普段は新聞も本も読まないとのこと。効率よく勉強なさっておられるのがご自慢のようだが、教育に関わっててそんな態度では内田樹先生に合気道で投げられるんじゃないか?
    • いいかげん、マスコミを攻撃して悦に入るのは止めようや。もうそれが受ける時代は終わった。
  • 吉原の若旦那

    なにさま、日本経済がそんなに悪いんならなんで円が売れるんだ?という混ぜっ返しがよく耳に入るのだが、それって、吉原に長逗留して放蕩する若旦那が、俺が駄目なやつならなんでみんながこんなにちやほやしてくれるんだ?と言ってるようなもので、そりゃあ勘違いでしょうよと。おだてられてむしられているだけだよと。そういうものではないのだろうか。

  • 鯨肉って好きですか?

    捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間

    捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間

    本書によれば

    • 江戸時代までの日本の伝統的な捕鯨と、明治期以降のノルウェー式を導入して以降の捕鯨はまったく別物。伝統的捕鯨をやってた面々が移行したというわけでもなくて、まったく別系統の捕鯨である。
    • この新しく始められた捕鯨には漁民からの反対運動もあり、なかには焼き討ちにまで発展した事例もあった。鯨の解体処理で発生する多量の血液などが海に垂れ流され海産物にダメージを与えるという点に加え、もとより鯨をエビスとして信仰の対象にしていた土地もあったため。
    • 明治期以降、第二次大戦前後までの日本の捕鯨も、主目的は輸出用の鯨油の採取であった。鯨肉は副産物であって、その消費は日本の伝統というより捕鯨会社による啓蒙によって明治期以降に広まった(とはいっても西日本に限定的にだが)ものである。
    • 大戦中の畜産の壊滅により鯨肉も一時的には消費が増えたが、やがて畜産の回復により鯨肉は歓迎されなくなり、安価に学校給食に回されるものとなった。

    そのほか色々。いったい捕鯨が日本の伝統文化ってのはどこから出た話なんだろう。今まで常識と思ってたんだが。裏付けのないことを信じ込んでただけか?

    子どもの頃は鯨肉もたまに実家の食卓にのったが、噛み切りにくく飲み込みにくく、あんまり楽しみにする食材でもなかった。ちなみに実家は長崎県なので江戸時代から捕鯨が盛んな地方ではあるのだけれど。

    でも鯨油しかとらない欧米の捕鯨と比べて、日本人は肉なども残さずありがたく頂くから善いのだとも聞いていたのだが、本書によれば、日本も遅れて参加したってだけで、鯨油主体の捕鯨に違いはなかったようだ。食べることで生命を頂くのに鯨も鶏も牛も変わらないという見方もあるようだが、それを言うなら四つ足の肉を全般に食べなかったのが日本の伝統なんだよな。

    資源量も減少しているし、鯨油の需要も少なくなったしで、欧米各国が斜陽産業に見切りを付けてさっさと手を引く中で、日本だけがずるずると手を引き損ねたというのが真相なのではないかと、本書を読んで思った。むろん戦後の食糧供給が危機的だった頃には鯨肉の供給も意義あることだったろうし、その時代に頂いた鯨肉には感謝しなければならないと思う。そのぶん撤退時期が遅くなるのはやむを得なかったかも知れない。でも、その後の捕鯨は、もう採算の取れなくなった産業を無理筋で温存しているだけなのではないか。中央官庁のその担当部署のメンツや存続も賭かってる、という臭いがぷんぷんする。

    しかし捕鯨をやめようとも、さらっとは言いかねる。鯨が賢い動物だから捕鯨をしてはいけないというのはむかつく主張だ。そんな主観的で反証不可能な主張をされても、同意か不同意かではなくて屈服か反抗かの選択しかありえない。そんな主張さえなければ、もう採算も合わんし需要もないし南氷洋捕鯨はもともと日本の伝統文化ってわけでもないしというので、円満な撤退の筋道もあろうにと思う。今の構図では、屈辱を伴わない撤退があり得ないことになっている。

    まあ何様、シーシェパードの乱暴な諸君に勝ちどきをあげさせるくらいなら好きでもない鯨肉も食ったろうじゃないかとさえ思う。

  • exciteブログの広告の消し方

    firefoxadblock plus というアドオンを入れたら広告が消える。消えると言うより見えなくなるだけだが。livedoor wiki に入る広告(ページの前後に入るからexciteよりさらにうるさい)も見えなくなる。読むだけならそれで結構すっきりするが、自分が発信する側になるとそれだけでは済まないので、やっぱり片手落ちかも。

    (追記:「Japanese General Filter」を追加する必要があります。)