同じ事を何遍も何遍も書きますけど

霞が関官僚日記より、救急車雑感を拝読。こういう意外なところの方に問題意識を持って頂くととても嬉しい。緊急車両が来たら道をあけるというのは、大名行列が来たら道脇で土下座するというのと同時代の、もう廃れた道徳になりつつあるのではないかと危惧していた。新生児搬送に道をあけて頂けない。自車の直後に救急車にくっつかれるまでウインカーも上げない運転者が多すぎる。
運転者が自分の感覚を車内に限ってしまっては良くないと思う。時速50キロとかで走る重さ1トン以上の鉄の塊を運転しているんだから。耳を澄ませて欲しい。周りじゅうに目を光らせて欲しい。
乗用車の静粛性が増したからというばかりでは説明のつかないこともある。最近は歩行者すら緊急車両を無視する。赤信号でもモーターサイレンを鳴らして我々は交差点に進入する。そのモーターサイレンを聞きながら、迫り来る救急車を見ながら、それでも救急車の直前で道路を横断しはじめる歩行者が後を絶たない。さすがに我々とて赤信号の交差点に進入する時はある程度の減速はするのだが、それを自分に道を譲ったものと勘違いするらしい。
そういう理不尽な横断でも、渡られてしまったら歩行者には勝てない。跳ね飛ばすわけにはいかない。叱りつける暇もない。最短時間でその交差点を通るためには、理不尽な歩行者にまず渡らせるのが結局は最善である。悔しいけれども。でもその歩行者の方々とて、他家の赤ん坊が死のうが後遺症残そうが知ったことかと言うくらいの緊急の御用があるのかもしれんし。どういう御用だよって聞いてみたいけどさ。
アップルにはiPodに緊急電源停止装置をつけて欲しいものだ。緊急車両のサイレン音を関知して音楽を止めるとか。乗用車の運転席にも、緊急車両が近づいている事を知らせる警報か何かつかないものかなと思う。

鈴木敦秋記者の新しい記事

読売新聞の鈴木敦秋記者が小児救急に関して新しい記事を書かれた。鈴木記者の相変わらずの慧眼には感服するばかりだ。読売新聞の政治的主張に関しては私は異論があれこれあるのだが、この鈴木記者があるから医療に関しては読売新聞を他紙より一段も二段も上に評価している。
「重症担当病院を指定、たらい回し防止…小児救急」
先の日曜日に高熱で当院に初診のこどもさんは、かかりつけの病院では小児科医が居ないからと診療を断られた由。当院に一夜入院とし、月曜朝には早速その病院へ転院となった。
そういう手薄な病院小児科が数ばっかり多く散らばってるのをリストラしましょうやという作業にいよいよ厚生労働省が動き出したという記事である。
2人とか3人とかしか小児科医が居ない病院小児科は全く時間外救急に対応できない。時間内で完結する日常診療なら個人の開業医さんが十分に提供する。いったい今のご時世に2人3人の小児科が都市部に存在する意義があるのだろうかと思う。地域の子供たちにとっては、時間外救急を提供できない小規模病院小児科が3軒も4軒もあるよりは、10人ほども小児科医が居て24時間態勢をとれる病院小児科が1軒あるほうがよほど為になるのではないかと思う。診てくれない隣の病院よりも10km先の診てくれる病院のほうが有り難くはないだろうか。
むろん半径50km100km以内に小児科医が一人とか2人とかといった僻地の医療は別個に考えねばならぬ。今の議論は都市部の話。

生命学について森岡正博先生のお話を伺った

森岡正博先生のお話を伺う機会を得た。先生の「生命学」と仏教思想との関連はどうなんだろうと思った。
生命学の目標として「死ぬ時点で後悔のない」という表現をなさったので、講演後の質疑応答で「それは仏教で言う『成仏』ってことでしょうか」と尋ねてみた。他にも森岡先生が「まだ名付け得ない概念」として色々とお話になった内容が、「因果」とか「煩悩」とか「不立文字」とかといった仏教の言葉でクリアに説明できそうな気がした。先生は延々と「車輪の再発明」をなさっておられるのではないかとさえ思えた。
先生のお答えでは、あくまで従来の宗教の外から、例えば仏教の生命学的断面といった考察も出来ようということであった(そう理解しました)。そのときは納得したような気もしたんですが、しかし、今になって考えればそれって「在家」ってことではないかとも思える。先生が採用されたお立場すらも仏教には表現する言葉があるってことでは?
第一、生老病死の四苦を「諦める」のが仏教の本質とすれば、仏教の生命学的断面と言ってしまえばそれは即ち仏教そのものを語ることになりはしまいかとも思える。先日の講演でお伺いした限りでは、如意棒すら操らぬ浅学非才の身で大人を批判して誠に失礼ながら、森岡先生が釈迦の掌を出ることは難しそうに思えた。
私の理解が生命学に関しても仏教に関してもまだまだ未熟であるから、いたずらに相手が矮小に見えているだけかもしれない。それはそうなんですけどね、でも私が質問で仏教用語を出したら会場から失笑が洩れたにはちと呆れた。私の理解の浅さを笑ってではなく、単にこの仏教用語が手あかの付いた陳腐な日常語に聞こえた故の失笑のように思えた。仏教の思想体系がどれほど豊穣なものか、笑った面々の半分以上はおそらく考えたことも無いんだろうなと思った。あるいは森岡先生は既に仏教について詳細な論考をなさっておられ、私が「FAQ」とか「過去ログ」とかを読んでない愚かな初心者的質問をしてしまったってことだろうか。よく分からん。

たまには内田先生にもの申してみる

内田樹の研究室 「技術ニッポンの黄昏」 

『すべての責任は私が取る』というしかたで身を挺して現場処理できるような技術者を組織的に育成する制度的基盤は現代日本の家庭教育にも学校教育の中にはない。これは教育現場の人間として断言できる(いばって断言するようなことではないが)。

なんだかこの一文の中に再帰的な自家撞着を見てしまうんですけど。特に最後の括弧の中の独白には、内田先生もまた教育現場にあっては「すべての責任は私が取る」という御覚悟で身を挺して現場処理なさっておられるわけではないらしいなと思わせられたりしましてね。それとも教育現場では「制度的基盤がない」ということで逃げが打てるんですかね。でもうちの医局にはストレス潰瘍で文字通り血を吐きながら後進の教育に尽力された教育者が居るんですがね。それに、制度的基盤を仰るならそもそも、時間外の小児救急なんて供給できる制度的基盤は最初っから無いんですがね。そういう制度的基盤はない、これは医療現場の人間として断言できる(威張って断言するようなことではないが)、とか言って当直の日には救急一切断って寝てようかな。
何様、今回の内田先生の記事は全く事務方からの一方的な伝聞だけでできあがってるような気がしましてね。あるいは教育者の癖に教育に関して自分は随分無責任なことを仰っておきながら他者の責任はしっかり追及されるじゃないかってね。いずれにしても、不愉快な記事でした。

オーダーリングシステムが変わっていた

学会から帰ってみると病院のオーダーリングシステムが変更されていた。
オーダーリングシステムが変わるたびに(これで2回目)出力される印刷物の体裁が変わるので、そのたびに仕事の手順に変更を迫られる。大人数の看護師を仕切らねばならないNICU主任が頭を抱えている。なにせそこら中に事故の火種がまき散らされたようなものであるから。
我々はいちおう医療の現場のプロであるのに、どうしてプログラマと呼ばれる人たちに現場の仕事の仕方を指図されないといかんのだろうと思う。密室にこもって作り上げたプログラムと従来のとは似ても似つかぬワークシートを持っていきなり病棟に現れてくれてもねえ。何で彼らはプログラムの体裁を決めるときにちょっとでも病棟へ足を運んで実際の仕事をどうやってるか取材しようとさえしないのかね。彼らは航空機の操縦席を電子化するときにも、パイロットに飛行機の飛ばしかたをご指導賜るのだろうか。今後は操縦桿じゃなくてマウス使ってね、とか。
救急外来では夜間初診でそのまま入院になった赤ちゃんの入院登録がなぜかできなかった。どうやら入院は前もって申し込んで正規のリストに登録しておかないと受け付けられないプログラムの仕様らしかった。って、そんなお高くとまった商売してていまどきうちみたいな弱小病院が生き延びていけますかね。
こんな体たらくだから、うちの病院はオーダーリングシステムを電算化しても紙カルテや伝票類もそのまま書かされる。なんだか医事課員の仕事を片手間に肩代わりしてやってるような気分がする。CBCひとつ採血するにも、紙カルテにCBCと書いて、CBCの紙伝票にエンボス押してチェック入れてサインして、コンピュータの入力画面を開いてCBCと入力してバーコードラベルを印刷させるわけだ。二重手間どころか三重手間である。しかもこのバーコードラベルを印刷するレーザープリンタが「インターナショナル・ボリシェビキ・マシーンズ」社製の一枚ごとに紙詰まりする仕様のプリンタである。ようやく印刷できたと思ったら台紙とバーコード印刷がずれている。わざわざハサミで切って採血管に貼らねばならぬ。きいきい。院長は内科医が雇えないと頭を抱えている。雇えないのは当たり前である。こういうバカな仕事がやりたくてうちみたいな貧乏病院に志願してくる奴など危なくて雇えるものか。

学会土産

NICUナースのための必修知識
河井 昌彦 / 金芳堂
ISBN : 4765312097
1週間で学ぶ新生児学
河井 昌彦 / 金芳堂
ISBN : 4765312011
新生児ME機器サポートブック
松井 晃 / メディカ出版
ISBN : 4840414726
スコア選択:
未熟児新生児学会のお土産に上記3冊。名物饅頭は買っても仕方ないから買わない。人数考えて買ってもどうせ行き渡らないし(君らに足りないのは計算力なのか自制心なのかどっちだ?)。
1週間で学ぶってのは、新研修制度で各科をまんべんなく回る研修医が小児科に費やす時間が2ヶ月間、そのうちNICUに来れるのは1週間にすぎないから、その時間内に一通りのことを教え込むにはどうすればよいかと考えて書かれた本。コンパクトにまとまってて本の出来映えは良いと思う。この本に今さら知らなかったことが書かれてたらある意味衝撃的だけど。でもNICUに新しく配属になったナースもこういうのを一読しておけば職場に慣れるのに宜しいかと思う。また世間一般の人たちには、まんべんなく診れる研修医を育てようとするってのは本質的にはこういうことなんだよと、この書物の存在の意味を噛み締めて味わってほしいと思う。

軽度発達障害に関する講演

未熟児新生児学会にあわせて、「ハイリスク児フォローアップ研究会」の講演がありました。今回は「軽度発達障害」に関する教育講演があり、筑波大学の宮本信也先生のお話を伺いました。
新生児科医が大挙して発達障害に関する講演を聴きに来て下さるのには、親の一人としては感無量ではありました。というのは、既に世紀が改まってからだったと記憶していますが、日本小児神経学会から帰ってきた上司が、「自閉症について面白い話を聴いた」と言って得意げに語った内容が、「ウイングの三つ組み」だったのです。おいおい21世紀になっても日本で小児神経の専門を自称するみなさんの自閉症に関する知識はそのレベルかよと、げんなりした記憶がまだ新しいです。それって、先生、RDSの病態はサーファクタントの欠乏だぞと今さら言うようなものですぜ、と、とっちめてやりたかったですね。べつに内輪の会議で上司に恥かかせても始まらんのでだまって拝聴してましたが。
息子は王道を行く中核的な自閉症児なので、今回の講演には初めて伺う内容が多かったです。中には今まで息子からの類推で勘違いして考えていたこともあって、いろいろ勉強になりました。
でも私らがフォローアップ中に診断ができたところで、あとを引き受けてくれる児童精神科医が圧倒的に少ないんですよね。新生児科は薬を処方したらそれが効いたのを確かめるまで保育器の前で待ってる職種です。至急と言えば数分以内、時間指定なければ半日以内、明日になるようなら「遅くて済みません」と一言謝るのが新生児科。紹介して初診まで一年半かかりますっていうような科に紹介するようにとアドバイスいただいてもねえ・・・というのが、未解決な問題でした。

未熟児新生児学会から帰ってきた

名古屋で行われた日本未熟児新生児学会に行ってきました。
泊まったホテルには温泉がありました。掲示には、地下1300mあまりの深さから汲み上げたかけ流しで湯温24度だから再加温してあり云々とありました。24度ってそりゃあ温泉じゃなくて井戸なんじゃないかいと思いました。でもまあ、良い湯にはちがいありません。3日間の学会から帰るたび温泉につかってました。すっかり、名古屋は温泉の町だという印象が染み付いています。あ、ちなみに旭川は私にとっては「台風の来る町」です。
名古屋の地下鉄は駅間の距離が長いなと思いました。たいてい地下鉄一駅くらいなら歩くんですけどね。名古屋でなら一駅でも地下鉄に乗るかな。
学会は聞き逃せないシンポジウムや講演やが目白押しで、ポスター発表を一枚一枚じっくり拝見する時間がとれませんでした。せめて初日からポスター貼ってくれないかな。2日目からおもむろにポスター貼りだしだったのです。初日に行われた新生児学の講演は、現代のテーマと過去のお話が入り交じって行われてましたから、まだ抜け出して見に行くこともできたのですが。でもたぶん、初日からポスター貼ったらみんなそっちに行っただろうなと思いますので、それも計画のうちだったのでしょう。

旅行もしてみたいものだと思う

全ての装備を知恵に置き換えること
石川 直樹 / 晶文社
ISBN : 4794966814
スコア選択: ※※※※※
NICUに閉じこもる生活と対比して読むから、北極点から出発して南極点までの旅とか、南太平洋やユーコン川でのカヌー旅行とか、本書前半に記載されてある旅行記に特に惹かれた。
南太平洋で昔ながらのエンジンも羅針盤も使わない航海術を著者は古老に学んでいるという。エンジン付きの船が入ってきてから、身体感覚を駆使する知恵に満ちた航海術が忘れられているとのこと。船の揺れ具合からその波が陸からの反射による波なのか海流なのか潮流なのか(恒常的に流れる海流と潮汐による潮流とは異なるものだとのこと)を判断するとか、聞けば聞くだに神業である。
NICUでも例えば呼吸機能モニター機能付きの高額な人工呼吸器がNICUに導入され始めてから、赤ちゃんの表情と皮膚色を読み胸郭や腹壁の動きを見つつ呼吸音を聞きつつの細やかな人工呼吸の調整ができなくなりつつある、ってことはないだろうか。赤ちゃんの顔じゃなくて人工呼吸器の画面ばかりを見る医者が増えてはいないか?
しかしそれはこの分野に古き良き時代があったという前提があって成り立つ話である。実際のところはそういう話はあんまり聞かない。古老の昔語りにはむしろ、「未熟児は生き延びられたら儲けもの」とでも言わんばかりの粗雑さを感じることが多々ある。最新の機器によって赤ちゃんの呼吸生理が解明されるにつれ、昔ながらに見える身体所見の取り方もむしろ精緻になりつつあるように思える。