胆力について

おたくじみたコンピュータ談義で今日の本題を忘れるところだった。
内田樹先生の著書やブログで「胆力」についてたびたび拝読してきた。例えば「内田樹の研究室:ゼミが始まったのだが・・・(2004年04月21日)」には下記の記載がある。

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだんどおりのこと」ができるかどうかを自己点検した。
まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。
別にこれは「次ぎにいつご飯が食べられるか分からないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。
状況がじたばたしてきたときに、「ふだんどおりのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。
人間は、自分のそのような能力を点検し、磨き上げるために「危機的な状況」をむしろ積極的に「利用」してきたのである。

「ふだんどおりのこと」をしようとしたときに、その「ふだん」の行動を決める新生児科医というフレームワークがあんまりものを語ってくれなかったので予想外に狼狽えたのだが、しかし考えてみれば、あの場面では日本中の新生児科医誰でも一様に私のように言葉を失って黙り込むと言い切れるだろうか。
以外と、「肝の据わった」新生児科医ならそれなりの落ち着いた対応ができたのではないか?それがどのような言動になって現れるのか私には想像もつかないのが情けないが。


やっぱり、自分には胆力が足りないと言う個人的問題があるのだと思う。
腹の据わった新生児科医ならあの場での言動も安定するのであれば、新生児医療を極めて行くのがその道と言うことになる。合気道を極めれば胆力が身に付くというのなら新生児医療を極めることでも胆力が身に付く、ということになれば良いなと思う。それは新生児科の仕事がどれだけ完成された体系であるかにもよるとは思う。
もう一つ、状況を危機的にした要因がある。
あの場は私しか居なかった。
看護師たちが誰もいなかったのだ。
胆力が足りないなりに、そこそこ年数だけは積んできたので、例えば人工呼吸中の未熟児の気管チューブからいきなり鮮血が噴き上がってきた等という緊急事態も、それがNICUで起こる事態ならそれなりに対処の手は動くのだが(まあ肺出血なんてそもそもさせないように管理しておけってのが第一だろうけれども)、やっぱり、NICUを出て看護師たちから離れてみると私はただのガリ勉おたくのなれの果てである。彼女たちが逐一状況を報告して私の指示どおりに動いてくれて、しかも合間合間に笑顔で励ましてくれないと、私は何もできない。NICUでは私一人しかおらず彼女たちが誰もいないという状況はあり得ないから、何をおいても彼女たちが居るという前提で動いていてまず不都合はないのだが。
ちなみにうちの看護師たちはこのご両親とは、同世代というよしみもあるのか、極めて親密で個人的なコミュニケーションを作り上げていた。
彼女たちは当座の勤務を終えた後、三々五々にこの子のご自宅を訪れ、お通夜にも葬儀にも参列していた。ご両親は何度もそれを感謝して下さった。
卑近な話、彼女たちのこういう行動がかなりの数の医療訴訟を未然に防止しているのではないかとさえ思える。わがNICUの宝は人工呼吸器でも保育器でもなくてこの娘たちだと思う。

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